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Sannou-monologue

2016-04-17

映画『スポットライト 世紀のスクープ』

| 23:17

硬派の社会派映画としてアカデミー作品賞を受賞した『スポットライト 世紀のスクープ』を観てきました。


  • あらすじ

2001年の夏、ボストン・グローブ紙に新しい編集局長のマーティ・バロンが着任する。マイアミからやってきたアウトサイダーバロンは、地元出身の誰もがタブー視するカトリック教会の権威にひるまず、ある神父による性的虐待事件を詳しく掘り下げる方針を打ち出す。その担当を命じられたのは、独自の極秘調査に基づく特集記事欄《スポットライト》を手がける4人の記者たち。デスクのウォルター"ロビー"ロビンソンをリーダーとするチームは、事件の被害者や弁護士らへの地道な取材を積み重ね、大勢の神父が同様の罪を犯しているおぞましい実態と、その背後に教会の隠蔽システムが存在する疑惑を探り当てる。やがて9.11同時多発テロ発生による一時中断を余儀なくされながらも、チームは一丸となって教会の罪を暴くために闘い続けるのだった・・・。


公式サイト:http://spotlight-scoop.com/


以下ネタバレあり。


この映画をジャーナリズムの成功例としてみた場合、私自身が一番の教訓として読み取ったのは、必要悪は避けがたいという冷めた視点に立つことによって、黙殺されてしまう事実があるのではないかということだった。劇中、ボストン・グローブの記者たちは何度も「人々は教会を必要としている」「事を荒立てるのか」といった形で教会シンパからプレッシャーをかけられる。しかし結末では、報道を受けてそれまで口を閉ざしてきた幼児虐待の被害者たちが嵐のように編集部へ電話を入れる光景が描かれる。我々はよく、少し賢くなったつもりで「大事のためには小事をかまってはいられない」という思考に陥ってしまいがちなのだと思う。でも、この報道とそれに対する反響が示すのは、小事だと思っていたことがは実は小事ではないこともあるということだ。小事、必要悪だと思っている、いや思い込まされるのは時に権力側の都合だったりする。我々は賢くなったつもりで、全体最適というマジックワードの元に、事実を深く調べる事を怠ってはいないだろうか?そう自問せざるをえない結末だった。大事であれ小事であれ事実は事実なのであり、それを報道し世に問うというのがメディアが持つべき覚悟だと感じた。


もう一つは、端緒はどこにでもあるということだ。この映画で描かれる事件は、数十年も前から問題としては誰しもが知っているものだった。個別の神父に関しては報道で糾弾されていた。にもかかわらず、それを構造的問題として捉え、粘り強く掘り下げることを怠っていたのは、まさにウォッチドッグとしてのマスコミの怠慢だったといえよう。その怠慢を正面から捉え、反省のもとに徹底的な調査報道を志向する特別報道チームの姿はまさに、端緒はどこにでもあり、それを掘り進めるかどうかが問われているということだと思う。劇中では他社の記者が資料公開請求の裁判を傍聴に訪れるという描写もある。誰にでも平等にチャンスは与えられている、でも他の人と違うことをやらないとスクープにはならないということなのだろう(当たり前すぎるけど。


機密保持については、映画で描かれている限りでは甘いと言わざるをえない。人通りのあるところで大声で話ししすぎだし、喫茶店でのインタビューもワキが甘い。本当にこんなザルだったのだろうか。教会側の隠蔽への動きがわかりにくい以上、市民全てが潜在的な敵だと思って行動すべきなのではないかと思った。


あとは裁判のテクニカルな部分。証拠資料が原則として公開されるということ自体はアメリカ司法が我が国の司法に優越する面なのだろうが、それはともかく、証拠開示に関する記者の法手続き的な理解が甘い。必死で公開を請求していた資料が実は別のところであっさり見られるようになっていたというのはずいぶん抜けている。そんなに法的にマイナーな手続きだったのだろうか、疑問が残る。ついでにいうと、教会が証拠資料を隠蔽できるとかいうのはいかなる法的根拠があってそうなっているのだろうか?司法の側が教会の意図を忖度して資料を非公開にしているとしたら、それこそ大問題だと思うのだが。


本作を見ると、少人数(十人以下)のチームを特定のテーマに最低でも数ヶ月専従させるというのが調査報道の基本だと思うのだが、これができている日本のメディアがどれだけあるのだろうか。あるテーマが盛り上がることによってアドホックに取材班が設置されることはあるのだろうが、常設となるとどうだろうか。


ネタはスクープを出せるところに集まるというのは昨今の週刊文春報道を見ていてもわかるところだが、本作でもそれを示すような描写がある。ボストン・グローブ側に情報提供する被害者団体のリーダーが、「一度は黙殺され、今度もまた黙殺するのか」的な言葉で記者に迫るシーンがあるのが印象的だ。ネタを出す側も覚悟がある。「ここなら書いてくれる」という信頼、それが次のスクープにつながっていくのだろう。


あとはやはり「神父ばかりがなぜこういう行為に及ぶのか」について、答えが示されなかったことだろう。映画としてはしょうがないが、報道としては、劇中で心理学者の発言から独身制が問題であると暗に匂わせつつも、しっかりと切り込んだようには見えなかった。本当はやっているのかもしれないが。


(追記)取材する際の「説得のスキル」については非常に参考になった。相手の正義感に訴えたり、社会正義を訴えたり、脅したり、だまって聞いたり、相手を慮りつつたたみかけたり、この辺りの説得を自然に出来ることが必要なのだろう。


  • 映画としての本作

概ね見やすい映画で、硬派のテーマをうまうエンターテイメント仕立てにしていたと思う。記者という人種が日常的に行っている営み(地道な聞き込み、時にドアを閉ざされる、公開資料の綿密な分析、複数のソースからの裏取りなど)はとても生々しく描かれていたと思う。簡単にネタ手に入りすぎやろーと思ったことがないわけではないが、実際には相当な苦労があったと推察される(願わくば証言を断る虐待経験者の描写も欲しかった)。聖職者年鑑を延々閲覧して出てきた数字が、統計的に予測された児童虐待をしていた聖職者数とほぼ一致するシーンは素晴らしいの一言。


構成として不満なのは、そもそも行われていた報道と何が違うのかがよくわからないまま物語が進むことだ。一部の神父の件は何年も前に報道されていて、それと比べた新規性がどこにあるのか最後の方までよくわからなかった。冒頭で「何を目指して調査報道をしているのか」をもう少し明確に示したほうが観客には親切だと感じる。あとは編集局長のキャラ説明が不十分なところだろうか。なんかいきなり縁もゆかりもない奴がやってきて、頭だけは切れるんだけど、結局脇役のままで終わってしまった。ここは何かしらもう少し説明があっても良かったと思う。


アカデミー作品賞とはいえ、宗教に付随する問題という日本では馴染みの薄いテーマだったこともあり、客の入りはあまりよくなかった。カソリックの教会がこれだけのスキャンダルを抱え、しかもそれを組織的に隠蔽していたということの重みを我々がどれだけ実感を持って理解できるかというとなかなか難しい気もする。


あと弁護士やら裁判所やらにがんがん切り込んでいくマーク・ラファロ演じる若手記者の演技が実に良かった。「こういうのあるあるー」というのばかりで実に良かった。


(なにしろ映画館で見たので一度しか見ていない。うろ覚えの部分も多々ある。思い出したらまた追記します)


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2016-01-03

映画『杉原千畝』

| 21:57

1934年満洲満洲外交部で働く杉原千畝唐沢寿明)は、堪能なロシア語と独自の諜報網を駆使し、ソ連から北満鉄道の経営権を買い取る交渉を有利に進めるための情報を集めていた。翌年、千畝の収集した情報のおかげで北満鉄道譲渡交渉は、当初のソ連要求額6億2千5百万円から1億4千万円まで引き下げさせることに成功した。しかし、情報収集のための協力要請をしていた関東軍の裏切りにより、ともに諜報活動を行っていた仲間たちを失い、千畝は失意のうちに日本へ帰国する。


満洲から帰国後、外務省で働いていた千畝は、友人の妹であった幸子(小雪)と出会い、結婚。そして、念願の在モスクワ日本大使館への赴任をまぢかに控えていた。ところが、ソ連は千畝に【ペルソナ・ノン・グラータ(好ましからざる人物)】を発動。北満鉄道譲渡交渉の際、千畝のインテリジェンス・オフィサーとしての能力の高さを知ったソ連が警戒し、千畝の入国を拒否したのだ。


1939年リトアニア・カウナス。外務省は、混迷を極めるヨーロッパ情勢を知る上で最適の地、リトアニア領事館を開設し、その責任者となることを千畝に命じた。そこで千畝は新たな相棒ペシュと一大諜報網を構築し、ヨーロッパ情勢を分析して日本に発信し続けていた。やがてドイツポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が勃発すると、ナチスに迫害され国を追われた多くのユダヤ難民が、カウナスの日本領事館へヴィザを求めてやって来た。必死に助けを乞う難民たちの数は日に日に増していく。日本政府からの了承が取れないまま、千畝は自らの危険を顧みず、独断で難民たちに日本通過ヴィザを発給することを決断する―」


映画『杉原千畝』公式ウェブサイトは→http://www.sugihara-chiune.jp/


以下ネタバレあり)


私個人が杉原千畝のことを知ったのは小学生の時、『約束の国への長い旅』という本を読んでからだった。当時は外務省による名誉回復がなされる前で、世間的には今ほど知られてはいなかったように思う。2000年に名誉回復がなされて以降、杉原の様々な側面に着目した書物が多く出版された。私自身は「かつて応援していたマイナーなアイドルが紅白の桧舞台にデビューしてしまった」みたいなちょっと寂しい気持ちもある。ついでに言うと、「戦時中の日本には『いいこと』をやった人『も』いた」と保守層が溜飲を下げるために消費されてる感もあるくらいだ。


一言で感想を述べるなら、日本には「シンドラーのリスト」は必要とされていないし、日本映画界にそれを作る気もなさそうだなというところか。全体の構成は、満州で諜報活動に邁進していた時代→リトアニアユダヤ難民ビザ発給→東プロイセンで諜報活動に従事し敗戦、帰国という形になっている。前段と後段が冒険活劇で、中段がヒューマンストーリーというなんとも微妙な流れだった。


人道上の見地からユダヤ難民を救ったビザ発給で知られる杉原が、多言語を使いこなす情報戦に長けた有能な外交官でもあったことは、彼という人間を描く上で触れざるを得なかったのかもしれない。であるがゆえに、この映画は『シンドラーのリスト』に代表される戦中ユダヤ物映画とは異なる立ち位置の映画なのだと思う。ナチスをぼこぼこにしたり、ナチスからユダヤ人を救ったり、ナチスから(ryな映画は欧米で量産されてきた印象があるのだが、それはやはり需要あってのこと。この映画をビザ発給に焦点を絞って作ることは市場的に厳しく、かつ「杉原という人間を描く」という趣旨に沿わないものだったのかもしれない。


それにしてもスパイ冒険活劇部分は浮いている。満州国外交部在任中の杉原はかなり「怪しい」調査活動に従事してはいたのだろうが、なんか無理にアクションシーンを作ろうとしたように感じてしまった。語学と智恵を使いこなし、地道な情報活動に従事していることだけを描いても客は飽きてしまうのだろうが(私は飽きないけど)。東プロイセン在任中にドイツソ連侵攻を察知するあたりもなんかこう、とってつけた感が否めない。スパイ物としてやるなら、家族の描写なんか割愛してもいいくらいだと思う。


リトアニア赴任後にユダヤ難民が出て来るあたりからは、欧米でよくあるナチス物に匹敵する描写があって感嘆を禁じ得なかった。ポーランドを蹂躙し、街に進駐してくるドイツ軍戦車や兵士の描写は迫力があったし、なんといっても逃げ損ねたユダヤ人ドイツ軍SS?)に虐殺されるシーン(工場の一角に追い詰められたユダヤ人たちが、ドイツ軍将校に「立て!伏せろ!」という指示を繰り返し出され、従っても従わなくても虐殺される)はかなりよくできていた。邦画でもこんなシーンが撮れるのかと驚いてしまった(あまり観てないからかもしれないけど)。


途中からずっと、自分ならこの映画をどう撮るかということをずっと考えていた。諜報活動部分は味付け程度にしてばっさり切り落とし、ユダヤ難民側に準主役級の俳優を入れる(杉原のビザで救われ、後にイスラエル宗教大臣になったゾラフ・バルファティックあたりがいいかもしれない)。オープニングは大臣室のいすにふんぞり返るバルファティックが、「この男を捜し出せ」とでも吐けば(吐いてないだろうけど)いい。ポーランドからのユダヤ難民の苦難の道はもっと描く余地があるだろうし、杉原のビザ発給に至る葛藤や外務省とのバトルもまだまだ細かくやれると思う。エンディングはイスラエル訪問でいいんじゃないか。とまで書いておいて、なんとも陳腐な顕彰映画ができるなぁと思った。映画に満足はしていないけれど、この人物を描くのは実は結構難しいと納得した。


構成という意味で良かったのは、「紙切れ一枚が人の運命を翻弄する」というメッセージが明確だったところだろう。満州時代の活動の結果、杉原はソ連からペルソナ・ノン・グラータの宣告を受け赴任の道を閉ざされる。ユダヤ人たちは紙切れ一枚のビザを求めて領事館に殺到する。国境や外交国籍という権力装置が「一枚の紙切れ」で人を翻弄するという伝え方は非常にわかりやすく、印象的だった。


その他細かい点。


唐沢寿明の英語は素晴らしかったが、杉原の真骨頂はやはりロシア語。台詞丸覚えでも唐沢にロシア語で演じさせるのはきつかっただろうと考えるといたしかたないが、どうも英語でやられると興ざめだったところもある。


終盤、ソ連軍捕虜収容所で妻・幸子が「終戦なんですね」とつぶやいたのに対し杉原が、「いや、敗けたんだ」と応じるシーンも良かった。杉原の悔しさを表すいい場面だったし、我が国で一貫して「敗戦」ではなく「終戦」が用いられているという経緯に自覚的だったんだとも思う。


再会シーンが赤の広場というのはいただけない。実際、杉原がモスクワに行きたがっていたのかどうかよく知らないのだけれど、ここはやはり史実に忠実であって欲しかった。


カウナスの教会で杉原が十字を切るシーンが2度描かれていた。彼がクリスチャンであったという史実を暗示するいいシーンだったが、他の場面でももう少し盛り込んで良かったのではないだろうか。そのキリスト教人道主義こそが彼にビザを書かせたのだから。


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2015-11-28

映画『黄金のアデーレ 名画の帰還』

| 23:11

「20世紀が終わる頃、ある裁判のニュースが世界を仰天させた。アメリカに暮らすマリア・アルトマン(82歳)が、オーストリア政府を訴えたのだ。“オーストリアモナリザ”と称えられ、国の美術館に飾られてきたクリムトの名画〈黄金のアデーレ〉を、「私に返してほしい」という驚きの要求だった。伯母・アデーレの肖像画は、第二次世界大戦中、ナチスに略奪されたもので、正当な持ち主である自分のもとに返して欲しいというのが、彼女の主張だった。共に立ち上がったのは、駆け出し弁護士のランディ。対するオーストリア政府は、真っ向から反論。大切なものすべてを奪われ、祖国を捨てたマリアが、クリムトの名画よりも本当に取り戻したかったものとは──?」


公式サイト:http://golden.gaga.ne.jp/about.html


(以下は感想、ネタバレあり)


なかなかスリリングな話で、楽しみにしていた映画の一つだったのだが、今ひとつ消化不良だった。一つは対オーストリア政府の法廷闘争の困難さの描写イマイチ足りない気がしたまったくもって不足していると言わざるをえない。トントン拍子で米最高裁まで進み、最高裁判決は電話で連絡(事実に即しているのかもしれないが)という地味さ。そこはゴールではないとはいえ、もう少し丁寧に描写して欲しかった。そして個人的に非常に不満だったのがオーストリアにおける調停の結果があまりにさっくり主人公の思う通りになってしまうところ。3人調停委員がいて「一人は原告が指名、一人は被告が指名、残り一人は中立」という形式で選ばれるのだが、弁護士の「結果はどうなるかわからない、運が良ければいいね」という前振りがあるにもかかわらず、調停で主人公サイドに絵の所有権があるという結論が出るに至る描写がほとんどない。これは非常に不満。当時オーストリアでどういう議論があったのか、なぜオーストリアで行われた調停でオーストリア政府にとって不利な決定がなされたのか、きちんと説明して欲しかった。


無論、この作品はハリウッド的に「絵が返還されてUSA!USA!」という大団円を目指したものではないというのは一応わかる。国を追われ、ふとしたことから「形見」を奪還することに情熱を注ぐ二人の人間模様を描くという目的を果たす以上、テクニカルにどういう困難ががありそれをどう克服したかということの描写は割愛せざるをえなかったのかもしれない。しかしこの人間模様の描写にも不満が残る。主人公は何度も諦めそうになりながら絵の奪還を目指す、そして時節、ユダヤ人であるがゆえにオーストリアから去らざるをえなかった主人公の過去が挿入される。ところが、その部分と絵の奪還に情熱を注ぐ主人公がどうしてもつながってこない。彼女はなぜ絵を取り戻したいのか、この絵は彼女にとってどういうものなのか、取り戻した絵をどうしたいのか・・・。確かに旧宅からナチスによって絵が持ち去られるシーンはあるのだが、あまりにも淡白で、伯母を描いたこの絵が彼女にとって持つ意味がイマイチはっきりと伝わってこない(おまけにその伯母は、オーストリアナチスがやってくる遥か前にこの世を去っている)。


(追記)私が「つながらない」と感じる理由を改めて整理してみる。映画の序盤、彼女の伯母の「絵を美術館に譲る」という遺言には法的拘束力がなく、かつ彼女の伯父の遺言では彼女に所有権が移ることになっているということなので、奪還を目指すということになる。じゃあ法的な瑕疵がなければ返還を求めなかったのか。引き裂かれた過去を取り戻すものとしてのあの絵を手元に取り戻したいのであれば、法的な瑕疵に気づく前から返還を求めるべきではなかったのか。出発点が法的な瑕疵にあるので、「チャンスきたラッキー!」みたいに見えてしまうのだ。

彼女にとって、絵がオーストリアにあることがいかなる不満をもたらしているのか。本作では現オーストリア政府をそこはかとなくナチスになぞらえるような描写があるし、彼女自身、忌まわしい記憶の場所としてのオーストリアに戻ることを繰り返し拒否する(それでも行くけど)。そういった場所に絵があるのは確かに問題だろう。しかしそうすると、以下に書くラストシーンが謎になる。(追記終わり)


ラストシーン、彼女はウィーン市内の旧宅に上がり込み、幸せだった過去に想いを巡らす。私はそこで彼女が「絵はアメリカには持っていかない。ウィーンの美術館からここに移して飾って欲しい」と言うのではないかと思った。このシーンは、それまでオーストリアに戻ることを拒み、そこに絵があることを嫌悪していた彼女の中で、過去の遺恨が少し和らいだ瞬間だったように思う。オーストリアウィーンは嫌悪の対象かもしれないが、少なくとも旧宅は彼女にとって思い出の地として復活したように見えた。そこに絵が戻ることが、絵とともにある過去が彼女のところに「帰還」するということなのだと私は思う(これは映画なので、実際に主人公がどうしたかというのは別だし、私はあくまでも映画としてわけわかんないということを言っているつもり)。終盤に至るまで、家族との離散を余儀なくされた忌まわしいかつての祖国としてのオーストリアを描きながら、最終盤でその彼女の感情に揺れがみられたように感じたのだ。だが映画はそこで終わり、字幕で絵がニューヨークに飾られているという事実が明かされる。絵を美術館に売った金は、慈善事業に寄付したりしたなどというおまけもつく。こんなことなら、下手な人間模様など描かずに、極悪オーストリア政府を相手に正義のヒーローたるユダヤ系アメリカ弁護士とかくしゃくとした老婆が万難を排して絵を取り戻すお話にしたほうがよかったのではないかとすら思う。


一応勉強になった点も書いておくと、絵を取り戻しに来た主人公に対してとあるオーストリア人が投げかける「ホロコーストにこだわるのはもうやめろ」という一言が印象に残った。過去としてのナチスはもうないが、その被害を受けた人々が「セカンドレイプ」されるような状況はいまもあるのかもしれないと想像させるいいシーンだった。


あとこれに限らず毎回思うのだが、洋画の邦文タイトルって本当なんとかならないのだろうか。「名画の帰還」などという説明的な言葉を付け加えることでいかにタイトルが陳腐化していることか。




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2015-02-06

Racial Conception in the Global South

| 15:21

ISIS Focus読書会用のまとめです。


Warwick Anderson, Racial Conception in the Global South, Isis, Vol.105, No.4(December 2014), pp.782-792


著者のWarwickによれば、「人種科学(具体的には自然人類学や生物学)」という分野は基本的に北半球におけるそれがあたかも全世界的に通用するかのようなものとして捉えられてきたという。学術知としての人種科学からそれが政策や人々の生活に及ぼす影響まで、我々は北半球において生じてきた差別、隔離、優生政策といった事象を前提としてそれを考えてきた。


ここで、これまで人種科学の対象とはされてきたものの、人種科学を生み出す場所とはされてこなかった南半球に改めて着目することが重要だと著者は主張している。そして南半球における人種科学やそれに基づく政策北半球のそれよりも「plasticity(柔軟性)」を持っているという仮説が提示される。たとえば混血することについて、ニュージーランドラテンアメリカにおいてその優位性を評価するような研究がみられるようになること、などがその証拠としてあげられる。また優生学のあり方についても、北半球の「強固な」優生学とは異なる南半球独自のものが営まれていたとも指摘される。


筆者は20世紀初頭の多数の文献を整理・提示したうえで、これらの文献が南半球における人種科学のダイナミズムを明らかにするうえで分析されるべきであるとする。そこでは知の還流と成立といった歴史的な実態を追うのみならず、直接的な関係はなくても比較社会学的な分析を行うことで見えてくるものがあるという。それは最終的に、これまでnormativeなものとして機能してきた北半球起源の「人種科学」の歴史を相対化することにもつながるかもしれない。

2014-10-23

ロシア科学技術情勢―模索続くソ連からの脱皮

| 18:28

ロシア×科学技術」といったときのイメージは「重工業」「宇宙開発」「核兵器」といったものが多いかもしれない。冷戦期の米ソ対立の中でのロシアの科学はそういった面が強いのは確かだろう。ソ連崩壊後20年以上経つ今、ロシアの科学技術はどうなっているのか?またそれを支える研究開発体制はどう変わってきているのか?そういった点を要領よくまとめた本を読んだ。


ロシア科学技術情勢―模索続くソ連からの脱皮
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  • 目次

第1章:国情

第2章:科学技術の歴史

第3章:科学技術の概要

第4章:ロシア科学アカデミーとその改革

第5章:大学とその改革

第6章:宇宙開発

第7章:原子力開発

第8章:近年の科学技術動向

第9章:極東地域での科学技術活動

第10章:日本との科学技術協力


  • ポイント

本書は上記の構成で現在のロシアの科学技術の概要を描き出すものである。以下、興味深かった点を箇条書きにしてみた。


ロシア科学アカデミーは1724年にピョートル大帝によって作られたが、自前の人材がいなかったのでレオンハルトオイラーやベルヌーイ兄弟といった他国の科学者を招聘して指導的地位につかせた。


・対GDP比での研究開発費は現在でも冷戦崩壊以前の半分程度にまでしか回復していない。研究者の頭脳流出の影響で30代〜40代の層が薄く、研究ノウハウの継承に支障をきたしている。


・研究開発費の政府負担比率は70.3%(2011年)、主要国と比べても倍近い値であり、政府依存度が高い。


・科学技術研究の中核を担うのがロシア科学アカデミー。436の研究所と約5万人の研究者を抱える。政府基礎科学研究予算の6割以上はアカデミー向け。ロシアの科学技術研究を見るとき、中心になるのは大学ではなくアカデミー。ただし今後の方向性として、大学における研究体制の強化も目指されている。


・日米英では大学が研究と教育双方を担う組織として成立した。ロシアではロシア科学アカデミー教育機関たる大学を附置したという歴史がある。


ロシアの教授資格(「専攻教授」)は個人に授与される永久的な資格であり、大学に所属していなくても教授と名乗ることができる。


ソ連時代、現・連邦宇宙局は「一般機械製造省」という名称が付され、1980年代半ばまでは存在すら秘匿されていた。連邦宇宙局長官は直近三代が皆軍出身者。いまでもロシア宇宙開発の最優先事項は安全保障


ツープ管制センターにおけるISSのスケジュール管理等は全て紙で行われている。分単位のスケジュールを紙に打ち出し、職員は一つ一つの項目をペンを使ってチェックしている。


ソユーズの打ち上げ成功率は97%( 2011年3月現在、1293回の打ち上げに対して成功1252回)。


ISSの運用については、ロシアに限り米国通信衛星を通さずに交信可能。実験の実施についても、ロシア以外の参加国はジョンソン宇宙センターでの調整を経なければならないが、ロシアはツープ管制センターからの直接の指示で実験を行える。


ロシアGPSの「グロナス」は民生利用を無料提供、iPhone4sは位置情報について米版GPSとグロナスを併用。


・1986年のチェルノブイリ事故にもかかわらず、1987年から1990年にかけて国内で4基の原発の運転を開始。


政府直属の研究所であるクルチャトフ研究所には稼働中の原子炉としては世界最古の高速炉「F-1」がある。減速材は手積みのレンガ、制御棒は手動。いまでもキャリブレーションのために時々運転される。


ロシアから見た科学論文の主要共著相手国は、1位ドイツ、2位米国、3位フランス、4位英国、5位イタリア、6位日本となっている。



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