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読書80年:名和小太郎

2013-02-28

【261冊目】 クリフォード・ストール著(池央訳) 『カッコウはコンピュータに卵を産む(上・下)』 草思社 (1991年)

カッコウはべつの種のトリの巣に自分の卵を生み、子孫を繁殖させる。おなじようにハッカーはよそのコンピュータに侵入し、そのコンピュータを自分の思いのまま運用する。この本は、そうしたハッカーの挙動を、その追跡者自身が書いたドキュメントである。
 主人公は、エネルギー省管轄の研究所にあるコンピュータ・センターにやっと職を得た若い天文学者。その初仕事は、課金計算で生じた75セントの食い違いについて、その原因を確かめることであった。
 トラブル・シューティングの結果、これはハッカーの仕業であることが分かる。行方を追うと、ハッカーはミルネット(軍事用のコンピュータ・ネットワーク)を経由して、ミサイルの試験場、SDIの研究所など、防衛関係のコンピュータにアクセスしたがっている。
 主人公は、ハッカーの無法な行為を座視するわけにいかない。そこで侵入先に連絡する。だが、ほとんどのコンピュータ・センターは、自己のセキュリティーに自信をもっているか、セキュリティーにまったく無関心である。かれは、FBINSACIAなどにことの次第を通報する。各機関とも、この事件に関心を示し、ハッカーのデータをほしがるが、抑止行動には動かない。役所のセクショナリズムのためである。しかも、直属の上は気まぐれで、ハッカー追跡にかならずしも熱心でない。
 主人公はハッカーへの追跡を諦めない。逆探知によれば、ハッカーの存在は、はじめ西部のサンフラン近辺と推定されたが、そのうちタイムネット経由東部ということになり、なんと防衛産業における有名企業のコンピュータであることが分かる。
 だが、このコンピュータも中継点で、じつは衛星通信経由、発信地は西ドイツということになる。したがって、逆探知の実施は国際問題に発展する。
 ハッカードイツ当局によって拘束されるが、それがだれで、どんな目的でなされたのか、主人公には不明である。官僚制の壁が事件解決にもっとも寄与した本人を排除したのである。なんとも歯切れの悪い幕切れである。電子時代のカフカといったらよいか。カフカの主人公は城の入口を求めて都市のなかを徘徊するが、この主人公は発信者の番号を追ってネットワークのなかを彷徨う。
 だが主人公は、偶然の出会いによって、最後にことの真相を知る。この追跡劇の意外な展開と語り口の迫真性によって、この本は推理小説としても読むこともできる。
 それだけでない。ヒッピー風の若者であった主人公は、この事件を通じて、しだいにアナーキーな性格から体制的な発想へと転向していく。このために生じる伴侶との確執と和解。この意味で、この本は上質のヒューマン・ドキュメントであるともいえる。
 主人公は、ハッカー追跡に不熱心な官僚制にうんざりしている。だが、これは米国社会でプライバシー保護意識が徹底しているため、とも読める。こんな読み方ができるほどの脹らみも、この本はもっている。
 コンピュータ・ネットワークやハッカーの話など一般読者用に書けるはずがない、と評者は考えていた。現に、類書の多くはコマンドの羅列で占められている。だが、この本はちがう。それは前述のように、この本が幅広い性格をもっているためでもある。だから、この本は、コンピュータ・ネットワークになじみのない人にも、面白く読めるはずだ。
 もちろん、コンピュータ関係者ならば、さらに面白味を満喫できるだろう。UNIX信者とVMS派との口論、逆探知の方法など。評者は、かつてコンピュータ・ネットワークの運用管理者であったためか、すっかり感情移入してしまい、夜を徹して一気に読んでしまった。

『コンピュートピア』 12月号 (1991年)

2013-02-27

【260冊目】 立平良三 『天気情報の見方』 岩波新書

天気予報の本、その2。
 全編これ数値予報の話。観天望気の話など、もう、これっぽっちもない。コンピュータが、アメダスとレーダーと「ひまわり」が集めた情報を、ひたすら計算する趣向になっている。天気図もコンピュータのアウトプットだけ。
 コンピュータ化によって、予報は当たるようになったのか。東京地方の翌日予報の成績は、戦争直後に75点だったのが、40年後に80点になった。
 天気には持続性がある。そこで「明日の天気は今日と同じ」と予報すると、それでも70点はとれる。また、天気には周期性がある。そこで「明日の天気は昨年の同月同日に同じ」と予報すると、やはり70点はとれる。
 この70点と、さきの75点ないし80点との差が予報の成果になる。こうみると、この差は40年間に5点から10点に、つまり2倍になった。これがコンピュータの手柄になる。
 数値予報は、経験法則つまり観天望気を使わずに、物理学の法則だけで天気を予測したいという発想がもとになっている。この物理法則、じつは持続性や周期性では説明しきれない複雑な特性(非線型性)をもっている。だからコンピュータの出番となった。数値予報の仕掛けについては岩崎俊樹の『数値予報』(共立出版)が数式ぬきで解説してくれる。
 ところで、どんなに高速のコンピュータを使っても、どんなにたくさんのデータを集めても、予報できる期間には限界
があるらしい。
 データのはじめの値がちょっと違うと(たとえば数1000分の1)、あとの計算結果が大幅に食い違ってしまう。この現象をカオスという。このために予報が有効なのはせいぜい2週間。この現象を発見したのは数値予報の研究者ローレンツだという。このへんの経緯、戸田盛和の『カオス』(岩波書店)にある。
 話をもどす。的中率80点はよいとして、外れた20点について、見逃し(降らないと予報したのに降った)がよいのか、空振り(降ると予報したのに降らなかった)がよいのか。著者は、これを数理的なゲームに仕立て、あれこれと思考実験を楽しんでいる。
 だが、それも総務庁の手にかかると官僚制の弊害を示すテーマとなる。行政監察局の『予報精度の向上と民間気象業務の発展をめざして』は、警報を重視せよ、空振りよりも見逃しに注意せよ、警報をその地域の災害と関係づけよ、とニベもない。
 天気予報が当たらなかったとき、気象台の責任はどうなるのか。著者は、気象庁長官を務めたという立場上、口を噤んでいる。
 じつはこのテーマ、米国判例がある。台風警報の出し遅れで遭難した漁師の家族が気象台を訴えた。この判決の行方については名和小太郎著『雲を盗む』(朝日新聞社,1996年)を参照ねがいたい(最後に手前味噌になって恐縮)。

【注】 著者はその後『気象予報による意思決定:不確実情報の経済的価値』(東京堂出版,1999年)を発表している。

『一冊の本』 1巻8号 (1996年)

2013-02-26

【259冊目】 藤原咲平 『雲をつかむ話』 岩波書店 (1993年)

『雲をつかむ話』は初版が1926年、改訂版が1950年の刊行である。最近になって復刻版が出た。この本の大部分は観天望気と天気図の読み方。半世紀まえの気象大好き少年が愛読した。評者もその1人だった。
 話がそれるが、この本(改訂版)の序文は迫力をもっている。著者自身の戦争責任を示し、研究環境の窮迫を語り、国語国字問題を論じている。
 さて『雲をつかむ話』だが、ここには一言だけだが「数理的予報術」の先駆者としてリチャードソンという名前が紹介されている。そのリチャードソンは、1910年に、6時間後の予報を6週間かけて計算した。この方法を実際の天気予報に役立てるためには、6万4000人の要員が同時に協力して計算しなければならない、こうかれは試算した。
 『雲をつかむ』の著者は「まだ、この方法は実用の域に達していない」とコメントしている。だが、じつはこの時代、万能の天才フォン・ノイマンが世界最初のコンピュータを駆使して、数理的予報術つまり数値予報の研究をはじめていた。かれの結論は、4人の気象学者、4人のプログラマー、5人の職員だけで数値予報ができる、というものだった。リチャードソンの夢をフォン・ノイマンが解決する経過については、アスプレイの『ノイマンコンピュータの起源』(杉山滋郎訳、産業図書)に詳しい。
 話をもどす。戦後、寒天望気はどうなったか。1970年代に気象庁長官であった高橋浩一郎の著書の『天気予報の科学』(日本放送出版協会)では、まだ観天望気と天気図が頑張っている。その天気図も手書きだ。巻末に気象電報を聞きながら天気図を書くための手引が付いている。気象大好き少年も健在だったわけだ。いっぽう、数値予報の話は登場こそすれ、記述は生煮え。

【注】1950年代の学生はリチャードシンに振り回された経緯は石膏参照。https://www.jstage.jst.go.jp/article/johokanri/54/1/54_1_46/_article/-char/ja/

『一冊の本』 1巻8号 (1996年)

2013-02-23

【258冊目】 G・ファインバーグ著(はやしはじめ訳) 『フューチャー・サイエンス』 朝日新聞社 (1987年)

原著のタイトルには『確かな手掛り:量子物理学分子生物学および科学の未来』とある。つまり、この本は、科学の未来予測を扱ったものである。
 技術の未来予測はたくさんあるが、科学の未来予測というものは少ない。なぜか。まず、科学のほうは現状の理解だけでも困難であり、いわんや未来はどうなる、などとはとてもいえない現実がある。つぎに、科学の発展には個人依存的な要素が強く、そのために、システム的な予測をしにくい事情もある。
 著者は、それをあえてやってみた、ということになる。
 この本は、物理学と物理的方法による生命科学分子生物学)を対象にしている。
 まず、「いま何がわかっているか」が点検される(第1部)。物理のほうは「場」が実在するものであることまで分かった。生物のほうは生命現象が「分子」の営みであることまで分かった。
 何がわかっているかを確認できれば、手つかずの空白部分つまり「新たな疑問」を設定できる(第2部)。物理のほうには、「空間は連続的か」「時間は一方向的か」などの疑問がある。生物のほうには、「生命の起源は」「老化の原因は」などの疑問がある。このような疑問のさきに、未来の科学を予測することができる。
 この予測のためには「頼りがいのある仲間」として、数学コンピュータがある(第3部)。とくにコンピュータは科学的直感の姿を変質させるだろう。
 しからば「21世紀の科学」はどうなるのか(第4部)。まず「科学は未来をどう変えるか」。新しい科学上の発見は新しい技術的成果をもたらすだろう。たとえば、物理の世界では超強靱な材料を作ることが、また、分子生物学の分野では老化を遅れさせることができるようになるだろう。
 つぎに「未来は科学をどう変えるか」。集団主義の出現、研究資金の巨大化、研究成果の秘匿化、科学者イメージの低下など、現在よりも科学研究の条件は劣化するだろう。(万事楽観的な著者も、ここでだけは悲観的。)
 まとめて「未来の科学」はどうなるのか。まず、物理的方法が科学の全分野に浸透する
。そのうえで新しい「秩序の科学」(いかにして単純さから複雑さが出現するか――たとえば生命――を説明する理論)が誕生する。
 著者は「私は楽観的だ」と主張しているが、それは「バイオテクノロジーの成果と道徳的問題が衝突したときには逡巡してはいけない」という意見にみることができる(じつはもう少し込みいった表現ではあるが)。その理由として、人類の現在の生物学的特性は、偶然の産物であり、最適のものであるはずがないから、と述べている。めずらしいくらい明快な立場である。

拙著『科学の読み方・技術の読み方・情報の読み方』(KDDクリエイティブ, 1991年) p.49-50

2013-02-22

【257冊目】 アメリカ憂慮する科学者連盟編(池山重朗+浜谷喜美子訳) 『エンプティ・プロミス:SDI構想の破綻』 日本評論社 (1987年)

この書物はは大規模システムとしてのSDI ――スター・ウォーズ構想に対して米国科学者グループがおこなったフィージビリティ・スタディである。ここに大規模ソフトウェア開発の応用例として読める部分がある。
 大規模ソフトウェアとしてみた場合、興味ある論点は、第1にシステムのアーキテクチャーに関する考察、第2にそのシステムを実現するために必要なソフトウェアに関する検討である。
 まず、システムのアーキテクチャーについて。SDIは、全地球的に、しかもリアル・タイムで活動しなければならない。
 それは平時には高い信頼性のもとに管理されてなければならない。だが、いったん有事になると、遅滞なく行動を開始し、100万個に達する標的を追尾しつつ、臨機応変の対応をとらなければならない。標的の状況はもちろん、防衛側の状況も時々刻々変化する。
 このときに、システムに対する負担は極限に達する。まず、指揮を集中すべきか分散すべきか、という課題がある。集中すればシステムが脆弱になる。分散すれば指揮と管制の一元化が損なわれる。いずれにしても、システムの複雑さは極限になる。その実現可能性はあるのか。
 つぎに、ソフトウェアについて。ここで必要とされるソフトウェアは、楽観的な見積によっても、600万〜1000万ステップに達するという。そのための工数は4万〜6万人年に及ぶ。こんな巨大な(しかも精巧な)ソフトウェアを私たちは構築できるだろうか。
 大規模ソフトウェアの信頼性について、それをどのように保証したらよいのか。テストをどう実施したらよいのか(注)。また、信頼性を上げるためにはシステムに冗長性をもたせなければならないが、その冗長性はリアル・タイム性能を低下させる。どうすべきか。
 幸いにも、現在では、ここに示された途方もなく空おそろしい論議は不必要になった

(注)アイバース・ピーターソン(伊豆原弓訳)『殺人バグを終え』 日経BP社 (1997年:原著1996)参照。

『コンピュートピア』 21巻255号 (1987年)

2013-02-21

【256冊目】 アンドレ=ジョルジュ・ボネ著(熊谷真理子訳) 『人間の脳 vs 人工知能』 竹内書店新社 (1987年)

装丁がなんともケバケバシイが、真当な本である。知識人向きの情報システム原論とでもいったらよいか。全編、ソフィスティケートしたレトリックをちりばめた語り口が楽しい。しかも、にがい発想と覚めた視点で、論旨をすすめている。
 この本は、「やたらに増え続ける情報処理機器に直面して、個人でも企業でも国でも、自分を失わずに保持できるだろうか」ということについて問題を提起したものである。
 この本は3部に分かれている。第1部でコンピュータについて説き、第2部で人間について述べ、第3部で両者の出会いについて論じている。
 第1部「物語りと歴史」では、「道具が合理的であっても、それを使用する人間の合理性が高まるわけではない」という考え方を下敷きにしつつ、コンピュータを論じている。たとえば「コンピュータは、人間が合理的推論の規則を厳格に守って抽象モデルを組立て、それを機能させる工房に過ぎず、また、それだけの可能性しかもたない」、あるいは「コンピュータは持病をたくさん持っている。融通の利かなさ、保全、内容無視の定型操作、符号化と形式主義の障害などである」などというのが著者の見方である。
 この見方にたって、「様々の利害をもつ人々は、独自の才覚をめぐらして、この複雑さを軽減するより、むしろ強化することに努めた」と主張している。
 第2部「何が記憶か?」では、著者は人間の知的能力の起原について、現代の正統的な遺伝学に挑戦している。「個体(人間)における体験は、一種の‘ソフトウェア’的性質、つまりシナプス構造により一時的に物質化されたデータを巧みに処理し、さらにごく稀には細胞核の中枢機能へ浸透させるといったたぐいのものである」というわけだ。これが人間にできたのは、「記憶の外在化、モノ化」ができたためである。このへんの記述はいかにもエンジニアらしいもので、けっこう楽しめる。
 第3部「現在から未来へ」では、情報社会の未来への見通しが語られている。「情報処理は、相反する二つの動きによって、昨日まで個人の知識だったものを集団のものにすると共に、昨日までの集団知識を大幅に私物化することもあるのではないか」。だから「情報化から遠ざかった個人は下の方で精神分裂症に陥り、上の方では過度に情報化された人間集団が偏執症にかかる」。それだけではない。さらに「情報を与える機能は、全分野にわたって、時間と空間を消し去り、私的な利益にとって、有利な仕切りを維持できなくしてしまうだろう」。

 こう紹介してくると、一見「なんとも反動的な本だな」という気がしないでもない。だがそれは、この本を丁寧にたどると、じつはコンピュータへの可愛いさあまっての苦言、ということがよくわかる。それもそのはず、この本の著者はフランスの情報化を推進しつつあるエリート官僚なのである。つまりこの本は、高級官僚の自己の仕事に対する自戒の書、というおもむきがある。さすがデカルトの国の本である。
 じつはこの本は、警世の書とも読めるし(こちらを紹介した)、知的娯楽の書とも読める(こちらは紹介しなかった)。つまり両義性のある幅の広い本である。

『コンピュートピア』 21巻252号 (1987年)

2013-02-20

【255冊目】 戸田盛和 『カオス:混沌のなかの法則』 岩波書店 (1991年)

気象予報の世界でもコンピュータが活躍している。この数値予報というもの、当たることは当たるが、計算精度をあげても、その確率は期待されるほど上がらない。なぜか。これが、この本の語りたいことである。
 気象現象は複雑な自然現象である。とはいうものの、大気の運動は流体力学方程式熱力学方程式で厳密に決定されているはずである。だから、観測点の数を増やし、計算の精度を高めれば、方程式の答えはしだいに確実なものへと収束するだろう。これが、これまで、気象予報をコンピュータシミュレーションをする研究者の信念であった。
 ところが、どうやら事情はそんなに単純ではないことが分かった。初期条件がちょっと違うと、計算結果がまったく違ってしまう。これが明らかになった。
 つまり、もとになるものがきちんとした決定論的な法則であっても、そうした法則がたった2つまたは3つからみあっただけで、まったく複雑で不規則な現象が発生するのである。
 このように、決定論的な世界のなかに気まぐれな現象が起こる。これがカオスとよばれる現象であり、自然界にけっこう存在することが、しだいに分かってきた。
 だが、カオスだからといってデタラメそのもの、というわけではない。そのなかには、ある種の一般性、普遍性がある。それは数学的に確かめられる。その意味での先覚者はかの大数学者、ポアンカレということらしい。
 カオスが起きるのは、その現象のなかに非線型性があるためである。非線型性のある現象は解析的には解きにくい。これができるようになったのは、コンピュータが自由に使えるようになったからである。
 このような話題なので、記述はおのずから抽象的、数学的になる。だが、だからといって、この本は取つきにくくはない。その理論の片鱗を平易に目にみえるように説明してくれる。たとえば、話は「パイ捏ね」からはじまる。
 評者は少年のときに、寺田寅彦の文章を愛読したものである。とくに、統計的な現象に関するアレコレの話を。かれの物理学は、小屋掛けの物理学などと正統派からは冷笑されていたが、かれが睨んだ話題のいくつかは、どうやらここにいうカオスに関係あるらしい。
 ポアンカレにせよ寺田寅彦にせよ、一時代前に賞賛され、しばらく忘れられていた人物の仕事が蘇ってきたのは(もちろん専門家は注目しつづけていたのだろうが)、嬉しいことである。
 ところで、この種の概念は日本の風土のなかではすぐに流行りがちである。これまでにも、「エントロピー」「自己組織化」「ファジィ」などがあった。やがてこの「カオス」という概念もおなじように俗流化されるかもしれない。そんな時流に流されないようにするためにも、この概念についてきちんとした理解をしておいたほうがよいだろう。そうした意味でも、この本は、小冊子の入門書とはいえ、本格的な知識を与えてくれる。

初出 失念

2013-02-19

【254冊目】 ローレンス・レッシグ(山形浩生訳) 『コモンズ:ネット上の所有権強化は技術革新を殺す』 翔泳社 (2002年)

 2002年1月15日、米国連邦最高裁は映画の著作権保護期間を創作後120年(あるいは発行後95年)とする法律違憲にはならないという判決を下した。この裁判において、違憲論を理論的に支えた法律家がこの本の著者レッシグであった。
 この行動からもうかがえるように、レッシグの主張は長すぎる著作権の囲い込みは創作性を窒息させてしまう、というものである。
 レッシグの言い分を聞こう。まず、「コモンズ」とはなにか。共有のものとして保有されている資源である。その共有とは、そこにいる多数の人にとってフリーであることを意味する。たとえば、公道がそう。公園がそう。相対性理論がそう。パブリック・ドメインにある著作物がそう。
 ここで評者はおせっかいな注をいれたい。「共有」という言葉を聞いた人はすぐにハーディンの「共有地の悲劇」という論文を思い出すはずだ。これは共有地はそこに立ち入る人のエゴによって荒廃してしまうだろう、という主張だ。この論文は環境問題の分野でいまでもよく参照される。ハーディンとレッシグとはどこが同じでどこが違うのか。
 レッシグは言う。ハーディンは共有地は荒廃するといったが、その共有地は創造の場でもある。それは共有地が新しい創造を作るための余裕−−リダンダンシィ−−を作るからだ。(レッシグのハーディン理解はやや一方的であるが、ここではその点に深入りはしない。)
 だから、とレッシグは続ける。コモンズを認めないと「ネット上の所有権強化は技術革新を殺す」ことになる。この主張は本書のサブタイトルにも使われている。
 レッシグはその発想を具体化するためにもう一つの枠組みを用意している。それは世界を物理層、コード層、コンテンツ層に分けていることだ。物理層とは電波や通信ネットワークを構成するハードウェアを、コード層は物理層を動かす論理を、コンテンツ層は物理層を往復するデジタル情報を指す。
 レッシグの提案は、それぞれの層にコモンズを作るべきだというものである。現実には、すでにここに多様な規制がある。これらの規制は、あるいは弱すぎるし、あるいは強すぎる。
 ここで再び注をいれる。レッシグは前著の『コード』において、規制にはもちろん法律もあるが、じつは技術もある、と主張していた。たとえば、アクセス・コントロールの技術は実質的に制度的な規制の役割を代行している。レッシグの言う規制とは、このような膨らみをもっている。
 『コモンズ』にもどる。レッシグは共有地を設けるために規制を再構成すべきだという。そのためには一つの基準が必要である。それは米国憲法である。米国憲法は一方では著作物に著作権という私権を与え、もう一方ではその権利に制限を設けている。この原則にもどれ。これがレッシグの立場。
 ここで評者の感想に入る。現在、著作権については市場主導の動きが圧倒的に強い。レッシグの本は、これに飽き足りなく思う人にとってはよき支えとなるはずである。ほとんどの法学者が市場優先で走り出している現在、レッシグは貴重な人である。
 ただし、評者には大きい不満がある。著作権の判断基準は米国憲法のみではない。くわえて、米国の著作権制度は国際標準でもない。レッシグの論法は、ヤード・ポンド法の世界がすべてで、メートル法の世界があるということをまったく知らない人のそれである。
               
『情報処理』 46巻1号 (2003年)

2013-02-18

【253冊目】 D.S.カージャラ・椙山敬士 『コンピュータ・著作権法』 日本評論社 (1989年)

コンピュータ・プログラムの権利保護が問題になりはじめて、やがて10年になる。この問題が生じたために、システム技術者と法律家とはたがいに交流するようになった。
 この2つの職種についている人間は、どうやら似たサガをもっているらしい。というのは、システム技術者はスパゲッティのようなプログラムを書くのが得意であるし、法律家もまたスパゲッティのような文章をヨシとしているからである。それに正確さへの偏愛をもっていることも、酷似している。
 だから、本来、双方は相手の話が分かるはずである。また、相手に話を分からせることができるはずである。ところが、現実にはかならずしもそうではなかった。
 システム技術者からみれば、法律家の書くものは、あまり面白いものではない。たいていのばあい、法律の逐条解説であったり判例の紹介であったりする。つまり法律制度に合わせて技術を料理している。プログラムの権利保護に関する本にしても、同様であった。
 ところが、ここに紹介する本は、システム技術者によく分かる本である。しかも面白く読める。この点、たくさんある類書にはない特色をもっている。それは技術の論理にあわせて法律を裁断しているからである。
 この本は、360ページをこえる大冊であるが、テーマはわずか3つに集中している。それは
 ・ マイクロプログラムやOSの権利保護をどうみたらよいか。
 ・ プログラマー先行者アルゴリズムをどこまで踏襲することができるか。
 ・ リバース・エンジニアリングは許されるか。
というものである。この3つの基本主題は、この本のなかでくりかえし、さまざまの視点から検討される。それは、まさにフーガ大曲を聴く感を読者にあたえる。
 このフーガでは、うえの3つの主題が、著作権法の建前、日米の判例批判、産業政策上の配慮、プログラム技術の限界、といった楽想にしたがって、つぎつぎに展開される。
 このフーガを作曲し演奏しているのは、日米という異なる国籍をもつ2人の法律家である。この2人の呼吸は、微妙にくいちがい演奏に緊張をもちこみながら、しかも全体としては、見事な作品を仕上げている。
 この本は3部に分かれている。第1部は「日本のコンピュータ関係著作権法」というタイトルをもち、「プログラム著作物保護の例外」「ビデオゲームは映画の著作物か」「リバース・エンジニアリングに関する最初の判例」という構成になっている。ここで読者は、問題のありかについて頭のなかを整理してもらえる。
 第2部は「アメリカコンピュータ関係著作権法」というタイトルをもち、「著作権、ソフトウェアと新保護主義」「アメリカコンピュータ著作権法」「アメリカの著作権保護法制の検討」という構成になっている。この部分が、この本のなかでもっとも読みごたえのあるところである。
 門外漢が法律の本を読んで「面白い」ということは、まずないはず。ところが、それがここにある。なぜか。それはプログラム権利の保護に関する法的な論理が、まだ確立されてないために、米国判例にさまざまの試行錯誤があるから。それが見事に整理されて紹介されている。
 第3部は「日米著作権法の基本概念」というタイトルをもち、全体をしめくくっている。
 なお、この本にはおびただしい注が付けられている。これがまた面白い。逆にこの注をさきに見て、面白いところの本文を読む、という読み方も可能だろう。
 この本の主目的は、問題の紹介と整理にある。だが、著者は自分の意見を主張することをためらってはいない。著者の意見は、プログラムの権利をバランスよく先行者と後続者に分配するにはどうすべきか、という視点でまとめられている。このためには、侵害の証拠ありなしで、著作権侵害の有無について決着したらどうか、と示唆している。

『bit』 22巻8号 (1990年)

2013-02-17

【252冊目】 ソーカル,アラン(田崎晴明・大野克嗣・堀茂樹訳) 『「知」の欺瞞』  岩波書店 (2000年:初出 1996年)


かつて物理の学生だった人間が、「ゆえあって」と言いたいところだが、偶然の連鎖−−物理屋は「ランダム・ウォーク」という−−の途中で、こともあろうに法学部の教師になった、ことがある。
 ランダム・ウォークが身についていたためだろう。これといったディシプリンも持たぬままに法学部のメンバーになったわけだ。その法学部は、ディシプリンといったことについては生半可のことは許さない、という世界であった。だから、あれこれの文化衝撃があった。そのなかからいくつか。
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 法学系の論文(判例なども含む)において、知識を語句単位の引用の連鎖によって構築するということは、しかも、その引用先を authority として扱うことは、この分野の論文の品質を引用によって保証することを示唆している。だから、あるべき引用を欠くものは、剽窃ということになる。
したがって、引用文献の筋が通っており、それが実在すれば、その論文を信用してしまう、ということになる。この思い込みがあったのでソーカル事件が生じた。これは物理学者ソーカルが ソシアル・テキスト に投稿した「境界を侵犯すること」という論文が引き起こした騒ぎであった[5]。ここには219件の文献が引用されており、そのなかには、ボーア、ハイゼンベルクからチョムスキーにいたる大家の業績もあった。ソーカルはこの論文で、「ポストモダン科学」という概念を示し、それは非線型性、非連続性を特徴とし、既存の境界を侵犯し、既存の秩序を破壊すると主張した。ソシアル・テキスト はこれをピア・レビューを通したうえで採択し、刊行した。ところが、じつは、ソーカルは、これによって ソシアル・テキスト を拠点とする研究者集団をからかったのであった。ソーカルの底意は、引用を組み合わせれば、ナンセンスも学問になる、と嘲笑することにあったようだ。このへんの感覚、じつは物理学科の元学生であった私にも分かる。
 しからば、理工系の論文において、引用に代わる品質保証のツールはなにか。それは、当の論文にかかわるデータだろう。たとえば、サイエンス は、投稿者は研究に関係あるデータを権威あるデータベースに登録し、その登録番号を添えて投稿せよ、などと指定している。ここでは、研究データの品質保証が論文の品質を支えている。このデータによって、読者は著者の主張の再現性を確かめることができる。
 では、理論に関する論文についてはどうか、という質問がでるかもしれない。たぶん、ここでは理論の反証性などという科学哲学にかかわる論議が必要になるのだろうが、私には荷が重いのでパスさせてもらう。じつは、法廷において科学者の証言をどう扱うのか、これを扱った訴訟がある[6]。ここにはポパーの引用もあったりして面白いのだが、話題がそれるので、深入りすることは避ける。
 とにかく、引用のフォーマットが当の専門分野のディシプリンと密接にかかわることは確かなようだ。

『情報知識学会誌』 18巻5号 (2008年) より 【全文】http://ci.nii.ac.jp/naid/110007028676

2013-02-15

【251冊目】 吉成真由美編 『知の逆転』 NHK出版 (2012年)

編者が6人の大知識人にインタビューした、その記録。
 書名のひかれて読んでみた。書名がソーカルの『「知」の欺瞞』に似ているので。ただし、ソーカル本のもつ挑発性はない。この点では、『知の逆転』は大げさな感じ。まあ、『エキセントリックな知』といったところか。分子生物学者のワトソンにいたっては、よい大学を見つけ、よい教師を選べ、とまで言っている。
 登場人物のほとんどは70歳を越えており、それぞれエスタブリッシュメントになった人物である。それにしてはエキセントリックであり、そこが読みどころということだろう。
 ただし老人の評者は、本書を読んで、一時代が移った、という感慨をもった。20世紀であれば、ここに登場したはずの物理学者がいない。(ワトソン物理学者という見方もあるだろうが。)哲学者もいない。
 評者が面白かったのは、ミンスキーの「なぜ、福島にロボットを送れなかったか」という指摘。読者として虚を突かれた感じ。

 本書と関係はないことであるが、なぜ「知」などという表記を使うのだろう。まず1音節で聞き取りにくい。つぎに聞いていて「血」「痴」「恥」を連想してしまう。かつては屋上に赤い文字で「ち」という看板を掲げていたアパートが日本中にあった。「知」は「知識」とは違うなどという研究者がいるのだろうが、誰が言い始めたのか想像はできるが、私にはなじめない。

ブログ初出

2013-02-14

【250冊目】 服部桂 『人工現実感の世界』 工業調査会 (1991年)

「人工現実感」という言葉は座りが悪い。「人工」(「バーチャル」または「アーティフィシャル」)であれば、「現実」(リアリティ)とはいわない。だが、こんな議論をしているあいだに技術のほうはどんどん進んでいる。
 では、その人工現実感とは一体どんなものなのか。それは「自分の知らない世界を自分の経験として与えてもらえる仕掛け」であるという。つまり、洗練したゲームやシミュレータと思ったらよいらしい。
 この人工現実感を、日本ではじめて、包括的に紹介したものが、この本である。全体は4章に分かれている。
 第1章は、まず「人工現実感とは何か?」を紹介する。著者は、代表例を訪問し、あわせてその技術的系譜をたどる。これで読者は、この技術について一応のコンセプトをうることができる。
 第2章は、「走り出した人工現実感研究」を一覧する。著者は、この技術が多くの分野において開発されていることを示す。たとえば、軍事用沿革制御ロボット、分子操作用テレロボティクス、仮想ワークステーション医学・科学用ビジュアリゼーション、仮想インタフェース、仮想触覚、三次元マウス、超時空通信など(中身は、用語から想像してほしい)。
 第3章は「リアリティ・エンジン・ビルダー」が語られる。この章では人工現実感にかんする製品とそのメーカーを紹介する。著者によれば、市場は小さく、したがって製品は手作りでありかつ高価である、とのことである。
 第4章は「人工現実感の応用と展望」が述べられる。ここでは、インテリア・デザインのプレゼンテーション用、次世代の娯楽用ゲーム用、建築医学などにおける遠隔操作制御用などの応用についての見通しが、確認される。
 最後に、私たちの意識の拡張、という視点でのこの技術の可能性が点検される。この領域での進歩は、将来、人工現実感に麻薬的な機能をもたせることになるのかもしれない。そうであれば、人間性におよぼす影響ははかりしれない。だが、著者は控え目な記述にとどめている。評者は、これにかんする著者の忌憚ない意見を聞きたかった。
 人工現実感というものは、個人向けに、視覚、聴覚、触覚、運動感覚など、さまざまの感覚を集大成する技術である。したがって人工現実感を語る本は、これら多様な感覚にかんする記述をすべて文章と写真、図面で表現しなければならない。これは、本というメディアには荷の重い課題である。だが著者は、この課題を、ルポルタージュという新聞記者の得意とする方法で見事に解決している。

東洋経済』 9月21日号 (1991年)

2013-02-13

【249冊目】 綱川秀夫 『地磁気逆転X年』 岩波書店 (2002年)

磁石の針はなぜ北を指すのか。地球の内部が発電機の動きをしており、それが磁石の働きをしているからだ。
 この地球磁石は、50万年に1回、南北が逆転している。火山の溶岩や海底の堆積岩にその証拠が残っている。
 過去にあったことは未来にもありうる。逆転したらどんな現象が引き起こされるのか。
 地磁気が弱くなるので強い宇宙線が地表まで飛び込んでくる。人類を含む全生物のDNAは損傷を受けるだろう。

朝日新聞』 6月16日夕刊 (2002年) (匿名)

2013-02-12

【248冊目】 一ノ渡勝彦/三輪真木子 『亜米利加解読新書』 世界文化社 (1991年)

1980年代を通じて、リサーチというものがビジネスのなかに浸透し、定着するようになった。企業のどんな部署にいる人でも、もうリサーチと無縁でいることはできない。ところが、このリサーチというもの、なかなか一筋縄でいく仕事ではない。
 どこが難しいのか。調査結果を依頼者の知的レベルに応じて表現することである。相手が理解できるプレゼンテーションをするということは、リサーチという仕事を職とするものにとっては不可欠な能力である。このためには、用語、要約、図表など、配慮すべき点はきわめて多い。
 ところで、リサーチ業務にとって、データベース検索という仕事は格別なメリットをもつ。というのは、どんな分野の情報にも、臆することなくアクセスできるからである。
 現実に、私たちのビジネス環境をみても、自分の専門分野に閉じ籠ってはいられなくなった。他の分野の情報を必要とすることがしばしばある。このようなときに、データベースというものは、専門外の人間にも、まずは一応のレベルの情報を与えてくれる。この点、アマチュアでもリサーチがしやすくなった。
 問題は、データベース検索で得たアウトプットを、最終ユーザーにどのようにしてプレゼンテーションするか、ということである。というのは、データベースのアウトプットはすべて同じ姿形をしているために、これらをそのまま見せられても、一般人は、どれが大切なデータで、どれがそうでないかを見当つけることができないから。
 だから検索者は、これにメリハリをつけて、構造ある情報に仕立てなければならない。これができてはじめて一人前のリサーチャーといえる。だが、このような努力の跡が一般人の目にふれる機会はほとんどない。多くの場合、リサーチの結果は顧客の机のなかに秘蔵されてしまうからだ。
 このような環境のなかで、この極意を意識的に公表した本が出現した。それがここに紹介するものである。著者は代行検索の分野では、すでに一家をなした人物、その人がみずからのノウハウを公開したことになる。読者は、この本を点検(リバース・エンジニアリング)することによって、ブレゼンテーションの極意を学ぶことができるはずである。
 この本の内容は、タイトルから推定できるように、同時代のアメリカに出現している社会現象を調査し、まとめたものである。それは、エリート像(例、業務拡大を狙う訴訟の仕事人)、企業戦略(例、活発化する企業フィランソロピー)、業界動向(例、プラスティックマネーの功罪)、生活基盤例(例、甦るか「美しいアメリカ」)、ライフスタイル(例、禁煙が変えるたばこ産業)、レジャー(例、衰えぬギャンブル人気)、冠婚葬祭(例、死後の世界にお金をかける)など、計42テーマにのぼる。各テーマは、それぞれ8ページほどの長さに要約され、視覚的にも理解しやすい図を使って表現されている。つまり、プレゼンテーションについて、読者の理解をうながし、読者を楽しませる工夫がなされている。
 ということで、ここに、私たちはリポートのまとめ方と表現方法について、良質のお手本――事例集――をみることができる。
なおこの種の本には、引用事例が陳腐である場合が多い。だが、この本はちがう。事例として、すべて読者の米国観をリフレッシュするようなクリティカルなテーマを選んでいる。だから読者は、手法の勉強をするだけでなく、内容を楽しむこともできる。

『情報管理』 11月号 (1991年)

2013-02-11

【247冊目】 L・B・ホールステッド(中村照子訳) 『「今西進化論」批判の旅』 築地書館 (1988年)

【2013年の注】本書評を発表した直後、柴谷篤弘さんから長電話をもらった。いまとなっては、懐かしい思いでとなった。

今西進化論というものは、おおかたの日本人にとっては耳になじんだ学説である。しかも、それがどうやら異端の学説らしいということも知っている。なぜならば、当の今西氏がみずから異端を標榜しているからだ。
 異端だとすれば正統派の学説もあるはずだということだ。ところが私たち一般人の耳には、その正統派の今西説に対する意見がいっこうに入ってこない。これはどうしたことなのだろう。門外漢はこう考える。
 ところが門外漢と同じように考えた専門家が出現した。それがなんと英国の伝統的進化論者を名乗る学者で、その人がこの本の著者である。著者は、たまたま今西説の本丸である京都大学に3ヵ月招待される。その機会を活用して本務のかたわら猛然と今西説に対する疑問の解明に入る。そのフィールド・ノートがこの本である。
 はじめに、著者は今西説が日本語でしか発表されていないことに失望する。だが、ただちに聞取りや手紙のやりとりなどを通じて、今西説の調査にとりかかる。なにしろ異文化のなかにとびこんだので、著者はさまざまに誤解をし、迷路に入りこむ。そのつど、著者はその理由について仮説を設け、それに基づいて行動する。
 まず、著者は自分の理解しえた今西説をメモにし、それを今西説の祖述者、協力者に配布するのである。返事は、好意的であったり拒否的であったりする。この反応がまた著者のつぎの仮説を導く。このような仮説〜検証を繰り返しながら、最後には今西氏との面会にまでこぎつける。この著者の徹底性は、相手をさせられた人々をさぞかし鬱陶しがらせたことだろう。
 だが、この本にはさわやかさがある。というのは、著者は自分の仮説が間違っていると気づくと、さっさとそれを撤回しつぎの仮説に移るからである。最後には今西氏をして、著者の今西説の理解は正しいとまでいわしめている。
 評者に不思議なのは、なぜこのような議論が日本人のなかでなされなかったのかということである。著者によれば、それは正統派の研究者が今西説を科学であると認識してなかったためである。しかも、これは科学者の仲間内では自明であるとされた、ということである。
 しかし私たち一般人にとっては、そんなことは分からない。とすれば、こんなところでも科学は密室化しているということになるのであろうか。
 この本には、著者に今西説を紹介した柴谷篤弘氏のコメント、さらに著者の引き起した今西説をめぐる世界的な論争も納められている。これもまた刺激にとんでいる。

東洋経済』 2月27日号 (1988年)

2013-02-10

【246冊目】 D. A. ノーマン(野島久雄訳) 『誰のためのデザイン:認知科学者のデザイン原論』 新曜社 (1990年)

システム技術者にとっては、人間〜機械インタフェースがとかく気になる。コンピュータが大衆化されたといっても、まだまだ文房具の域には達していないから。
 ところが、この人間〜機械インタフェースというもの、なかなか一筋縄ではいかない。先だってもある学会でインタフェースについての討論会をやったが、登場したパネリストといえば、ハイパーメディアの研究者、哲学者、教育学者兼心理学者、それに私のような大型システムの運用者といった顔触れであった。つまり人間〜機械インタフェースというものは、このように多領域の人間の関心事であるといえるし、またそうした人間が寄ってたかって議論しないと決着がつかない複雑さをもっている、ともいえる。
 この本は、そうした人間〜機械インタフェースの現状を、デザイナー兼心理学者の立場で批判的かつ体系的に論じたものである。その論じる範囲は、ドアの開け閉て(戸惑いしないか)、蛇口の表示(美意識が先行してないか)、コインのデザイン(見分けやすいか)、レストランのメニュー(選択しやすいか)、ジェット機のパイロット用パネル(緊急時に役立つか)、VTRのスイッチ(使いやすいか)、コンピュータマニュアル(理解しやすいか)、さらにコンピュータのエラー・メッセージ(勘違いしないか)などに及ぶ。
 この本の構成は、きわめて体系的である。教科書的であるとさえいってもよい。それは目次を一覧すれば分かる。念のために紹介しておこう。まず「毎日使う道具の精神病理学」(1章)、以下、「日常場面における行為の心理学」(2章)、「頭の中の知識と外界にある知識」(3章)、「何をするのか知る」(4章)、「誤るは人の常」(5章)、「デザインという困難な課題」(6章)、「ユーザー中心のデザイン」(7章)と続く。
 ただし文章の筆致は、いわゆる教科書のように無味乾燥ではない。多少冗長ではあるが、丁寧な語り口で説く。理論的な紹介もおろそかにされていない。フレーム理論とかコネクショニズムとかにも言及されている。それも単なる紹介ではなく、著者の意見と文体のなかに自在に組みこんでいる。
 だが、この本は理屈だけに偏しているわけではない。さきに紹介したように、この本はトアの開け閉てからコンピュータのエラー・メッセージにいたる豊富な具体例をめぐって、著者の批判的主張を述べたものである。この具体例が、いずれも「御尤も」というようなものばかりで、このような話題を拾い読みしただけでも、読者は胸のつかえがおちるだけでなく、役立つ情報を得ることができるはずである。
 とくに、よくないデザインをする方法の例としてコンピュータが挙げられており、その理由が6ヵ条示されている。気になる読者は本書282ページを立ち読みなさることをお勧めする。立ち読みでは収まらず、きっとご自分の手元に置いておきたくなるはずだ。
 この本には、じつは同じ話題が姿・形を変え、違う章に繰り返し出現する。あるばあいには一般的な記述として、あるばあいには具体例として、あるばあいにはガイドラインに整理されて、またあるばあいには図面として。しかも、丁寧な注と文献表が付いている。ちょっと煩い感じがないでもないが、それなりに理解しやすい。最後に著者の種明かしがあって、本書はハイパーメディアの手法で著述してあるという。憎い、という感じ。
 このハイパーメディアについて著者の注釈がある。「読者に容易に理解できる(ハイパーメディアの)データベースを作成するためには、じつは著者に膨大な努力を必要とする。ただ情報を編集すれば足りるというものではない」と。
 この本には、まさに、この努力のあとがうかがわれる。

『データマネジメント』 337号 (1990年)

2013-02-09

【245冊目】 外岡秀俊『地震と社会(上):「阪神大震災」記』 みすず書房 (1998年)

【2013年の注】 著者がここに示したすべての論点は、そのまま東日本大震災に対しても通じるものとなった。

阪神大震災は、現時点では、なお客観化しにくいテーマであろう。悲しみ、苦しみ、憤り、といった心情に流されないで、このテーマを語ることは難しいのではないか。
 この本も震災者の悲しみや苦しみを描いている。だが同時に、その因ってきたるところを、歴史的、論理的におさえている。つまり、この本は阪神大震災という事件を、震災史のなかで、同時に、震災関連諸科学のなかで、くわしく点検したものである。
 地震予知計画は役に立たなかった。そもそも地震予知は可能だったのか。予知計画は政治や行政の責任を転嫁されたものではなかったのか。そのために予知計画は科学ではなく事業になってしまったのではないか。
 通信システムが完全に途絶してしまった。災害直後、外部からは災害地にアクセスすることは不可能になった。だが、このとき生じた「情報空白」の現象がそれ自体災害情報ではなかったか。
 行政の意思決定が遅れに遅れた。情報伝達の迅速性をその信頼性より優先すべきはなかったのか。災害発生の直後から、各省庁、自治体は自律分散型のシステムとして行動できるような手順を設けておくべきではなかったか。
 犠牲者の救出に遺漏はなかったか。現行の緊急医療システムは、交通、電力、水道などはもちろん、病院も医師もすべてが完全な状況のもとで機能することを想定している。だが、震災はこれらをすべて破壊してしまった。
 自らも傷ついた医療システムが、破壊された環境のなかで、自らの能力をはるかに上回る被害者に対応しなければならない。つらい「トリアージ」をしなければならなかった。消火システムについても同様であった。
 破壊された構造物が多かったが、それらの耐震設計基準は正しかったのか。関心は計算手法の洗練化のほうを向いていたが、誤りは関東大震災という基準値を超えた地震が起きることを予想しなかったことにあった。もう一つ、手抜き工事もあった。
 神戸の都市計画が拙劣だったのか。日本の大都市のなかでは例外的に、卓越した技術者が一貫した思想で、長期にわたって建設してきたはずだったのに。
 インナーシティにおいて震災がもっとも甚だしかった。神戸の都市計画がここを後回しにしたためだ。なぜ後回しにしたのか。職住接近、低家賃、顔見知りといったインナーシティの価値を見落としたから。
 著者は阪神大震災について「被災者の立場で、素人の眼で、専門家の業績を」集約したといっている。その意図は十分に叶えられている。

東洋経済』 5474号 (1998年)

2013-02-08

【244冊目】 中山茂・後藤邦夫・吉岡斉編 『通史:日本の科学技術』(全4巻、別巻1) 学陽書房 (1995年)

戦後50年、いろいろな分野でこの半世紀を総括する試みが発表されている。このシリーズも、その一つといってよい。ここに戦後科学技術の発展を実証的かつ包括的に追跡した成果が集積されている。
 戦後日本は目ざましい経済発展をとげた。それを支えたものは国民のたゆまぬ労働意欲とこれを成果に結びつけた科学技術の急成長にあった。
 このシリーズは、その科学技術の展開について120のテーマを立て、それを1,700ページにおよぶ論文集として編集したものである。全体は、占領期(1945〜52年)、自立期(1952〜59年)、高度成長期(1960年代)、転形期(1970年代)の4巻にまとめられ、べつに索引と年表に1巻170ページが当てられている。
 評者は中学生として敗戦を迎え、一生を企業内技術者としてすごした世代に属するので、ここに述べられたさまざまなことを、まさに同時代史として読むことができた。
 このシリーズのテーマをアトランダムに拾っても、PBレポート、武谷技術論、技術導入、品質管理、糸川ロケット、新幹線、筑波研究都市など、評者のような一介の企業技術者でも、なんらかの形で繋がっていたテーマが少なくない。あのときの自分の仕事は歴史的な文脈のなかではこのように位置づけられていたのか、と改めて懐旧の情にふけったしだいである。
 だが、このシリーズは読者に懐旧の情をもたらすことを狙ったものではない。産軍複合体がリードした米ソの科学技術に伍して、日本の科学技術が成長した秘密を具体的なテーマに則して示そうとしたものである。それは非軍事・応用優先・企業主導の路線とでもいうべきものであった。
 編集者によれば、このシリーズは、とくに科学技術と社会との相互作用に焦点を当てたという。この意味で、技術振興制度や研究体制についての目配りを忘れていない。さらに、その視点を「官」「産」「学」「民」の4セクターに置いて分析を行ったともいう。ただし民セクターの立論は少ない。
 このシリーズは、12年の歳月と50人を越える研究者の共同プロジェクトの成果であるという。特筆すべきは、このプロジェクトはトヨタ財団から5,000万円にも達する助成を受けているとのことである。ここに新しい企業メセナのあり方があるといえよう。
 このシリーズは個人がポケットマネーで購入できるというものではないが、研究所や企画室のスタッフにとっては、技術開発の計画立案やその社会的受容を確認するうえで参考になるものといえる。

【2013年の注】 2012年に本書の続編となる『新・通史』が原書房から出版された。

東洋経済』 8月26日号 (1995年)

2013-02-07

【243冊目】 ジョン・クルードソン(小野克彦訳)  『エイズ疑惑:「世紀の大発見」の内幕』 紀伊国屋書店  (1991年)

私たち世俗の巷にいる人間は、科学者は脱世間的なルールにもとづいて研究に没頭している人々である、と思いこんでいる。どんなルールかといえば、研究者の業績評価は、かれの国籍、性別、年齢、地位などに一切無関係におこなう。また、いったん獲得した成果は公開して研究者相互の共有財産とする。そのほかに、懐疑主義、中立性、没利益性などもあるだろう。
 じつは、そうではない。かれらの世界も私たち俗人の世界と同様である。具体例を見せよう。こう、主張するのがこの本である。
 その具体例とは、エイズウイルスの発見物語である。まず、この正体不明の病気をそれとして認識したのは日本の研究者であった。ついで、フランスパスツール研究所のモンタニエのグループであった。だが、これらの先人を追いかけた米国ギャロは、先人の業績をわざと曲解して引用し、あるいは無視する。あるいは、ライバルには学会報告で十分な時間を割り当てない。
 ギャロのライバルはフェアにも、かれらが発見したエイズウイルスのサンプルを送ってくる。ギャロは、口先ではそのサンプルを役ただずだったと貶しながらも、じつはそれを使って自分の研究をまとめた(らしい)。そして自分がエイズウイルスを発見したのだと優先権を主張したのである。
 モンタニエはエイズの血液試験試薬の特許を米国特許庁に出願する。だが、米国特許庁は、遅れて出願したギャロに特許権を与える。ついに問題は、フランスシラク首相米国のレーガン大統領の手に委ねられる。双方は公式の合議書を交わしたが、その内容は双方が発見者であり、双方が特許権をもつというものであった。このようにして、科学的な論争が政治的に決着したのである。
 この本は、この経緯を、1人の新聞記者が克明にたどったものである。かれは、2年間にわたり、150人にインタビューをおこない、数千ページにのぼる記録を点検する。だが、この紛争の鍵をにぎるギャロは、インタビューに応じなかった。
 「ギャロの研究室で何があったのかは謎のままであり、今後も完全に明らかにされることはないだろう。しかし、われわれの得た事実から判断すると、偶然の事故があったのか、または故意の盗みがあったとしか思えない。」これが著者の結論である。
 以上は、このレポートのほんのサワリの紹介である。それでは、何が現代の科学者をこうも駆りたてたのか。
 まず科学という人間の営為がビジネスになってしまった、ということがある。科学は、いまや膨大な資金を投入し、組織的・計画的に推進しなければならない事業になった。だが、科学研究という仕事は、本来、自由な環境のもとで発展するものである。したがって、ここに参加してきた科学者たちは、もともと自由闊達にスタイルで仕事をしてきた。
 だが、エイズ・プロジェクトではこのような古典的なスタイルは無視された。なぜならば、このプロジェクトは米国人によって実現しなければならないという、国家的(国家の威信)、社会的(大衆の安全)、産業的(莫大な特許収入)要請が優先したからである。
 この結果、強烈な個性をもったマネージャーが多数の科学者を管理してプロジェクトを推進することになった。そのマネージャーは、科学者としてはとかく噂のあった人物であったが、事業家としては見事な手腕を発揮することとなる。
 つまり、この本は、現代科学のもつ新しい特徴を描いた科学社会学的事例として、同時に、ある科学者ヒューマン・ドキュメントに仮託した謎解きの物語として、読むことができる。

『KDDテクニカル・ジャーナル』 8号 (1992年)

2013-02-06

【242冊目】 小平圭一 『宇宙の果てまで』 文芸春秋 (1999年)

1980年、著者はハワイ大学の天文台を訪問する。巨大望遠鏡設置の可能性を探るためであった。1999年、国立天文台は世界最大の望遠鏡すばる」の「ファースト・ライト」をテレビ中継で日本に放送する。
 この20年間、著者は「すばる」の建設に、はじめは疑心暗鬼で係わり、途中からは本気でのめり込む。著者はその一部始終について、自分のメモを再編集してこの本を作った。だから、話は「すばる」の開発史であると同時に、天文学者の自分史にもなっている。
 まず、巨大望遠鏡の開発史として。これには2つの点に課題があった。巨大なレンズを作ることと、空気の澄んだ場所を探すことであった。
 光の像をきちんと写すためには、1万分の1ミリメートルの精度でレンズを磨き上げなければならない。ところが、レンズのほうは直径8メートル。自重や温度でそのような精度を維持することはほとんど不可能。ここに技術上の課題があった。
 空気の清澄な場所はどこにあるのか。地上の明かりが少なく、空気の乱れの小さいところ、つまり高山の頂ということになる。国内にはこの条件に合格する場所はない。とすれば国外に設置せざるをえない。
 巨大望遠鏡は総額400億円に達する国有財産。そのような巨大な国有財産を国外に設置することができるのか。さいわいにも、国有財産法にはこれを禁じる条文はなかった。
 つぎに天文学者の自分史として。著者は観測的宇宙論の研究者であり、これが本業である。だが「すばる」プロジェクトとは両立しない。
 著者は仕事にもっとも油がのる50歳代のはじめ、このプロジェクトに生涯を掛けようと決心する。だが、このとき、かりにプロジェクトが順調に推移したとしても、自分の定年のほうがさきであることが予想できる。
 巨大プロジェクトの推進にあたっては、学会という世界は効率の悪いところである。専門分化がきわだっており、おなじ専門領域のなかでさえ百家争鳴がある。ここで巨大予算を獲得しようというわけだ。
 また、国際プロジェクトの進行にあたっては、日本官庁の前例尊重主義(たとえば単年度予算や海外赴任手当)は国際標準になじまない。
 このような困難を、著者はひとつひとつ、協力者や支援者を増やしつつ実現する。この意味では、この本はプロジェクト管理の成功例の報告書であるとも見える。
 著者は国際結婚した人である。著者はこの本で家庭生活に関する生活と意見をあけすけに描いている。学問への執念もさることながら、家庭への愛着も著者の行動を大きく支えてきるようである。読んで楽しい。
 (注)「すばる」のハイテクについては、安藤裕康『世界最大の望遠鏡すばる」』(平凡社 1998年)が詳しい。あわせて紹介しておく。

東洋経済』 5563号 (1999年)

2013-02-04

【241冊目】 中川米造 『医学の不確実性』 日本評論社 (1996年)

現代の技術は、さまざまな試行錯誤をくり返しながら発達してきた。いま現在でも、試行錯誤を続けている。
 現代医学も同様である。試行錯誤のなかで、これまで発展してきた。だが、対象が人間であるために、建前としては不謬性を高く掲げてきた。したがって、この学問がもっている不確実性については、これまであいまいにされてきた。
 著者はまず設問する。いったい医学は科学なのか。科学は嘘をつかない。だが、医師には嘘が許されるではないか。なんのための嘘か。患者の不安をまねかないためだ。だが、その嘘は不確実性を隠してしまうのではないか。
 この点でもっとも厄介な問題はプラシーボ偽薬)の存在だ。乳糖など生理作用のない物質でも、患者にあたえると症状が軽くなる。また、メスで切り取っても、軟膏を張っても治らないイボが、暗示やマジナイで消えてしまうことがある。
 もし、医師が厳密に科学的に治療しようとすると、このプラシーボ効果は弱まる。逆に、医師の主体的な働きかけや、患者の期待や参加意識が強いほど、この効果は強まる。不確実性は、反科学的な方法(?)でもっともよく制御できる。どう、解釈したらよいのか。

 不確実性への対応には、最悪原理がある。医師は最悪のばあいを予測して、あらゆる手を尽くす。検査はより大がかりに、手術による摘出はより徹底して、おこなう。しかし、このような治療に比較対照群を設定することはできない。とすれば、最悪原理を正当化する根拠を見つけることは難しい。
 不確実性に充ちた医学を学生に教えこむにはどうしたらよいのか。つぎつぎと試験を課すことだ。この試験によって、学生は医学を単純な知識の集積として理解するようになる。つまり、すべての病気は定まった症状経過をもち、身体的な所見に対応する、という認識を教えこまれる。だが、そのようなモデル的な症状をもつ患者は、じつは20%程度にすぎない。
 不確実性の評価法として統計的な方法がある。だが、統計的な処理をして得られた正常値とはなにか。人間は、実験動物のように、おなじ環境に隔離しておくことはできない。人間の特徴は個性をもっていることにある。医学的判断は事実問題ではなく、権利問題である。
 このように多様な論点を示したあとで著者は、医学における不確実性は「アンダーデターミネーション」(弱い決定論)という概念で理解すべきであり、ここに医師と患者の希望がある、と結論づけている。

東洋経済』 5382号 (1996年)

2013-02-03

【1冊目:その2】 N ウンベルト エコ,論文作法: 調査・研究・執筆の技術と手順, 谷口勇 訳 (而立書房, 1991; 原著1977).

ワープロ時代の本です。だが、なお、見落とせない示唆を含んでいます。とくに、「引用」と「敷衍」と「剽窃」とはどこが違うのか。これを、例文を挙げて詳細に説明しています。流石、エコというべきか、この部分は、そのまま引用すると剽窃になりそうですし、さりとて敷衍すると意味不明になりそうです。つまり、引用しにくいように記述されています。読者は、書店なり図書館なりで、この部分にアクセスしてください。

林紘一郎・名和小太郎『引用する極意 引用される極意』勁草書房(2009年) より

2013-02-02

【240冊目】 G・K・シャンパイン(藤田献訳) 『分散コンピュータ・システム:経営へのインパクト,設計と分析』 企画センター (1981年)

G・K・シャンパイン(藤田献訳)『分散コンピュータ・システム:経営へのインパクト,設計と分析』 企画センター (1981年)
本の厚さを厭わない人がいれば、VAN関連の参考書として、この本を勧めたい。これは、やや古いが素晴らしい本である。サブタイトルが本書の特徴をそのまま語っている。分散システムにかんして、技術上の通り一遍の解説にとどまらずに、ヒューマンインタフェース、投資と採算、セキュリティ、傷害復旧、運用管理のすべてにわたり、きめの細かい議論がなされている。良質のユーモアを交えながら。

日経コミュニケーション』 巻号不明 (1984年)

2013-02-01

【239冊目】 リン・ピクネット & クライブ・プリンス (新井雅代訳) 『トリノの聖骸布』 白水社 (1995年: 原著1994年)

トリノ大聖堂には、男性の正面と背面の像が実物大に浮きだし、そこに磔刑の跡をはっきりとたどれる布がある。これはイエスの遺骸を包んだ埋葬布として、キリスト教徒の信仰の対象となってきたものである。
 不可思議なことは、この像を写真に撮ると、そのネガのほうが実物よりも鮮明になるという事実であった。イエスの時代に写真の技術があったはずはない。これは奇跡としか言いようがない。
 だが、この布について聖書は一言も言及せず、しかも歴史をたどると14世紀に忽然と出現している。つまり出自にあいまいなところがある。そこでこれまでにも真贋論争がくりかえされていた。
 20世紀になると、ヴァチカンはこの布の科学的調査をはじめた。決定的だったのは1980年代末に実施された放射性同位元素による年代測定で、布の作成は95パーセントの信頼度で1260年から1390年に製作されたという結論が出た。トリノ聖骸布は偽物であった!
信仰派からさっそく超常現象による説明が提案された。まず念写説。14世紀の巡礼の集団的な信仰がこの布に像を写し出した。だが中世人の理解は、イエスの手に打たれたクギの位置について、図像学的にいってトリノの像と違っていたはずだ。
 ついで核閃光説。イエスの復活時点で遺体から高エネルギー放射があり、これが布に像を固定し、同時に布の放射性炭素の含有量を増大させて年代測定を狂わせる結果を生んだ。これはNASAの物理学者の説。だが、この説では発光体=被写体であり、写真であれば発光体と被写体とは違わなければおかしい。第一、高温高圧の核反応のもとで布が炭化もしないで残っているのが不審だ。
 さらに化学反応説。遺骸から蒸気や体液が侵出して染みを作った。だが、蒸気にしても体液にしても、じわりと滲み出るものであり、それにしては画像がくっきりとしすぎている。しかも布の裏側に像の変色が滲み出ていない。
 超常現象は否定されたが、ここで新しい疑問が生じた。この布がどのような方法で作られたのか、現代の技術的知識ではまったく推測できない。この像が絵画でないことはべつの調査で顔料などが検出されていないことで確認されていた。かりに絵画であったとしても、中世人の解剖学的知識ではこの像の迫真性を表現することはできなかったはずである。さらに写真のネガ効果についても説明に窮する。
 話はここから始まる。この事実を知ったジャーナリストとシステム・エンジニアが協力してこの謎解きを始める。この二人がこの本の著者であり、その謎解きについての経過と成果の報告がこの本の内容となっている。
 謎解きは聖骸布の歴史的記録を点検することからはじまった。いつ、どこで、だれが聖骸布についての記録を残しているか。その記述は現在の聖骸布と矛盾していないか。
 最初の記録は14世紀のものであることはこれまでの考証から分かっていた。だが当時の記録によれば、像は絵画であったとされている。その後、15世紀末に記録上の断絶があり、このあとの記録は現在のものと符合している。像はすり替えられた!この理由はなにか。史料を渉猟すると、シオン修道会がこのすり替えに関与していたことも分かる。
 15世紀末に像のすり替えがあったとして、現存の画像を製作できるような高度な技術を駆使できた人物はいったいだれだったのか。たった一人、そのような資格をもつ人が実在した。レオナルド・ダ・ヴィンチである。
 だが、レオナルドはなぜそのようなことをしたのか。動機はなにか。また、かれは生涯のどの時期にそれをしたのか。それは史実と合うか。かれは写真技術を駆使できたのか。その証拠はあるか。このような疑問を追跡しているうちに、レオナルドシオン修道会の主要メンバーであったことも確かめられる。
 著者はある仮説を立て、それを実証するための実験装置まで組み立てる。その結果、レオナルド時代の技術水準で、聖骸布に似た画像を作ることに成功する。
 最後に、この本の面白さを宣伝しておこう。この本のテーマには多分野にわたる人物が登場し、さまざまな発想を披瀝し、批判しあう。そのために神学、歴史、美術、技術に関するたくさんのジャンク情報が飛び交う。それらに対する著者の吟味の当否が、読者の好奇心をゆさぶる。
 もう一点。ある現象を否定するには一つの証拠があれば十分だが、それを肯定するために決定的な証拠を見つけることは難い。著者の示したものも一つの状況証拠にすぎない。評者も著者の結論に納得したわけではない。だが、答えのない問題というものは、読者の想像力を駆り立てるものである。

『一冊の本』 1巻1号 (1996年)