苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

国文学者をめざした頃

 筆者が生まれ育ったのは須磨で、小学生4年生までは平家ゆかりの須磨寺町に住んでいた。須磨寺真言宗の本山のひとつであったから、かなり広い境内だった。寺の伽藍からかなり離れた場所にあった我が家も地代を寺に納めていたから、本来の境内地はさらに広大なものなのだろう。兄と私は毎日のようにその境内で遊んだものである。ゴーン・ゴーンと鳴らして遊んだ鐘には、弁慶が長刀で吊り下げたという伝説があった。宝物殿には、熊谷直実に討たれたとき平敦盛のふところから出てきたという「青葉の笛」があった。その宝物殿前の茂みの下にあった亀の棲む小さな池は「敦盛首洗いの池」であり、そばには敦盛首塚があった。そんなわけで、筆者は幼い頃から、一の谷の合戦の悲話はくりかえし聞かされていた。話してくれたのは父だった。

敦盛の最期 <寿永三年>        *             *            *
 一の谷の戦破れにしかば、武蔵国の住人、熊谷次郎直実、「平家の公達の助け船に乗らんとて、汀の方へや落ち給ふ事もやおはすらん、あはれよき大将軍に組まばや」とて、磯の方へ歩まする所に、練貫に鶴縫うたる直垂に、萌黄匂ひの鎧着て、鍬形うつたる甲の緒をしめ、金作りの太刀をはき、二十四さいたる截生の矢負ひ、滋籐の弓持つて、連銭葦毛なる馬に、金覆輪の鞍置いて乗つたる武者ただ一騎、沖なる船に目をかけ、海へざつとうち入り、五六段ばかりぞ泳いだるを、熊谷、「あれは大将軍とこそ見参らせ候へ。まさなうも敵に後ろを見せさせ給ふものかな。かへさせ給へ」と、扇を挙げて招きければ、招かれて取つて返し、渚に打ち上がらんとし給ふ所に、熊谷波うちぎはにて押し並べ、ひつ組んで、どうと落つ。
 取つて押さへて首をかかんと内甲を押しあふのけて見ければ、年の齢十六七ばかんなるが、薄化粧して金黒なり。我が子の小次郎が齢ほどにて、容顔まことに美麗なり。
「そもそもいかなる人にてましまし候ふやらん。名乗らせ給へ。助け参らせん」と申しければ、「かういふわ殿は誰そ」と問ひ給へば、熊谷「ものその数にては候はねども、武蔵国の住人、熊谷次郎直実」と名乗り申す。「さては汝がためにはよい敵ぞ。存ずる旨あれば名乗る事はあるまじ。名乗らずとも首をとつて人に問へ。見知らうずる」とぞ宣ひける。
 熊谷、「あつぱれ大将軍や。この人一人討ち奉るとも、負くべき戦に勝つ事もよもあらじ。また討ち奉らずとも、勝つべき戦に負くることもよもあらじ。我が子の小次郎が薄手負ひたるをだにも、直実は心苦しう思ふぞかし。この殿の父、討たれ給ひぬと聞いて、いかばかりかは歎き給はんずらん。あっぱれたすけ参らせばや」と思ひて、後ろをかへりみたりければ、土肥、梶原五十騎ばかりで続いたり。
熊谷、涙をはらはらと流いて、「助け参らせんと存じ候へども、味方の兵ども雲霞のごとくに候へば、よものがし参らせ候はじ。同じくは、直実が手にかけ奉て、後の御孝養をこそつかまつり候はめ」と申しければ、「ただ何さまにも、とうとう首をとれ」とぞ宣ひける。

 熊谷あまりにいとほしくて、いづくに刀を立つべしともおぼえず、目もくれ心も消え果てて、前後不覚におぼえけれども、さてしもあるべき事ならねば、泣く泣く首をぞ掻いてんげる。
「あはれ弓矢とる身ほど口惜しかりける事はなし。武芸の家に生まれずは、何とてかただ今かかる憂き目をば見るべき。情けなうも討ち奉るものかな」とかきくどき、袖を顔に押し当てて、さめざめとぞ泣きゐたる。
ややあつて、鎧直垂をとつて首をつつまんとしけるに、錦の袋に入れたりける笛をぞ腰にさされたる。
「あないとほし、この暁城の内にて、管弦し給ひつるは、この人々にておはしけり。当時味方に東国より上つたる勢何万騎かあるらめども、戦の陣へ笛持つ人はよもあらじ、上らうはなほもやさしかりけり」とて、これを大将軍の見参に入れたりければ、見る人涙を流しけり。(後略)
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 父は『平家物語』が好きだった。専門的に勉強したわけではないから、父がそらんじていたのはほかには屋島合戦の那須与一の段だけだったけれど。その他、父が好んだのは吉川英治宮本武蔵』と怪談。日曜の午後、涼しい風のふくころ、父と一つ上の兄と須磨寺に散歩すると、墓場の冷たい御影石に腰掛けて、「耳なし芳市」や、父のオリジナルの怪談を聞かせてくれた。父の話は臨場感に満ちていて面白くまた恐ろしく、兄と息を潜めて聞いたものだった。しかも、オリジナル怪談の登場人物は決まって兄と私だったから、その夜はしばしば父の話した怪談の夢を見た。
 いっぽう母は須磨琴、一弦琴を寺で習っていて、さほど器用ではないがまじめな人だったので稽古に励み、ある免状も得たようである。父母はすでにこの世の人ではないが、今も、須磨琴の音と母の声は耳朶に響く。

         青葉の笛
 一の谷の戦敗れ 討たれし平家の公達あはれ
 暁さむき 須磨の嵐に 聞こえしは これか青葉の笛

 そんな影響だろうか、中学、高校はモリアオガエルとともに生きたのだが、高校二年の頃から筆者は国文学者として身を立てたいと思うようになった。高校二年のとき、『古文研究法』という受験参考書にほれ込んで、その著者の小西甚一先生という大学者に師事したくて進学する大学を決めたのだった。