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Uehara-monologue

2013-06-19

京都学派と日本海軍-新史料「大島メモ」をめぐって

隣の部屋の本棚に転がっていたので手に取りました。「思想戦」に巻き込まれる事を余儀なくされた京都学派の思想と行動とはどのようなものだったのでしょうか?海軍の依頼を受けて行われていた会合の内容を描写するメモを手がかりに、京都学派の「反体制的な戦争協力」の実態が明らかにされていきます。





本書は三部構成になっています。大島メモそのものの書き起こしをまとめた第三部に対し、第一部「京都学派日本海軍」では陸海軍パトロンとする哲学者知識人たちの思想戦の様相が概観されます。また第二部では、大島メモの発見を奇貨として、京都学派の歴史の中であまり取り上げられてこなかった大島康正と下村寅太郎という二人の著作を取り上げてその「精神史」が描かれます。史料の単なる紹介と分析に留まらず、それを明治・昭和の思想史の中に位置づけようとする筆者の試みがうかがえます。


大島メモとは、戦前・戦中に海軍高木惣吉の依頼を受けて行われた十数回にわたる京都学派の会合の内容を大島康正がまとめたものです。当時京都大学の副手であった大島は、会合の内容をまとめて海軍に送付していました。その内容は当初「戦争の回避」を目的としていましたが、時局がうつろうに従って国内外の思想状況の分析、戦争理念の模索や国策是正の提言、東条内閣打倒を含めた戦争終結の展望、さらには敗戦後の展望までもがその射程に収められていきます。著者の言う「斬れば血の出る思想戦」の最中にあっては、その内容が外部に漏れ出る事は京都学派の政治的な死(と検挙などの物理的な危険)を意味していました。皇道派の執拗な言論攻撃に対して守勢に回りつつも、その内部では「日本的な特質を追求する一方で、これを独善的・孤立的、排他的なものにしてはならない」とする「世界史哲学」に基づいた国策の議論が行われていたのです。


「思想戦」においてほぼ無抵抗に終わった京都学派でしたが、本書ではぎりぎりの戦いを迫られた彼らのささやかな抵抗も取り上げられています。国体明徴運動に関わる教学刷新会議の第三回総会において西田は以下のような主張を展開する意見書を提出しています。


我国の学問は基礎的研究に於いては、未まだ幼稚の域を脱せないと思ふ、今日基礎的研究の最も盛なる物理学といへども、未だ一人の<デイラック>一人の<ハイゼンブルク>すらあるを聞かない、精神科学に於いては、更に之に劣るものがあると思ふ。我国に於て独特の学問的基礎が確立せられざるに於ては、いつまでもその根幹にまで外国思想の浸潤を免れることはできない(中略)、それには優秀なる学者をして学問の基礎的研究に従事せしめると共に、かかる学者を養成することを計画せなければならない


文面上は文理にわたる基礎研究の重要性を指摘したものであり、一見して国体明徴運動の推進を許容しているかに思えます。しかし著者は、西田はこの意見書を通じて暗に「(国粋思想や)日本精神によって我が国の思想界を統一する事など無理」であることを指摘したのだとし、これに続く田辺の発言を評した「『このような会議の席上で発言することができた極限の一例』(中島健蔵)」という言葉を引用しています。

2013-06-18

日中戦争下における基礎研究シフト-科学研究費交付金の創設-

5ヶ月くらい前に「誰かblogで取り上げないかな」と言っていた人がいたので取り上げてみました。科学研究費補助金の前身である科学研究費交付金、その設立には当時の情勢が強く影響していました。



水沢光(2012), "日中戦争下における基礎研究シフト-科学研究費交付金の創設-", 「科学史研究」第51巻(No.264), pp.210-219



科学史研究 2012年 12月号 [雑誌]

科学史研究 2012年 12月号 [雑誌]




  • 科学封鎖の実態

文部省による「学制百年史」等の記述によれば、1931年に勃発した満州事変以降の対中軍事行動に反応した各国の「科学封鎖」(書籍や物資の禁輸、留学生の受け入れ停止等)に対応するため、科学研究の根底からの変革を企図して科学研究費交付金が創設されたとされています。しかし筆者は、帝国大学新聞に掲載されていた「出版界の趨勢」や文部省在外研究員数の変化を基に、「科学封鎖」が本格化するのは第二次世界大戦勃発(1939年9月)以降のことであることを指摘します。


満州事変以降、日本製品ボイコットの影響により日本の貿易収支は赤字続きでした。1937年以降、為替管理政策の一環として洋書輸入制限が実施されましたが、科学研究に必要となる理工系の書物については例外措置が付され、1940年頃まで大きな影響はみられません。当時外国書籍の最大の輸入先だったのはドイツでしたが、1936年1940年は金額ベースの書籍輸入量は増加の一途をたどっています。その他の書籍輸入は激減しましたが、それは諸外国の積極的な「科学封鎖」によるものではなく、日本政府貿易赤字対策に起因するものでした。いわゆる「科学封鎖」によって理工系の書籍が入手困難になるのは、科学研究費交付金創設後の1941年半ばのことです。


また、軍需物資の対日禁輸や留学生の受け入れ停止については1938年半ばに見られるようになりますが、筆者はこれらが「科学封鎖」として決定的な影響を日本の科学研究に与えたものではなく、科学研究費交付金の創設背景についてさらなる検討を要するとします。



  • 科学界の進言はなぜ受け入れられたか?ー科学振興調査会の設置とその提言

では科学研究費交付金創設をもたらした決定的要因は何だったのでしょうか?筆者はそれを「科学界からの進言」であったと指摘します。日中戦争により深刻化した資源不足に対応するため、日本の科学界は軍需関係の研究、特に不足資源の補填にかかわる研究を活発化させていきます。日本学術振興会の補助を得た「総合研究」の多くは戦時下の喫緊の課題に対応するため応用研究であり、一定の成果を出した科学界の発言力は増していきます。


一方、戦時情勢に対応する応用研究が行われていく中で、大学における物的・人的両面での環境の貧弱さが浮き彫りになり、科学界側は科学振興策の拡充を求めていきます。1938年8月に発足した科学振興調査会はその答申の中で、応用研究拡充のための研究費増を提言すると同時に、応用研究を成功させるためには基礎研究の充実も重要であると主張するに至ります。加えて、本格化していなかったとはいえ将来への危惧を誘発するに至っていた「科学封鎖」の可能性を考慮し、自前で研究を行うためには日本国内での基礎研究からの積み上げが重要であるとしたのです。



  • 科学研究費交付金の創設と「基礎研究シフト」

このような経緯を経て、文部科学省1939年度追加予算において科学研究費交付金として300万円を計上します。この金額は日本学術振興会の研究費や科学研究奨励金等の既存の研究予算と比べて2倍近いものでした。そしてその多くは基礎的研究に費やされていきます。


戦時情勢下での応用研究の進行、その過程での研究環境の貧弱さの自覚、そして基礎研究の必要性の認識と科学界からの提言というステップを経て科学研究費交付金が創設され、筆者の言う「基礎研究シフト」が発生したのです。



科研費獲得の方法とコツ 改訂第2版

科研費獲得の方法とコツ 改訂第2版

2013-06-17

ツイン・タイム・トラベル イザベラ・バードの旅の世界・写真展

健康診断のついでに、駒場博物館で開催されている表題の展示に行ってきました。



f:id:kosuke64:20130617143033j:image:w360


ツイン・タイム・トラベルーイザベラ・バードの旅の世界・写真展

監修:金坂清則 京都大名誉教授

場所:駒場博物館東京大学駒場キャンパス)

期間:6月30日まで

開館時間:10時〜18時、火曜休館

入場:無料

http://museum.c.u-tokyo.ac.jp/exihibition.html#Bird



イザベラ・バード英国「王立地理学協会最初の女性特別会員」の栄誉を得た、史上屈指の旅行家であり、日本では明治初期に北海道を訪れ「日本奥地紀行」を著した英国女性として知られています。その旅は南米南極を除く全大陸にまたがり、期間も22歳から70歳まで実に半世紀にも及びます。


展示監修者の金坂清則氏は地理学者であり、イザベラ・バードとその旅行の地理学上の重要性に着目して長年研究を行っており、そのプロフィールには「イザベラ・バード論」を専門としていると記述するほど。


館内では、金坂氏がバードの旅路を追って撮影した100点に及ぶ写真がバードが執筆した旅行記中の記述と共に展示されており、氏の言う「ツイン・タイム・トラベル」ー過去の旅行記に描かれた旅の時空と自らの旅の時空を主体的に重ね合わせる新しい旅の形ーを体感できるようになっています。100年以上前に書かれた詩的な記述の数々は、現代になって金坂氏が撮影したカラー写真と並んで生き生きと風景を描写し、遠い地球の裏側へと観覧者を誘ってくれます。


「旅行記を読むとは、その基になった旅を読み、旅する人を読み、旅した場所・地域を読み、旅した時代を読むことである。」金坂氏は「研究なき翻訳はあってはならない」という姿勢のもとで膨大な訳注を付してバードの著書を完訳してきました。まさに地理学者の面目躍如、執念、しつこさを見せつけられます。当時陸軍第6師団の拠点であり、通常は写真撮影が許可されなかった熊本城の写真をバードはなぜ撮ることができたのか?それを明らかにする氏の述懐を含んだ展示映像も必見です。



2013-06-16

Laubichler, Maienschein, Renn, 2013 ”Computational Perspectives in the History of Science”

Isis, Focus読書会#9 科学史の未来」(https://www.facebook.com/events/488774157858750/)参加にあたり、Isis vol. 104, no. 1 (2013) の Focus "The Future of the History of Science" 収録論文を読みました。「ビッグデータ」という言葉が世を席巻している今日この頃、計算機科学手法(Computational Perspective、以下CP科学史研究に与える影響とはいったいどういうものなのでしょうか?



Manfred D. Laubichler, Jane Maienschein, and Jürgen Renn, "Computational Perspectives in the History of Science: To the Memory of Peter Damerow," Isis, 104(1), 2013, pp. 119-130.

http://www.jstor.org/stable/10.1086/669850

(上記アドレスから閲覧・DL可)



本稿においては、CPデータマイニングテキストマイニング、モデル分析、統計分析、因果関係分析、ウェブの活用、データや論文に対するメタデータの設定、電子データベースの整備といったもの)が科学史研究にどういう影響を与えるのかが、①実際の研究、②研究・ディスシプリンを取り巻く環境、③教育や他分野との協働という3点(blog執筆者の分類)に分けて記述されています。研究者個別の職人芸的な研究活動から、複数の研究者協働あるいは機械学習的な手法の活用といった方向性へと研究活動が不可逆的にシフトしているとします。



CPは個別の科学史研究そのもにどういう影響を与えるか?


筆者らは科学史研究におけるCPは、一義的にはビッグデータを基盤としたアプローチと計算機科学的な分析であるとします。マラリア研究の事例をひきつつ、まずはそのようなアプローチがこれまでの「職人芸的」な研究手法が導きだしてきたような知見と同じものを得られるのかを検証します。CPを用いてマラリアに関連する様々なターム(病そのもの、治療法、地理的特徴)が織りなす知のネットワークを視覚化し、それを既存の研究が明らかにしてきたものと比較し、CPが既存の歴史研究と遜色ない結果を導きだせるとします。ビッグデータを活用した分析は職人芸的な歴史研究と同レベルかそれ以上であり、他のトピックにおいても同様の手法を応用することによって、様々な分野における知の変遷をより長い時間軸・よりグローバルな視点で捉えることができる可能性を指摘します。かつてライフサイエンス分野でビッグデータを用いた分析が革新的な帰結をもたらしたことを傍証としてひき、このような手法の有効性が強調されています。


また筆者らは、知の移動や拡散といった研究テーマにもCPは有効であると主張します。筆者らが所属する研究機関で整備されつつあるデータベースを例に挙げ、それまで利用されてこなかったものを含む様々なデータを電子化標準化(タグ付けや関係性の記述といったメタデータの付与による同一レイヤーでの処理)する事により、職人芸的・個人的な研究活動では見えてこなかった知の構造を明らかにでき、分野横断的な研究にも寄与するとしています。



CP科学史研究を取り巻く環境にどういう影響を与えるか?


CPの影響は、科学史研究をより透明でオープンなものにしていくでしょう。と同時に、研究者たちはその流れに抗う事なく、自分たちが持つ一次データや論文を積極的に利用可能な形で公開していくことが求められます。個別の科学史研究がCPの恩恵を受けるためには、整備されたデータベースの成熟が不可欠なのです。誰にでも利用可能なメタデータが付与されたデータベースの整備により、それまで「職人芸」のベールに包まれていた研究プロセスが衆目に晒され、批判と検証が活発化し、そのさらなる発展に寄与するでしょう。


また筆者らは、自然科学の側における科学史研究の成果の活用に関してもCPが貢献できるとします。いくつかの実験的な例において、科学者の側が歴史的な要素とそれに対する評価をより簡便に獲得することが実現し、それを活用するに至っているのです。



CP科学史における教育についてどういう影響を与えるか?


筆者らは、彼らが運用するデータベースにおいてユーザー自身がそれぞれの視点を付加できるという実践を行っていることから、整備されたデータベースリポジトリは、資料や研究成果を研究者の独占物である状態から解き放つとします。それらは時に、既存の研究者が気づかなかったつながりが、他の教員や学生という「教育される側」によって明らかにされる可能性(集合知的な)があるということです。


個別研究における変化は言うに及ばず、こういった環境の変化もまた科学史を学ぶ大学院生にとっては不可避のものです。彼らは既に自前でこういう環境に適応してきていますが、筆者らは若手・ベテランを問わずCPを身につけるような訓練を行う必要があると指摘します。全ての研究者CP的な研究手法を身につける必要は必ずしもありませんが、CPが持つポテンシャルを引き出すために利活用可能な形でのデータの共有(電子出版についてもCPの利点が生かされるような形でなされるべきと考え、筆者らは実践を行っている)は普く促進されるべきということです。


なお、冒頭に挙げた読書会はどなたも参加可能です。ご興味のある方は是非。


2013-06-15

富永・2013「社会運動のイベント性が生み出す運動参加ー2008年北海道洞爺湖G8サミット抗議活動を事例として」

安倍総理北アイルランドでのG8サミットへ飛び立ちました。一方現地では抗議活動も起きているようです。というわけで、折よく?サミット関連で著者からお送りいただいた論文があるので紹介します。


2008年に開催された洞爺湖サミットへの抗議活動は、G8に対する抗議活動の基盤が脆弱な日本において、札幌という地方都市を舞台として生じたにもかかわらず、5000人という異例の動員数を数えました。「古臭い」「かっこわるい」というイメージにつきまとわれる社会運動ですが、それまで社会運動を忌避していた人々をサミット抗議活動に誘ったものはなんだったのでしょうか?



富永京子, 「社会運動のイベント性が生み出す運動参加―2008年北海道洞爺湖G8サミット抗議活動を事例として―」『ソシオロジ』ソシオロジ編輯室, 57巻3号, pp109-126, 2013.



まず筆者は、資源動員論が提示する運動参加の動機の三類型を分析視角として提示します。それは、①「主張への理解や運動の成功可能性の自覚といった認知的要因」、②「過去の運動経験や組織・ネットワークへの所属といった構造的要因」、そして③「抗議活動そのものがもつ選択的誘因(集合行為そのものから純粋に得られる報酬、すなわち、運動参加によって獲得可能な認知的・非経済的報酬)」の3つです。


筆者はこの3つの類型を応用し、サミット抗議活動に参加した人々30名へのインタビュー結果を分析していきます。2008年洞爺湖サミット抗議活動への参加については、①&②を基盤とする関与の形態、②のみを基盤とする関与の形態、そして③を基盤とする関与の形態があると筆者は分析します。


上記の分類を本稿で扱われているサミット抗議活動にあてはめて具体的に記述してみると、①&②「元々社会運動の経験やネットワークがあり、そうした回路を通じサミット抗議活動に関する問題意識をもつことで、運動に関与する」、②のみ「過去の運動経験やそれを通じて構築した人間関係はあるが、サミット抗議活動に関する主張の把握は十分ではない。にもかかわらず参加。」、そして③「過去の運動経験やネットワークがなく、抗議活動の目的を明確に把握していない状態で運動に参加する」となります。そしてこの中でも特に、③のような「運動経験もなく抗議活動の趣旨への強い賛同もないまま参加した人々」を惹きつけた抗議活動に内在する選択的誘因について明らかにしていきます。


③の類型に分類されたとあるインタビュイーはこう語ります。


とりあえず(サミットの活動は)一回きりだったんで、彼ら(NGOの人々、外国の人々)と会うのは。これがずっと続くとなると間違いなく行かなかったですけど。とりあえずどんなもんかだけ見るだけでも(NGOの)情報は得られるし、いいと思ったらそのまま(NGOや海外の活動を)やればいいし。(中略)継続的な、ってこと(活動)をすごく、したくないです。やっぱり環境(問題)、債務(問題)に関する情熱はゼロなんで。その(サミットの)時点ではただちょっと見物しに行くっていうの(立場)なんで。短期間だと(その活動が合わないと思ったら)逃げられると思うんですよ。


このインタビュイーサミット抗議活動に内在する「時限性」を手がかりとして、気軽に参加できるものとして捉えています。別のインタビュイーはこの時限性をむしろ積極的に捉え、一回きりなのだから参加しないともったいない、多様な参加者が来て華やかだろうと感じ、運動に参加するに至っています。他にも、政治的問題意識も運動経験もあるが、既存の運動の「マッチョさ」に抵抗を感じて関与を避けてきた人が、「気軽さ」「一回性」を肯定的に捉えて参加するという事例も紹介されています。


また別のインタビュイーはこう語っています。


それこそ東京では、高円寺じゃなくてもね、渋谷とかでも(路上で面白いことを)やってましたけれども、札幌はもう王道のガチガチの全共闘みたいな(デモしかなかった)。(面白い活動が)全然ないですから。(中略)やっぱり、そこにさ、若いファッションはさ、響かないじゃん。面白くないもん。


サウンドシステムを用いたデモを行ったこのインタビュイーは、「エンジョイレジスタンス」(楽しみながら政治的主張を行う)という日本における既存の社会運動にはあまり見られなかったであろうスタイルを肯定的に捉え、参加するに至っています。


以上のような分類・評価を踏まえ、筆者は、「構造的要因や認知的要因を強調せずに参加した人々はサミット抗議活動を「かっこいい」「苦しくない」ものとして捉えていた。そのかっこよさや苦しくなさは、サミット抗議活動の期間限定性や局所性、参加者の多様性や規模の大きさに起因している。」サミット抗議活動が持つ特性を総括します。その上で、そのような要素がかれらの参加に結びついた背景として「従来の社会運動に対する激しいマイナスイメージ」、すなわち、「限られた人の」「世間から承認されていない」「非寛容で排他的な」運動への抵抗感があったと指摘し、このような参加者特性とサミット抗議活動が持つ特性とが揃うという条件の下で選択的誘因が生じたと結論づけています。