苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

中世教会史20 十字軍(その4) 

4.諸侯による第一回十字軍1096年

(1)コンスタンティノープルで冷遇される
 十字軍運動の盛り上がりの中で、民衆十字軍が壊滅し、ユダヤ人への迫害が行われたが、あとに続いたのは1096年に出発した貴族や諸侯たちによる十字軍の本隊である。西欧各地の諸侯は聖地を目指した。主導的な役割をはたしたのは、教皇使節アデマール司教、南フランスの諸侯のまとめ役トゥールーズ伯レーモン4世、南イタリアのノルマン人のまとめ役ボエモンの三人。
 諸侯と騎士からなる十字軍本隊は計画通りに1096年8月にヨーロッパを各自出発し、12月にコンスタンティノープルの城壁外に集結した。この本隊には騎士だけでなく、必要な装備にも事欠く多くの一般市民が同行した。民衆十字軍の壊滅から生還した隠者ピエールも民衆十字軍の生き残りの人々と共にこの本隊に合流した。その数は、騎士4200ないし4500、歩卒3万とも(橋口p74)とも、6万とも言われる(p84)。
コンスタンティノープルにたどりついた十字軍は、すでに食料が乏しかったが、呼びかけ人の皇帝アレクシオス1世から食料が提供されるものと考えていた。しかしアレクシオス1世は先に民衆十字軍を見ていたことや、軍勢の中にかつての宿敵ノルマン人のボエモンがいたことから猜疑心を抱き、指導者たちに向かって、食料を提供する代わりに、自分に臣下として忠誠の誓いを立て、さらに占領した土地はすべてビザンティン帝国に引き渡すことを誓うよう求めた。食料にとぼしかった指導者たちに、これを断る選択肢は残されていなかった。

(2)ニカイア攻城戦でビザンティン不信が決定的に
 アレクシオスから小アジアを案内する部隊を提供され、十字軍将兵は最初の目標としていた都市ニカイアにたどりついた。十字軍は協議の上でニカイアの攻囲を開始。力攻めを避け、水源を封鎖して兵糧攻めを行う。クルチ・アルスラーン1世はアナトリア高原で、当地の王と戦っていたが、首都が包囲されていると聞き、あわてて引き返し戦うものの損害を出し、これ以上この強力な軍団と戦えばセルジューク朝自体が危機に陥ると考え、城内にたてこもるギリシア人住民やテュルク系守備隊にビザンティン帝国への降伏を薦め、退却を決めた。この状況を伝え聞いたアレクシオス1世は、十字軍がニカイアを陥落させた場合は略奪を行うに違いないと考え、ひそかに使者を派遣してニカイアの指導者に降伏するよう交渉を行った。守備隊は説得され、住民らは夜ひそかにビザンティン兵を城に入れた。
 1097年7月19日朝、街を囲んでいた十字軍将兵は目覚めて仰天。城壁にビザンティン帝国の旗がひるがえっているではないか。そればかりかアレクシオスの指示で十字軍将兵は城内に入ることが許されない。こうして十字軍と東ローマ帝国のお互いの不信感が決定的になった。
 西側の年代記作者たちは、ギリシャ人の枕詞に「不実な」『卑怯な』『邪悪な』『裏切り者の』とつけるほどに偏見と憎しみを表現していた。

(3)エデッサ伯国成立
 十字軍はニカイアを離れ、エルサレムを目指した。ビザンティン帝国軍は十字軍の道案内をしながら彼らの助けを借りて小アジアの西半分の領土をセルジュークから回復していった。小アジア進軍は十字軍将兵にとって苦痛に満ちたものとなった。夏の暑さと水や食料の不足から多くの兵がたおれ、軍馬も失った。彼らはアナトリア横断に百日もかけてしまった。小アジアで十字軍は略奪によって物資を得ることが多かった。十字軍全体の統率ができるほど強力な指導者がいなかったが、全体の中ではレーモン・ド・サン・ジルと司教アデマールが指導者的地位を認められていた。
 キリキア地方を通過したところで、ブルゴーニュ伯ボードワンは手勢を率いて十字軍と別れ、北進して1098年、エデッサにたどりついた。ボードワンは統治者ソロスに自らを養子、後継者と認めさせた。市民の暴動によってソロスが命を落とすと、ボードワンはエデッサの統治者の座に着き、ここに最初の十字軍国家であるエデッサ伯国を成立させた。王位簒奪である。

(4)アンティオキア包囲・アンティオキア公国設立
 十字軍本隊は1097年10月、コンスタンティノープルエルサレムの中間点にあたる都市アンティオキアに到着し、これを包囲。アンティオキアは難攻不落であった。アンティオキアの周囲を全て包囲できるほどの軍勢がなかったため、都市に対する補給を許すことになり、包囲は八ヶ月の長きに及んだ。十字軍将兵地震と大雨におびえ、飢餓に苦しみ人肉まで食らうほどだった。
 しかし、7月28日、敵が戦わず退却するところを十字軍は逃さず、撃破し大勝利を収めた。シリアに十字軍を相手にできるムスリム勢力はもはや存在しなかった。また、エデッサとアンティオキアの占領で十字軍の領土欲が満たされ、宗教的情熱をもつ諸侯や大多数の庶民・騎士をのぞき、諸侯らの一部がエルサレムへの関心を見失い始めた。
 ここにきてボエモンは、皇帝アレクシオスが十字軍部隊に何の援助もしないので、占領した都市はすべて皇帝に引き渡すという誓いは無効であると主張しはじめた。十字軍の指導者たちは紛糾し、進軍はストップした。さらに疫病が軍勢を襲い、多くの兵や馬が命を落とした。疫病によって教皇使節アデマールも落命した。軍勢は指揮系統を失った。1098年末、シリアの都市マアッラ陥落後、住民を殺戮し、犠牲者を鍋で煮たり串で焼いたりする人肉食事件が起こる。1099年初頭ようやく指揮系統が回復し、軍勢はエルサレムに向かった。ボエモンはアンティオキア公国建国を宣言し、アンティオキア公ボエモン1世となる。

(5)エルサレム攻略とエルサレム王国成立
 十字軍はエルサレムを目指して地中海沿岸を南下した。組織的抵抗はほとんどなかった。十字軍の通過した町や村の荒廃を聞き、セルジュークやアラブの地方有力者たちは十字軍に宝物・食料・馬など物資や道案内を提供して無難に通過させることを選んだからであった。
 一方エジプトのファーティマ朝は動揺していた。アンティオキア攻略中の十字軍に使者を送り、シリアの南北分割統治を提案したものの、彼らはあくまでエルサレムにこだわり、十字軍との同盟も不可侵条約も成り立たなかった。その後、ついにファーティマ朝の北限境界を越えた。こうして1099年5月7日、軍勢はいよいよエルサレム郊外に到着した。
 十字軍はエルサレムを包囲し、攻城やぐらを建設し城壁を乗り越えようとしたが、ファーティマ朝の司令官イフティハール・アル・ダウラは石油や硫黄を使った攻撃で、攻城やぐらに火を放ち城を守り、一方十字軍側は満足な食料の補給もなかったため、十字軍側の死者の数は増える一方となる。しかもファーティマ朝本国からムスリム軍援軍が迫っており、エルサレム攻略は不可能かと思われた。そのとき従軍していたペトルス・デジデリウスという司祭が、断食したうえ裸足で九日間エルサレムの周りを回ればエルサレムの城壁は崩壊するという幻を見たと主張しはじめた。旧約聖書のエリコ陥落の故事をふまえた発言であった。1099年7月8日、デジデリウスの後に従い、将兵たちはエルサレムの周りを回り始めた。七日目の7月15日、彼らは城壁の弱点を発見してそこを打ち壊して城内に入ることに成功した。
 城内に入った十字軍は一週間にわたってエルサレム市民の略奪と殺戮を行い、イスラム教徒、ユダヤ教徒のみならず東方教会キリスト教徒まで殺害した。ユダヤ教徒シナゴーグに集まったが、十字軍は入り口をふさぎ火を放って焼き殺した。多くのイスラム教徒はソロモン神殿跡に逃れたが、十字軍の軍勢はそのほとんどを殺害した。虐殺された数は七万人以上とされる。虐殺に伴ってイスラム教徒、ユダヤ教徒東方正教徒の女性に対する強姦と財宝の略奪も行われた。
 市民の殺害が一段落すると、軍勢の指導者となっていたゴドフロワは「アドヴォカトゥス・サンクティ・セプルクリ」(聖墳墓の守護者)に任ぜられた。これはゴドフロワが、王であるキリストが命を落とした場所の王になることを拒んだからである。ギリシアアルメニアコプトなどの東方正教会各派のエルサレム総主教たちは追放され、カトリックの司教が立てられた。
 ゴドフロワはこのあと、エルサレムを拠点にパレスチナやシリア各地を襲い、1100年にエルサレムでこの世を去り、弟エデッサ伯ボードワンが「エルサレム王」を名乗った。ここに十字軍国家エルサレム王国が誕生する。

(ゴドフロワの言動に象徴されるが、その行なったことは野獣よりも悪逆非道なのに、妙に敬虔な装いの言動をするのが十字軍の奇怪さである。それにしても、教会が国家権力を利用し、国家権力が教会を利用すると、なぜこれほどまでに悲惨なことが起こることか? それは国家権力の本質は剣だからであり、宗教は自己を絶対の正義と思い込ませるからであろう。「汝の敵を愛せよ」「剣をとる者は剣によって滅びます。」と言われた主イエス・キリストの教えから、ここまでかけ離れてしまって、自分が神のみこころを行っていると思い込んでいたとは、なんということだろうか。ひとりひとりの兵士の責任よりも、教皇の責任がはるかに重い。)