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苫小牧福音教会 水草牧師のメモ帳

2013-05-28

時の螺旋構造と歴史認識

 先週、北海道聖書学院お話したことのイントロで話した4点のうち1点です。

(前略)

a 創世記1章から11章

 では、今回、他の聖書の箇所でなく、特に創世記1章から11章>をアウトラインとして採用する理由はなにか。創世記1章から9章には、万物人類創造人類堕落、神の救いの約束堕落の後の二種類の人類の歩み、そして最後の審判としての大洪水にいたるまでの歴史が凝縮されて記されている。人類歴史は一度始まり、一度は終わったのである。今、我々が生きている歴史はいわば二度目の歴史である。ここには、神観、人間観、堕落贖罪約束環境観、歴史観文明観、最後の審判といったことが凝縮されて啓示されている。加えて10章、11章には再出発後の人類最初の出来事としてバベルの塔の事件が記されている。創世記1〜11章を見るならば、神の前での人類の歩みの論点が明瞭である・・・これが創世記1章から11章をアウトラインとして採用する理由である

こんなふうにも説明が可能だろう。すなわち、創世記1章から11章までには、もろもろの種がある。植物の種のなかには、そこから生じる植物の全体が含まれている。それぞれの種をしっかり観察するならば、そこから展開してくることがらの本質を見出だすことができるであろう。


聖書時間論と歴史

 一般に古代インド古代ギリシャ的な時間観は円環であるといわれる。それは自然宗教的な世界に共通した時の見かたである春夏秋冬自然の営みから敷衍して、時というものは同じことの繰り返しなのだという考え方がその根っこにあると思われる。

時が円環であるというばあい、円の上には特定点がないように、時間のなかに起ることになにも新しいことはない。今起っていることは、過去にも起ったことであり、明日起ろうとしていることもまた過去の繰り返しにすぎない。古代ローマ歴史家クルティウス・ルフスは言った。「歴史は繰り返す。」

時が円環であるとすると永遠に同じことが繰り返されるということになるから、特定の事件の特定の意義はないということになる。「シーシュポスの神話」には、その繰り返しのむなしさが記されている。オリュンポスの神々にそむいたシーシュポスは、神々から罰として大岩をとがった山頂に運び、山頂に載せると、これが転がり落ち、またこれを山頂に運ぶという永遠の苦役を課せられた。それは無意味な繰り返しという苦痛である。円環の時のなかでは、厳密な意味歴史意識は生まれない。

 他方、しばしば、ユダヤキリスト教的な時間論、つまり聖書的な時間観は、創造から終末(御国の完成)に向かう矢だといわれる。直線的時間論と一般には呼ばれるのだが、厳密にいえば、それは直線ではなく、始まりがあり終わりがあるから線分的時間である。直線には始点も終点もない。線分上の点はすべて特定点であるから、時のなかに起ることすべては特定の出来事であって繰り返しはない。一般には、だからこそ、そこに歴史意識が生じるといわれる。

 しかし、よくよく考えるとそうではない。歴史を学ぶことの意義は過去に起った出来事を教訓として、今日を知り、明日歴史形成に役立てることであろう。「歴史は繰り返す」といった古代歴史家クルティウス・ルフスもそれを言いたかったのであろう。もし、過去現在と、まったく似ても似つかぬ特有のものであれば、それを教訓とすること自体、不可能である。実際には、過去の出来事と今日の出来事に類似性があるからこそ、そこに教訓を得て明日歴史形成に役立てることができる。

 だが、もし時がギリシャ的な円環にすぎないとしたら、まったく同じことの繰り返しが生じることは不可避だということになる。時が円環であれば、過去に犯したのとまったく同じ過ちが必然的に明日起きることになる。過去を教訓とすることはできない。過去現在とは類似しているけれども、相違点もあるからこそ、過去に学んで明日歴史を新たに作ろうということになる。

 聖書的な時間には、たしかに始まりがあり終わりがある。だから今日という日は歴史のなかにただ一度限りしかやって来ない。かけがえのない今日という日なのである。だが、聖書的な時間のもう一つの側面は、「繰り返す」ということである。こうした「時」の姿は、創世記一章における七日間の創造の記事にも表現されている。時は一日、二日、三日・・・七日まで直線的であり、それぞれの日に特有の創造の出来事がある。同時に、「夕があり、朝があった」ということが繰り返される。時は繰り返しつつ、始まりから完成へと前進するという構造をしている。

 神が天体の円運動に時の管理を委ねられた(創世記1:14,15)。だから私たちは新しい朝を迎えると、「今日こそやり直すぞ」と思い、新年を迎えると「今年こそ」と決意を新たにすることが許されている。慰めがある。つまり、時には創造から終末に向かう線分という側面と、円環という側面がある。すなわち、聖書的な時間観とは螺旋的なのである

 こうした時の螺旋構造についてはレビ記における時の聖別に表現されている。一日は夕があり朝があるという繰り返しであり、これを6回繰り返して安息日が訪れる。一週間を繰り返しつつ、恒例の大祭がやってくる。一年を七年繰り返して七年目は安息の年となり、安息の年を七回繰り返して、次の年はヨベルの年である聖書的な時は螺旋のように、繰り返しつつ、始まりから完成に向かって前進する。

 創世記1章から9章における創造から終末にいたる一度目の歴史、そして、10章、11章の再出発に学びうるのは、歴史は繰り返し、かつ、歴史は繰り返さないからである


<追記>

 時は螺旋的に前進するという構造であることから言えることは、我々の歴史認識において重要なことは、ある出来事と、別の出来事との類似と相違をともに明確にすることである

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