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読書80年:名和小太郎

2018-06-24

【今は昔:3】 メモの効用 :『一冊の本』 3巻8号 (1998)  

「次世代の本はどんな形になるんでしょうか?」。こんなわざとらしい質問をしてみた。わざとらしいといったのは、電子図書館のあり方についてあれこれ議論をしていた審議会のすぐあとの懇親会の席上だったから。つまり、この質問は「インターネット」「WWW」「ハイパーテキスト」といった言葉に慣れっこになっている人たちに投げたことになる。

 「メモでしょう。先日ある集会がありましたが、まえもってテキストが配布され、それを読んだ上でメモをつくり、そのメモだけを持って参加せよというルールでした。これはよかった」。通信工学の大家、I先生の答えであった。

 「次世代の本はオン・ディマンドでページ単位に検索できる電子本だ。読者が読みたいときに読みたいテキストを勝手にコピーできる本だ。つまりは新しい形式の写本なんだ」。こんなことを言いたくて企んだ質問だったので、I先生のお答えにはぐらかされた感じ。だが、私が面食らって黙りこんでいるあいだに、まわりの談笑は弾んでいた。

 「元のテキストとメモとでどっちに市場価値があるんでしょうかね?」「メモでしょう」「メモは書き手によって違いますよ」「だからこそマーケットで値がつくとはいえませんか」。こんな対話が続いていた。委員の諸氏は図書館の専門家や理工系の研究者であったが、この会話の進行にはだれも異論はないようであった。

 このとき、私は若いNさんが過日、遊びにきたときの会話を思い出していた。Nさんは中央銀行の研究者である。私は訊ねた。「電子マネーの議論が盛んですね。このテーマについて情報を集中して持っているところはどこなの? あなたのところ? ほかの銀行? 所管の役所? 大学のだれか? どこかのシンクタンク?」

 「それがないんです。とにかく情報が多すぎる。ジャンク情報も多い。だから、同好の士を募って、手分けをして集めるしか手がありません」「集めた情報をどうなさっている?」「分担して読み、評価し、メモを作って交換しています」。ここでもメモが顔を出してきた。

 メモというもの、原テキストに比べてどんな意味を持っているのかな。要約、参照、引用、注釈、翻案、再定義、キーワード付加、編集、索引、目録、文献リスト、レビュー、二次資料、二次的著作物――こんなところか。どんなメモでもこのなかのいくつかの特徴を含むが、はっきりいえることは原テキストの単なるコピーではないということだ。なにがしかの付加価値を足している。

 この付加価値だが、一言でいえば、原テキストの情報を圧縮しているということだ。たとえば1冊の本を1ページに詰めこむことができる。同時に「情報の圧縮」という言い方は「知識の凝縮」としても理解できるだろう。1編のメモであっても、そのなかには先人の数多くの知的成果が集積している――こうもいえる。

 「なるほど、メモは情報圧縮の手段なんですね。情報圧縮というと、エンジニアはとかくMPEG(エムペグ、動画像情報の圧縮技術)がどうのこうのと口走りがちですが、メモは情報圧縮、さらには知識の集積の有効な手段なんですね」。私はこんな台詞をI先生に返すことができたはずだ。

 電子化の時代にメモはどうなるのだろう。やや極端論だが、メモが主となり原テキストが従になる。なぜか。情報の過剰な供給がますます加速されるから。インターネット環境においては、著者と著作の数は指数関数的に増えている。だが、読者の数は従前通り、しかも読者の持つ読書時間は1日24時間の枠を超えることはできない。
 だからインターネット環境では、だれがどんなテキストをどこに書いているという案内サービスが大切になる。案内されないテキストは存在しないことになるから。もちろん、こんなことは皆さん百も承知のことであり、だからこそ、サーチ・エンジンが開発されたり、コーパスやシソーラスが電子化されたりしている。

 これから情報通信市場に普及するのはプッシュ技術(例、テレビ)かプル技術(例、データベース)か。こんな議論が昨年来やかましい。情報の利用について、送り手に見計らいでオマカセするものが前者、受け手が自分で注文するものが後者である。この視点でみると、メモは前者、サーチ・エンジンのたぐいは後者、ということになる。市場の見方は、プルの愛好者はせいぜいマニアどまり、大方のユーザーは横着なのでプッシュか、というものである。とすれば、メモは電子メディアでも役立つはず。
 つけ加えれば、すべての本が電子化されるわけではなかろう。奈良に建設されつつある第二国立国会図書館は、電子図書館の機能を備えるとはいいながらも、15年分の図書を保管するために、いま巨大な地下室を掘りはじめようとしている。しかも、この書庫でも十分ではなく、2017年には溢れてしまうという。紙メディアにおいても、情報の指数的増大が予想されているわけだ。つまり、こちらでもメモの効用が期待されるということ。

 と、ながながとメモの効能を讃えてきたのは、だから私もメモ集を作りました、という手前味噌を並べるための伏線。どんなメモ集か。題して『科学書乱読術』、科学書と技術書に関する読書メモ集である。著者としては面映い言い分だが、どなたかがメモとして引用してくださることを心待ちにしている。
  

2018-04-27

【ブラウジング:114】 尾池和夫・他4氏「地震予測と「第4の科学」:データに駆動された新たなアプローチへ」『科学』v88,n5 (2018)

地震予知について、なるほど、と思う指摘がいくつかある対談。
その1:物理モデルから局所的変化を説明することは難しい。
その2:初期条件がわからないと応力蓄積の評価は難しい。
その3:少数の観測例や観測点、あるいは一つの物理量の観測だけで「地震予知」の可否を議論することは難しい。
その4:「起こらない」という情報のほうが大量にある。
その5:ノイズはありえない。すべてがデータである。
その6:(多くの研究者は)データが足りないのではなく、解析をしていない。
 対談の参加者は上記の指摘を、だから地震予知の方法論を「第4の科学」(データ駆動型アプローチ)のなかへ組み込めと論じる。その論はよしとしても、読者の私は、ここに研究費がほしいよ、という機会主義的な訴えを見てしまう。

2017-06-13

【読書80年:507】 柴谷篤弘 『あなたにとって科学とは何か』, みすず書房  (1977)

著者の大学反乱への意見。
 科学技術は中立的でもなければ客観的でもない。くわえて、科学技術は世界のなかに、世界のなかに、民族のなかに、国家のなかに、社会のなかに、格差を持ちこむ。
 このような科学技術にどう対峙すべきか。われわれは意見の多様性を認め合う社会を構築し、この枠組みのなかに各人の科学技術を組み込まなければならない。アナーキズムといったらよいか。
 私事にわたるが、数十年前、著者と長距離電話で長時間議論したことがある。率直な語り口であった。

2017-04-18

【読書80年:498】 ハリー.G.フランクファート(山形浩生訳) 『ウンコな議論』 ちくま学芸文庫 (2016)

「屁理屈は嘘とは違う」。この主張を1冊の本に仕立て、それを商品として市場に流す。たいそうな力量。事例は私にはなじみのない片言隻句だが、結論は世界の解釈にかかわる文明論、あるいは言語哲学。著者と訳者の術中にはめられた感じ。

2016-11-25

【ブラウジング:51】『柴田南雄生誕100年・没後20年記念演奏会』,2016年11月7日,サントリーホール 

パンフレットの末尾に作品表がある。ここにはたくさんのシアター・ピースが含まれている。そのシアター・ピースだが、その演奏に名演奏とそうでない演奏があるのか。こんな議論を音楽家のゼミで聞いたことがある。
http://d.hatena.ne.jp/kotaro81/20161126/1480160565