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読書80年:名和小太郎

2018-04-26

【ブラウジング:113】 「編集後記」『PATENT STUDIES』n.65, p86-87 (2018)より

法律の専門誌にマンガの分類が示されていた。意表をつかれた。マンガ通には自明のことかもしれないが、マンガに縁のない私には面白かった。以下、紹介する。
(1)対戦型(正統派)
(1A)人間同士の対戦(ライバル型):例「侍ジャイアンツ
(1B)人間以外との対戦(防衛型):例「マジンガーZ
(2)フロンティア型(フロンティア精神の継承):例「課長 島耕作」
(3)エッセイ型(四コママンガ的):例「あたしんち」
(4)課題解決型:例「恐怖新聞
(5)カテゴリー横断型:例「キン肉マン
じつは、このあとにマンガの未来論が続く。これも説得的。

2013-06-08

【302冊目】 池内了 『擬似科学入門』 岩波新書 (2008年)

本書の骨子を示せば、それは擬似科学を3つのカテゴリーに分類したことにある。第1種のそれは反科学的はもの、例示をすれば、血液型、超能力など。第2種のそれは、科学の乱用、誤用、悪用にかかわるもの。例示をすれば、ゲーム脳、相関関係すなわち因果関係といった理解など。
 第3種のそれは、温暖化地震予知疫学など。問題解決にあたり人間の世代を超えて観測しなければならないもの、あるいは倫理的な理由で実験ができないもの――これらがここに入る。以下は、評者の感想。
 まず、第3種の擬似科学というカテゴリーを設けたことに著者の手柄がある、と思う。これらの対象を擬似科学として括ることには、相当の勇気が必要だったろうと察するからである。
 ついで著者は、第3種の擬似科学には予防原則によって対応しなければならない、と説く。評者は著者の意見には同意しながらも、この主張が実現可能か、という危惧をもたざるをえない。予防原則を通すためには、私たちの社会は、経済的にも社会心理的にも、それなりのゆとりを持たなければならない、と考えるからである。
著者は「科学者の見分け方」という節でこの本を閉じる。これは読者としての私のもっとも知りたいこと。だが、ここで著者の歯切れは悪くなる。残念、もう少し、踏み込んでほしかった。

ブログ初出

2012-10-29

【177冊目】 長谷川一 『出版と知のメディア論:エディターシップの歴史と再生』 みすず書房  (2003年)

軽やかなタイトルの本である。ただし、中身は重い。一言でいえば「現代学術出版論」ともいうべきテーマを扱っている。つけ加えれば、「出版論+研究組織論+電子メディア論 +大学論」 といった姿をもつモノグラフである。>
 内容の紹介をしよう。序章で著者はまずその基本的立場を明らかにする。それは知と出版とを一体のシステム――知・出版系――として扱うというものである。
 第1章は、知・出版系をその儀礼的機能から理解すべきであるという意見を示す。学術出版社と学会という二つのコミュニティとは、たがいに相手を駆動する。この関係を儀礼的と見ることができる。
 第2章は、知・出版系の歴史をたどる。ここでは英国と米国の大学出版社を歴史的に比較する。長い歴史のなかで成熟した前者は商業出版社と競争力をもつことができたが、逆に出版界のなかでは後発の後者はモノグラフの出版に特化する。
 第3章は、知・出版系における電子化の課題を扱う。雑誌主体の理工・生命系の学会とモノグラフ主体の人文・社会系の学会とは、電子化に対して異なる反応をしている。これは学会における「出版か消滅か」の評価システムのあり方とも関係している。人文系においてはこの評価システムの役割を学会とともに大学出版社が引き受けている。
 第4章は、現代日本の知・出版系を示す。ここでは「人文書」というカテゴリーがある。かつてこれはいわゆる教養主義と結びついていた。この人文書はいまやその存在感を失った。その読者が消えたためだ。
 ここで短い終章。出版は「本作り」ではない。「パブリシング」である。つまり、「公表」「公共化」である。とすれば、その本来の機能は、教師と生徒、作者と作品、著者と読者、専門家と素人、を繋ぐ役割をもっている。これがエディターシップの本質である。これが次世代の出版に期待されるものである。以上が要点。
 以下、感想を少々。評者はメディア論や出版論の専門家ではないので、あるいは見当違いもあるかもしれないが。
 まず、メディアの儀礼的意味であるが、これは評者にも納得できる。それは著者が軽く扱っている電話帳にもあるはずだ。たとえば、明治初年の最初の東京の電話番号簿、あるいはかつての新島の電話帳――姓名ではなく屋号が記載されていた――など。
 話はとぶが、人文書の売上が落ちたのは、メディアが多様化し、そのために既存メディアのシェアが相対的に減少したためではないのか。
 その人文書だが、著者によれば定義しにくい存在であるという。それならば、ということで評者も考えてみた。まず縦書きということで理工書と違う。図表がないということでビジネス書ではない。注があるということで文芸書と違う。四六版ハードカバーということで廉価版ではない。これが評者の定義。このような「Xでない」という特徴をもつ本は、万人が狭い専門領域に押し込まれてしまった今日では、読み手にとっては重すぎる。受け手がいなくなるは当然かもしれない。
 メディアが多様化したのも、読者が専門家になったのも、技術が社会生活により深く侵入してきたためではないのか。

『情報管理』 46巻6号 (2003年)

2012-08-03

【93冊目】 D・マクニール&P・フライバーガー(寺野寿郎監修、田中啓子訳) 『ファジィ・ロジック:パラダイム革新のドラマ』 新曜社 (1995年)

この本の索引には日本の研究者や会社がくりかえし登場する。その日本では、家電メーカーがファジィ論理を応用した製品に、最初「あいまい論理」というキャッチフレーズを付けて売りだしたが評判はいま一つだった。ところが、キャッチフレーズを「ファジィ論理」という意味不明の言葉に変えたら、とたんに飛ぶように売れだした。こんなことからも、日本人がファジィに対する感受性をもっていることが分かる。だから、日本ではファジィ論理の応用が世界でもっとも進んでいる。著者は、このように比較文化論的な考察を試みながら、日本におけるファジィ論理の実用化について紹介する。
 ファジィ論理そのものはどんなものなのか。それは、現代の論理学、心理学、言語学、文化人類学、コンピュータ科学の成果をたどれば納得がいく。たとえば「自動車」は「乗り物」といえるが、「スキー」を「乗り物」というにはためらいがある。このように言葉のカテゴリーはあいまいなのだ。このあいまいさを理論的に扱おうとしたものがファジィ論理だ。著者は、こんな筆致で、隣接分野の業績を参照しつつファジィ論理の要点を解説する。
 いっぽう米国の社会では、あいまいな現象があっても、それを四捨五入して「真」か「疑」に分けてしまう。あいまいさをそのまま受け入れようとはしない。学会でも「ファジィは科学のコカインだ」といわれ、おいそれとは認知されなかった。ファジィ論理の研究者は学会の主流から冷たくあしらわれた。論文を学会誌へ投稿しても拒まれ、助成資金の割当も後回しにされた。著者は、こういった研究者の社会的な生態を、エピソードを交えながら語る。
 本書は、以上のように、日本企業のサクセス・ストーリーでもあり、論理学のテキストでもあり、学会の内輪話でもある。つまりファジィな性格をもっている。
       
『東京新聞』 5月7日号 (1995年)