
今日からたまに、日本語のことも書くことにしました。
情景描写っていうのは、情景を描写したものです。
それは二月だった。未だ浅い春には、なお寒さが残り、自動車の窓は白く曇っていた。しかし窓の中の女には、すべてが明るく見るのだ。
彼女一人が、麗らかに微笑み、春を纏っていた。
こういうのとか。
八月、波の音に聞き飽きて、くるりと回れば、日に照らされて、なごりとなった波の欠片が、かすみとなって山を薄ぼんやりと映します。空から針をまとめたような光が降れば、屏風立ちの山々に突き刺さり、海は表情をかえながら、私の後ろでまっすぐな波音を立て続けます。
前に海、後ろに山という、おとぎのはなしにでてくるような風景は、やはり人の心をどこかおおらかにするのでしょうか。
こんなの、小説やらエッセイなんかで出てくるあれです。
ところで僕はこういうの、あんまり面白いって思わないんですよね。
なんで面白いって思わないかって説明すると、面白くないからです。
人間と比べると、地球というものはとても大きいです。その上で生きてる人間の数も意外に多い。60億より沢山います。
それぞれの人が、それぞれの情景を身の廻りに置いて育つわけです。当り前ですけど、それぞれ大きく状況が異なります。
これはまあ昔からあんまし変りない。
ところが、変ったことがあって、それは文字を書く人が増えたということです。これまでの歴史の中で、今が一番に多いんじゃないんでしょうか? 昔ですと文章を書いてそれを読む人っていうのは、一定のコミュニティーに属している場合が多かったんで、情景を写す意味はあった感じがします。
共感が得られやすいことはもちろんですが、集団が合意しているルールの上で、上手い下手を決めるというのも効率的です。
でも今は違いますよね。誰でも書けるし、すぐに公開することが出来る。
そういう時代にあって、これはこういう集団に読まれるべき文章だから、こういう風に読んでくれと頼むのは、ちょっと図々しい気がします。
人間が持っている道具も、昔と今は違います。
風景を写すためのカメラっていう道具がありますけど、今はデジタルな感じですから、その場で撮影してその場で人に見せることが出来ます。携帯にくっついてたりもするんで、遠くの人に送ることも可能です。
ビデオカメラも同じような感じで、その場で撮影して、その場で鑑賞することが出来ます。携帯にくっついてたりもするんで、無理したら遠くの人に送ることも可能です。
今はあんまし奇麗に撮影出来ないだとか、送るのが面倒クセェだとか、いろいろ制約はありますけど、とりあえずは出来る。
出来ると出来ないとでは、雲泥の差があります。
花火やら桜を見て10秒くらい後には、そこにいない人に、写真やら動画として、それを伝えることが出来るのです。
さびしさやくるぶし過ぎる秋燕とか、そういう俳句を作ろうとすると、時間がかかるし、他人にしてみたら、あんまそういうのはどうでもいい。
それよか逮捕されるのを覚悟の上で、少し寒々しい感じのする女の人の美しい踝を盗撮するほうが、簡単だし多くの人の興味を魅くことが出来るのです。
写真やら動画と文章は違うよって思われるかもしれませんけど、どれもこれも人間が感じて楽しむものなんですから、まあ違いとか誤差みたいなもんですよ。
それでどうしたらいいのかっていう話なんですけど、よくわかんないんですよね。
前はすでにある文章から、情景を抜き出すっていうのをやってました。
すでにある文章ですから、当然ながら読んだことがある人は確実に存在します。それが描いた対象が消えていたとしても、読んだ人はそれを知っています。
引用先がひとつとかですと、読んだ人が少ないので、お話になりませんが、百とか二百になると違ってくる。なんとなく懐しいだとか、あったみたいな気持にさせることが可能ですし、組合せによっては、読んだことのないような感じの文章に仕上げることも出来るのです。
昔ですとこういう文章を書くのは面倒だったんだけども、今ならパソコンやらスキャナやらデジタル化されたテキストやら、いろいろあるので簡単です。
他にはなんとなくあるようなものを、適当に繋げるみたいなこともやっていました。
こちらは、バラバラにしても意味をなすような短い文章を、つなぎながら作っていくみたいな感じです。これはなんとなく知ってるみたいな文章を作るのが難しいんですけど、頑張ったら出来ないこともない。
ただこういうのって『夜の帳がしずしず下りて』みたいな感じの平凡な描写だけで書くっていうのと、どれだけ違いがあるのかって考えると、やっぱ誤差程度だなって思わないわけでもありません。
どうしていいのか、よくわかんないですね。