Hatena::ブログ(Diary)

Uehara-monologue

2014-01-09

Shut up and calculate !

| 23:48

Nature誌が第1次世界大戦勃発から100年、第2次世界大戦勃発から75年を契機として、戦争と科学に関する論考を断続的に掲載していくようです(参考記事:http://www.nature.com/news/conflict-of-interest-1.14470)。まず公開された二つの論考のうち、David Kaiserによるものを紹介したいと思います。第二次世界大戦アメリカ物理学研究にどのような影響を与えたのでしょうか?


Kaiser, "Shut up and calculate", Nature(Comment), Vol.505, p153-155 (2014)

ここからDL可)


  • 戦争、そして巨大化する科学

アメリカにおける研究開発は、第二次大戦以前は民間寄付や学費を原資としたものが主流でした。これに大きな変化がもたらされた状況を、筆者は物理学をベースとしたレーダー開発・原爆開発を事例として概説しています。レーダー開発については終戦までに200億ドル(現在換算)、原爆開発については250億ドル(現在換算)の巨費が投じられ、その合計はアメリカの戦費の1%に及ぶものでした。研究者の動員も大規模にわたり、物理学化学等を初めとする多様な分野の学者が戦争に勝利するための科学技術開発という共通の目的に向かってチームとして取り組んでいったのです。


そこでは純粋かつ自由な好奇心に基づく「科学」はありませんでした。動員された科学者達は「Shut up and calculate !」という号令のもとに、結果だけを求めて研究開発に邁進していったのです。


  • 戦後への影響

本論考の主要な論点は、仝Φ罎鮨篆覆垢訐度研究を進める方向性手法について戦前戦中期にもたらされた変化は戦後も持続していたということであると思われます。


,砲弔い討蓮∪鐐阿蝋餡函特に防衛部門からの基礎科学へのファンディングは皆無に等しかったにも関わらず、戦後は基礎研究の多くが国家(防衛機関)によって支援されるのが当たり前になったのです。1949年の段階で、アメリカにおける物理学の基礎研究に対するファンディングの96%は防衛関連機関からの支出でした。国家による戦争中の大規模な金銭的支援は、戦争が終結しても当たり前のものとなっていったのです。


また△砲弔い討癲∪鏤中に「戦争に資する」という目的のために分野を超えて協同した科学者たちは、戦後もその方法を引きずっていったと指摘されます。例えば物理学者Julian Schwingerは、理想化された状態にのみ適用可能な精緻な誘導を過程重視で行うことを重視していましたが、共に働いた技術者達がプロセスよりも結果を重視し最大限の効率性を追求していることに大きな影響を受けます。このような、筆者の言葉で言う「pragmatic」な方向性への研究目的・手法の変化は、戦後も持続しました。Schwingerはマクスウェル方程式を用いた複雑な計算で電気抵抗率を積算していくという過程重視の方法よりも、各過程をブラックボックス化して最初のインプットから最後のアウトプットを簡便に導きだすという意味での研究成果を追求する事になります。


このような物理学実用的傾向は戦後のPh.D取得者数にも影響を与えました。1960年代中葉までに、アメリカにおける物理学博士号取得者の4分の3は原子核物理学や物性物理学といった「pragmatic」な分野に偏るという傾向があったと筆者は指摘します。戦争でもたらされた実用性重視という変化は、研究の内実にすら影響を与えて戦後も持続したのです。



しかしこのような変化は、トレードオフ内包していました。実用的な側面を重視するという方向性は、一方で物理学がそれまで持っていたphilosophicalな視点を失わせる事になったと筆者は指摘します。宇宙の誕生、複雑系における秩序と無秩序、量子論といった「大いなる課題」に対して取り組むことが少なくなっていったのです。このような「大いなる課題」への回帰が見られるようになっていくのは1960年代後半以降、ベトナム戦争後の財政赤字や科学の軍事貢献への懐疑が現れ始めたころです。


筆者は、戦争によってもたらされた制度(国家による科学に対する財政支援)は依然として強固に持続しており、それに基づく「実用的な」成果も出続けているのは確かであるとする一方、「自然の理を明らかにする」ことを目的としたphilosophicalなアプローチも復権しつつあると結んでいます。


論考中に明示的に書かれている訳ではありませんが、筆者は単に戦争中に科学がいかに動員されたかという視点だけでなく、そのような動員・変化のもたらした影響のうち何が残って何が残らなかったのかをより精緻に分析していく視点も重要であると指摘している様に思えます。



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2014-01-07

近代化を抱擁する温泉―大正期のラジウム温泉ブームにおける放射線医学の役割―

| 21:14

大正期のラジウム温泉ブーム、そこでは勃興期の放射線医学が大きな役割を果たしていました。しかしその構図は単に「近代科学としての医学が温泉の効能に裏付けを与えていった」という一方向的なものではありませんでした。近代日本において西洋由来の科学知識と日本古来の温泉信仰が接触する中で、温泉という生活実践の場においてどのような相互作用が生じていたのでしょうか?


中尾麻伊香「近代化を抱擁する温泉―大正期のラジウム温泉ブームにおける放射線医学の役割―」『科学史研究』52, 2013, pp187-199




そもそも日本において、温泉の効能は神の霊験によるものだと考えられていました。江戸期には本草学の影響もあり温泉の効能について「医学的な」説明がなされていく様になります。そして明治期に入り、科学的手法による鉱泉の測定・分類が行われていきます。その端緒を担ったのは政府各機関で働いていたお雇い外国人たちでした。日本の温泉が湯治場(江戸期)から観光地(明治・大正期)へと転換していく過程で近代医学は顧みられなくなっていった、というのが温泉の歴史における通説でしたが、筆者は、ラジウム温泉を例にとれば、温泉の観光地化に近代医学が積極的な役割を果たしていた側面もあると指摘します。


日本の温泉においてラジウムが見いだされ、その効能を指摘されるにあたって大きな役割を果たしたのは、東京帝国大学の眞鍋嘉一郎(医者)と石谷伝市郎(地質学者)の2人でした。1903年田中館愛橘欧州からラジウムを持ち帰ったこともあり、放射能研究が様々な研究者の間で関心を呼んでいた中で、温泉をフィールドにラジウム研究を行おうとしたのがこの両名だったのです。


1910年の『東京医事新誌』への温泉ラジウム研究論文の投稿を皮切りに、両名による調査に加えて国家機関による温泉の放射線測定が活発化します。1915年には陸軍軍医団も全国主要温泉のラドン含有量調査を行うに至り、森林太郎森鴎外)編集の冊子『日本鉱泉ラヂウムエマナチオン含有量表』が発行されます。ラジウム効能に着目した各国家機関による調査も活発に行われていったのです。


そのような調査活動によるラジウムの発見と効能の指摘は、社会におけるラジウムブームを引き起こすこともつながりました。ラジウムブームにいち早く乗じた温泉地・熱海は、ラジウム発見の背景にある最先端の科学としての放射線医学のイメージと共鳴するかのように、モダンな建物を次々と建設して上流階級の遊楽地としての地位を確立していきます。また東京京橋にはラヂウム樂養館というモダンなイメージを前面に押し出した施設が出現し、ラジウムブームはラジウムが持つ実際の効能乖離するかの様にそのイメージを増幅させていきました。


  • 科学の受容、そして新たなる伝統の創出―飯坂温泉を事例として

放射線医学という近代科学はラジウムの発見を通じ、ラジウムブームという形で温泉の観光地化に一定の役割を果たしていました。と同時に、放射線医学に基づくラジウムの発見は、各温泉において様々な形で受容されていきました。筆者は福島県飯坂温泉を事例として、ラジウム発見を通じた「新たな伝統の創出」を描くことで、ラジウムをめぐる一連の過程が単なる近代科学の直線的な受容ではなかったことを指摘します。


鉄道院1911年に出版した『飯坂温泉案内』では、医学的な見地からラジウム効能が記述されています。そこには前出の眞鍋らの研究成果も引用され、ラジウム効能を証するにあたって医学者の言説が重視されていた事がうかがえます。しかしその後に出版された他の案内書においては、医学的な見地にとどまらない様々な解説が付されていきます。1913年に出版された橘内文七による『温泉案内飯坂と湯野』においては、ラジウムは飯坂固有の精霊なる一種元素として位置づけられます。


1927年に出版された『飯坂湯野温泉遊覧案内』では、「春は全体櫻花に包まれ、梨花に覆われ、桃花に飾られ(中略)斯の如きは海内は固より未だ全世界に多く其の比を見ざる所にして正さにラヂウユーム、エマナチオンの作用する所、實に我が飯坂温泉独特固有の美装である」と記述されています。ラジウムに関する言説は医学的見地に基づく説明を離れ、飯坂の地に根付いた「精霊としてのラジウム」が景観にすら影響を及ぼしているとまで語る様になっていきました。


以上のように、飯坂の温泉案内書においてラジウム伝承の中に組み込まれていきました。近代科学としての放射線医学は一方向的に受容されただけでなく、温泉地というcontact zoneにおいて温泉地固有の文脈のもとで解釈された上で、温泉地発展を欲する地方の社会経済的背景の中で繰り返し用いられていったのです。筆者は、そのような過程で放射線医学の知見の成果としてのラジウム「抱擁した」温泉の歴史は、福島原子力ムラにおいて「原子力最中」や「回転寿しアトム」といったブランド・文化を作り上げることで原子力を「抱擁」していった過程とも軌を一にすると指摘しています。



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2013-12-23

外交儀礼から見た幕末日露文化交流史――描かれた相互イメージ・表象

| 23:47

日本の開国史を見るとき、北方において地理的に接触があったロシアとの交流を振り返ることの重要性が近年指摘されています。そのような文脈の中で、政治史的な側面よりも文化や表象儀礼といった側面に重きを置いて分析を行った本を読みました。国交がなく人の往来もほとんどなかった両国の交流、それはまさにお互いにとって「宇宙人との邂逅」であったと言えるのかもしれません。共によって立つ基盤がない中で、外交儀礼の段階から一つ一つ積み上げを図っていった苦闘とはどのようなものだったのでしょうか?



ラクスマン来航時に松平定信が発した対露対策の基本方針は「礼と法をもて妨がん事かいなし」というものでした。後者の「法」については藤田覚の研究が著名ですが、前者の「礼」については必ずしも重要視されてきませんでした。しかし、当時東アジアにおいて国際関係を規定していたのは「礼」に基づく華夷思想であり、またヨーロッパ世界に取り込まれていたロシアにとっても特に貴族レベルにおいて他者とのコミュニケーションの際の礼儀作法が重要であった中で、礼に関する分析は必須のものであると筆者は指摘しています。「ロシア使節と幕府の代表が対面する際の距離はどれほどで、どのような着衣で、どのような姿勢で対座したのか、あるいはまたする必要があったのか。こうしたことを指標にして当時の日露関係を考察」するという筆者の研究は、外交儀礼が単なるお飾りではなく、文化的背景が大きく異なる他者同士が交渉する上で極めて重要な要素であったことを我々に示唆します。



本書第3章から第7章においては、ラクスマン、レザノフ、プチャーチンの来航時における会談と外交儀礼、そしてまた民衆との交流が文字史料だけでなく図像史料にも立脚して詳細に描かれています。


漂流民・大黒屋光太夫の送還を名目に松前に到着したラクスマンは、幕府派遣した交渉担当者との会談前夜にその形式に関する事前協議に臨みます。そこで問題となったのは表敬のお辞儀の仕方(日本は座礼、ロシアは立礼)や靴の着脱(日本は屋内土足厳禁、ロシアでは人前で靴を脱ぐとマナー違反)といった礼儀作法であり、交渉の結果双方がそれぞれの形式で表敬することに合意します。なお、当時江戸参府を許されていた出島オランダ商館長は将軍に対して座礼で平伏しており、対等の関係をもたない通商国であったオランダの扱いと、対等の関係を要求するロシアとの扱いの差が端的に現れていると言えます。礼儀作法ひとつとっても、日本式の「礼」のもとで構成される華夷秩序の揺らぎが垣間見えるのです。


ラクスマン来航から12年後、ラクスマンに与えられた「(長崎)入港の信牌」を携えたレザノフが来航します。幕府内部における政治勢力図の変化とそれに伴う対外政策の変更もあり、レザノフに対する扱いは必ずしもよいものではありませんでした。レザノフに対する訓令23項目中、過半数の16項目は儀礼に関する注意を促す(あらゆる点で日本のそれに従うべしとする内容)ものでしたが、レザノフ自身は会見・交渉時の儀礼に関して日本側と丁々発止のやり取りを繰り広げます。特に問題をはらんでいたのが、幕府側が交渉担当に指名した大名とレザノフとの会見時の距離、会見時の帯剣の可否、そしてまた座礼・立礼の別でした。1点目に関しては畳一畳分の距離で通詞とレザノフが合意しますが、通詞に与えられた指示はそれよりも長い距離を念頭に置いたものであり、通詞の越権行為が確認できると筆者は指摘します。帯剣の可否については会見直前に取り外すという算段になったものの、いざレザノフが会見場に足を踏み入れると奉行・宣諭使の背後に太刀持ちが控えており、レザノフは扱いの不公平さに愕然とします。座礼・立礼については、レザノフが「足を曲げられないというのにどうしろというのか、四十過ぎの人間に足を曲げろといっても遅い」と押しきり、立礼に落ち着いています。


レザノフに対し幕府は「新たに通商を認めないという国法」に変化はないと通告します。レザノフが持参した国書・贈答品についても、それに対する返礼をロシアに持参することができないと非礼になるとして受け取りを拒否します。そもそもレザノフへ「ゼロ回答」がなされた背景には江戸における政策決定がありましたが、儀礼に関する一連のトラブルはその通告のショックを増幅させるものであったのかもしれません。外交儀礼に関するトラブルは後の日本の他国との交渉にも影響を与えています。礼を尽くした穏便な交渉では埒が明かないことをレザノフの事例から学んでいたペリーは、武力を背景にした強硬な交渉も辞さない覚悟で対日交渉に臨む事になるのです。



レザノフ来航後、日露の間では数十年に渡りハイレベルでの交渉がありませんでした。しかしペリー派遣を核とするアメリカの対日交渉の動きを察知したロシアは、北方領土国境画定問題を名目に日本との交渉再開を企図、プチャーチン派遣します。突如として浦賀に来訪したペリーに対し、プチャーチンはあくまでも日本の「国法」を守って長崎へと来航します。投錨後も礼を重んじた対応を見せたプチャーチン率いるロシア使節に対する日本のイメージは、アメリカに対するそれとは大きく異なり好意的なものだったと筆者は指摘します。そしてその延長線上には、「ロシアを頼んでアメリカを防ぐ」という反米親露論の出現もみられるのです。


プチャーチンの時もまた、会見時の礼儀作法に関して仔細な交渉が行われました。座り方については、ロシア側があくまでも椅子への着席を主張し、ロシア側のみ持参した椅子に着席する事で落ち着きます。靴の着脱に関しては、帆布でカバーをつくりそれを靴の上にかぶせるという折衷案に落ち着き、またお辞儀についてはそれぞれの慣習(日本は座礼、ロシアは立礼)に従う事となります。プチャーチンは日本側の体面を重視しつつも、「この民族の習慣によれば、前例が将来のルールとなる」ということを理解した上で、交渉を重ねて儀礼に関する妥協点を見出していったのです。交渉の結果、プチャーチン最恵国待遇を含めた通商開始に前向きな返答を受け取る事になります。そして下田会談と日露和親条約を経て、日本はロシアとの通商関係を開始します。


筆者は日露開国交渉における外交儀礼をめぐる摩擦を評して「日露は互いに相手に他者性を意識した。それにより日本は鎖国日本を発見し、ロシアは西洋ロシアを再認識した。そのうえで、日本は開国へと自国像を変化させ、ロシアロシアオリエンタリズム特性(東洋と西洋の架橋)を認識していった」と指摘します。礼儀作法の面からして既存の華夷秩序とは異質の存在を意識させられた日本、一方、かつてはヨーロッパに対して「非ヨーロッパ」国家としてのアイデンティティがあったにもかかわらず、日本と触れ合う中で儀礼的な側面でも自国の「ヨーロッパ性」を強めていったロシア・・・外交儀礼における差異と交渉は、両国の自己イメージを明確に出現・認識させるものでもあったのです。


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2013-12-05

治安維持法――なぜ政党政治は「悪法」を生んだか(その3)

| 02:24

その1では治安維持法の成立過程について、またその2では成立後40年代までの拡大過程についてまとめてきました。本記事(その3)では、1940年以後の治安維持法について第6章及び終章をもとにまとめます。戦時下の治安維持法はどのようなものだったのか?戦後に残したのは何だったのか?そして、「自由と民主主義を守るためには何が必要か」という問いに対して一連の過程が示唆することとは?



  • 1941年の改正

1925年の成立、1928年の改正、そして1930年代の膨脹・・・治安維持法の中身に再び大きな変化が見られるのは1941年の改正でのことになります。起草に関わった司法官僚・太田耐造が「名は法律改正であるが、其の実質は全く新たな立法と云うに足る大改正である」と評したように、それは大幅な変貌をもたらすものでした。1941年の改正は現場からの要請を背景としていました。人民戦線事件に関しては裁判所無罪判決をくだすこともあったため、起訴不起訴の基準を明確化してほしいという思想検事たちの要望があったのです。それに加えて、警察の強引な取り調べの防止や、裁判所の令状を不要とする検事の強制捜査権の確立も目指されました。また社会的な背景としては、日中戦争の長期化に伴う厭戦気分が共産主義伸張に繋がることへの恐れや、右翼団体の勢力拡大への危惧もありました。


司法省が検討した改正案では、それまで目的遂行罪などを運用して取り締まってきた宗教団体などに対する取り締まり条項の明確化、罰則の強化、刑事手続きの特例付与(令状なしの召喚や勾留、二審制の導入による審理の迅速化など)、予防拘禁の導入が具体的な改正点として盛り込まれています。しかし改正の際に最大の問題となったのは、近衛文麿を中心とする新体制運動でした。ファシズムをヒントに立案された統制経済体制を主張していた大政翼賛会の成立に対し、観念右翼財界から「幕府的存在」「共産主義」との批判が繰り広げられたのです。すなわち、統制経済体制の推進は治安維持法が禁じる「私有財産体制の否定」につながるのではないかとの疑念が呈されたのです。改正案の議論の過程で、平沼内相の「翼賛会は公事結社(政治活動の認められない結社)である」「私有財産制度の制限と私有財産制度の否定は異なる」という見解が表明されたため翼賛会は治安維持法適用対象から外れますが、近衛の権力基盤としては挫折を余儀なくされます。


以上のような紛糾は伴ったものの、改正治安維持法は可決成立し、1941年3月10日に公布されます。



検挙者数と起訴者数から見ると、30年代に比べて減少が見られると筆者は指摘します。特徴としては、民族独立運動と宗教団体の検挙が増え、全体的に起訴率が上昇し、科刑が長期化して執行猶予が減ったことがあげられます。また検挙の半分以上が目的遂行罪による摘発でした。太平洋戦争下における治安維持法運用にあたって著名なのは、ゾルゲ事件です。一連のスパイ活動の結果検挙されたゾルゲ尾崎秀実は、治安維持法、国防保安法、軍機保護法、軍用資源秘密保護法違反で死刑を宣告されます。治安維持法違反事件としては唯一死刑が科された事例ですが、直接の理由は国防保安法第4条2項の国家機密漏洩罪でした。治安維持法観点からすれば、ゾルゲの罪状はコミンテルンのために活動したとする目的遂行罪にあたるものでした。


また改正治安維持法新興宗教団体に対しても猛威を振るいます。宗派を問わず小規模新興宗教に対する摘発が相次ぎ、連合国のスパイ行為や非戦・反戦運動の疑いをかけられたキリスト教系宗教団体も積極的に取り締まられました。反戦思想すらも「国体を否定する」ものとして扱われたのです。宗教団体系の事件では検挙後早期に転向を表明する者も多くいましたが、創価学会創始者の牧口常三郎は転向を拒否して獄中死します。改正の目玉の一つであった予防拘禁も実施されます。全国唯一の予防拘禁所が豊多摩刑務所内に設置され、被拘禁者の隔離と改善が図られました。予防拘禁者の数は大戦末期の時点でも65名にとどまり大規模に運用されたとは言い難い面もありますが、非転向者の隔離は法治主義人権観点から見て大いに問題を孕んだものでした。


太平洋戦争の勃発後は、治安維持法以外の法律が猛威を振るった面もあると筆者は指摘します。開戦直後にできた「言論、出版、集会、結社等臨時取締法(通称:臨時取締法)」がそれであり、明治期に出来た出版法等に基づく言論規制をさらに強化するものでした。流言飛語に対する罰則規定もあり、それに依拠して東条政権憲兵を動員して反戦的言論の取り締まりを行いました。同法違反による検挙者数は、例えば43年の数字では治安維持法によるそれを圧倒的に上回っています。


そして終戦間際には治安維持法最後の事件ともいえる横浜事件が起きますが、1945年9月に日本は無条件降伏し戦前日本の秩序維持の指針であった治安維持法はその存在意義を揺らがせます。



終戦直後内務省東久邇宮内閣共産主義者を牽制するために治安維持法の温存を企図していました。しかし現場ではそれに基づく検挙が控えられ、45年10月にはいわゆる「人権指令」が出されて東久邇宮内閣は一連の取締法の撤廃を迫られます。後続の幣原内閣は10月13日に治安維持法の廃止を決定し、20年に及ぶ歴史の幕を閉じることになります。


東京裁判で検事役を務めた国際検察局のオランダ代表は、


治安維持法は本来、共産主義運動を取り締まるために制定されたことはほとんど疑いない。しかし、その規定は余りに漠然としているため、あらゆる運動、あらゆる意見の発表を取り締まるために用いられ得る


治安維持法を評しています。


しかし、治安維持法的な法律は戦後も存在し続けました。GHQによる団体等規正令や暴力主義的破壊活動を規制する破壊活動防止法がそれにあたります。破防法共産党の非合法活動に備えるという終戦直後特有の事情のもとに成立しましたが、今では組織的テロを防ぐための法律という顔を持つに至っています。その適用実績は戦前に比べると極めて少ないものですが、今後も慎重な運用が求められると筆者は指摘しています。



当初治安維持法は、政党政治のもとで成立しました。しかし1930年代に入って政党は力を失い、治安維持法を制御できなくなるのみならずテロから身を守るために同法に保護を求める有様でした。では政党は何をすべきだったのでしょうか?筆者は、そもそも暴力や革命となる基盤となっていた結社を取り締まろうとして成立した治安維持法が、本来は暴力から保護されるべき言論へと対象を広げた事に問題があると指摘し、共産主義思想よりも不法な暴力や国家主義運動によるテロを取り締まるべきであったと主張しています。


冒頭の「自由と民主主義を守る上で何が必要か」という問いに対して筆者は、「現代社会においてまず尊重されるべきは個人の言論であり、そのためには思想、出版、結社の自由はみな大切である。そして個人の言論を不当に抑圧することは方法を問わず許されない。そのような結社はやはり規制されるべきである」との極めて常識的な結論に達しています。誰もが字面では分かっていることではありますが、治安維持法の辿ってきた歴史はこの「民主主義にとって当たり前のこと」が政党内閣下であっても容易に弾圧され得るという歴史の暗部を我々に示してくれているのではないでしょうか。



今週にも参議院で採決が見込まれている特定秘密保護法案について、一部で治安維持法になぞらえて批判する見方があるようです。本書序盤に書かれているように、治安維持法はそもそも共産主義思想の拡大を防ぐために結社を取り締まる法律として成立しました。特定秘密保護法案のように機密漏洩を防止するものとしてはむしろ、この記事で紹介したような軍機保護法や国防保安法の方が内容や位置づけ的に近いのではないかと思います。「治安維持法」という言葉が持つ戦前期・戦中期の暗部を想起させる負の力に頼り、安易なラベル付けをして現在審議中の法案を批判するのは法案の中身に対する真摯な議論とは少し毛色が違うものなのかもしれません。


無論、治安維持法から得られる示唆もあるでしょう。本書(の紹介)で見てきたように、共産主義思想の拡大を防ぐために結社を取り締まる、という治安維持法の当初目的はなし崩し的に拡大解釈・適用されていきました。それは一重に、「国体変革」や「朝憲紊乱」といった条文中の定義の曖昧さが官僚組織に拡大解釈の余地を与えてしまったことや、政党政治が軍やテロリズムに萎縮し政争に明け暮れて堕落したことの結果でした。目的や内容の現法案との類似性というよりも、定義が曖昧な法律政党内閣下で成立し、それを政治家がコントロールできずに官僚恣意的に拡大運用を続けていった結果悲劇を招いたという過程こそが、現在議論されている法案を批評する時に我々が得られる示唆であるように思います。



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2013-12-04

治安維持法――なぜ政党政治は「悪法」を生んだか(その1)

| 19:10

特定秘密保護法参院採決が間近に迫っている中、我々は歴史から何を学べるのか?*11925年に成立した治安維持法につきまとう「言論の自由を制限し、戦前の反体制派を弾圧した稀代の悪法」というイメージから一度距離をおいて、その成立・改正・運用を扱った本を読みました。「自由と民主主義を守るためには何が必要か」という問いに、治安維持法という歴史はどういう答えを提示してくれるのでしょうか。長くなりそうなのでいくつかに分けます。第1回はその成立過程について、本書1,2章をもとにまとめてました。



本書の最大の特徴は治安維持法の成立から廃止に至るまでの経緯を、政党の役割に着目して再検討することで、戦前日本の政党政治の特徴を描く」ところにあります。治安維持法はなぜ、護憲三派連立政権である加藤高明内閣で「結社」をとりしまる法律として成立したのでしょうか?筆者は、既存研究で重視されていた治安維持法の作成・運用主体である内務省司法省に加えて、政党という主体にも重点をおいた分析を展開していきます。



戦前の内務省行政警察的な側面が強く、「朝憲紊乱」「安寧秩序紊乱」といった曖昧な基準に基づいて集会の解散や結社の禁止という行政処分を予防的に下すことができました。故に筆者は、そのような行政処分と重複する新たな取締法の制定について内務省は消極的であったとします。もう一つの主管官庁である司法省においては、「犯罪を裁くには明確な法的根拠に則るべきだ」という法の支配の概念が根強く存在していました。また伊藤博文により組織された立憲政友会は、外来思想に対抗する手段として教育や宗教の力で国民の思想を健全な方向へと導く思想善導を掲げ、取締法の制定にも積極的でした。一方の憲政会は「思想善導」を政友会よりも早く打ち出していたものの、取締法の制定には反対の立場だったとされます。そして護憲三派内閣最後の1党である革新倶楽部は、犬養毅「思想には思想をもって」という方針のもと、言論・出版・集会の自由を主張していました。このような各主体が存在していた中で、治安維持法はなぜ成立したのでしょうか?その問いにいく前に筆者は治安維持法以前の取締法についても言及しています。



結社に対する取り締まり、その始まりは明治期における民権運動とそれを担った政党に対するものでした。1880年の集会条例を始めとして、保安条例(1887年)、集会及政社法(1890年)、出版条例(1869年)、新聞紙条例(1875年)が制定されていきます。治安維持法以前に本格的に結社を規制した法律として1900年の治安警察法がありますが、結社の禁止処分は行政処分にとどまり、最も重い秘密結社罪でも最大1年の軽禁錮が課されるに過ぎませんでした。抑止力としては弱体であり、それ故に司法省は明確な規制根拠としての新たな取締法の制定を希求したのです。


  • 相次ぐ思想事件、対外環境の変化、そして過激社会運動取締法案の挫折と教訓

法律的な空白に加えて、国内における思想状況の変化や対外環境の変化も治安維持法成立への駆動因となりました。1910年大逆事件1920年の森戸事件などの社会主義を背景とした思想事件や、1918年の米騒動という社会の不安定性を露にする事件が相次いで発生したのです。また1919年にはコミンテルンが成立し、共産主義に基づく世界革命の可能性が現実味を帯びていきました。このような状況に対して、原内閣社会主義団体の監視強化、労働運動に対する融和、そして思想善導といった対策を実施しますが成果は乏しいものでした。その手詰まり感を背景として、1921年には過激社会運動取締法案が検討されるに至ります。既存の法律では共産主義者による国内での思想宣伝行為に対処できず、それを補うことを目的として成立が企図されました。しかしこの法案は貴族院において「朝憲紊乱」や「宣伝」の定義が曖昧であるとの批判(事実上の牛歩戦術)にさらされた挙げ句、国会閉会により廃案となります。しかしこのような失敗は、まさに治安維持法成立のために必要な条件と表裏一体であったと筆者は指摘します。すなわち、法案から曖昧な文言及び宣伝罪を排し、内務省司法省が協力し、両院を説得し、政友会と憲政会包摂する政権があることこそが治安維持法成立の必須条件であり、成立時の護憲三派内閣はまさにこれらの条件を満たしていたのです。



1920年代共産主義社会主義団体の活動活発化の最中で起きたのが関東大震災でした。緊急勅令によって治安維持令が施行され、図らずも過激社会運動取締法案に類似の規制が実現することになります。同勅令はあくまでも緊急のものという認識が司法省にはありましたが、その中で決定打となったのが1923年の虎ノ門事件でした。それまでの社会主義勢力の伸長やソ連からの思想の流入に加えて、普通選挙の施行で想定される社会主義勢力の一層の勢力拡大とテロリズムの可能性が法律策定の理由となったのです。


さて、1925年治安維持法の成立についてはこれまで二つの有力説が提示されてきました。一つは男子普通選挙を認める引き換えに「ムチ」としての治安維持法が制定されたとするもの、もう一つは同年の日ソ基本条約締結によるソ連との国交樹立から想定されたコミンテルンによる共産主義思想の宣伝を警戒したとするものです。しかし本書はそれらの説に一定の意義を認めた上で、憲政会と政友会が連立し衆議院貴族院を糾合することが可能になったことが最大の成立要因であると指摘します。


司法省は当初、治安維持法で「宣伝」を取り締まることを目指していましたが、大正デモクラシーの時代にあっては言論の自由を直接取り締まることは困難を伴ったため、最終的に宣伝の拠点となる結社を規制することで同様の効果を得ようとしました。特に憲政会は自ら過激社会運動取締法に反対した経緯もあり、共産主義思想の宣伝についてはソ連との間でそれを取り締まる協定を結べばよいと考えていました。日ソ基本条約第5条にいわゆる「宣伝禁止条項」が挿入されたため、加藤内閣治安維持法を「結社を取り締まる法律」として成立させる大義名分を得ることになります。


  • 審議、そして成立

1925年2月19日、治安維持法案は第50回議会衆議院に緊急上程されます。審議の過程では言論・出版の自由侵害の可能性が指摘されたのに加えて、過激社会運動取締法案の時と同様に国体変革」「政体変革」「私有財産制度否認」といった言葉の定義が議論になりました。これらの言葉の定義が明確化されない限りは、合法的な政治改革がどこまで許容されるのかもまた判然とせず、政党活動や議会を通じた立法活動にすら影響を及ぼすとの危惧があったからです。


治安維持法第1条


國体ヲ變革シ又ハ私有財產制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ之ニ加入シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ處ス

前項ノ未遂罪ハ之ヲ罰ス


審議の結果第1条にあった「政体」という言葉は削除され、議会を通じた合法的な政治変革が取り締まられる恐れは減少しました。さらに清瀬一郎は、私有財産制度の否認について社会主義的な政策がどこまで合法と認められるのかを詳らかにしようとしましたが、内務省の山岡刑事局長は統一的な基準を示すことはありませんでした。若槻内相は「言論文章の自由の尊重」を強調し、政府答弁はその点では一貫したものでした。


1925年3月5日、衆議院本会議治安維持法は可決され貴族院に送付されます。貴族院での審議についても、別件の貴族院改革につき憲政会との交渉の糸口を模索していた最大会派の研究会が摩擦を避けたため、過激社会運動取締法の時のように貴族院がストップをかけることはありませんでした。同年3月19日貴族院で法案可決、4月22日には公布されました。



筆者は治安維持法成立の最大の要因は護憲三派内閣であったとします。「アメとムチ」説も「コミンテルン脅威説」も一定の正しさは持ち合わせているものの、そのような「理由」を背景とした上でなぜ議会がこれを可決できたのかというところに着目していると言えます。それはつまり、憲政会と政友会の連立による議会での多数派形成政党を通じた司法省内務省の架橋「宣伝ではなく結社を取り締まる法律」と位置づけることにより各党が「言論の自由」は確保されるとの共通の基盤を形成した、という3つの条件が重なって可能になったのです。また筆者は1925年段階における治安維持法の問題点として、国体変革」という言葉の定義が曖昧でありその後解釈が書き換えられて拡大適用されたこと、結社の自由な活動を萎縮させる降下をもったことなどを指摘しています。

治安維持法――なぜ政党政治は「悪法」を生んだか(その2)

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その1では1925年の成立に至るまでの過程をまとめましたが、本記事(その2)では1940年頃までの運用と改正についてまとめたいと思います。成立当時の政権は「言論文章の自由の尊重」(内相・若槻礼次郎)をうたっており、宣伝ではなく結社を取り締まるものとして制定された同法ですが、運用の実態はいかなるものだったのでしょうか?そしてなぜ改正を必要としたのでしょうか?第3章から第5章までをまとめました。



  • 赤化宣伝

結社を取り締まる法律として成立した治安維持法は、本来赤化宣伝を直接取り締まるものではありませんでした。日ソ基本条約には「宣伝禁止条項」が含まれていましたが、同条項はあくまでも「政府の命令を受けた人間と政府から財政支援を受けた団体」が宣伝をすることを禁止したに過ぎず、コミンテルンが事実上ソ連政府と密接な関係をもっていたにも関わらず、その宣伝行為をも取り締まることは困難でした。まして幣原協調外交のもとでは、宣伝禁止条項の厳格な運用を達成することもできず、同条項は条約締結から1年を待たずに形骸化します。その結果、当局は治安維持法適用対象拡大に動くことになります。



1925年11月、同志社大学軍事教育に反対するビラがまかれ、京都府特高課は京都地裁検事局検事正と協議の上で京都大学社会科学研究会の一斉捜索を決定します。内務省は若い学生の検挙に消極的でしたが、司法省は本件への治安維持法適用に積極姿勢を見せていました。予審の結果、本件では治安維持法第1条によるところの「結社罪」ではなく、第2条で定義されている「協議罪」*2適用が争われることになります。結果としては第一審において、「私有財産制度否認」を目的とした「協議罪」で有罪が宣告されます。治安維持法はその最初の事案において、投書の目的である「結社を取り締まる法律」としては機能しなかったのです。



日本共産党1925年上海会議でコミンテルンから再建を指示され、「君主制の廃止」をうたった27テーゼに基づいて活動を展開していきます。同テーゼ君主制の廃止」を明記していたため、それまで曖昧だった共産主義が「国体変革」を禁止する治安維持法と一直線に接続されることになります。1928年の第1回男子普通選挙において、共産党は11名の党員を労農党から立候補させます。この公然とした活動は内務省を刺激し、治安維持法第1条の「結社罪」適用を目的とした全国一斉検挙につながることになります。


1928年3月15日、全国で1600名が一斉に検挙されます。ところが、共産党事務局長の家から押収された名簿に記載されていたのは409名であり、検挙者の大半は共産党に加入していないことが発覚します。さらに第1条の結社罪の定義においては、結社には「情ヲ知リテ」すなわち「結社の目的を知った上で」加入していることが要件となっており、名簿に名前があっても結社(加入)罪が成立しないケースさえありました。最終的な起訴数は488名となりましたが、治安維持法はその最初の大規模検挙から、怪しい容疑者を手当たり次第検挙するという「粗雑な運用」を許してしまったのです。



この時の改正は2つの目的を持っていました。一つは結社罪の最高刑を死刑としたこと*3、もう一つは目的遂行罪(結社に加入していなくても、国体変革等を目指す結社の目的に寄与する行動を罰するもの)の設定でした。特に後者について、改正後に拡大適用されて猛威を振るうことになります。


3.15事件は治安維持法適用という意味では「失敗」だったとはいえ、共産主義勢力の伸長に対して政府危機感を抱くには十分なものでした。田中内閣の原司法相と小川鉄道相は同事件を受けて治安維持法改正に積極的に動くことになります。1928年4月25日、治安維持法改正案は内閣に提出され、次いで第55特別議会で議論されることになります。大きな問題を孕んでいた目的遂行罪についてはほとんど議論されなかったものの、会期が短かったこともあって改正案は審議未了で廃案となります。


しかし、原法相は諦めませんでした。議会の承認を得ずに政府が制定する「緊急勅令*4を抜け道としたのです。その要件に鑑みて明らかな濫用であり、田中内閣議会軽視との批判を受けますが、枢密院審査委員会第6回審査会において同勅令は5対3の僅差で可決されます。さらに本会議での審議が行われますが、このとき昭和天皇枢密院史上初めて「如何程遅くなりても差支なし、議事を延行すべし」との要望を出しており、表決が1日延ばされました。しかしながら、最終的に反対5賛成24の賛成多数で緊急勅令は可決されます。そして事後の議会では目的遂行罪や法案改正以前に取り締まりを充実させることなどが議論されますが、議会多数を占める政友会は討議を打ち切り、賛成249反対170で事後承認が成立します。


  • 改正後の運用

改正から3ヶ月後には民政党の浜口内閣が成立し政権交替が起きます。浜口政権は当初社会運動に対する取り締まりについて柔軟な姿勢*5を見せますが、1930年2月の第三次共産党検挙を機に挫折します。同検挙においては共産党外郭団体に目的遂行罪が適用され、治安維持法の拡大の一端を示しています。裁判の場でも目的遂行罪は存在感を示しました。1931年5月20日の大審院判決では、当人の活動が結社の目的に合致すると客観的に判断できれば(主観的な意図がなくても)目的遂行罪は成立するとの判断がくだされます。検察や警察による恣意的な運用が認められたも同然の判決でした。


1930年代に入り、治安維持法はその膨脹期に入ります。1928年から1940年にかけての検挙者数は6万5153人にのぼった一方で、起訴者数は5397名にとどまります。治安維持法の運用においては、起訴・裁判を通じた処罰よりも身柄拘束に重点が置かれていたことが窺えます。また31年から33年だけでこの期間の半分を占める3万9000人が検挙されますが、その背景には外郭団体への取り締まり強化がありました。目的遂行罪を積極的に適用して、結社罪の適用が難しい外郭団体の摘発を行っていったのです。


他にこの時期には、大量増加する起訴されない検挙者を対象として転向政策の充実を目指した改正も試みられました。司法省は思想犯の社会復帰を危惧し、予防拘禁も含めた協力な転向政策の実現を企図します。予防拘禁の導入1934年改正案の中で司法省が最も重視した点の一つでしたが、特に貴族院で異論が噴出して同条項が削除されたため、小山内相らは両院協議会を開いて衆議院貴族院の対立を先鋭化させることで法案を廃案に持ち込みます。不本意な法案が通過するよりもあえて廃案にする道を選んだのです。



さらなる拡大適用の端緒となったのが、1935年の第二次大本教事件でした。公称40万人の信者が国家主義運動に参入することを恐れた内務省が取り締まりに踏み切ったのです。本件は共産主義活動ではなく国家主義運動に治安維持法適用された唯一の事例であると同時に、宗教団体への取り締まりが本格化するきっかけとなりました。予審調書では出口王仁三郎が日本の統治者になることを目的としていたとの認定がなされ、内務省は「国体変革」の罪を大本教に強引にあてはめて宗教団体に治安維持法適用する前例を作ったのです。その後仏教系・キリスト教系の団体が幅広く摘発されていきます。しかしながら国家主義運動を対象とした取り締まりはその本丸である右翼団体に及ぶことはありませんでした。各団体が「忠君愛国」を掲げて天皇制を奉じている以上、警察は限定的な指導を行うことしかできませんでした。


前年の1934年の改正案では国家主義運動の取り締まりが争点になっていましたが、松本警保局長が右翼思想は共産主義と異なり体系化しておらず、思想として取り締まることが難しい。テロを起こした右翼は一時的に集まったに過ぎず(恒久的な結社ではない)一時的の現象」であると答弁するなどし、結局右翼対策は盛り込まれませんでした。またファシズム対策の一環として、1925年の成立時に削除された「政体変革」が政党の手で再度盛り込まれる可能性もありました。しかし筆者は、自らの合法的政治変革の可能性を守るために規制対象から「政体変革」を削除した1925年の段階の政党に対して、1930年代政党は自らをテロから守るために「政体変革」を積極的に改正案に盛り込もうとしていたと指摘し、政党凋落を如実にあらわしていると述べています。


  • ここまでのまとめ

内務省司法省法律と現状との間に齟齬を認めると、まず拡大解釈、ついで法改正を志向することで穴を埋めようとしました。2度に渡る改正の試みは失敗しましたが、目的遂行罪を中心とした摘発の増加により、共産党・その外郭団体共に1935年までにほぼ壊滅します。しかしその後も治安維持法適用対象を拡大し、宗教団体、学術研究会(唯物論研究会)、芸術団体なども摘発されていきます。こういった適用対象の成立当初の目的を逸脱した拡大は思想検事たちも認めるところであり、だからこそ彼らは改正を志向しましたが、もはやその改正は誰かの政治的リーダーシップのもとに行われるものではありませんでした。思想検事の一人・中村義郎は、「制度というものの通弊で、ひとりでに増殖していく」と回顧しています。


筆者によれば、最大の問題は政党凋落でした。1930年代の各党は政争に明け暮れ、治安維持法を制御できないばかりかそれに守ってもらおうとすらする有様でした。また陸軍の台頭についても筆者は言及しています。人民戦線事件の背景には陸軍皇道派の影響が指摘され、内務省陸軍との関係で運用に恣意的にならざるを得なかったのです。

*1:「現在における教訓とすべし」という意味で歴史を有用化することには若干のためらいもあることも付記しておきます。

*2:第1条で指定されている国体変革などの事項を目的とした協議を行うことに対し課される罪で、第1条より量刑は軽い

*3:ただし日本国内において治安維持法のみで死刑を執行されたケースは存在しない。治安維持法適用された中で起訴者が死刑を科され唯一のケースはゾルゲ事件だが、本件については治安維持法違反ではなく国防保安法違反を理由として死刑が科された

*4:もちろん無条件に発動できるわけではなく、公共の安全を保持し災厄を避ける目的であること、議会が閉会中であること、緊急の必要性があることが要件とされ、また事前に枢密院の審査を受け事後に議会の承認を受ける必要がありました

*5:学生検挙者への寛容な処置、合法的な社会運動共産主義運動の峻別、思想犯に対する取り扱いの改善