nikki

2007-04-18 ポール・グレアム「判断には2種類ある」

調子に乗ってまた訳しました。結構修正が多そうだ…

「人柄」という単語はあまり使いたくない。→shiroさんのコメント参照


http://www.paulgraham.com/judgement.html

ポール・グレアム「判断には2種類ある」

Two Kinds of Judgement

April 2007


人を判断する方法には2種類ある。人を正しく判断することが最終目標のこともあるけれど、判断にはもう1種類あって、これは人の正しい判断が目的じゃない。判断というのは最初の1種類しかないんだ考えてしまいやすいけれど、どっちがどっちなのかわかるようになったら、もっと幸せになれるはず。


There are two different ways people judge you. Sometimes judging you correctly is the end goal. But there's a second much more common type of judgement where it isn't. We tend to regard all judgements of us as the first type. We'd probably be happier if we realized which are and which aren't.


1種類目の判断は、人を判断することが最終目標になっているもの。これには裁判とか、学校での成績とかがある。あと競争は大抵この種類だ。こういうタイプの判断にはもちろん誤解がつきものだけれど、目標としては正しく判断することだから、抗議プロセスが用意されているのが普通だ。判断ミスがあると感じたら不公平な扱いを受けたと言って抗議できる。


The first type of judgement, the type where judging you is the end goal, include court cases, grades in classes, and most competitions. Such judgements can of course be mistaken, but because the goal is to judge you correctly, there's usually some kind of appeals process. If you feel you've been misjudged, you can protest that you've been treated unfairly.


子どもへの判断というのはほとんどがこのタイプだから、若いうちから判断というのはみんなこういうものなんだと考える癖がついてしまっている。


Nearly all the judgements made on children are of this type, so we get into the habit early in life of thinking that all judgements are.


でも実は2種類目の判断のほうがもっとたくさんあって、そこでは人を判断することはほかの目的のための手段にすぎない。大学学者選抜とか、人材採用や投資の決定とか。それからもちろんデートのときの判断とか。こういうタイプの判断は、実は自分の中身*1とは関係ない。


But in fact there is a second much larger class of judgements where judging you is only a means to something else. These include college admissions, hiring and investment decisions, and of course the judgements made in dating. This kind of judgement is not really about you.


キミにアメリカ代表チームのメンバーを選考する権利があるとしよう。話を簡単にするために、このスポーツにはポジションがなくて、20人の選手を選ばないといけないということにしておこう。スター選手は何人かいて、チームを確実に引っぱっていけるだろうし、その他大勢はそうじゃない、ということになるだろう。判断次第で違いが生まれてくるのはボーダーラインの場合だけだ。キミが間違えて20番目にうまい選手を過小評価してしまい、彼が代表チームに残れなくなって21番目が替わりに代表に選出されることになったとしよう。それでもいいチームができたとは言える。選手たちの能力分布が普通だったら21番目は20番目よりちょっと悪いだけだ。たぶん二人の違いは測定誤差よりも小さい。


Put yourself in the position of someone selecting players for a national team. Suppose for the sake of simplicity that this is a game with no positions, and that you have to select 20 players. There will be a few stars who clearly should make the team, and many players who clearly shouldn't. The only place your judgement makes a difference is in the borderline cases. Suppose you screw up and underestimate the 20th best player, causing him not to make the team, and his place to be taken by the 21st best. You've still picked a good team. If the players have the usual distribution of ability, the 21st best player will be only slightly worse than the 20th best. Probably the difference between them will be less than the measurement error.


20番目はこの判断が間違いだと思うかもしれないけれど、キミの目的は能力測定サービスの提供じゃない。選手を選んでチームをつくることだ。で、20番目と21番目の差が測定誤差より小さいんだったら、最適なチームづくりはそれでもできている、ということになる。


The 20th best player may feel he has been misjudged. But your goal here wasn't to provide a service estimating people's ability. It was to pick a team, and if the difference between the 20th and 21st best players is less than the measurement error, you've still done that optimally.


こういうタイプの判断ミスを説明するのに「不公平」という言葉を使うことばを使うこと自体が間違った類推だ。個人の能力を正しく測ることが目的じゃなくて、それなりに最適なセットを選び出すとが目的なんだから。


It's a false analogy even to use the word unfair to describe this kind of misjudgement. It's not aimed at producing a correct estimate of any given individual, but at selecting a reasonably optimal set.


選ぶ側に力があるように見えるということが誤解を招く原因になっている。おかげで選ぶ側が裁判官のように見えてしまう。自分を判断する人が裁判官じゃなくて顧客だと考えたら、公平を期待しようとは思わなくなるだろう。読者がどぎつい表紙の儲け主義の作品を好んでいるのは不公平だ、とすばらしい本の書き手は文句を言わないでしょう。そういう時は「バカ」と言うんじゃないかな。でも「不公平」じゃない。


One thing that leads us astray here is that the selector seems to be in a position of power. That makes him seem like a judge. If you regard someone judging you as a customer instead of a judge, the expectation of fairness goes away. The author of a good novel wouldn't complain that readers were unfair for preferring a potboiler with a racy cover. Stupid, perhaps, but not unfair.


若いうちの訓練と自己中心主義が組み合わさったおかげで、自分に対する判断は全て、自分の中身だけに関係しているんだ、と思ってしまう。でも実はほとんどの場合そうじゃないんだ。これは自己中心的にならなければもっと自信がつくようになるという、まれなケースだ。判断する側にしてみれば、相手の中身を正確に判断できるかはほとんど気にしていない、ということを理解できたら――応募者集団はたいてい正規分布になるんだから、判断が最大の効果を持つまさにそうしたケースでは、正確な判断はほとんど問題にならない、ということを理解できたら――落とされたとしてもそれを自分のせいだとは思わなくなる。


Our early training and our self-centeredness combine to make us believe that every judgement of us is about us. In fact most aren't. This is a rare case where being less self-centered will make people more confident. Once you realize how little most people judging you care about judging you accurately―once you realize that because of the normal distribution of most applicant pools, it matters least to judge accurately in precisely the cases where judgement has the most effect―you won't take rejection so personally.


不思議なことに、落とされたことを自分のせいにしなければ、落とされることは少なくなってくる。判断する側が自分を正しく判断するためにがんばってくれているんだ、と考えてしまうと自分から動く必要はなくなる。でも判断というのはランダムで外在的な要因にかなり影響されるのが普通だということがわかるようになれば――判断する人が賢明で洞察力の鋭い判事じゃなくて、小説を気まぐれに買うような人に近いということがわかるようになれば――結果に影響を与えるためにやれることがあるんだ、ということがわかるようになってくる。


And curiously enough, taking rejection less personally may help you to get rejected less often. If you think someone judging you will work hard to judge you correctly, you can afford to be passive. But the more you realize that most judgements are greatly influenced by random, extraneous factors―that most people judging you are more like a fickle novel buyer than a wise and perceptive magistrate―the more you realize you can do things to influence the outcome.


この原理が当てはまるいい例が大学学者選抜*2だ。高校生普通大学に入学申し込みをするとき、劣等感と自己中心主義がないまぜになった、ありふれた子どもっぽさを持っている。入学事務局は何から何まで全部お見通しなんだと考えてしまうという意味での劣等感と、入学事務局は自分たちのことを十分に気にしてくれていて、申し込み書類を読み込んで自分たちがいいのか悪いのか判断してくれるはずだ、と思い込んでしまうという意味での自己中心主義。この2つが組み合わさるせいで、入学志望者は申し込みが受身になるし、落とされたら傷つく。彼らが選抜プロセスがどれだけ素早く、人間味なく行われるのかを理解したら、自分たちを売り込む努力をもっとやるようになって、結果を自分のせいにしなくなるようになるかもしれない。


One good place to apply this principle is in college applications. Most high school students applying to college do it with the usual child's mix of inferiority and self-centeredness: inferiority in that they assume that admissions committees must be all-seeing; self-centeredness in that they assume admissions committees care enough about them to dig down into their application and figure out whether they're good or not. These combine to make applicants passive in applying and hurt when they're rejected. If college applicants realized how quick and impersonal most selection processes are, they'd make more effort to sell themselves, and take the outcome less personally.

*1コメント欄参照

*2入試ではなく入学者選抜なのは、入学者を選考する過程が日本で言うAO入試にあたるためです。基本的に、学力テストの成績(学校での成績)、課外活動、作文、コネ?などで決定されたはずです。

shiroshiro 2007/04/19 04:21 第1パラグラフ第2文、”you”は落とさない方が良いのでは。今のだと絶対的に正しい判断とそうでない判断があるようにも読めちゃいますが、「人について正しい判断」かそうでないかの話であって、後者もその尺度の中では正しいと言えるので。「その人自身を正しく判断することが〜」などとした方が明確かと。

同、第3文 「1種類しかない」→「最初の種類しかない」

第4パラグラフ、「人柄」は違うかなと思います。ここで話してるのはその人の様々な属性や能力であって、「人柄」はその一種にすぎないので (次の例では運動能力が問題になりますよね)

第5パラグラフ s/間違えてし/間違えて/

第6パラグラフ第3文、「間違っていても」は余計では?

第7パラグラフ、s/事態/自体/

第8パラグラフ第1文、”seems” は「持っているらしい」より「持っているように見える」等の方が良いのでは。(実はそうではない、という話が続くので)

第9パラグラフ、カタカナの「トレーニング」は意味が狭くなりそうなので、「訓練」くらいの方がいいかもしれません。

第10パラグラフ、”passive” は「ぼーっとしている」より「受身」で良いのでは (受身だけど、結果がどうなるかはらはらして待っているかもしれません。)

korompakorompa 2007/04/19 10:48 詳細なチェックありがとうございます。「人柄」で総合性が表せるかなとも思ったのですが違和感もあったので、「人格」でもいいかなと思ってたり。4パラグラフ目は「正しい自分」でお茶をにごしました。よりよい表現があればご指摘ください。

korompakorompa 2007/04/19 10:53 →さらに「自分の中身」に変更。後で使ってた…