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苫小牧福音教会 水草牧師のメモ帳

2016-06-23

北海道聖書学院1学期講義おわり

今日北海道聖書学院で1学期最後講義でした。来週は試験です。担当したのは、キリスト論・救済論。キリスト論と救済論とを統合したクラスです。少し時間が足りないと感じて走りましたが、まあ、一応話すべきことは話せたかなと思います。かなり多くのレジュメとなりました。

 以前、東京基督神学校で4年間教えたのは教会史でしたが、こちらでの担当組織神学なので、新たにノートをつくって臨みました。教理史をおさえつつ、仲保者キリスト論をもって、創造論と救済論と教会論を統合して把握するということを試みました。

 神学生たちがクラス最後にくださった手紙によると、多くの発見と今まで学んできたことの整理ができたとのことです。

学生たちは、来週は試験、そのあとカンボジア研修だそうです。

チャペルでは八尋先生お話がうかがえて私は楽しみでした。牧会者の自己管理について、今日は教えていただきました。先生実践神学クラスを多く担当してくださっています。

北海道聖書学院は小規模な神学校です。落ち着いて学び、伝道者・牧会者としての備えをするのに良い神学校だと思います。学費が安いので、主に従うために舟も網も親も後にしてきた人でも学べます。

来学期は私はお休みなので、三学期聖霊論と次年度の現代神学終末論ノートを準備をするつもりです。

2012-10-26

歴史教科書の恐ろしさ・・・民族と国家の始まり

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教育の恐ろしさ

 教育というものは恐ろしいものだと、かつてある紳士と話していたときに思った。聖書の古さの話をしていたとき、私が「日本の歴史はまあせいぜい千七百年ほどですが・・・・。」と話したとたんに、「なにを言いますか。日本の歴史はすでに二千六百年以上ではありませんか。」と真顔でおっしゃったのである。この紳士、決して無学な人ではない。それどころか東京大学工学部を出た人物であるしかし、この方は若い日に神武天皇に始まる天皇中心の歴史事実として教えられて数十年、それが真実であると思い込んでこられたのである職業についてから学問的な歴史書を読む人は少ないだろう。それで、この紳士のばあいも、戦後五十年たっても歴史認識戦前皇国史観を改めるチャンスがなかったのである

 あの時代建国記念日紀元節と呼ばれ、天孫なる神武天皇が初代天皇として即位した日とされた。即位年は紀元前六六○年。しかし、神武天皇大和朝廷皇室歴史を飾るために作り出したフィクションである歴史事実としての天皇の始まりは、四―五世紀ころの大和地方部族連合首長大王(おおきみ)である。だから戦前は実際よりも千年ほどサバを読んで大和朝廷の古さ・正統性を教えていたことになる(角川『日本史辞典』)。

 以前書いたことを引用しておけば、「紀元後4世紀から7世紀、朝鮮半島三国時代、戦乱を避けて多くの人々がクニごと舟に乗ってこの東海列島移住してきて、あちこちに都市国家を造った。彼らを新渡来人と呼ぼう。有名どころでは、島根出雲政権岡山吉備政権奈良大和政権飛鳥奈良時代になると、吉田晶氏(岡山大)によれば、河内国の新渡来系氏族は、古市郡では12氏のうちの8氏、高安郡で18氏のうち12氏、安宿郡で8氏のうち6氏、交野郡10氏のうち8氏、讃良郡で8氏のうち6氏、河内国においては計68氏の70%が新渡来系だったという。大和朝廷形成期、飛鳥奈良時代氏族階級の主流は新渡来人だった。」

 日本だけでなく、さまざまな国で支配者たちは自分がその国を治める正当な権利をもっていると民に思い込ませるために、王族の「歴史」を創作した。これは東西共通の支配者の習性といってよい。韓国にも天孫降臨を含む檀君神話があるし、古代エジプトでも王は現人神とされたし、スコットランド王族エジプト起源とするという神話を持っている。

 小海にはその昔クジラが上ってきたという昔話があるが、実害はない。権力とは関係ない話だからだ。しかし、支配者が作り話を事実と偽って国民洗脳するのは危険なことである。実際、かつて皇国史観に惑わされて、日本神の国と思い込まされた世代は、ゆえなくアジアの隣国を軽侮した。軽侮していたから侵略を罪と感じられなかった。もし日本が、どれほど過去中国朝鮮から多くの文化の恩沢を受けたかを教えられ、それをもとに独自の文化形成をしてきたという歴史事実を教えられていたら、大陸の人たちを、ああは踏みつけにはできなかっただろう。

 右翼的歴史観左翼的歴史観もごめんである。親としては、子供には本当にあったことを教えてほしいと思う。最近「新しい歴史教科書を作る会」という皇国史観ノスタルジーを抱く民族派団体の『国民歴史』『国民の道徳』という本を読んで、そんなことを思った。


民族とは国家とは

 ところで、そもそも民族とはなんだろう。民族主義者は民族神聖視するが、聖書民族の始まりについてなんと言っているだろう。聖書民族の始まりは、人間傲慢の罪に対する創造主のさばきにあるという。かつて人類が一民族・一言語だったとき、彼らは一致団結して神への反逆のシンボルとしてバベルの塔を建て始めた。そこで、神は彼らの傲慢を打ち砕くために、言葉を分けてしまわれた。結果、争いとなり、工事は中止され、諸民族が形成されることになったという。バベルの塔の事件である創世記十、十一章)。

 というわけで、民族起源神聖ものでなく、むしろ傲慢という罪であることを思って、私たち自民族絶対化という愚を犯してはならない。

 

 では、国家とはなにか。国家主義者は国を神聖視するが、聖書国家観はきわめてドライである。神が人類最初に造ったとき国家という制度はなかった。創世記1,2章によれば、そのとき神がお定めになったことは、七日に一度神を礼拝すべきことと、結婚と、労働という三つである国家というもの必要になったのは、人類が神に背いて堕落し、わがままになってしまったからにすぎない。殺人に対しては死刑をもって報いるべきだという定めの最初は、人類が大洪水の後再出発したときにノアに与えられた(創世記9章)。新約聖書ではローマ書13章に、神は国家を神のしもべとして立てて、剣を託して社会の秩序を維持させていると記されている。これを剣の権能と神学では呼ぶ。

 近世の始まろうとする時代マキャベリ国家必要なのはよい法律とよい武力であると言っている。日本でも16世紀には豊臣秀吉刀狩をして国家として暴力を独占した。19世紀、マックスヴェーバーは、国家法律を守らせるために暴力を独占し、暴力装置を備えていることが必要であるとした。

 誰もが正しい人ならば、制限速度の表示板だけ立てておけばそれで足りるのであるが、実際には、誰もが罪人だから表示板が立っているだけでは守ろうとしない。だから、その規則を守らせるために、罰則を定め、罰則を実行するために国は暴力警察刑務所)を備えているのである自分自身を含め、情けない罪の現実聖書クールに見ているのである

 というわけで、聖書によれば、本来、国家というのは愛の対象とするような麗しいものではなく、人間の罪の現実対応するためにやむをえず建てられた制度にすぎない。

(通信小海???号に加筆)

2012-07-16

ヒラメ問題

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 大津の中2いじめ自殺事件について、校長は「生徒のSOSに気付かなかった。(いじめを警戒する)意識がほとんどなかった」と初めて会見で釈明している。複数の生徒が勇気を出して「いじめがある」と先生たちに報告がされているのに、校長はこれを「けんか」と認識して、事態の推移を見守ったとかいうのである。「事態の推移を見守る」とは格好をつけただけのことで、事なかれ主義で済ませようとしたというだけのことである。「いじめ」があると、教育委員会による校長の評価が下がるのだろう。

 生徒から「いじめがある」と声が出るとしたら、これは非常に深刻な状況なのだ。そういう通報をする生徒は、「ちくったな」と言われて今度は自分自身がいじめのターゲットとされる危険をあえて冒して通報しているのだから教育関係者でありながら、こんな常識も知らないのだろうか。

 教師が生徒のSOSに気づかないのはなぜか? 教師が校長や教頭がつける勤務評定ばかり気にしているからである。校長が「生徒のSOSに気づかない」のはなぜか?校長が、教育委員会のご機嫌のみを見ているからである。そして教育委員会は、文科省のご機嫌ばかりを伺っているからである。みな上ばかり見ているヒラメなのだ。生徒はたまったものではない。

 ところで、なぜ教員は生徒が見えず校長・教頭ばかり見るヒラメになったのだろうか? 思うに、それは「君が代・日の丸」強制問題に象徴されるように、教育委員会は校長を取り締まる管理者となり、校長・教頭が教師を取り締まる管理者となったからではなかろうか。校長・教頭はなぜ教育委員会の顔色ばっかり見るヒラメになったのか。それは教育委員会が、「日の丸君が代」を踏み絵にしていることに象徴されるように、校長・教頭たちに圧力をかけるからである教育委員会は、文科省の手先となりはててしまって、各地域における教育の自由・自立を失っている。都教委など、特高警察か憲兵みたいに、卒業式・入学式のときの教員たちを監視し、意に沿わなければ、呼び出して再教育をしている。こうして、文科省と教育委員会こそがヒラメ教員、ヒラメ校長たちを生産しているのだ。教職員会議は、今はもはや教員たちの意見を聞く場ではないからある案件に挙手をもって賛否を問うことを禁じられていると聞く。教職員会議はたんなる上意下達の機会であるとされているのである

 このようにして文科省が教育組織が上から下まで官僚化してしまったので、ヒラメ教育委員会・ヒラメ校長・ヒラメ教頭になり、現場の心ある教員たちまでもヒラメ化させているのである。それは、文科省が日の丸君が代強制に象徴される高圧的な姿勢を示し続けて来たからではないか。学校とは本来生徒たちの健全な育成を目的とする機関であるはずである。現場に生徒思いの勇気ある教員もいることは承知しているが、残念ながら、組織全体の傾向としては、教員たちは教頭・校長におびえ、教頭・校長は教育委員会におびえ、教育委員会は文科省におびえている。

 大津の事件をきっかけに、文科省がさらに各教育委員会・各学校に対して締め付けを強めるなら、ますます学校はヒラメ校長とヒラメ教頭とヒラメ教員しかいなくなって、さらに子どもたちが犠牲となるだろう。文科省自身がまず猛省すべきであると思う。


<追記1>

 類似の状況は、以前に書いたが、裁判所でも起こっている。裁判官は本来、法に基づいて独立的に公正な裁判を行うことを任務としている。しかし、裁判組織では最高裁が人事権を握っている。出世を望むヒラメ裁判官たちは、最高裁のおぼえがよいことを願うあまり、公正な裁判が行われなくなっているという指摘がある。

http://d.hatena.ne.jp/koumichristchurch/20111201/p2

<追記2>

 といって、文科省がどんな風に反省すればよいのかは、なかなか難しい。国が教育を手放すことはないだろう。

 思うに、少なくともいえる事は、「うちの学校はいじめはありません」という報告をする学校はよい学校で、立派な校長であるという、バカみたいに単純な評価はしないことだろう。子どもたちも罪ある存在である以上、いろんな問題が学校内には渦巻くだろう。それにどのように誠実に取り組んでいるかということこそが評価されるのがほんとうではなかろうか。

<追記3>

 いじめが起こる場所は学校と刑務所であると昔から言われる。それは、閉鎖空間だからである。転職がむずかしい今日では、職場も閉鎖空間になっているので、陰湿ないじめが起こりやすい。

 学校を閉鎖空間でなくしてしまってはどうだろうか。塾ではいじめは起こらないという。出入りが自由だからである。私学でもいじめはひどくなりにくいという。理由は、いじめがあるような塾や私学では、評判が悪くなって、親が生徒をやめさせてしまい、学校にとっても死活問題だからである。経営者はいじめが起らないように、いじめをするような生徒は追放してしまうという覚悟があるからだとも言われる。

 これに対して、公立学校にはそういう経営危機の心配はない。ただ「いじめ」があると、教育委員会の校長に対する評価が下がる。だからとにかく入れたものは、形だけでも卒業までやらせる公立学校では、そういう動機が働かない。

2011-10-10

意図と形式と改革

「パリサイ人と律法学者たちは、イエスに尋ねた。『なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人たちの言い伝えに従って歩まないで、汚れた手でパンを食べるのですか。』

 イエスは彼らに言われた。『イザヤはあなたがた偽善者について預言をして、こう書いているが、まさにそのとおりです。

  「この民は、口先ではわたしを敬うが、

  その心は、わたしから遠く離れている。

   彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである

  人間の教えを、教えとして教えるだけだから。」

あなたがたは、神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っている。』」

(マルコ7:5−8)

 ある形式が定められたとき、そこには本来、ある意図があったものなのであるが、時間が経つにつれて、あるいは時間がさほど経っていなくても、それが見失われて、形式のみが絶対化されて残ってしまうということが起りがちである。形式主義である。毎年やっているから、みんながやっているから、といった理由だけで、時代も状況も変わったのに、ただ続けていてそれを行っている者たちの重荷になっている習慣というのは、たいてい形式主義に陥っている。

 どうすればよいか?形式が定められた本来の意図(目的)に立ち返ることである。そうして、現状においてその本来の意図にかなった新たな形式はなんであるかということを工夫して改革することである

2011-09-01

娘の旅立ち

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(だいぶ以前の文章です。)


 小学二年生の娘が転校することになった。引越したので、校区が北牧小学校から小海小学校へと変わったためである。二年生とは言っても、保育園からずっとクラス変えもなく五年間いっしょに歩んできたお友だちと別れてしまうのはさびしかろう、不登校になったらどうしようと取り越し苦労までして、親としては心配した。

 娘とふたりで聖書を開いた。信仰の父アブラハム旅立ちの記事である


主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族はあなたによって祝福される。」アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた。アブラムがカランを出たときは、七十五歳であった。 (創世記十二章)


 「アブラムさんは神様のご命令があったとき、どこに行くのかわからなかったけれど、神様がアブラムさんの名を大いなるものとし、まわりの人たちもみんな幸せにしてくださるという神様の約束を信じて、勇気を出してふるさとを出かけたんだ。そうしたら、実際、神様はアブラムもまわりの人たちも幸せにしてくださった。・・・もし、Sちゃんがアブラムだったら、神様から旅立ちなさいというご命令を受けたらどうする?」すると、娘は「神様の言うとおりに出かけるよ。」と素直に答えた。

 そこで私は内心、残酷だなあと感じながら言った。「あのね、おとといお父さんは学校に行って、校長先生に会ってきたんだ。そうして、Sちゃんはこの春から小海小学校に行くことに決まったんだよ。」娘の口から言葉が出てこない。かわりに両目から涙があふれてつーっとほほを伝った。抱っこして、神様がアブラムに語られたことばのアブラムという名のところにSという名を入れて何度も何度も読んでやった。「Sの名は祝福となる。」と。少し落ち着くと娘は「神様、私はこれから転校することになりました。私はひとりでどうしたらいいのかわかりません。助けてください。」と祈った。

 小さな娘にとって、転校は生まれて初めての旅立ちである。危機である。不安である。けれども、この危機は神様がくださった成長のチャンスでもあろう。

 翌日学校で娘は自分から担任の先生に転校について話した。さっそく送別会の準備が始まったという。帰宅して、娘は母親にこう言った。「なんでも自分のしたいようにだけ祈ってもだめなんだね。」娘は人生について、神のみむねに従うということについて、一つたいせつなことを学んだらしい。

(通信小海102号2002年2月より)