苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

「包括的宣教」メモ(その2)

「包括的宣教」について(その2)

 包括的宣教を可能とするためには、キリスト教弁証学とキリスト教倫理が大事だということになるでしょう。
 聖書的国家論、聖書的労働論、聖書的家庭論、聖書的芸術論、聖書的経済論、聖書的文明論、聖書的科学論、聖書的教育論、聖書的環境論、聖書的福祉論、聖書的歴史観など、こういうふうなことの(詳細は無理としても)基本的原理だけは神学校で学ぶ必要があるように思います。

 私は22年間「通信小海」を書き続けるうちに律法の第一用法としての意義を考えるようになりました。律法には三つの用法があって、第一は一般恩恵としてこの世の罪を阻止し義を促進することです。第二は人間に罪を自覚させキリストに導くことです。第三はキリスト信徒の規範としての用法です。
第二と第三が特別恩恵としての用法であり、この二つだけが意識されがちですが、包括的宣教のためには、第一用法も重要なのだということを思います。社会全体に聖書的価値観を浸透させて、腐敗を防ぐのです。それはまた、キリストの福音に対して親和的な社会の雰囲気をも形成することになるでしょう。少なくとも「教会は悪いことを教えてはいないんだな。」という認識を社会に与えたいものですし、「すべての人に好意を持たれた」(使徒2章)ということになりたいものです。見える教会は氷山の一角ですが、氷山の一角が大きくなるためには、海面下の氷山の大半が大きくならねばならないのです。それが好意者層です。
今の日本のキリスト教会は、氷山の一角のみに注目していたら、いつのまにか海面下の見えない部分がやせほそってしまって、今や沈没寸前なのではないかという気がします。

<追記>
特別恩恵としての福音トラクトを、津々浦々に効果など考えないで、広く熱心に配布することもいいと思うのです。目先人が来るとか来ないとか、教会の人数が増えるかどうかとか、そういうけち臭いことを考えないで、水の上にパンを投げて、水がパンくずでもう埋まるほどに福音を満たすことが大事だと思います。私は「教会成長論」が、教会の人数が増えることが真理であるというプラグマティックな打算的な命題を発したことが、教会を決定的に内向的にしてしまい、社会的影響力を失わせ、海面下を小さくしたということもあるのではないか、と感じているんです。