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Uehara-monologue

2014-09-02

原子核・素粒子物理学と競争的科学観の帰趨

| 02:02

昭和前期における日本の物理学者たちの研究に対する姿勢を「競争的科学観」という概念を設定して分析した論考を読みました。「西洋においつきおいこせ」、その内実は複雑さに満ちていたようです。


岡本卓司, 「原子核素粒子物理学と競争的科学観」『昭和前期の科学思想史』勁草書房, 2011, pp.105-185


昭和前期の科学思想史

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  • 概要

江戸末期生まれで御雇外国人の導くままに西洋から移植された科学を学んでいた長岡半太郎は、やがて西洋における科学の最先端の動向を把握するに至り、それと対等に勝負することを目指して研究する方向へと転換した。また長岡は後進にも西洋に互するような研究を目指すよう発破をかけ続けたが、日本の研究水準がそれに達したと認められたのは長岡の最晩年のことであり、長岡は容易に日本人の研究をほめることはしなかった。仁科芳雄長岡と同様の問題意識を持っていたが、日本の研究体制・設備が貧弱であるが故にそのインフラ整備に自身のリソースの大半を割かざるを得なかった。


その次の世代としての湯川秀樹朝永振一郎といった研究者はタイミングに恵まれていた。量子力学という新しい分野が物理学において「パラダイムシフト」をもたらした結果、西洋の研究者に対して「蓄積」という意味で遅れをとることがなかった。同じスタートラインから出発できたという外的な環境の中で、湯川や朝永は新興で難解な学問に対するあこがれをモチベーションとしていた。そこには長岡や仁科に見られるような「競争的科学観」を観察するのは難しい。なお筆者は、明治期に整備された帝国大学高等学校を中心とする語学・基礎教育体制が彼らが最先端の研究に従事する基礎体力を作ったとも指摘している。


長岡の死の直前、湯川のノーベル賞受賞によりこの競争は一つの区切りを迎える。湯川世代においては他国との競争という点は必ずしも主要なモチベーションではなかったが、純粋に「世界を理解する」という個人ベースの目的に邁進したというのもまた難しく、知性が世界のトップにあって尊敬・評価されるという知的自尊心の充足が重要であった。



・日本においては工学・農学が応用を目的として高い社会的地位を持って役割を果たしていたが故に、物理学等の純粋科学において応用を目的とすることを必要とさせなかったという逆説的な側面がある。故に純粋な科学としての物理学が発展する土壌があった。


・応用により国力を高めることを通じて国家間競争をするのではなく、純粋な知的成果を出せるかどうかを国ベースで競うという別次元での国家間競争があった。


・特に仁科らが戦時中も純粋科学を志向した背景として、彼らが「戦争が終わったときに純粋研究では相手に劣っていた」と評価されるのをよしとしなかったということがある。戦争が中終盤に差し掛かると純粋科学を志向していた彼らでさえ応用研究に邁進せざるを得なくなるが、それが戦争の帰結を決することはなかった。


純粋科学の成果をもって競争するという枠組みは世界的に共有されたといえるものだったが、戦時中は一時的に「原子爆弾の開発」という応用分野における成果を誰が一番先に達成するかという目的がそれに取って代わった。


・戦後入ったアメリカ調査団には「経済難、食糧難の中で基礎研究に拘り過ぎである」との評価をくだされた。


  • その他

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日本の原子核・素粒子理論研究隆盛の要因 - オシテオサレテ


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2014-08-29

迎賓館参観

| 19:34

迎賓館赤坂離宮の建物内部一般公開に参加してきました。全部で2万名しか参観出来ない狭き門?だったのですが、5月に開催された皇居宮殿一般公開の抽選に外れて悔しい思いをしただけに、楽しみにしてきたイベントです。安全上の理由という事で内部の写真撮影はできなかったのですが、普段は見られないところをボランティアの解説員(毎年募集がかかり、研修を経て配置されている)の方の解説付きで見られるという幸運な体験でした。


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迎賓館赤坂離宮。毎年11月に前庭のみ一般公開されるため、この場所には一度行った事があります)


今回の目玉は何と言っても迎賓館内部、国賓が宿泊する実際の建物の中を見て回れるというところにあります。彩鸞の間、花鳥の間、朝日の間、羽衣の間といった晩餐・会談用の大部屋に加えて、迎賓館創設40周年記念ということで特別に公開された東の間(要人のマスコミとの会見が行われる部屋)も見学する事ができ、大変有意義なひとときでした。


特に印象に残ったのは綺麗さです、綺麗さ。窓枠にはほこり一つ落ちていません。どこかの大学の院生室の一億倍くらい綺麗です。あの大きさの建物でこの掃除のクォリティを維持するのは並大抵の努力では無いのだろうと感じました。貧乏性でしょうか、個人的には「こういうところに泊められても逆に気が休まらないなぁ」と思いましたが、国賓をもてなし国の威容を示すということの重大さを実感したのも事実です。


建物の外観こそ洋風になっている迎賓館ですが、内部の部屋のデザインは和洋折衷といった趣が強いです。大部屋の床はいずれも寄木細工でできており、花鳥の間にいたっては木製の壁に七宝焼がはめ込まれています。外交プロトコルとしての西洋性をベースにしながらも和のデザインを織り込もうとした意図が強くうかがえます。泊まる人がどこまでそれに注意を払う余裕があるのかはわかりませんが。


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また11月の前庭公開では入れなかった建物の後ろ側の庭(上写真)にも入る事ができ、噴水と迎賓館とのコラボレーションを堪能する事も出来ました。後庭は木々に囲まれており、周りの建物からは視覚的にほぼ遮断された空間になっていました。


来年も募集されるはずなので、興味のある方は応募されてみると良いかと思います。


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日本における科学史の社会的基盤と社会的インパクト

| 22:06

現代における知的営み、それはその外部としての「社会」を想定することなしに語る事はできません。メディチ家レオナルド・ダ・ヴィンチを養っていた時代は遥か昔に終わり、現代の学術研究は筆者の言う種々の「社会的基盤」を伴うことなしに営まれることは不可能でさえあると言えます。そんな時代にあって、科学史家たちは何を目指して知の歴史を紡げば良いのでしょうか?


伊藤憲二「日本における科学史の社会的基盤と社会的インパクト」『科学史研究』第269号, 2014年4月, pp7-13


科学史研究2014年4月号
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コスモピア (2014-04-28)



筆者は「科学」という概念が包摂する対象が多様である事を指摘した上で、狭い意味での「科学」(=いわゆる自然科学のこと?)を対象として科学史を営む方向性には否定的な立場を取ります。科学史の外部にあり境界確定された「科学」を想定することにより、他者としての科学史の側から科学を批判的に検討する事のメリットは認めています。しかしながら、科学史が対象とする知的営みの中に科学史そのものも含めることにより、科学史という知的営み自体を自己分析・自己批判の対象とすべきであるというのが筆者の結論です。


  • 第二の選択:社会的インパクトの是非

筆者は、ある学術分野が十分な知識生産の社会的基盤(知識生産に資源を供給する社会的な仕組み)を備えるためには、投入された資源に見合う社会的インパクトが不可欠である場合が多いといいます。科学史の社会的基盤を整えるために必要な投資は巨大科学のそれに比べて圧倒的に少ないことは認めつつも、科学史研究が社会的インパクトの創出を諦めてなおその基盤を整える事は不可能であるとし、現在科学史が持つ社会的基盤を維持・向上させるためには社会的インパクトの強化が不可欠であると主張します。


  • 第三の選択:社会的インパクトの方向性

第二の選択を踏まえて、科学史研究は自らの社会的基盤を整えるに見合う社会的インパクトの創出に際して、どのような方向性を目指すべきなのでしょうか?筆者は「基礎ー応用ー社会実装」といったような古典的リニアモデルが教科書的には主張されてきたことを認めつつも、学術研究がもたらす社会的インパクトの道筋は複数かつ複雑であると主張します。


科学史研究がもたらす社会的インパクトを「学問知の生産とその発表」「一般向けの科学史知識の発信」「科学史の専門知を用いた政策司法・政治に関わる活動」「科学史の専門知や専門技能を用いた大学等の教育機関における人材育成」の4つに区分する筆者は、その内実と可能性について検討していきます。検討の詳細は割愛しますが、筆者はいずれの分野にも可能性があるとした上で、自身が所属する総合研究大学院大学先導科学研究科生命共生体進化学専攻における取り組みを4番目の区分に分類される実例として紹介しています。


筆者は本務校での経験を踏まえ、4つの分野の中でも特に人材育成に科学史が果たす役割を重視しているように思われます。そこには「学術研究と社会との関係ということは、極めて重要な現代的課題であり、それについて理解している、研究者と社会人の育成は極めて重要」であるという"社会的意義"があると同時に、アカデミックポストの増大といった形での科学史自体の社会的基盤の強化にもつながるという可能性があります


科学史的な素養を獲得する事を通じて「知識生産に対する批判的な視座」を養い「自らの営為に対して自省的な思考をすることのできる人材」を育成すれば、それは「知識生産の社会的インパクトと社会基盤の関係を適正化するのに貢献すること」につながると筆者は言います。その文脈において科学史研究者は自らの社会的役割を確立することができると思われる一方、そういう営みに携わる上ではやはり科学史をも含む様々な知的生産のあり方を対象とする科学史を志向することによって自らの社会の中における位置づけに自覚的になっていく必要があると筆者は結論づけています。


  • コメント

筆者の論を参照するに、有用なものとしての科学史、それを志向することはもはや現代においては避けられないのかもしれません。私自身の一つの危惧としては、人材育成の「ためにする」科学史は真の科学史足り得るのかということがあります。人材育成とは離れたところで純粋な歴史叙述としての科学史を修めた上で、その純粋科学としての科学史をゆらがせることなく人材育成に科学史の知見を生かすというのは一見器用に分割可能であるように思えます。しかしそういう流れが主流となった時に、そのために育成される科学史家が生み出す科学史研究に歴史研究そのものとしての価値はあるのでしょうか。いやもちろんあるのでしょうが、教育のためにするという方向性が強化されるが故に反射的な影響もあるのかな、とふと思いました。


科学史研究2014年7月号(No.270)

コスモピア (2014-07-28)


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2014-08-26

月刊ポスドク創刊記念特大号

| 20:12


twitterで表紙が作成されたところ、一部ポスドクの皆さんが本気を出して中身まで作ってしまったという『月刊ポスドク』8月号を読みました。ついでに言うと、これを手に入れるためにコミケ初参戦となりました。人の多さでは有名なイベントですが、あんなに多いとは思いませんでした。暑い中販売を担当されていた皆様、本当にお疲れ様でした。コミケではコスプレ&写真撮影の熱気にびびったり、日付によって出展が全て入れ替わることに驚いたり、人数の多さ故に冷房がつけられないことにげんなりしたりといろいろ勉強になりました。友人で出展している人も何人かいるし、また行ってみたいです。


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戦利品の『月刊ポスドク8月号』、付録の"研敵必察"トートバッグ


  • 目次

・簡単セルフチェック「うそっ・・私・・ポスドク?」

履歴書・業績書使い回しコーデ

ポスドク時代を振り返って思う

・ゆるふわ愛され♡ポスドク―事務の人に愛されるには

・華の海外PD組―研究生活すべて見せます

・気をつけたい!国際学会・留学落とし穴

・結婚・出産ラッシュ!こうしてワタシはのりきった

ポスドクとオカネ事情―医師(MD)の場合

・懐かしのアメリカポスドク生活あれこれ

・アピール必須!ポスドクアウトリーチ

・良い研究はおいしいごはんから!まんぷくラボごはん

・小説「ポスドク羅ボ生門」

ポスドク占い

・次号予告

・編集後記・奥付


  • 読んでみた

どの記事悲壮感刺激に満ちていて大変興味深かったです。ざっと読んでみて印象に残ったのはやはり「結婚・出産ラッシュ!こうしてワタシはのりきった」でしょうか。子どもが何人居るか、実家との距離はどれくらいか、所属先が保育園・幼稚園を提供しているかなどによって千差万別な状況があるのかとは思いますが、そんな中で一つの「モデル」がこういう形で提示されるのは非常に意義のあることだと思います。


あとは「華の海外PD組 研究生活すべて見せます!」も面白かったです。「私の滞在中に、彼(受け入れ教員)のラボの院生がScienceのペーパーを通していました。それは極端としても、国内では「憧れ」であった一流の雑誌に、ぽんぽんと投稿して、ぽんぽんと通しているのを見て、そういう雑誌は「憧れ」の対象ではなくて、誰でも投稿できて掲載できる「現実」なんだな、と思いました。」という箇所に端的に表れているように、どこかの段階で海外で研究生活を送ることは自分の世界観を広げ度胸を付ける上でやはり重要だなと感じました。


しかし何より印象深かったのは「編集後記」でしょうか。企画・編集・販売までほぼ一手に仕切っておられた@nanaya_sacさんの思いがよく分かる素晴らしい編集後記でした。「「誠実に」行われた研究に無駄なものはない」というのはまさにおっしゃる通りだと思います。ポスドクという不安定な立場にあってもなお、人生の全精力を傾けて研究を行っている彼ら・彼女らによって日本の学術研究の屋台骨は支えられているということを改めて実感しました。


本雑誌は評判等々如何によっては次号が作成される可能性も微レ存らしいです。近くに持っている方がいたら読ませてもらうのも一興ではないでしょうか。孤立しがちなポスドクが、こういう形式で一つのコミュニティを形作っていければ、それは彼ら・彼女らを取り巻く必ずしも満足とは言えない精神的・肉体的状況をささやかにでも癒すものになるのではないでしょうか。




2014-08-01

「科学者の自由な楽園」が国民に開かれる時―STAP/千里眼/錬金術をめぐる科学と魔術のシンフォニー

| 20:43

現代思想2014年8月号-特集・科学者 科学技術のポリティカルエコノミー』に掲載された中尾麻伊香さんの論文を読みました。理研という「科学者の自由な楽園」は、国民との危うい関係の上に成り立っていたとも言えるのではないでしょうか。


中尾麻伊香「「科学者の自由な楽園」が国民に開かれる時―STAP/千里眼/錬金術をめぐる科学と魔術のシンフォニー」『現代思想2014年8月号所収




超能力者・御船千鶴子、そしてその「能力」の科学的な裏付けを目指した東京帝大助教授福来友吉、さらにはもう一人の超能力者・長尾郁子の出現により、明治末期に一大ブームとなったのがいわゆる千里眼事件でした。透視や念写といった超能力を前にした山川健次郎、中村清二、石原純といった著名物理学者たちは、千里眼は詐術であるという疑いを持ちながらも、あくまでも科学的な実験によって真偽が判定されるべきだという態度をとりました。実験にこだわり歯切れの悪い科学者たちに対してメディア≒国民はしびれを切らし、「一にも実験二にも実験とは今日の学風也。故に事実は先立ち研究は後ろ、学者の事実を認識するの速度、到底実務家のそれに追究する能はざる(1910年1月5日付読売新聞朝刊)」といったような批判を繰り広げます。千里眼事件の終焉をもたらした長尾郁子の死に際しても「千里眼及び念写は嫉妬深き一部学者の非科学的実験により世に葬られん(1910年2月28日付東京朝日新聞)」という痛烈な一文が掲載されています。千里眼事件は単なる科学による非科学の追放ではなく、厳密な科学的判断に拘る科学者と千里眼という摩訶不思議な超能力を信じたい国民との間の溝を象徴するものだったのです。



物理学の大御所・長岡半太郎水銀から金を取り出す実験を試みていたことはあまり知られていません。1924年のNature誌の論文水銀還金の理論的可能性*1を予告していた長岡は同年秋に公開実験を含む報告会を行い、金の発見を発表します。例えば時事新報の記事で「学界の権威を網羅した財団法人理研でありその発見指導者がこれも世界的に有名な長岡半太郎氏なので、果然学会の一大驚異となった」と大々的に報道されたように、「現代の錬金術」としての長岡の業績は本人や理研の「権威」に依存してもいました。このようなセンセーショナルな報道がなされた背景には、理研所長・大河内正敏の方針があったと筆者は指摘します。科学者の自由な楽園」としての理研を主導した大河内は、国民の支持を得た基礎科学の振興が国防に寄与するとの信念も併せ持っており、基礎科学に対する国民の支持を獲得しようと広報にも重点を置いていたのです。


長岡の実験結果は誤りであったものの、当人がそれを認めることは生涯ありませんでした。また科学界の重鎮であった長岡を批判する科学者は、科学ジャーナリストに転身していた石原純をのぞいて皆無であり、長岡理研による「過ち」は訂正されることなく流布し続けたのです。


  • 「人工ラヂウム」実験

戦前の理研にまつわる広報においてもう一つ取り上げるべきものとして筆者が挙げるのが仁科芳雄による「人工ラヂウム」実験です。サイクロトロンの建設資金獲得のために奔走していた仁科は、宣伝活動にも積極的でした。サイクロトロンを用いて生成した放射性物質ガイガーカウンターを近づけて音を鳴らすというある種の「魔術」を宣伝手法として活用していた仁科、そんな彼の研究室はメディア上で「魔の実験室」形容される程でした。このような仁科の手法がもっとも象徴的な形で現れたのが、紀元二千六百年記念理研講演会でのことでした。会場の九段下・軍人会館に入りきらない程の聴衆が集まった中で仁科は、「人工ラヂウム」を人間に飲ませて「放射性人間」を作るという実験を敢行します。ラジウム溶液を飲んだ実験台にガイガー・ミュラー計数管をかざすと機関銃のような音がし、観衆は仁科の「魔術」に酔いしれることになります。


実際に仁科が用いていた物質はサイクロトロンで加速された重水素核のビームを岩塩に照射して得られる放射性ナトリウム24のことであると考えられます。仁科はこの物質を聴衆にわかりやすく魅力的に伝えるために「人工ラヂウム」と呼んでいたのではないかと筆者は推測しています。仁科の中では科学的な裏付けがあった実験であり、その種明かしもおそらくなされていたでしょう。しかしメディア・聴衆の目に焼き付いたのは公開実験での「魔術」を通じて出現した「放射性人間」だけだったのです。



筆者はこれら3つの事例の目的の違いを指摘します。千里眼事件にまつわる検証実験が非科学と科学を区別するために行なわれたのに対し、仁科や長岡の公開実験は科学研究の有用性をセンセーショナルにアピールするためのものでした。大学とは違って教育の義務がない研究者集団・理研にとって国民は研究資金を得るための間接的なスポンサーであり、理研科学者たちはその国民を前にして「魔術師」のように振る舞ったのです。科学であると同時に魔術として振る舞うという渾然一体さのもとに成立していた科学者の自由な楽園・理研・・・STAP細胞事件はその楽園に終わりを告げるものだったのかもしれません。


中尾さんの論文が所収されている現代思想2014年8月号には、隠岐さや香さんの論考「18世紀科学における「公共の福祉」と社会—パリ王立科学アカデミー機械仕掛けの王」も掲載されています。そちらの紹介はえめばら園(http://d.hatena.ne.jp/emerose/20140801/1406883121)をどうそ。


科学者の自由な楽園 (岩波文庫)
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*1水銀原子番号80、金は原子番号79であるため、80の陽子を持つ水銀から陽子を一つはじき出せば79の陽子を持つ金に変わるだろうというもの。

2014-07-26

ラトキン「ヨーロッパ史のなかの占星術」

| 13:37

Bibliotheca Hermeticaを主宰されているHiro Hiraiさんが7月22日から25日にかけて「科学革命の史的コンテクスト インテレクチュアル・ヒストリーの方法と実践」と題して駒場にて集中講義を行われました。私が報告を担当した文献について簡単にまとめを置いておきます。


ラトキン「ヨーロッパ史のなかの占星術」『史苑』、第74巻(2014年)、p176-207

ここからダウンロード可。


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(本論考は昨年立教大学で開催された著者の講演(上記動画)と内容を同じくするものです。個人的な感想ではありますが、氏の英語発表は私が今まで目にした数多の英語によるプレゼンテーションの中でも最高度の完成度とわかりやすさを誇るものであり、インテレクチュアル・ヒストリーとしてだけではなく、英語発表という意味でも必見だと思います。)



当時「星々の学」とされていたもののうち、天文学(astronomy)は天体の運動を数学的に研究する精密科学であり、また占星術(astrology)は天体の動きが地上に及ぼす影響を調査するものとされていました。占星術はさらに、回帰占星術、出生占星術、質問占星術、選択占星術と分類され、自然現象、日常生活から権力者の意思決定まで幅広く参考とされたものでした。ドイツ自然哲学アルベルトゥス・マグヌスにより「自然知の正当な部門の一つ」として確固たる地位を確立していた占星術は、イタリア各地の大学における数学自然哲学医学の課程で必須のものとして教授されていたのです。ラトキンはイタリア各大学の当時のカリキュラム・教科書に着目することにより、大学教育というレベルにおいても占星術が重要な位置にあったことを論証しています。


天文学占星術質料形相論的なアリストテレス自然哲学に基づく統合数学自然哲学であり、アリストテレス的世界観に惑星の動きを加味することによって成立していました。「個々の場所それぞれのあらゆる本性と性質理解したいと望むならば、[中略]星々のちからに由来する特有の性質をもたないような場所はないということを知るだろう。」(p182)とあるように、それはまさに知的な営みとして世界を説明しようとするものだったのです。



1496年に出版されたピーコ・デッラ・ミランドラの著作『予言占星術駁論』では、「星々の学」の予言的な側面に対する批判がなされます。天の影響は普遍的な作用因に限定されるべきであるという彼の主張に対し、ドイツルター派諸領邦の大学で教育を受けていたティコ・ブラーエやヨハンネス・ケプラーといった人物は、占星術天文学的自然哲学的基盤を改革しようと試みていきます。ティコは「星々の学」の観測的基盤をより精緻なものにしようと考えてヴェン島に天文台を建設、ケプラーはティコの観測結果を基に惑星楕円軌道の法則(ケプラーの法則)を導出すると同時に、伝統的占星術が奉じていた「黄道十二宮」や「世界の家」といった概念を否定し占星術の根本的改革を志向します。


興味深いのは、科学革命の通説的な説明においてはその嚆矢とされるこれらの人物が、占星術という「疑似科学」を根本から撲滅しようとしていたのではなく、その改革者として立ち現れているということです。ティコは観測結果を基にホロスコープを作成し、ケプラーもその著書『新天文学』に皇帝ルドルフの出生ホロスコープとしての意義付けを与えており、あくまでも既存の占星術の枠組みの中に居続けたことをラトキンは強調します。同様の視点はフランシス・ベイコン(自身の志向する帰納的方法を前提として、過去の記録を探索する歴史研究を行うことによって占星術の改善・改革を図ろうと提案した)やロバート・ボイル(惑星が希薄だが実体を伴った放射物を放出していることを認めた上で、それらを検出する実験を提案した)といった近代科学の先駆者とされる人々に対しても提示されています。



17世紀に入り、一部の専門書・教科書(クラヴィウスやルオーらの教科書)では占星術を排除するような方向性が見られるようになりますが、数学自然哲学医学の各分野において占星術は依然重要な位置を維持し続けました。イギリスにおいては一部占星術の教授を禁じるサヴィル定款(1619)が発された後も占星術は教育されましたし、医学分野に至っては18世紀中葉に至ってもなお占星術カリキュラムの重要な一部分であり続けました。


しかし、そのような旧来の自然哲学的教育を受けたルネ・デカルトアイザック・ニュートンといった人々が、最終的に占星術に引導を渡すことになります。機械論的な世界観に拠ってたち、蓄積されつつあった観測結果から太陽系の広大さを認識していたデカルトニュートンにとって発散気のメカニズムはもはや機能するものではありませんでした。ニュートンは『自然哲学数学的諸原理』の中でアリストテレス的な質料形相的枠組みを一掃し、観察・定量化・計測されるものを重視する姿勢を明確にします。17世紀後半において、少なくとも先端的な学知の中においては、占星術はほぼ完全に否定されるに至ったと言えるのかもしれません。


  • 18世紀、その後

ラトキンは18世紀の各種百科事典の記述も見ることにより、17世紀に起きた改革の試みと占星術の否定という過程が18世紀においてより広範な知のレベルにおいて繰り返されたことを指摘します。最終的に占星術が先端知の領域や大学のカリキュラムから消滅した理由について、ラトキンは詳らかにすることを保留しています。上述のような自然哲学内部での変容は確かに観察されますが、それをもって「学問分野の消滅」を決定付けるのは早計であるという態度の現れでしょう。その後占星術民衆文化のうちに「活路」を見いだし、疑似科学としてのレッテルを貼られつつも現在に至るまで存続し続けています。


  • コメント(インテレクチュアル・ヒストリーとしての本論文

論文では15, 16, 17, 18世紀の知識人の著作、そのテクストを丹念に追うことにより、自然哲学占星術内部においてどのような変遷があったのかを明らかにすることに加えて、教科書や百科事典といった文書にも着目することによって知の総体的な変遷を描き出そうという試みがなされています。まさにインテレクチュアル・ヒストリーの王道を行く研究であると言えるのではないでしょうか。反面、ラトキン自身も認めるように、占星術という「将来性を備えていた」(p195)学問体系がなぜ17, 18世紀に完全に根絶されるに至ったのかについての確定的な説明は十分ではありません。ラトキン自身は知の内部における変化(アリストテレス的世界観からデカルト的世界観への変遷、観測の進歩)がそれをもたらしたという内的な説明を中心に据えようとしているように見えますが、外部環境的・政治的な要因も排除してはいません。この点に対するヒライさんのコメント「一大学だけでなくヨーロッパ全域でほぼ同時に占星術が駆逐されたことから考えても、大学個別の政治的要因だけで説明するのは難しい」というのが印象に残っています。