Hatena::ブログ(Diary)

苫小牧福音教会 水草牧師のメモ帳

2018-03-14

新改訳2017の地図に注文…シナイ山の位置

Bible Hub地図シナイ山(ホレブ山)の位置が2か所チェックされています。私は新改訳2017の地図に、アカバ湾東側に昔からあるシナイ山の説も紹介してほしかったんです。でも本文のことばかりに気をとられて、地図のことに注文するのを忘れていました。

 なぜアカバ湾東側つまりアラビア半島シナイ山があったと考えるほうがよいと考えるのかというと、4つ理由があります

 第一に、聖書シナイ山アラビア半島のミデヤンの地にあると言っているから

 第二に、当時、シナイ半島エジプト支配下にあったからスエズ湾を渡ってもエジプト脱出にならないから

 第三に、ミデヤンの地にシナイ山があると想定したほうが、聖書に記録されている旅程・日程と調和するから

 第四に、伝統ルートシナイ山には考古学証拠が皆無だけれど、ミデヤンの地の東のモーセの山と、アカバ湾渡渉地点と目されるところには考古学証拠があるから

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詳細はこちら。

http://d.hatena.ne.jp/koumichristchurch/20140511/p2

2018-03-07

新改訳2017  「神のかたち」の件

 新改訳2017翻訳にあたって、委員会あてに修正をお願いした一つに、創世記1章26,27節がある。第三版では次のようになっている。

1:26 神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのもの支配するように。」

1:27 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。

それが2017では以下のとおり。

26 神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのもの支配するようにしよう。」

27 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。」

 筆者が求めたのは、26節は「われわれのかたちとして」を「われわれのかたちにおいて」または「われわれのかたちに」に、27節は「ご自身のかたちとして」を「ご自身のかたちにおいて」または「ご自身のかたちに」に、「神のかたちとして」を「神のかたちにおいて」または「神のかたちに」に修正してほしいということであった。

 理由は、第一に「として」と訳された「ベ」という前置詞は[in](において)と訳されるのがもっと一般的自然翻訳であり、英訳ほとんどもinと訳していること。

 第二に、創世記1章26,27節の奥義をコロサイ書1章15節は開示して、「御子は見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれたお方」であるとして、「神のかたち」は「御子」であるとしていることである。御子は、創造論的な意味で神と人との仲保者であるということである人間は直接的な意味で神のかたちであるのでなく、神のかたちである御子を介して、神のかたちのかたちなのである。(それゆえ、救済においても御子は神と人との仲保者たりえる)。この理解は、新奇な解釈ではなく、アウグスティヌスより前には古代教会においてかなり一般的ものであった。

 翻訳委員会には別の見解があったようで、訳文は修正されなかった。しかし、脚注に、配慮がされている。創世記1:26の「神のかたち」と、コロサイ書1:15の「神のかたち」が、相互に参照されるようにという脚注がついているのである。これは感謝

新改訳2017(その2)  主の祈りの件

 新改訳2017を読んでいます。多くの方の感想と同じように、不思議と読みやすくてスラスラ読み進めてしまいます。読んでいて快適なんです。理由は一つには行間が以前より広くなり、紙の色もクリームになったこと、そして訳文が少しずつこなれたものとなったことが大きいのでしょうね。私は、訳文に注文をいくつか付けて、翻訳委員会に送っていましたが、半分強、修正されていました。たいへんなお仕事だったでしょうね。

 多くの人の祈りに影響のあるところで、ぜひ直してほしかったのに直っていないのは主の祈りの「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。」です。ここは文語訳で「われらに罪をおかすものをわれらがゆるすごとく、われらの罪をもゆるしたまえ」にあるように「ごとく」という比例をあらわすことば(ホース)がギリシャ語本文にはあるところです。これを新改訳は訳出していません。

 おそらく、「赦した」という功績を根拠として義と認められるという功績主義的義認論の誤解をおそれて、というのでしょうね。しかし、信仰義認というローマ書の教えを理由にして、マタイ福音書山上説教主の祈り翻訳をいじるというのはよろしくないでしょう。

 山上説教の中には、<赦すように赦される><量るように量られる>という教えが6:14,15にも7:1−5にもありますから、この主の祈りにおいても、「私たちが、私たちに負い目のある人たちを赦すように、私たちの負い目をお赦しください。」と訳すのが、文脈にかなっていますクリスチャン兄弟姉妹を恨んでいたら、神の前に心に平安がなくなって祈れなくなる、そういうことがないようにと主の祈りで教えているわけです。同様の教えは、マルコ11:25「また立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます。」にもあります。つまり、クリスチャンが祈るにあたって、人を恨んでいてはだめだよ、ということです。兄弟姉妹とのいさかいは、祈りのさまたげになるという、とても大事な教えです。そういえば、ペテロ手紙の中で夫に対して次のように教えています。1ペテロ3:7「 同じように、夫たちよ。妻が女性であって、自分よりも弱い器だということをわきまえて妻とともに生活し、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。それは、あなたがたの祈りが妨げられないためです。」

 たしかに、聖書全体が神のことばですから聖書翻訳において、ほかの聖書箇所との調和大事ですが、「ホース(ごとく、ように)」を抜いたこの翻訳は、調和させる箇所をとりちがえたのだと思います。なんでも信仰義認や救いに適用しがちな「福音派的」な現象かなあ。

2016-12-22 武力によらず、権力によらず

武力によらず、権力によらず

ゼカリヤ4:6

口語訳「権勢によらず、能力によらず、わたしの霊による」

新改訳第三「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」

新共同訳「武力によらず、権力によらず、ただわが霊によって」

 口語訳、新改訳が「権勢」「権力」としているハイルのを新共同訳が「武力」と訳し、前二者が「能力」としているコアを新共同訳が「権力」と訳しているのを見て驚いた。用例を調べてみると、ハイルは軍隊と訳されている箇所が多いことから見ると、新共同訳が正解のように思われる。英訳ではmightと訳すものが多い。force、strengthというのもある。「武力によらず、権力によらず、わたしの霊によって」という方が、具体的でピンとくるのではなかろうか。

2016-02-09

羽があって四足で歩き回るもの

11:21 しかし羽があって群生し四つ足で歩き回るもののうちで、その足のほかにはね足を持ち、それで地上を跳びはねるものは、食べてもよい。

11:22 それらのうち、あなたがたが食べてもよいものは次のとおりである。いなごの類、毛のないいなごの類、こおろぎの類、ばったの類である

11:23 このほかの、羽があって群生し四つ足のあるものはみな、あなたがたには忌むべきものである。」レビ記11:21-23

 旧約の祭儀律法における食物の禁忌の記述。いくらなんでも「四つ足」という翻訳はまずかろう。昆虫は「六つ足」だから。「羽があって四つ足」といえば、コウモリやムササビそれから・・・ペガサスくらいしか思いつかない。

 ちなみに、新共同訳も「四本の足で」としている。ちなみに、新共同訳ではごていねいに「四本の足で」としている。「四つ足」ならまあ熟語だけれど、「四本の足で」ではそうとはいえない。おもしろい。

 ヘブル語本文を直訳すると、「四の上で」だから、たしかに「四つ足」なんだけれども、まあ、「四つ足」ならまあ熟語だけれど、「四本の足で」ではそうとはいえない。原文が透けて見える翻訳なんでしょうかね。おもしろい。

2014-11-03

幻?

 お話をするためにうかがった教会で、ある年配のビジネスマンと食卓で話をしていたとき、「聖書の用語で『まぼろし』というのはむずかしい。わからない。むしろ、『構想』とでも訳したほうがわかるのではないか。」とおっしゃった。「普通の日本人の使う言葉では、『まぼろし』と言えば、『夢かうつつかまぼろしか』というふうに、あいまいなもの、実体のないものという意味ですからねえ。」と。

 次の聖書翻訳に携わる方、ご一考ください。

・・・と新改訳聖書の改訳を進めている先生方にお伝えしました。