苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

自己実現でなく

 「自己実現を達成しよう!」長男が高校生の頃、その進路指導の会に出かけたとき、会場の正面にこのように張り紙がされていた。自己実現ということばは、米国で流行したアブラハムマズローを代表とする人間性心理学における用語である。それまでの精神分析とか行動主義心理学精神疾患者を対象とした心理学だったが、人間性心理学は健常者を対象として、その人がもっている潜在能力を引き出すための心理学である。その始まりは、ベトナム戦争時代、カリフォルニアで盛んだったヒューマン・ポテンシャル・ムーブメントである。
 自己実現ということばが日本のキリスト教世界でもしきりに使われるようになったのはいつごろからだろうか。少なくとも、私が学生の頃25年ほど前は、あまり使われるのを聞いた記憶がない。ところが、その後、いつのまにか自己実現ということばが、世間でも教会でも聞かれるようになった。だが、私はずっとこのことばに抵抗感をいだいてきた。というのは、私はキリスト者として、「みこころの天になるごとく、地にもならせたまえ」と祈っているからである。自己実現でなく、みこころ実現を求めるのがキリスト者の人生であると信じているからである。
 もちろんキリスト者自己実現を唱える先生たちは言うだろう。「自己実現は、なにもわがままがなるようにという意味ではありません。私という人間は神様の造られたすばらしい作品ですから、神様が私をお造りになったそのすばらしい計画つまり御心が私を通して実現することを求めて、自己実現ということばを使っているのです。」と。ごもっともな説明である。しかし、なお疑問が残る。それなら、「御心がなりますように」と祈るだけでよいではないか。どこまでも「自己」にこだわるところに、かえって病的なものを感じるのである。
 神様の御心は、もしかすると、とりたてて私をお用いになることではでなく、路傍の石ころとしてただ放置していらっしゃることかもしれないではないか。もし路傍の石ころとして放置され、誰に注目されることもなく生きていくことがみこころであるならば、路傍の石として淡々と生きていけばよい。それが神のみこころであるならば、それこそ最善なのであるから。野の花は、だれも見てくれる人がいなくても、ただ造り主を見上げて清楚な花を咲かせている。自己実現ということばには、「あなたに、路傍の石ころではなく、輝かしいダイヤモンドの人生を!」「あなたはタンポポではなく、バラになれる!」というふうなアメリカンドリームっぽい軽薄さや自己主張を感じるのだ。
 かつて、ストレスから円形脱毛症になっている幼子を施設に預けながら、世間で華々しく活躍する母親を見たことがある。「おかあさん」はあの子にとって文字通りかけがえない存在であることに、どうしてあの聡明な女性は気づかなかったのだろう。「自己実現」ということばによって目隠しされていたのだろうか。
 旧約の預言者たちは、神のみこころによって召され、みことばを預けられてひたすらにイスラエルに悔い改めを求めた。その結果、王と民の反感を買って捕らえられ、嘲られ、なぶりものにされ、投獄され、ついには多くの預言者たちは殺された。そして、それが神のみこころであった。預言者エレミヤは自分の頭が水がめになってしまったかと思うほど、絶えず涙と鼻汁を流していた。それが神のみこころであった。神が、イスラエル背信をどれほど憤り、イスラエルのためにはらわたをいためるほどに悲しみ苦しんでおられるかを、エレミヤは体験しながら、預言者としての任務を果たすように召されたからである。
 自分に死に、ただ神のみこころが成ることを求める、それが聖書の語る主のしもべの生き方ではないのか。主が私を大いに用いたまうならば、それは感謝。主が私を捨石となさるならば、それもよしである。神のみこころの道に生きる、そして死ぬ、それが主のしもべの道である。そう思うと、やっぱり私は「自己実現」ということばを聞かされるたびにいつも抵抗を感じるのだ。

 教会の壁かざり。