苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

カーテンは必要か?

 伝道者になって駆け出しのころだった。東京は練馬の大泉の小さな教会で宣教師といっしょに働くことになった。二年間は教会に来ている青年と、ある二階家の二階を間借りをしていた。イエス様の福音を伝えることに専念して生活ができるのだから、こんなに幸せなことはなかった。まるで巨人軍に入団した星飛馬が「好きな野球をして給料がもらえるなんて!」と感激したみたいなものだった。
 またたとえ貧しくても、なるべく神様にたくさんささげものをしたかった。生活はきわめてシンプルにして過ごした。ただみことばを学べて、お祈りができて、伝道できれば十分というふうだった。
 三年目の秋に結婚することが決まったので、二年間住んだ間借りを出て、練馬に隣接する新座市で六畳二間の二階家を借家することになった。下に六畳、二階に六畳、台所二畳でトイレ風呂付き、日当たり良好の一戸建てで、家賃37000円と格安だったので、即決した。かなり古い家屋だったが、一戸建てなら少々讃美歌を大声で歌っても、文句は言われまいということが気に入った。
 そこに住み始めて二ヵ月後、奥山実先生をお迎えして、教会で伝道集会をすることになった。先生とは神学生時代に交流があり、とても楽しい伝道者スピリットにあふれた先生なので、うちに泊まっていただくことにした。夕食の交わりのなかで、先生がおっしゃった。
水草君。カーテンがないねえ。それにあまりぼろっちい家だと、地位のある人には伝道しにくいですよ。牧師はあらゆる人たちに福音を伝えないといけないからね。」
 伝道的な観点からそうおっしゃるのを聞いて、なるほどと思った。先生はかつてインドネシアの地で宣教師として、富む人にも貧しい人にも自分の生活をあわせて伝道なさったのだった。「託された地のすべての人に福音を聞かせる」ということが、先生の伝道論の一つの眼目だった。
 だが、それから後もカーテンのことは忘れてしまっていた。カーテンなんか買うお金があったら献げたかった。
 やがて結婚の準備が始まって、私のお嫁さんになる予定の女性が引越しの準備のため、うちを何度か訪れた。私の冷蔵庫は空っぽなので、いつも両手に大きな袋をさげて彼女はやってきた。あんこが好きな人なので、その日は近所でおはぎを買って迎えた。彼女は言った。
「カーテンがないのね。何色のカーテンにしようかしら。」
「えっ。カーテンいるかなあ。すりガラスだし、別に外から見えないよ。」
「要るわよ。カーテンは。」
「ふーん。そうかなあ。カーテンか。」
 ・・・という具合であった。結婚後も、何度か、このような行き違いを経験した。そして、「あっそうか!」と思い出したのは、学生時代に学んだヘルマン・ドーイウェルトというオランダの法哲学者の本だった。ドーイウェルトは、神が創造され私たちが暮らしている生活世界は、15の様態的側面から成っているという。基礎的側面から挙げていくと、数的側面、空間的側面、運動的側面、物理化学的側面、生物的側面、感覚的側面、分析論理的側面、歴史的側面、言語的側面、社会的側面、経済的側面、美的側面、法的側面、道徳的側面、信仰的側面。これら多様な側面はそれぞれの領域で固有の価値と意味をもっているから、いずれもおろそかにしてはいけない。
 しかし、えてして人間は、自分の得意な一側面を取り上げて全体がわかったような気分になりがちである。たとえば、デカルト幾何学を学問の理想として、分析論理的側面を偶像視した。そんなデカルトには、伝統が醸した価値はまったく無意味に見えるようになってしまった。後年にはデカルト的理性が、フランス革命を暴走させ、おびただしい人々の血を流すことになる。カントのような道徳主義者は宗教は道徳の一種にすぎないという。芸術家は芸術至上主義をとなえて「道徳と美は関係ない。美こそすべてだ。」などという。マルクスのような経済学者は、世界を動かしているのは経済であり、宗教も道徳も法律も、あらゆる事象は経済から説明できると言いたがる。生物学者は道徳でいう善というのはその生物種の存続にとって有利なことを意味するという。化学者は生物の営みは単にそのからだの中で起こっている化学反応にすぎないと主張する。そして物理学者は、化学反応もさらに細かく見れば物理現象にすぎないという。・・・とまあ、こんなふうに多様性に富むこの生活世界を、それぞれ好みの一側面で説明し尽くして、ナントカ主義を作って満足するのである。けれども、これは思想的偶像崇拝なのだ。ナントカ主義はナントカ中毒なのだ。アルカホリズムがアルコール中毒と訳されるように、イズムには中毒という訳語がある。ざっくりと説明すれば、ドーイウェルトはそんなことを教えていた。
 そうか、自分は、せっかく神様が用意してくださった15様態からなる豊かな生活世界を、信仰的側面を絶対化することによって単調平板なつまらないものにしてしまっていたのだ、ということに気づいた。それは狭い意味で信仰的に見えながら、実は思想的偶像崇拝だったのだ。神様は私の生活のなかにも、美的側面を用意していてくださるのだから、それも大事なこと。というわけで、しゃれたカーテンを掛けてみるかということになった。 
 カーテンの件から、私はこんなことを思い出したので、上述の15様態の表を書いて、壁に貼り付けた。そして、神様が私たちの住む生活世界を多様性に富む豊かな世界として与えてくださっていることを忘れないように意識するようにした。ときどき訪ねてくる友人が、その表を見て「これなに?」と質問する。かくかくしかじかであると私が説明すると、変人を見るように私を見て笑った。たしかに思えば、私は一種の変人だった。つきあってくれてありがとう。わが嫁さん。

  信仰的側面
  道徳的側面
  法的側面
  美的側面
  経済的側面
  社会的側面
  言語的側面
  歴史的側面
  分析論理的側面
  感覚的側面
  生物学的側面
  物理化学的側面
  運動的側面
  空間的側面
  数的側面