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読書80年:名和小太郎

2018-05-08

【読書30年:536】 光野有次『バリアフリーをつくる』岩波新書 (1998) 

20年前に刊行されたものではあるが、示唆にとんだ指摘が多い。「ヒトは1日の半分以上は体軸を重力軸に添わせている」、あるいは「できるだけ抗重力姿勢をとれ」など。

2018-01-12 【読書80年:527】

松田道雄『私の読んだ本』岩波新書 (1971)

著者は実務家(医者)にして反体制派のシンパ。加えて読書家。このような人をかつては「インテリゲンチャ」と呼んだ。その人が、自分の読書遍歴を語る。読者の私は、本書の後半についてはそれなりに時代を知っている。だから、著者の読みの深さが分かる。
 チェルヌイシャフスキーの『哲学の人間学的原理』は若き日の私の愛読書であったが、その訳者が著者であったことを全く忘れていた。また、ゲルツェンの引用もある。この本にも若い私は励まされていた。
 もう一つ。この本を読みつつ、私は民芸の『火山灰地』の舞台を、その滝沢修の台詞を、思い出した。

2017-09-03 【読書80年:513】

今井むつみ『ことばと思考』岩波新書 (2010)

 ヒトは言葉を使って考えるのか。じつは、言葉のみではない。思考は、ヒトが進化の過程でとりこんだ無意識下のなにかによっても助けられている。これが本書の主張。
 本書は論理も明晰、文体も明晰であるにもかかわらず、難解である。この主題が難解なためだろう。

2017-04-26

【読書80年:500】 津野海太郎 『読書と日本人』 岩波新書  (2016)

著者が読者の私と同世代なので、著者の意には反するかもかも知れないが、私はこの本を自分史に重ねて読むことができた。私も河合栄治郎の『学生と読書』で育った世代。本不足の戦中には、岩波文庫の巻末にある既刊目録をブラウジングしつつ、どんな本だろうと思いをはせたものだ。戦争直後にはアテネ文庫(全紙版の新聞紙を8つに折り、裁断せずに32ページに仕立てた文庫版)の恩恵に預かった。
 この本の読みどころは、本自体の話にとどまらず、本がどんな社会的な機能をもっていたのか、また、読者はどんな空間で読書したのか、どんな姿勢で読書したのか、こんな話題がつぎつぎと現れること。これが、それぞれの時代ごとに、読者層、本の姿形、出版と流通の方法に関係づけられて示される。
 最後に著者は、電子書籍について、図書館について、熱く語る。私は意見をやや異にするが。

2017-04-22

【読書80年:499】 大塚恭男 『東洋医学』 岩波新書 (1996)

2000年以上、症状と生薬にかんして反証可能性のテストを繰り返し、反証のなかった経験的な知識が漢方になった。ここにいう反証とは、効用のないもの、副作用のあるもの、劇薬など。 これ誤読かな。

2015-10-15

【読書70年:435】鶴見俊輔『思い出袋』,岩波新書 (2010)

80歳を越えた人が、みずからが出来たことと出来なかったことを、冷静に仕分けている。これを支えているのは強靭なニヒリズム。この境地、80歳代になった読み手には痛切に理解できる。

2015-08-12

【読書70年:430】 高瀬正仁『高木貞治:近代日本数学の父』岩波新書(2010)

つまらなかったが、読み通した。つまらなかったのは読者の私に現代数学の素養がないため。それでも読め通したのは、ここに明治期の西洋数学の導入についての苦労が記述されているため。
 なお私事にわたるが、本書のところどころに「考へ方研究会」(考え方ではない)の話がでてくる。私はその「考へ方研究会」の主催する日土講習会に少年期に通ったことがある。

2013-06-08

【302冊目】 池内了 『擬似科学入門』 岩波新書 (2008年)

本書の骨子を示せば、それは擬似科学を3つのカテゴリーに分類したことにある。第1種のそれは反科学的はもの、例示をすれば、血液型、超能力など。第2種のそれは、科学の乱用、誤用、悪用にかかわるもの。例示をすれば、ゲーム脳、相関関係すなわち因果関係といった理解など。
 第3種のそれは、温暖化、地震予知、疫学など。問題解決にあたり人間の世代を超えて観測しなければならないもの、あるいは倫理的な理由で実験ができないもの――これらがここに入る。以下は、評者の感想。
 まず、第3種の擬似科学というカテゴリーを設けたことに著者の手柄がある、と思う。これらの対象を擬似科学として括ることには、相当の勇気が必要だったろうと察するからである。
 ついで著者は、第3種の擬似科学には予防原則によって対応しなければならない、と説く。評者は著者の意見には同意しながらも、この主張が実現可能か、という危惧をもたざるをえない。予防原則を通すためには、私たちの社会は、経済的にも社会心理的にも、それなりのゆとりを持たなければならない、と考えるからである。
著者は「科学者の見分け方」という節でこの本を閉じる。これは読者としての私のもっとも知りたいこと。だが、ここで著者の歯切れは悪くなる。残念、もう少し、踏み込んでほしかった。

本ブログ初出

2013-04-11

【272冊目】 佐伯胖 『新・コンピュータと教育』 岩波新書 (1997年)

学校にコンピュータが入ってきた。コンピュータがわからない人には、わかっている人が何をいっているかわからない。コンピュータがわかっている人には、「コンピュータが分からない」という人がわからない。著者はこのように巻頭に示している。
 この本の主題は教育論である。だが、上に引用したように、この本の主題はコンピュータ・ユーザー論であると読み取ることもできる。
 著者は、コンピュータはまず使える道具でなければならないという。使える道具であってはじめて学びのための道具となる。
 「使える道具」とはどんなものか。ユーザーにとって「探さなければならないもの」「覚えておかなければならないこと」「選ばなければならないこと」「推論しなければならないこと」などをできるだけ少なくしたものである。
 「使える道具」は同時に「分かりやすい道具」でなければならない。よく「使えればいいのであって、分かる必要はない」と言われている。本当にそうか。初期設定や保守のときに、ユーザーは予想外のことにぶつかる。マニュアルにはすべての場合が列挙されているわけではない。とすれば、ユーザーは自分で考えなければならない。ある程度の作動原理や仕組みは分からなければならない。
 つまり、メーカー対ユーザーの二分法では困る。メーカーはユーザーの身になって道具の設計をなすべきであるし、ユーザーもメーカーの意図や前提を理解しなければならない。
 最近、情報通信ビジネスの世界で、プッシュ技術(例、テレビ)かプル技術(例、パソコン)かという議論が賑わっている。著者の意見はこの議論に対して示唆をあたえるものである。
 著者はつぎの課題に入る。「学びのための道具」とはどんなものか。使える道具は頭を使わせない。使わない頭は空っぽになる。しかし、頭を使わせる道具は不便だ。
 漢字を覚えなくとも、ワープロを使えばよい。暗算が出来なくとも、電卓を使えばよい。こう、考えてよいか。
 「読み・書き」の目的はなにか。漢字の記憶量を増やすことではない。歴史のなかで文字が作り上げてきた文化に出会い、その再生産に参加することだ。このためのワープロである。漢字がどうのこうのというのは些細な問題である。「数える」についても同様。これが著者の意見。
 しからば、ビジネスにとって、「読み・書き・数える」の原点はなにか。読者が百花繚乱のパソコンに翻弄される企業人であれば、こう著者は問いかけるに違いない。
    
初出失念

2013-02-27

【260冊目】 立平良三 『天気情報の見方』 岩波新書

天気予報の本、その2。
 全編これ数値予報の話。観天望気の話など、もう、これっぽっちもない。コンピュータが、アメダスとレーダーと「ひまわり」が集めた情報を、ひたすら計算する趣向になっている。天気図もコンピュータのアウトプットだけ。
 コンピュータ化によって、予報は当たるようになったのか。東京地方の翌日予報の成績は、戦争直後に75点だったのが、40年後に80点になった。
 天気には持続性がある。そこで「明日の天気は今日と同じ」と予報すると、それでも70点はとれる。また、天気には周期性がある。そこで「明日の天気は昨年の同月同日に同じ」と予報すると、やはり70点はとれる。
 この70点と、さきの75点ないし80点との差が予報の成果になる。こうみると、この差は40年間に5点から10点に、つまり2倍になった。これがコンピュータの手柄になる。
 数値予報は、経験法則つまり観天望気を使わずに、物理学の法則だけで天気を予測したいという発想がもとになっている。この物理法則、じつは持続性や周期性では説明しきれない複雑な特性(非線型性)をもっている。だからコンピュータの出番となった。数値予報の仕掛けについては岩崎俊樹の『数値予報』(共立出版)が数式ぬきで解説してくれる。
 ところで、どんなに高速のコンピュータを使っても、どんなにたくさんのデータを集めても、予報できる期間には限界
があるらしい。
 データのはじめの値がちょっと違うと(たとえば数1000分の1)、あとの計算結果が大幅に食い違ってしまう。この現象をカオスという。このために予報が有効なのはせいぜい2週間。この現象を発見したのは数値予報の研究者ローレンツだという。このへんの経緯、戸田盛和の『カオス』(岩波書店)にある。
 話をもどす。的中率80点はよいとして、外れた20点について、見逃し(降らないと予報したのに降った)がよいのか、空振り(降ると予報したのに降らなかった)がよいのか。著者は、これを数理的なゲームに仕立て、あれこれと思考実験を楽しんでいる。
 だが、それも総務庁の手にかかると官僚制の弊害を示すテーマとなる。行政監察局の『予報精度の向上と民間気象業務の発展をめざして』は、警報を重視せよ、空振りよりも見逃しに注意せよ、警報をその地域の災害と関係づけよ、とニベもない。
 天気予報が当たらなかったとき、気象台の責任はどうなるのか。著者は、気象庁長官を務めたという立場上、口を噤んでいる。
 じつはこのテーマ、米国に判例がある。台風警報の出し遅れで遭難した漁師の家族が気象台を訴えた。この判決の行方については名和小太郎著『雲を盗む』(朝日新聞社,1996年)を参照ねがいたい(最後に手前味噌になって恐縮)。

【注】 著者はその後『気象予報による意思決定:不確実情報の経済的価値』(東京堂出版,1999年)を発表している。

『一冊の本』 1巻8号 (1996年)