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苫小牧福音教会 水草牧師のメモ帳

2011-05-25

場違いな論議

 今朝、聖書通読をしていてさしかかったところなのだが、福音書に記されている不思議な現象がある。それは、主イエスがご自身が受難について弟子たちに予告すると、彼らは決まって、彼らのうち誰が一番偉いのかということを論じ始めるということである

マルコ9:30-34

9:31それは、イエス弟子たちに教えて、「人の子は人々の手にわたされ、彼らに殺され、殺されてから三日の後によみがえるであろう」と言っておられたからである。 9:32しかし、彼らはイエスの言われたことを悟らず、また尋ねるのを恐れていた。

9:33それから彼らはカペナウムにきた。そして家におられるときイエス弟子たちに尋ねられた、「あなたがたは途中で何を論じていたのか」。 9:34彼らは黙っていた。それは途中で、だれが一ばん偉いかと、互に論じ合っていたからである


マルコ10:32-41

10:32さて、一同はエルサレムへ上る途上にあったが、イエスが先頭に立って行かれたので、彼らは驚き怪しみ、従う者たちは恐れた。するとイエスはまた十二弟子を呼び寄せて、自分の身に起ろうとすることについて語りはじめられた、 10:33「見よ、わたしたちはエルサレムへ上って行くが、人の子は祭司長、律法学者たちの手に引きわたされる。そして彼らは死刑を宣告した上、彼を異邦人に引きわたすであろう。 10:34また彼をあざけり、つばきをかけ、むち打ち、ついに殺してしまう。そして彼は三日の後によみがえるであろう」。

10:35さて、ゼベダイの子のヤコブヨハネとがイエスのもとにきて言った、「先生、わたしたちがお頼みすることは、なんでもかなえてくださるようにお願いします」。 10:36イエスは彼らに「何をしてほしいと、願うのか」と言われた。 10:37すると彼らは言った、「栄光をお受けになるとき、ひとりをあなたの右に、ひとりを左にすわるようにしてください」。 10:38イエスは言われた、「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていない。あなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができるか」。 10:39彼らは「できます」と答えた。するとイエスは言われた、「あなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けるであろう。 10:40しかし、わたしの右、左にすわらせることは、わたしのすることではなく、ただ備えられている人々だけに許されることである」。 10:41十人の者はこれを聞いて、ヤコブヨハネとのことで憤慨し出した

ルカ22章には最後の晩餐の席上で、イエスがご自分の受難を語ったときにも、この中で誰が一番偉いのかと論じたと書かれている(24節)。

 主イエス十字架にかけられて殺されると予告なさるたびに繰り返される、弟子たちのうちの「誰が一番偉いのか」という場違いな論議。とても奇妙な現象である。なぜ弟子たちは、こんな場違いの論議をしてしまうのか。

 彼らはイエス様に対して勝手政治的メシヤを期待していた。イエス様が政治的メシヤとして王となられたら、自分たちも大臣になることができるであろうと思っていた。ところが、イエス様が敵に捕まって侮辱を受けた上、殺されてしまうとおっしゃる。「三日目によみがえる」ということばなど信じられるわけがない。もし、イエス様の受難の予告が本当なら自分たちの政治的な成功の夢もまた同時に潰えてしまう。・・・そう思うと彼らは不安になって、その不安をかき消すために、お互い誰が一番偉いのかと論じないではいられなかったのではなかろうか?

 筆者はこの現象に気付いてから、「イエスの受難予告と弟子たちの場違いな議論」についてこんなふうに解釈している。読者のなかに別の理解をお持ちの方は、コメントをくださいませんか。 

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  八ヶ岳にまた雪が降りました

zichaozichao 2011/05/25 14:48 見解はないのですが、ルカ9:44-48の流れで読むと(ry

iohsugiiohsugi 2011/05/25 22:31 不安解消のためという先生の意見は私にとっては初耳で、興味深いと思います。しかし、弟子たちはイエスの死の予告を受容することはできたが、復活の予告を受容することはできなかったという点は、福音書の描写とは異なると思います。福音書によれば、弟子たちはイエスの死の予告を受容できませんでした(マタイ16:22)。彼らの神学には「メシアの死」が欠落していたわけです。そういうわけで、弟子たちはメシアの死を真剣に受け止めず、想定外に置いたのでしょう。だから平気で「場違いな議論」をしていたのでしょう。

koumichristchurchkoumichristchurch 2011/05/25 23:29 弟子たちの「イエスの死」と「イエスの復活」の受け止め方にはちがいがあります。「イエスの死」はありうることだけれど、あってはならないことだと彼らは考えた。それに対して、「イエスの復活」はそもそも、ありえないことだと彼らは考えたか、あるいは単なる文学的比喩のように考えたのです。

iohsugiiohsugi 2011/05/26 00:28 もし弟子達がイエスの死がありうると考えていたとしたら、マタイ16:22のペテロの発言はどう解釈すればよいですか。ペ

koumichristchurchkoumichristchurch 2011/05/26 06:59 弟子ペテロはイエスの死がありうるからこそ、諫めたんですよ。ありえないなら、諫める必要なんてなかった。