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読書80年:名和小太郎

2018-06-27

【読書80年:534】 アンリ=ルイ・ド・ラ・グランジュ(船山隆・井上さつき訳)『グスタフ・マーラー』、平凡社 (1993)

グスタフ・マーラーは多くの精神分析研究者のクライエントであった。かれらはマーラーの生涯や作品の理解についてはそれなりに有効な見解を示したが、マーラー自身の痼疾を治癒することはできなかった。

追記:たまたま、映画『ベニスで死す』を見た。全編にわたりマーラーが流れる。こちらは原作トーマス・マン(1912)、監督ルキノ・ヴィスコンティ(1971)。主人公の名はグスタフ。マンとマーラーとは顔見知りであった、という。

2018-06-24

【今は昔:3】 メモの効用 :『一冊の本』 3巻8号 (1998)  

「次世代の本はどんな形になるんでしょうか?」。こんなわざとらしい質問をしてみた。わざとらしいといったのは、電子図書館のあり方についてあれこれ議論をしていた審議会のすぐあとの懇親会の席上だったから。つまり、この質問は「インターネット」「WWW」「ハイパーテキスト」といった言葉に慣れっこになっている人たちに投げたことになる。

 「メモでしょう。先日ある集会がありましたが、まえもってテキストが配布され、それを読んだ上でメモをつくり、そのメモだけを持って参加せよというルールでした。これはよかった」。通信工学の大家、I先生の答えであった。

 「次世代の本はオン・ディマンドでページ単位に検索できる電子本だ。読者が読みたいときに読みたいテキストを勝手にコピーできる本だ。つまりは新しい形式の写本なんだ」。こんなことを言いたくて企んだ質問だったので、I先生のお答えにはぐらかされた感じ。だが、私が面食らって黙りこんでいるあいだに、まわりの談笑は弾んでいた。

 「元のテキストとメモとでどっちに市場価値があるんでしょうかね?」「メモでしょう」「メモは書き手によって違いますよ」「だからこそマーケットで値がつくとはいえませんか」。こんな対話が続いていた。委員の諸氏は図書館専門家理工系研究者であったが、この会話の進行にはだれも異論はないようであった。

 このとき、私は若いNさんが過日、遊びにきたときの会話を思い出していた。Nさんは中央銀行研究者である。私は訊ねた。「電子マネー議論が盛んですね。このテーマについて情報を集中して持っているところはどこなの? あなたのところ? ほかの銀行? 所管の役所? 大学のだれか? どこかのシンクタンク?」

 「それがないんです。とにかく情報が多すぎる。ジャンク情報も多い。だから、同好の士を募って、手分けをして集めるしか手がありません」「集めた情報をどうなさっている?」「分担して読み、評価し、メモを作って交換しています」。ここでもメモが顔を出してきた。

 メモというもの、原テキストに比べてどんな意味を持っているのかな。要約、参照、引用、注釈、翻案、再定義、キーワード付加、編集、索引、目録、文献リスト、レビュー、二次資料、二次的著作物――こんなところか。どんなメモでもこのなかのいくつかの特徴を含むが、はっきりいえることは原テキストの単なるコピーではないということだ。なにがしかの付加価値を足している。

 この付加価値だが、一言でいえば、原テキストの情報を圧縮しているということだ。たとえば1冊の本を1ページに詰めこむことができる。同時に「情報の圧縮」という言い方は「知識の凝縮」としても理解できるだろう。1編のメモであっても、そのなかには先人の数多くの知的成果が集積している――こうもいえる。

 「なるほど、メモは情報圧縮の手段なんですね。情報圧縮というと、エンジニアはとかくMPEG(エムペグ、動画像情報の圧縮技術)がどうのこうのと口走りがちですが、メモは情報圧縮、さらには知識の集積の有効な手段なんですね」。私はこんな台詞をI先生に返すことができたはずだ。

 電子化の時代にメモはどうなるのだろう。やや極端論だが、メモが主となり原テキストが従になる。なぜか。情報の過剰な供給がますます加速されるから。インターネット環境においては、著者と著作の数は指数関数的に増えている。だが、読者の数は従前通り、しかも読者の持つ読書時間は1日24時間の枠を超えることはできない。
 だからインターネット環境では、だれがどんなテキストをどこに書いているという案内サービスが大切になる。案内されないテキストは存在しないことになるから。もちろん、こんなことは皆さん百も承知のことであり、だからこそ、サーチ・エンジンが開発されたり、コーパスシソーラス電子化されたりしている。

 これから情報通信市場に普及するのはプッシュ技術(例、テレビ)かプル技術(例、データベース)か。こんな議論が昨年来やかましい。情報の利用について、送り手に見計らいでオマカセするものが前者、受け手が自分で注文するものが後者である。この視点でみると、メモは前者、サーチ・エンジンのたぐいは後者、ということになる。市場の見方は、プルの愛好者はせいぜいマニアどまり、大方のユーザーは横着なのでプッシュか、というものである。とすれば、メモは電子メディアでも役立つはず。
 つけ加えれば、すべての本が電子化されるわけではなかろう。奈良に建設されつつある第二国立国会図書館は、電子図書館の機能を備えるとはいいながらも、15年分の図書を保管するために、いま巨大な地下室を掘りはじめようとしている。しかも、この書庫でも十分ではなく、2017年には溢れてしまうという。紙メディアにおいても、情報の指数的増大が予想されているわけだ。つまり、こちらでもメモの効用が期待されるということ。

 と、ながながとメモの効能を讃えてきたのは、だから私もメモ集を作りました、という手前味噌を並べるための伏線。どんなメモ集か。題して『科学書乱読術』、科学書と技術書に関する読書メモ集である。著者としては面映い言い分だが、どなたかがメモとして引用してくださることを心待ちにしている。
  

2018-04-27

【ブラウジング:114】 尾池和夫・他4氏「地震予測と「第4の科学」:データに駆動された新たなアプローチへ」『科学』v88,n5 (2018)

地震予知について、なるほど、と思う指摘がいくつかある対談。
その1:物理モデルから局所的変化を説明することは難しい。
その2:初期条件がわからないと応力蓄積の評価は難しい。
その3:少数の観測例や観測点、あるいは一つの物理量の観測だけで「地震予知」の可否を議論することは難しい。
その4:「起こらない」という情報のほうが大量にある。
その5:ノイズはありえない。すべてがデータである。
その6:(多くの研究者は)データが足りないのではなく、解析をしていない。
 対談の参加者は上記の指摘を、だから地震予知の方法論を「第4の科学」(データ駆動型アプローチ)のなかへ組み込めと論じる。その論はよしとしても、読者の私は、ここに研究費がほしいよ、という機会主義的な訴えを見てしまう。

2018-04-08

【読書80年:533】 桑原武夫『論語』,筑摩書房 (1982)

フランス文学研究者による中国古典の評釈。目配りは、中国、日本の先人の文献のみならず、マクックス・ウェーバーやアナトール・フランスの主張にいたる。
 あらためて、私の学んだことは、孔子がヴェブレン流にいえば「有益な処世術」の大家であったこと、これが紀元前6世紀に出現していること、にある。
 この本の刊行時点、私は近所の中学生を数人集め、早朝、週1回、論語の素読をしたことがあった。半年ほど続いたかな。

2018-01-28

【ブラウジング:97】 『図書』:特集『広辞苑』第X版

手元に第六版(2007年、705号)と第七版(2017年、828号)とがある。それぞれの巻頭の文章を比較してみた。
 第六版の題名は「辞書を読む楽しみ」。著者はドナルド・キーン(文学研究者)。その趣旨は、辞書は異文化間のコミュニケーションの道具になる、というもの。
 第七版の題名は「知識の限界を知る」。著者は村山斉(物理学者)。その趣旨は、辞書は知識の限界を示す道具となる、というもの。
 これは、著者の専門領域の違いによるものか、発表時点の違いによるものか。

2017-12-25 【読書80年:524】

スティーブン・H・シュナイダー(内藤正明他・監訳)『地球温暖化の時代:気候変化の予測と対策』,ダイヤモンド社 (1990) p.73-89


 1980年代後半、終末論的未来予測の一つとして、地球温暖化に関する説が発表された。問題となった人工物は二酸化炭素であった。この人工物の制御を目指して「気候変動に関する政府間パネル」(IPCC)が設立されたのは1988年であった(1)。
未来予測を知った人は、その予測を危機管理のシグナルとして受け取るだろう。地球温暖化問題はその典型的な例となった。問題は、国際社会がIPCCの予測結果をよしとして共有できるか否かにかかっていた。
 ここでは、二酸化炭素による地球環境の汚染が課題になった。地球温暖化は産業革命とともに始まった現象であるが、これに社会が気づくまでに多くの年月がかかり、それを科学的に実証するためにはさらなる年月を費やしてきた。
このような不確実性があるためか、IPCCの『第1次報告』(1991年発行)は、その冒頭において、「科学的知見」として、「我々は以下のことを確信する」と表現するにとどめている。
 IPCCは、地球温暖化論の説得力を高めるために、多角的な視点から、複数のシナリオを設定し、そのうえでシミュレーションを実施している(2)。たとえば、経済優先的か環境保全的か、あるいは、国際化指向か自国優先か、など。
 にもかかわらず、その後の経緯をみると、この課題に対する社会の反応は、とくに国際的な合意は、一進一退している。ここでは気候変動枠組条約締約国会議(Conference of the Parties、COP)をめぐり、多様な試行錯誤が繰り替えされている。
 じつは未来予測には禁忌があることを、地球温暖化問題は示している。ここでは人間活動による二酸化炭素の排出量の削減を論じているにもかかわらず、その第一原因となる人口増の抑制については触れてない。
なぜか。それは私たちの社会の禁忌にかかわるから。すでに地球上に生存しているヒトについて、その長寿命化や出産数の抑制を求めることはできないだろう。ここにローマ・クラブの示した政治的、道徳的決断の意味がある。
話がそれるが、1960年代にガイヤ仮設という世界観が示されていた。それは、地球にはホメオスタス――恒温動物のように定常状態を維持できる能力――という特性がある、という見解であった。主張者は学際的な研究者ジェームズ・ラブロックであった。
この仮説は「ガイヤ」――ギリシャの女神――などという人文的な命名法が理系の研究者には嫌われ、反科学論のひとつとして扱われてしまった。じつは、ガイヤ仮設の予測期間が10億年のオーダーであるのに対して、地球温暖化のそれは100年のオーダーにすぎなかった。

(1)IPCC(霞が関地球温暖化問題研究会・編訳『IPCC地球温暖化研究会』,中央法規 (1991), 218p.
(2) 江守正多『地球温暖化の予測は「正しい」か?』,化学同人 (2008) 238p.

出所:名和小太郎「未来を回顧する」『情報管理』、v.x60, n.5, p.522

2017-12-23

【読書80年:521】 D.プライス(島尾永康訳)『リトルサイエンス・ビッグサイエンス:科学の科学・科学情報』,創元社(1970) 1

20世紀後半、先進国ではあらゆる分野にわたり成長が続いた。未来予測についても、なんの疑義もなく、成長モデルが提案された。
 成長モデルといえば、本誌の読者諸氏は科学史家デレック・デ=ソラ=プライスの『リトルサイエンス・ビッグサイエンス』を思い出すだろう。原著の刊行は1963年である。ここで著者は科学にかかわるさまざまな指標を時系列に示している。それらはいずれも増大の傾向をもっており、その傾向をかれは「倍増期間」という指標で整理している。その一部を引用しておこう。

100年:英国人名事典の項目
50年:労働力、大学数
20年:化学元素の数、器具の精度
15年:学士号、科学雑誌
10年:小惑星の数、米国の電話数
 5年:海外通話数、鉄の透磁率
 
 多くの指標は縦軸に半対数目盛を振って図表化すると、時間とともに直線的に右肩上がりとなる。この環境のなかで、プライスは研究者数とその成果である論文数の増大傾向に注意をうながしている。
研究者数の場合、倍増期間は15年、3世代が同時に現役として働いているだろう。いっぽう、人口の倍増期間は労働力のそれで示すことができるだろう。とすれば、つぎのような未来が出現するはずだ。

男、女、イヌ1匹について、科学者2人となる日が近い。

そういえば、医学研究者のデイビッド・デュラックは「医学情報の重さ」という論文を発表している(注)。かれは言う。医学分野の索引誌『インデクッス・メディカス』(1879年創刊)は1940年には年間2キログラムであったが、これが1970年代には30キログラムとなっている。共著論文が増え、紙は薄くなり、活字は小さくなり、余白は狭くなっているにもかかわらず。

(注)David T. Durack & M.B. Phil ‘The weight of medical knowledge, “The New England Journal of Medicine”, v.298, pp.773-775 (1978)


出所:名和小太郎「未来を回顧する」『情報管理』、v.x60, n.5, p.522

2017-02-09

【読書80年:490】 川本茂雄 『ことばについて考える』 講談社学術文庫 (1979)

言語研究者が異領域の研究者とかわす対談、あるいは鼎談。
工学者は図面(例、系統図)も言語であるという。コミュニケーションのツールだから。CMのライターは意味不明の文字列(例、ハッパフミフミ)が言語であるという。コミュニケーションのツールだから。

2016-07-07

【ブラウジング:37】多田富雄『生死の川:高瀬舟考』地上デジタル021ch,2016年6月24日21時

免疫研究者が創作した新作能。タイトル中にある「高瀬舟」は鴎外の作。その主題(ここではあえて明示しないが)は、今日、鴎外の時代よりもさらに切実になっている。

2016-05-11

【ブラウジング:32】 小島寛之 「統計学・確率論の有効性とその限界」 『現代思想』 42巻9号 (2014)

統計学はどこかで現実の世界とのリンクを持つ「機能的な論理」を備えているはずである。このはずを無邪気に信じているのは物理学者だけである。これが著者のご託宣。とすれば地震予知研究者は物理学者ではないことになる。