苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

墓所を得る

創世記23章
2001年6月17日夕礼拝



 「アブラハムはサラのために嘆き、泣いた。」アブラハムにとって、127歳で死んだサラは、100年以上も連れ添った妻である。結婚五十年の記念の金婚式を迎えることが出来る夫婦はまれであるのに、その倍の百年を連れ添うたのである。その嘆きはいかばかりだったろうか。アブラハムは、この際、この約束の地に墓地を買うことにした。このマクペラの墓は、サラのためだけでなく、一族がずっと用いつづけることになる。それは約束の地の相続の初穂であり、復活の希望の証となる。


1.神の司としての信用を得る

 「私はあなたがたの中に居留している異国人ですが、あなたがたのところで私有の墓地を私に譲っていただきたい。」
 この約束の地に来てすでに62年を経ていたが、アブラハムはなおカナンの地では居留者であり旅人であった。神様からこの地をあなたの相続として与えると約束されていたものの、なおこの世的にいえば、アブラハムはこの地ではよそ者にすぎなかったのである。
 確かにアブラハムは、この地ですでにたいへん信用を得るにはいたっていた。そのことは、アブラハムの申し出に対してヘテ人たちの丁重な答えをみればよくわかる。
6節「ご主人。私たちの言うことを聞き入れてください。あなたは私たちの間にあって、神のつかさです。私たちの最上の墓地に、なくなられた方を葬ってください。私たちの中で、亡くなられた方を葬る墓地を拒む者はおりません。」
 ヘテ人たちから、アブラハムは「神の司」と見なされていた。アブラハムと一族の生活が、常に神を中心にしたものであり、神からの不思議な祝福に満たされているのをこのヘテ人たちは見てきたのである。神のみ前に、いつも祈りをもって歩んでいるその姿から、ヘテ人たちは一目も二目もアブラハムに置くようになっていたのである。
 クリスチャンがクリスチャンとしての尊敬を受けるということは、結局、神をあがめ神に従う生活に徹していくことによるのだと思わされる。


2.公的に土地を得る

 アブラハムが、約束の地の信用を得たことはすばらしいことである。しかし、たとえどんなに尊敬されていてもアブラハムはよそ者として扱われていた。それはヘテ人たちがまっとうな契約をして、価をつけて土地をアブラハムに売ろうとしなかったことに表れている。ヘテ人たちの返事に対して、アブラハムはていねいにお辞儀をして感謝するが、アブラハムは「ああ、ただでサラを葬らせてくださるのですか。ありがとうございます。」と簡単には引き下がらなかった。アブラハムは、あくまでもこの地に私有の墓地を手に入れたいと腹を決めていたのである。8節と9節。しかも、ヘテ人たちの好意は感謝しつつも厚意に甘えることなく、「十分な価をつけて、私有の墓地」として売ってくれるように願うのである。

 さらにアブラハムは具体的にヘテ人エフロンという人から私有の墓地を買いたいと話を進めていく。しかも、その場は10節に記されるように「その町の門に入ってきたヘテ人たちみなが聞いているところで」とある。町の門というのは、当時の習慣として町におけるいろいろな取引や裁判が公にされるところだった。町の門には長老たちが座っており、訴えや取引がされるときに、証人となり調停者となるのであった(参照ルツ4:1,2)。アブラハムはエフロンからの墓地取得の交渉と契約を、私的なこととしてではなく、はっきりと公の場ですることを望んだのだった。
 そして、アブラハムはへりくだってエフロンの好意に感謝しつつも、あくまでも代価を払うことを希望する(13節)。するとエフロンはこの土地の値段を「400シェケルばかりだから、代金などは要りません」という。アブラハムは、エフロンが「ヘテ人たちのいるところで」つけた値段400シェケルを支払ったのである。アブラハムが不当に値切ったということはなく、エフロンの言い値で買ったということを公に知ってもらうことがたいせつなことであった。
 何度も強調されていることは、それがヘテ人たちの目の前で公に、アブラハムがエフロンから墓地を手に入れたという事実である。16節「ヘテ人たちの聞いているところで」とか、18節の「その町の門に入ってきたすべてのヘテ人たちの目の前で、アブラハムの所有地となった」とある。

適用
 神様は今日の記事から、私たちに何を教えようとされるのだろうか。私たちは何を学ぶべきだろうか。私たちは、神の民として地に足をつけて伝道をすることについての知恵を教えられると思う。

 第一には、土地を公的に得ることによって、神の民である教会は異教世界のなかで確実に地歩を得ていくことができるということである。足を地に付けて伝道をすることが出来るようになる。
 かつて小海町開拓伝道を始めて7年目、教会として公に会堂用地を買うことができた。当初、見晴台の土地は住宅地ということで、宗教法人である教会として買うことは困難ではないかと予想され、個人名義で入手してはなどとも迷ったが、祈りの結論として町役場に出かけていき黒澤町長さんと助役さんと開発担当者に率直に交渉をしたとき、神様は不思議に道を開いてくださった。町長さんはずっと「通信小海」を読んでいてくださって、「一番広い土地を得て、大きな会堂を建ててしっかりと布教してください。青少年の健全育成のために、よい働きをしていらっしゃるのだから。」とおっしゃった。実際には抽選だったが。 そして、土地の抽選会においても、公民館に集ってきた人々みなの目の前で、私たちは個人名ではなく「松原湖高原教会様」という名前で、公然と土地を手に入れることが出来た。その出来事は、アブラハムがヘテ人たちの目の前で約束の地に、墓地を得たことにも似た画期的な出来事だった。福音がこの南佐久に浸透してゆくための初穂を得たということを意味しているからである。それは神様の恵み深い導きだった。

 第二は、家は引っ越してしまう不安定な面をもっているけれども、墓地はずっと残るということである。アブラハムは約束の地に来ていながら、固定された住居を持とうとはあえてしなかった。そのようなチャンスは何度もあった。けれども、あえてそうしなかったとへブ11章は告げている。そのくせ墓地を手に入れることには熱心だった。
 なぜか。たとえ豪勢な屋敷を建てたとしても、アブラハムが死ねばもはや屋敷はなくなってしまうであろう。しかし、墓地であれば、アブラハムが死んだ後にもその地は子々孫々にいたるまで約束の地における私有地として、存続することができるだろう。事実、アブラハムの孫ヤコブの時代に神様の導きのなかでヤコブ一族はエジプトに移住することになってしまう。けれども、このマクペラの墓地は残った。そして、ヤコブもこの墓場に自分が葬られるようにと遺言して世を去り(創世記49:29-33)、息子ヨセフのミイラはその400年後、出エジプトの際にあの墓地へと携えて行かれた。
 このようにアブラハムは、この地が神様からの永久の相続地として与えられたということを重んじたからこそ、墓地を得ることを住居地を得るよりも優先したのだった。

 第三に、墓地を得ることのもう一つの意味は、さらに永遠的なことである。墓とはなにか。墓とは、自分が死ぬべき存在であることを思い出し、復活の日と天国をしのぶ場所である。神の民にとって、地上は一時の宿りの場所にすぎない。私たちは地上にあっては寄留者であり旅人である。私たちの国籍は天にこそある。私たちのほんとうの故郷は天国にある。墓は、そのことを私たちが思い出すための道具である。墓の姿には、その人の人生観、死後観が表れる。権力の象徴のような墓は地獄の沙汰も金次第という死後観を表すのだろう。また、よく寺に付属する墓地が破れちょうちんに乱塔婆というありさまで、おどろおどろしいのは、その行き先もそういう場所であることをはしなくも暗示しているのである。他方、教会の墓が花園のようで清楚であり、復活とか希望と刻まれているのは、そうした人生観を示している。
 ボンヘッファーという優れた牧会者であり神学者であった人は墓について次のように言っている。「墓地とは、眠り、そして待ち望む教会が集められている場所である。生命において互いに結ばれていたゆえに、ここでまたともによみがえらされることを望んでいる。・・・教会はこの場所を飾る。なぜなら、ここに聖徒のからだがよみがえらされることを待っているからである。この場所は、このここに横たえられた種と復活の希望のゆえに、地の上の特別な部分である。墓地は、教会を取り囲むように存在している。礼拝する場所は、同時に葬儀の場所である。ここに戦い、勝利し、試みられまた完成される全教会が集められる。このような考え方からすると、教会における葬儀もまた、それが可能であるところでは、十分な意味をもっている。
 牧師は、できるかぎりしばしば墓地を訪れなさい。そのことは、彼自身にとって、彼の宣教と牧会のつとめにとって、そしてまた彼の神学にとっても、有益である。」(『説教と牧会』pp199-200)
 キリスト者の墓は天国の希望を証するものである。墓がキリストにある希望に満ちたすばらしいものであれば、私たちは、単に自分が地上で生活をしている間だけでなく、世を去って後にも、子々孫々にわたって、キリストの福音をあかしすることができる。
 あなたが子どもへの信仰の継承と自分が葬られる墓のことをおろそかにすると、あなたの信仰生活はむなしい一発花火に終わってしまう。ヘブル書の記者がアベルについて言うことを思い出そう。「彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。」
 奈良女子大学でながらく教鞭をとられ、東京基督教大学でも長らく教えられた清水氾先生という方の話を聴いたことがある。清水先生は群馬県安中に育ち、おばあさんがクリスチャンとして天に召されたそうである。初めて身近な人の死を経験して、葬式の間、不安な気持ちに少年時代の清水先生はなっていた。けれども、納骨式のとき、墓に行くと、その墓石には「死は永遠の生命への門なり」と刻まれていたのである。「死は永遠の命への門なり」という言葉に、清水少年は胸打たれた。清水少年は、こうしてキリストにある救いを求めるようになり、生涯、キリストの福音をあかしする英文学者として歩みとおされることになったのである。「彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。」というみことばは、この清水先生のおばあさんにおいても現実となった。それは、墓に刻まれた信仰の言葉によったのである。