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読書80年:名和小太郎

2018-06-24

【今は昔:3】 メモの効用 :『一冊の本』 3巻8号 (1998)  

「次世代の本はどんな形になるんでしょうか?」。こんなわざとらしい質問をしてみた。わざとらしいといったのは、電子図書館のあり方についてあれこれ議論をしていた審議会のすぐあとの懇親会の席上だったから。つまり、この質問は「インターネット」「WWW」「ハイパーテキスト」といった言葉に慣れっこになっている人たちに投げたことになる。

 「メモでしょう。先日ある集会がありましたが、まえもってテキストが配布され、それを読んだ上でメモをつくり、そのメモだけを持って参加せよというルールでした。これはよかった」。通信工学の大家、I先生の答えであった。

 「次世代の本はオン・ディマンドでページ単位に検索できる電子本だ。読者が読みたいときに読みたいテキストを勝手にコピーできる本だ。つまりは新しい形式の写本なんだ」。こんなことを言いたくて企んだ質問だったので、I先生のお答えにはぐらかされた感じ。だが、私が面食らって黙りこんでいるあいだに、まわりの談笑は弾んでいた。

 「元のテキストとメモとでどっちに市場価値があるんでしょうかね?」「メモでしょう」「メモは書き手によって違いますよ」「だからこそマーケットで値がつくとはいえませんか」。こんな対話が続いていた。委員の諸氏は図書館専門家理工系研究者であったが、この会話の進行にはだれも異論はないようであった。

 このとき、私は若いNさんが過日、遊びにきたときの会話を思い出していた。Nさんは中央銀行研究者である。私は訊ねた。「電子マネー議論が盛んですね。このテーマについて情報を集中して持っているところはどこなの? あなたのところ? ほかの銀行? 所管の役所? 大学のだれか? どこかのシンクタンク?」

 「それがないんです。とにかく情報が多すぎる。ジャンク情報も多い。だから、同好の士を募って、手分けをして集めるしか手がありません」「集めた情報をどうなさっている?」「分担して読み、評価し、メモを作って交換しています」。ここでもメモが顔を出してきた。

 メモというもの、原テキストに比べてどんな意味を持っているのかな。要約、参照、引用、注釈、翻案、再定義、キーワード付加、編集、索引、目録、文献リスト、レビュー、二次資料、二次的著作物――こんなところか。どんなメモでもこのなかのいくつかの特徴を含むが、はっきりいえることは原テキストの単なるコピーではないということだ。なにがしかの付加価値を足している。

 この付加価値だが、一言でいえば、原テキストの情報を圧縮しているということだ。たとえば1冊の本を1ページに詰めこむことができる。同時に「情報の圧縮」という言い方は「知識の凝縮」としても理解できるだろう。1編のメモであっても、そのなかには先人の数多くの知的成果が集積している――こうもいえる。

 「なるほど、メモは情報圧縮の手段なんですね。情報圧縮というと、エンジニアはとかくMPEG(エムペグ、動画像情報の圧縮技術)がどうのこうのと口走りがちですが、メモは情報圧縮、さらには知識の集積の有効な手段なんですね」。私はこんな台詞をI先生に返すことができたはずだ。

 電子化の時代にメモはどうなるのだろう。やや極端論だが、メモが主となり原テキストが従になる。なぜか。情報の過剰な供給がますます加速されるから。インターネット環境においては、著者と著作の数は指数関数的に増えている。だが、読者の数は従前通り、しかも読者の持つ読書時間は1日24時間の枠を超えることはできない。
 だからインターネット環境では、だれがどんなテキストをどこに書いているという案内サービスが大切になる。案内されないテキストは存在しないことになるから。もちろん、こんなことは皆さん百も承知のことであり、だからこそ、サーチ・エンジンが開発されたり、コーパスシソーラス電子化されたりしている。

 これから情報通信市場に普及するのはプッシュ技術(例、テレビ)かプル技術(例、データベース)か。こんな議論が昨年来やかましい。情報の利用について、送り手に見計らいでオマカセするものが前者、受け手が自分で注文するものが後者である。この視点でみると、メモは前者、サーチ・エンジンのたぐいは後者、ということになる。市場の見方は、プルの愛好者はせいぜいマニアどまり、大方のユーザーは横着なのでプッシュか、というものである。とすれば、メモは電子メディアでも役立つはず。
 つけ加えれば、すべての本が電子化されるわけではなかろう。奈良に建設されつつある第二国立国会図書館は、電子図書館の機能を備えるとはいいながらも、15年分の図書を保管するために、いま巨大な地下室を掘りはじめようとしている。しかも、この書庫でも十分ではなく、2017年には溢れてしまうという。紙メディアにおいても、情報の指数的増大が予想されているわけだ。つまり、こちらでもメモの効用が期待されるということ。

 と、ながながとメモの効能を讃えてきたのは、だから私もメモ集を作りました、という手前味噌を並べるための伏線。どんなメモ集か。題して『科学書乱読術』、科学書と技術書に関する読書メモ集である。著者としては面映い言い分だが、どなたかがメモとして引用してくださることを心待ちにしている。
  

2018-06-19

【今は昔:1】「「積ん読」の終わり?」『本とコンピュータ』 2期16号 (2005年)

 自分のことで恐縮だが、わが家の書庫にある本をみると、読み通したものはごく僅か、拾い読みのものが多少、読まずに積んだままのものが大部分、である。

 本を読むのが嫌いではないのだが(その証拠に書評集を2冊作った)、そして、まあ速読のほうであるとは思うのだが、この始末である。私にとっての本は、なべて言えば本は死蔵のために購入したようなものである。
 よく大学図書館に厄介になる。ここでも私が最初の借り手だったり、あるいは数十年ぶりの借り手だったりすることが多い。つまり図書館の本も読まれる機会はほとんどないらしい。積んであるだけ、といってよい。
    
 電子化であるが、このときに「積ん読」はどうなるのか。もう手元に冊子体はない。読者はデータベースにアクセスして電子本のサービスを受けることになる。もし契約を止めれば、契約中にアクセスできた電子本に対しても、アクセスはできなくなる。ここで「積ん読」という行為は止めを刺されてしまう。

 冊子体には絶版ということがひんぱんに起こった。だから「積ん読」をした。だが電子本についてはその心配は無用である。いったんインターネット上にだれかがコピーしてしまえば、その電子本は探すのはたいへんかもしれないが、間違いなくだれかのシステムのなかで半永久的に残っている。これが現在の経験的な事実である。とすれば、なんで「積ん読」をしておく必要があるのか。

 じつは、上記の話はすでに学術雑誌の分野では実現つつあることである。サービスの電子化は多様な形で試行錯誤がなされている。絶版対策については、大手の出版社がその国の国立図書館バックアップ用のデータベースを預けたような例もある。

 かつてパピルスの巻子本が紙の冊子体になったときに初めてページが振られ、したがって引用という冊子体の使い方ができた。同様に、冊子体が電子本に替われば、私たちはハイパーテキストのありがた味を満喫できるはずだ。そのハイパーテキストの処理が自由にできれば、私たちは、もう「積ん読」のための冊子体の山を作らないですむことになる。

 とはいいながらも、私は冊子体の山に囲まれていたい。理由を問われると窮するが。

2013-12-20

【364冊目】 ダニエル・ソローヴ(大谷卓史訳)『プライバシーの新理論』みすず書房(2013)

この本の著者は法学者、訳者の大谷さんは倫理学の研究者である。そして評者である私は老いたシステム・エンジニアである。たがいに専門領域が異なる。専門領域の異なるものが訳者となり、さらに評者となる。
このようにプライバシーは専門領域が異なっても関心の対象となる主題である。それはなぜか。これに応えた本がこの『プライバシーの新理論』である。
第1章は「プライバシー:未整理の概念」である。ここで著者は「プライバシーは、カメレオンのごとき言葉であって、外延的にはまったく共通点がない幅広い利益を指し、内包的には、その名前のもとで主張されている利益ならなんでも代表する看板を与えるために用いられている」と示している。この開放的な姿勢が著者のこの本における主張を支えることとなる。
第2章は「プライバシー理論とその欠陥」となる。ここで著者はこれまでのプライバシー論を列挙し、そこに示されるプライバシーの定義を整理する。
まずウォーレン&ブランダイスの「放っておいてもらう権利」を挙げ、これに「(自己への)限定アクセス」「秘密」「個人情報のコントロール」「人格性」「親密性」と続ける。なお、人格性には公的規制――たとえば監視――からの保護も入る。プライバシー論の分野で評判のプロッサーの四類型――私生活への侵入からの保護など――は上記のどれかに入る。
著者はこれら既存のプライバシー概念をていねいに分析し、それぞれの定義を通しての共通部分はなく、したがってそれらはカメレオン的な概念となる、とダメを押す。
第3章は「プライバシーの再構築」と題され、ここで新しいプライバシー論を組み立てるための方法が示される。著者はその方法として「ウィトゲンシュタインの家族的類似」という用語を持ち出す。哲学的な素養に欠ける評者にはこの用語を噛みくだく自信はないが、あえてそれを試みれば、それはプライバシーという用語にリンクされる用語を列挙しつつ、その先をたどり、その先にぶら下がってくる用語の集合を新しいプライバシーの定義として理解する、ということかとも思う。つまり、プライバシーの新定義はハイパーテキストとして表現される、とも解せるだろう。
このとき、プライバシーの新定義は「状況依存的、文脈依存的」となる。そして「時間的に流動し、空間的には多様性を帯びる」。だがこれによって、「社会保障番号、性的振る舞い、日記、住居を一つのプライバシーという概念に属する」と考えることができる。この章では「家族」「性」「身体」「通信」という用語がハイパーテキストのハブとなる。
本書の出版後、米国では「追跡を拒否する権利」、欧州では「忘れられる権利および削除する権利」なども提案されているが、これで著者の意見が揺らぐとは考えにくい。
第4章で議論は「プライバシーの価値」に入る。ここで著者は、あからさまに、そう、とは書いていないが、プライバシーの費用便益分析に入る。著者はまず「プライバシーの美徳と悪徳」を例示し、その価値が相対的であることを示す。美徳については「個人的目標達成の手段」になるとウェスティンの意見を引用し、悪徳については「言論と出版の自由として知られる自由(への脅威)」になると、ポストレルという作家の見解を引用している。
著者はさらに進む。「バニラアイスクリームは多くの人びとにとって、それが好きだという内在的価値を有するが、それがなぜか、その理由をあげるのは容易ではない――プライバシーの価値も同じである」(要旨)と。だから、プライバシーの価値は道具的な価値として、プラグマチズム的な方法により示すことしかできない、と説く。
そして括る。「個人は私的空間――プライバシー(評者、注)――を用いて、自分自身の性格を育て、他人を貶め、暴動を計画し、切手を集め、マスターベーションをし、トルストイを読み、テレビを視聴し、無為に過ごすことができる」と。これはヴォルフェという研究者からの引用である。
ここで一息。およそ法学書は引用で固められている。この著書も例にもれない。判例、他者の論文からの引用か、あるいはそれらの梗概の記述が続く。その引用の対象は法学分野のものにとどまらない。それはアーレント、イソップ、エディソン、トックヴィル、ネイダー、ボルヘス、三島由紀夫などにわたる。ただし、文献表をみるとその引用は『ブルーブック』の方式で統一されている。この意味では法学書の定石を外してはいない。なお、『ブルーブック』は米国の著名法学雑誌(複数)の編集者たちが作成した引用法のマニュアルである。このような引用を縦横に駆使し、その引用に大きな意味を持たせた第5章が、つぎに続く。
第5章は「プライバシーの類型論」と題され、ページ数でみると本書の約三分の一を占めている。つまり著者がもっともその知的エネルギーを注ぎ込んだ章となる。ここでは、法律、判例、憲法、ガイドラインを始め、多くの文献――法学のみならず政治学、社会学などの分野を含む――を探索し、ここからボトムアップ的にプライバシーの道具的な価値をすくいあげる。引用される文献は一ページあたり四ないし五件となる。ここで著者は、みずからがプラグマチズム的と示した方法を実行してみせる。
著者は、まず、解析用の枠組みとして、監視、個人情報の二次使用、不法行為による個人情報の開示、個人の意思決定への介入など、十四の類型を挙げ、つぎに、それぞれの価値を、対抗する公共的な価値と比較考量する。ということで、この章は『プライバシー逆引き事典』といった格好になっている。
著者は第5章での記述を、デューイを援用しつつおこなっている。だがここで私は、その自分がエンジニアであるためか、デューイをブリッジマン――超高圧物理の研究者にしてノーベル賞受賞者、デューイと同世代人――に置き換えてみたくなった。そのブリッジマンは操作主義という方法論を提唱していた。それは、端折って言えば、物差しがあるから長さを定義できる、というものであり、さらに付け加えれば、机の寸法を測る物差しと月までの距離を測る物差しとは違う、というものであった。著者がもしブリッジマンの物差しを知っていたら、それはプライバシーを定義する道具として、より適切であったろう。
評者はブリッジマンを担いだが、これには理由がある。プライバシーは技術的な環境によって変化するものであり、したがって理学系の道具立てによるほうが理解しやすいのではないか、と考えたからである。
第6章は「プライバシー:新しい理解」である。ここで著者はそのプラグマチズム的な方法の総括に入る。そしてその主張を、スポーツ選手に対するドラグ検査、政府によるデータマイニング、街頭の監視カメラ、の三課題に適用してみせ、その浩瀚な書物を閉じる。と言いかけて気が付いたが、ここにパンデミックへの防疫――これもプライバシーにかかわる――についても書き加えてほしかった。
いま、浩瀚な、と言ったが、この本は法学の学生でなければ厚すぎる。エンジニアの読後感を率直に示せば、おなじ結論を、たぶん、三分の一のページ数で示すことができたろう。たしか『ハーバード・ロー・レビュー』の投稿規定には二万五〇〇〇語以内、『ネイチャー』のそれは三〇〇〇語以内、とあったはずだ。まあ、専門分野によって読み手の忍耐力が違う、いや失礼、読み方が違う、ということか。
じつは評者はソローヴの名前にはすでに馴染んでいた。というのは、評者は法学文献のデータベース検索を楽しみとしているが、その検索にこの研究者名の論文がよく引っ掛かったからである。評者のようなエンジニア風情の好みにあう論文の著者はさぞかし傍流の研究者であろうかと高を括っていたら然に非ず、訳者によれば著者はこの道の大家であるという。その大家と思わせないところに、この著者の柔軟性があるともいえる。
本書にもどれば、日本のロイヤーは、これは法文化の違う国の議論だよ、とソローヴを一蹴するかもしれない。だが、プライバシーにかかわる技術の動向は国境を越えて、つまり法文化の如何とはかかわりなく拡がるはずである。
今後、プライバシー概念はさらなる変容を迫られるだろう。カメレオンは生き延びることができるだろうか。たぶん、絶滅種になるだろう。
   
『みすず』11月号(2013)より(前半)

2013-11-13

【349冊目】 中原啓一・三次衛監修 『情報の検索とデータベース』 電子通信学会発行 (1981)

データベースというものは、いまやコンピュータというコンピュータには格納されているといってよいだろう。それも大型汎用機からパソコンにいたるまで。だから、データベースの姿というものは、その使い手の関心のあり方、力量、懐具合などによって、千変万化するものだろう。
 もうひとつ。データベースというものの寿命は、この変化の激しいコンピュータの世界のなかでは例外的に永い。IMSなどという言葉を聞いたのは、もう20年もまえであった。それがまだ動いている。と同時に、この永い年月のあいだには、データベースについていろいろな試みが出現してきた。それは、分散データベースから、データベース・マシン、さらにはリレーショナル・データベース、光ディスクにいたる。そのメニューは百花僚乱といったところである。
 こんな環境のなかで、データベースに関する1冊のテクストを書こう、というのは、壮挙というべきか無謀というべきか。まず監修者の意図に脱帽したい。
 とうぜんのことながら、この本では内容を思いきって刈りこんである。つまり、コンピュータ技術者がとかく陥りがちな近未来的な話題には薄情なくらい素気なく、現在使える技術にテーマを絞っている。この点、見事な見識といえよう。だから、読者はないものねだりをしないことが肝要。
 前おきが長くなったが、この本の意図は、現役のシステム技術者のために、データベースについて一通りの知識をあたえることのようである。その点は、この本の目次を眺めると、よく分かる。この本の特徴といってよいものは適用例の紹介だろう。この部分が全体のほぼ半分のページを占めている。
 ここでは、およそデータベースと名のつくデータベースを紹介している。それは銀行、自治体のデータベースから、CAD用、地図用、分子設計用などのエンジニアリング用データベース、さらにはDDS用データベースにいたるという欲張りようである。
 ただし若干の苦情をいえば、なにしろ40人にのぼる大集団の共同作業なので、質にばらつきのあることは否めない。示唆に富むものもあれば、カタログ的な記載でお茶を濁しているものもある。
 ということで、データベースの現在を知るには手頃な本だろう。ただし、それでなくとも多忙なシステム技術者が、1冊仕立とはいえ、こんなボリュームの本に付き合えるのかどうか。私にはちょっと心配である。

『日経コミュニケーション』 11号 (1986)

2013-09-11

【336冊目】 B・P・キーホー(西田竹志訳) 『初心者のためのインターネット』 プレンティスホール・トッパン (1993年)

【前に続く】
インターネットは全地球的なコンピュータ・ネットワークである。このネットワークへのコンピュータの接続は100万セットを超えたという。ユーザー数も500万とか1,000万とかいう。人気のあるシステムである。
 もともと、防衛分野、学術分野の研究者用として開発されたものだが、1980年代に急速に成長したものだ。このシステムの特徴は、非営利的に、しかもボランティアによって運用されていることである。したがって技術的にも、組織的にも、管理が分散している。ユーザーの数をきちんと把握できないのもそのためだ。
 もともと、ネットワークというものは、電話会社やVAN会社が回線品質をギャランティーしてサービスするものだが、このネットワークはそれを一切しない。品質保証はユーザーの責任に任されている。つまり、ベスト・エフォート方式だ。
 こんなこともあり、このネットワークの全貌については、いま一つ不明であった。そのシステムが、最近、民間の商用ネットワークと接続するようになった。となると、ビジネス人も、このネットワークと無縁ではいられなくなる。
 そうした意味で、この本はインターネットに関する絶好のガイドブックになっている。インターネットへのアクセス方法、インターネットのサービスするデータベースインターネットに関するエピソードなど。
 ついでながら、この本の原タイトルは『禅とインターネットのアート』となっている。禅とは「直観的な理解」とのよし。

『情報システム・フォーラム』 384号 (1994年)

2013-08-30

【332冊目】 ゲーリィ・ガンパート(石丸正訳)『メディアの時代』 新潮社 (1990年)

この本は、現代のメディアに関係するさまざまな真贋論をあからさまにし、これを中心に情報社会の今後を予想したものである。
 まず彫刻。ヴェニスのサン・マルコ大聖堂にある馬像が、環境汚染のためにレプリカに替えられている。いっぽう、ニューヨークのメトロポリタン美術館には、そのオリジナルが展示された。常識のしめすところは逆だろう。
 話題は彫刻から放送へ。はじめはテレビのライブとビデオの区別。この区別を視聴者は見抜けるだろうか。見抜けなければ、視聴者は過去と現在とを取り違えるだろう。
 つづいてスポーツの中継放送。正確無比なカメラとVTRは、現場にいる審判よりも、遠隔地にいる視聴者のほうに、正しい勝敗をしめすことができる。審判は存在意義を失う。
 放送のつぎは録音。ラジカセは、自分の縄張りを主張する若者の武器となる。逆にヘッドフォン・ステレオは、他人と無関心でいたい青年の道具となる。
 つぎは演奏について。かつては聴衆をコントロールできたのは演奏家であった。今日では、それは録音技師になってしまった。テープの取り直しと継ぎ接ぎが自由になったおかげで、いまや演奏は完璧すぎるようになった。むしろわざとキズをいれてライブらしくする。
 録音には電話がつづく。電話では相手の居場所とは関係なしに話ができる。それだけではない。相手が当人なのか、テープの声なのか、あるいはコンピュータなのか、それさえ定かでなくなった。こんな環境になったので電話セックスなどというものも出現した。
 つぎは電話からコンピュータへ。コンピュータは人類の全知識データベース化を実現しつつある。その結果どうなるか。知識の伝承のために丸暗記などする必要はなくなった。学問の体系は変わるだろう。またアマチュアでもデータベースにアクセスできるようになった。これまで知識を独占してきた知的職業人の特権はなくなるだろう。
 コンピュータの話はコミュニティへと移る。これまではおなじ地域にすむ人びとのあいだにコミュニティが存在した。だが、これからのコミュニティは電子メディアが地域的な制限を越えて結ばれることになるだろう。隣人より電話を、ということになる。
 彫刻→放送→録音→電話→コンピュータ→コミュニティと遍歴したあとで、著者はつぎのようにしめ括る。「過去の価値観は‘忍耐は報われる’とか‘急いでは事をし損じる’ことに頑固にこだわっている。しかし現実はその逆を実証している。‘速い者ほど報われる’時代が、否応なく到来しているのだ」。
 この種の話題は、とかく煽情的になりがちである。その点、この本には、品格を欠く表現はない。
 レポートというより、気のきいたエッセーとして読める。

『KDDテクニカル・ジャーナル』 5号 (1991年)

2013-07-26

【317冊目】 通商産業省知的財産政策室監修『営業秘密ガイドライン』 知的財産研究所 (1991年)

このところ(注、1990年代初頭)、知的所有権に関する記事が毎日のように新聞紙面をにぎわしている。これは、国際貿易上で受け身になっている米国が、ハイテク分野における優越性をなんとか維持し防衛しようとしているからである。
 だが、米国が主張したい権利は知的所有権にかぎらない。いわゆるトレード・シークレットも、米国が日本に強要してきた制度である。
 現に、GATTをバックアップするために組織された『知的所有権に関する日米欧民間三極会議の見解』においても、『科学技術における研究開発のための協力に関する日本国政府とアメリカ合衆国政府との間の協定』においても、トレード・シークレットの保護が提案されていた。このような国際的な要請に答えて、日本でも、昨年、その保護が不正競争防止法の改正によって制定され、本年、これが施行された。
 日本では、このトレード・シークレットは「営業秘密」(「財産的情報」ともいう)として定義されている。この制度は、いわゆる既存の知的所有権(工業所有権、著作権など)制度とは異なる。この制度が存在するのはこれまで米国のみであった。したがって、私たち日本人にとってはなじみのないものであった。
 なじみはないとはいいながら、法律の改正によって、この制度は私たちのビジネスには強い関係をもつようになった。たとえば、顧客データベースの権利を保護できる。また、スピン・オフあるいはヘッド・ハンティングで流出する人材のもっているノウハウを差し止めることも、場合によってできる。これは、とくにソフトウェア・ハウスにおいて緊急かつ重要なテーマだろう。
 もともと法律というものは専門性の高い領域で、私たちアマチュアにとっては、ちょっとやそっとでは理解できない世界である。そこへもってきて、日本になじみのない制度ということになると、アマチュアは完全にお手上げである。だが、そうしたアマチュアにもってこいの本が刊行された。それが以下に紹介する本である。

 『営業秘密ガイドライン』は、この法律を所管する役所が発行した解説書である。まず、第1編として「営業秘密保護の概要」が説かれる。ここでは、法律改正の趣旨、営業秘密の定義、不正行為の定義、この法律の効用が解説されている。
 ついで第2編では「営業秘密ガイドライン」が紹介される。ここでは、日本、米国、ドイツなどの判例分析を通じて、営業秘密の管理について、その扱い方が示されている。
 さらに、資料集として主要判例が整理掲載され、同時に各国の法律もあわせて転載されている。

『データマネジメント』 353号(1991年)

2013-06-15

【305冊目】 石黒憲彦/奥田耕士 『CALS:米国情報ネットワークの脅威』 日刊工業新聞社 (1995年)

1960年代のことになるが、評者は米軍規格(ミル・スペック)の調達方式を仔細し調べたことがあった。
 この調達方式は、発注仕様、製造図面、製造マニュアル、検査成績書などを綿密に作成し、それらを相互にチェックできるようにした煩雑な文書管理システムがベースになっていた。
 当時すでに「ダグラスの法則」と揶揄的に呼ばれた経験則があった。それは、航空機とおなじ重量の書類を作らないとその航空機は空を飛べない、というものだった。このように書類(つまりデータ)万能主義に頼ったのは、製品の信頼性を徹底して求めたためである。
 この点、現場要員の知恵を信頼して御神輿的に仕事を進める日本の品質管理システムとはまったく異質のものであった。
 評者はその後この世界から離れてしまったが、このデータ重視の調達方式は一段と錯綜し、1980年代にはこのシステムの非効率性はだれの目にも明らかになってしまった。当然、ペーパーレス運動が生じた。それが、この本のテーマであるCALSである。
 CALSとは、はじめContinuous Acquisition and Life-cycle Support の略語であるとされていたが、現在ではComputer-aided Acquisition and Logistic Support だということになった。前者はこのシステムが国防省の調達方式であったときのもの、後者はそれが商務省に移管されたあとのものである。この本には触れてないが、最近は、Commerce At Light Speed のことであるともいう。
 CALSは、このように軍用調達システムを離れて、米国政府の調達システムへ、さらには米国の全産業をカバーする社会システムへと変貌しつつある。この意味で、米国を市場としている日本企業にとっても看過できないシステムである。
 とはいいながら、CALSはその略語がしばしば変化しているように、まだ確立したシステムではなく、成長しつつある概念である、ともいえる。その内容はペーパーレス運動にはじまるが、CAD(コンピュータ支援設計)、EDI(電子データ交換)、データ共有(データベース)、コンカレント・エンジニアリング(複数業務同時処理)などに多分野にわたる。この意味では、きわめて包括的な概念であり、その分、理解しにくい点もある。
 この本は、この新システムについて、成立の経緯、システムの構造、社会経済的な役割、日本企業へのインパクトなどを平易に説明した最初の解説書である。

『東洋経済』 5月27日号 (1995年)

2013-04-14

【275冊目】 ケヴィン・デイヴィース(中村友子訳) 『ゲノムを支配する者は誰か:クレイグ・ペンターとヒトゲノム解読競争』, 日本経済新聞社, (2001年)

【274冊目】より続く

バイオインフォマティクスについては、前回 Zweiger の本を挙げ、遺伝子工学の同時代史としても読めるように仕立てられている、と紹介した。ただし、同時代史ということであれば、こちらのデイヴィースの著書を勧めたい。ここには国際的な研究ティームとベンター率いる研究グループとの角逐が描かれている。しかも、DNA 配列の特許化をめぐるさまざまな利害関係者の行動にも目配りがなされている。この意味では、HGP に食指を動かす私的領域の事業者――製薬ビジネス、データベース・ビジネスなど――の知的財産権戦略をたどるのによい事例研究となっている。

【276冊目】に続く

『法とコンピュータ』 20号 (2002年)

2013-04-13

【274冊目】 Gary Zweiger " Transducing the Genome-Information, Anarchy,and Revolution in the Biomedical Sciences", McGraw-Hill (2001)

世紀の変わり目の頃から、「バイオインフォマティクス」あるいは「ゲノム情報処理」という研究領域が、一般の研究者の耳にも届くようになった。それは、一言でいえば、巨大かつ多様な遺伝子情報のデータベース群を相手にし、これを洗練をきわめたソフトウェアと超高速のハードウエアを使って解析し、ここから製薬や医療に役立つ知識を取り出そうという分野である。
 この研究領域は、国際的な共同研究として実施されたヒト・ゲノム解読計画(Human Genome Project : HGP)をめぐって出現したものである。HGP は1990年に開始され、2000年に一応完了した。その狙いは、周知のように、ヒトDNA のもつ30億対の塩基配列を端から端まで解読することにあった。その成果は、公有のデータベースとして、すべての研究者に公開されている。
 問題は、この研究領域に一企業が参入し、あろうことか、国際的な共同研究ティームと互角に競争し、見方によっては、よりすぐれた成果をあげてしまったことにあった。それはセレラ・ジェノミック社の社長ベンターであった。とうぜんながら、こちらのほうは、その成果のビジネス利用を狙っていた。かれは国際ティームが狙うデータの公有、公開路線とはべつの戦略をとった。
 したがって、ここにはいくつかの制度的な課題が出現した。第1に、データの公有と私有をめぐる問題を生じた。これは学会における情報の自由流通と産業界における情報の知的財産化とのあいだの軋みを導いた。第2に、ヒトDNA の塩基配列を知的財産権化する可能性をめぐる課題である。これは、とくにヨーロッパにおいて、緑の党やグリーンピースが取り上げた。第3は、その知的財産権化が可能であるとして、その要件はなんであるかという議論であった。
 このバイオインフォマティクスという研究領域であるが、これについては一般人の理解できる書籍は少ない。境界領域のためでもあろうか、コンピュータのアルゴリズムか、遺伝子操作の手法かのどちらかに詳しい研究者向きのテキストはあるが、双方に疎い読者のための本は、まず見当たらなかった。だが、Zweiger の本は、そうしたなかで、まあ、人並みの科学的、技術的な知識をもっていれば、理解できるような書き方になっている。しかも、単なる教科書ではなく、HGP の歴史を追って、遺伝子工学の同時代史としても読めるように仕立てられている。

【275冊目】に続く

『法とコンピュータ』 20号 (2002年)