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苫小牧福音教会 水草牧師のメモ帳

2016-12-22 武力によらず、権力によらず

武力によらず、権力によらず

ゼカリヤ4:6

口語訳「権勢によらず、能力によらず、わたしの霊による」

新改訳第三「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」

新共同訳「武力によらず、権力によらず、ただわが霊によって」

 口語訳、新改訳が「権勢」「権力」としているハイルのを新共同訳が「武力」と訳し、前二者が「能力」としているコアを新共同訳が「権力」と訳しているのを見て驚いた。用例を調べてみると、ハイル軍隊と訳されている箇所が多いことから見ると、新共同訳が正解のように思われる。英訳ではmightと訳すものが多い。force、strengthというのもある。「武力によらず、権力によらず、わたしの霊によって」という方が、具体的でピンとくるのではなかろうか。新共同訳は全体的に新味をねらっておかしな訳が多いという印象だが、ここについては新共同訳に軍配を上げたい。

2列王6:14

「そこで王は馬と戦車大軍とをそこに送った。彼らは夜のうちに来て、その町を包囲した。」

エレミヤ46:22

彼女の声は蛇のように消え去る。彼らは軍勢を率いて来る。きこりのように、斧を持って入って来る。」

エゼキエル17:17

戦争になって、多くの者を断ち滅ぼそうと、彼が塁を築き塹壕を掘っても、パロは決して大軍勢と大集団で彼をかばわない。」

エゼキエル38:15

あなたは、北の果てのあなたの国から、多くの国々の民を率いて来る。彼らはみな馬に乗る者で、大集団大軍勢だ。」

ゼカリヤ4:6

口語訳「権勢によらず、能力によらず、わたしの霊による」

新改訳第三「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」

新共同訳「武力によらず、権力によらず、ただわが霊によって」

 口語訳、新改訳が「権勢」「権力」としているハイルのを新共同訳が「武力」と訳し、前二者が「能力」としているコアを新共同訳が「権力」と訳しているのを見て驚きました。用例を調べてみると、ハイル軍隊と訳されている箇所が多いことから見ると、新共同訳が正解のように思われる。英訳ではmightと訳すものが多い。force、strengthというのもある。「武力によらず、権力によらず、わたしの霊によって」という方が、具体的でピンとくるのではなかろうか。新共同訳は全体的に新味をねらっておかしな訳が多いという印象だが、ここについては新共同訳に軍配を上げたい。

2列王6:14

「そこで王は馬と戦車大軍とをそこに送った。彼らは夜のうちに来て、その町を包囲した。」

エレミヤ46:22

彼女の声は蛇のように消え去る。彼らは軍勢を率いて来る。きこりのように、斧を持って入って来る。」

エゼキエル17:17

戦争になって、多くの者を断ち滅ぼそうと、彼が塁を築き塹壕を掘っても、パロは決して大軍勢と大集団で彼をかばわない。」

エゼキエル38:15

あなたは、北の果てのあなたの国から、多くの国々の民を率いて来る。彼らはみな馬に乗る者で、大集団大軍勢だ。」

2016-02-09

羽があって四足で歩き回るもの

11:21 しかし羽があって群生し四つ足で歩き回るもののうちで、その足のほかにはね足を持ち、それで地上を跳びはねるものは、食べてもよい。

11:22 それらのうち、あなたがたが食べてもよいものは次のとおりである。いなごの類、毛のないいなごの類、こおろぎの類、ばったの類である

11:23 このほかの、羽があって群生し四つ足のあるものはみな、あなたがたには忌むべきものである。」レビ記11:21-23

 旧約の祭儀律法における食物の禁忌記述いくらなんでも「四つ足」という翻訳はまずかろう。昆虫は「六つ足」だから。「羽があって四つ足」といえば、コウモリやムササビそれから・・・ペガサスくらいしか思いつかない。

 ちなみに、新共同訳も「四本の足で」としている。ちなみに、新共同訳ではごていねいに「四本の足で」としている。「四つ足」ならまあ熟語だけれど、「四本の足で」ではそうとはいえない。おもしろい。

 ヘブル語本文を直訳すると、「四の上で」だから、たしかに「四つ足」なんだけれども、まあ、「四つ足」ならまあ熟語だけれど、「四本の足で」ではそうとはいえない。原文が透けて見える翻訳なんでしょうかね。おもしろい。

2014-11-03

幻?

 お話をするためにうかがった教会で、ある年配のビジネスマンと食卓で話をしていたとき、「聖書の用語で『まぼろし』というのはむずかしい。わからない。むしろ、『構想』とでも訳したほうがわかるのではないか。」とおっしゃった。「普通の日本人の使う言葉では、『まぼろし』と言えば、『夢かうつつかまぼろしか』というふうに、あいまいなもの、実体のないものという意味ですからねえ。」と。

 次の聖書翻訳に携わる方、ご一考ください。

・・・新改訳聖書の改訳を進めている先生方にお伝えしました。

2013-06-22

騎兵?

f:id:koumichristchurch:20130622103237j:image

    ラメセス2世(アブシンベルの壁画)

ソロモンはまた戦車の馬の、うまや四千と、騎兵一万二千を持っていた。(列王上4:26 口語訳)・・数字が違う

ソロモンは戦車用の馬のための馬屋四万、騎兵一万二千を持っていた。(1列王4:26 新改訳)

ソロモンは戦車用の馬の厩舎四万と騎兵一万二千を持っていた。(列王上5:6 新共同訳)・・章節がちがう

     (数字が違うこと、章節がちがうことにはここではふれない)


 ソロモンは騎兵parashim(複数形)を1万2千も保有していたとある。イスラエルが騎兵を用いたという記事はこれ以前にはない。記事としてないから、事実としてなかったと断言することは適切ではないけれど、基本的に騎兵戦法というのは歴史的に古代においては遊牧民特有であって、農耕民は馬にひかせる戦車を用いたと、司馬遼太郎のなにかで読んだので、少し意外な感じがする。鐙(あぶみ)というものがまだない時代には、裸馬の背に乗り、しかも、騎乗したまま弓を射たり、槍を振るったりすることは、きわめて高度な技術を要することで、幼い頃から馬と一緒に生活をしている遊牧民にしか出来ないことなのだそうである。だがソロモンの時代(紀元前10世紀)にはイスラエルもすでに騎兵を用いるようになっていたということなのか。

 列王記より前を調べてみると、1サムエル13:5に「ペリシテびとはイスラエルと戦うために集まった。戦車三千、騎兵六千、民は浜べの砂のように多かった。」とある。海洋民族といわれるペリシテ人が六千もの騎兵を用いていたというのも意外である

 さらにさかのぼって見ると、意外なことに、出エジプト記14章17節には「戦車と騎兵」というセットになった表現が何度も出てくる。騎兵と訳されたことばはやはりヘブル語でparashimである。これほど昔のエジプトで騎兵が用いられることがあったのだろうか?古代エジプトの壁画をたくさん見たことはないけれども、人が馬に牽かせた戦車に乗る姿の記憶はあるが、騎乗する人を見た記憶はない。

 出エジプト14章17節の英語の翻訳聖書を調べてみると、parashimは多くの英訳聖書ではhorsemenと訳されているが、2007年のNew Living Translationだけはcharioteersと訳している。NLTは1サムエル13:5でもparashimをcharioteersと訳している。1列王記4:26では「馬12000頭(12,000 horses)」と訳している。horsemanは馬人だから騎兵とも御者とも訳せる。charioteerは御者、戦車の乗り手。騎兵については英語ではcavalrymanという単語がある。だから、horsemanはまちがっていない。問題は、日本語の「騎兵」である

 私は素人だから断言できないけれど、出エジプト14章で海に沈んだとされるのは「戦車戦車の乗り手」とするのが正しいと思う。1サムエル13:5のペリシテ人が戦車三千、騎兵六千というのは、二人乗りの戦車だったということではないのかなあ、と想像する。ひとりが馬を操作し、ひとりが弓を引く係り。(だが新共同と新改訳では「戦車三万、騎兵六千」とあって数字があわない。)

 もっとも、ダビデが謀殺したウリヤはヘテ人(ヒッタイト)であったとあるから、彼は傭兵で騎乗することはできただろう。ダビデ、ソロモンの時代に彼のような傭兵の騎兵が備えられつつあった可能性はなくもないのだが、12000というのはどうかな。少なくとも、鐙(あぶみ)のなかった時代、農耕文化のエジプトに騎兵がいたというのは無理だろう。これは戦車の乗り手だろう。

 ちなみに、Wikipedia「騎兵」に下のようにある。


 匈奴・スキタイ・キンメリア等の遊牧民(騎馬遊牧民)は、騎兵の育成に優れ、騎馬の機動力を活かした広い行動範囲と強力な攻撃力で、しばしば中国北部やインド北西部、イラン、アナトリア、欧州の農耕地帯を脅かした。遊牧民は騎射の技術に優れており、パルティア・匈奴・スキタイ等の遊牧民の優れた騎乗技術は農耕民に伝わっていったが、遊牧民は通常の生活と同様、集団の騎馬兵として戦ったのに対し、農耕民では車を馬に引かせた戦車を使うことが多かった。

 紀元前10世紀ごろには地中海沿岸で騎乗が始められていたと考えられている。古代ギリシアでは歩兵による密集戦術が主流で、馬は指揮官が使う補助的な役割でしかなかった。鐙(あぶみ)が発明されるまで乗馬は高度な技術を取得することが必要で、幼いころより馬に慣れ親しむ環境にある者しか乗りこなすことは出来なかった為とされる。

 今朝は騎兵のことが気になってしまった。あしたは主の日。お祈りしよう。

2013-06-13

ダビデはアブシャロムを追跡するのをやめた(再述)

昨日書いたサムエル記下13:37〜39、とくに39節について、ブログ上でiohsugi牧師に教えられたので、もう一度書き直します。

口語

13:37しかしアブサロムはのがれて、ゲシュルの王アミホデの子タルマイのもとに行った。ダビデは日々その子のために悲しんだ。 13:38アブサロムはのがれてゲシュルに行き、三年の間そこにいた。 13:39王は心に、アブサロムに会うことを、せつに望んだ。アムノンは死んでしまい、ダビデが彼のことはあきらめていたからである

 新共同訳・文語訳は口語訳と趣旨は同じ。多くの英訳聖書もみな同じ。「王はアブサロムに会うことを切に望んだ」という訳。

新改訳第三版

13:37 アブシャロムは、ゲシュルの王アミフデの子タルマイのところに逃げた。ダビデは、いつまでもアムノンの死を嘆き悲しんでいた。 13:38 アブシャロムは、ゲシュルに逃げて行き、三年の間そこにいた。 13:39 ダビデ王はアブシャロムに会いに出ることはやめた。アムノンが死んだので、アムノンのために悔やんでいたからである

「会うことを切に望んだ」「会いに出ることはやめた」と逆になっている。

「切に望む」「やめた」と訳されることばカーラーは、この箇所以外では「やめる」と訳されるのに、この箇所のみが「l切望する」と訳されてきたのは不思議・不自然・不合理。「やめた」と訳すべきであろう。

用例はこちら参照 http://biblesuite.com/hebrew/strongs_3615.htm

「会う」と訳されることばラツェットは、「出てゆく」「会いに出る」または「追跡する・追撃する」という意味がある。新改訳では1サムエル23:13で「討伐」という訳がある。

  用例 http://biblesuite.com/hebrew/latzet_3318.htm

この文脈では、「追跡する」がよいだろう。つまり、アブシャロムがタルマイのところに逃亡したので、追撃できなくなったという意味。

 なお14:1で口語訳「王の心がアブサロムに向かっている」、新改訳「王がアブシャロムに敵意をいだいている」もずいぶんちがう。これはalという前置詞の解釈のしようのちがい。alが敵意という意味をもちうるかが疑問である口語訳程度のニュアンスで、「王はアブサロムのことを気にしている」というくらいであろう。もし王があきらかに敵意をもっていたら、ヨアブは保身のために決して動かなかっただろうから

 というわけで、一応、翻訳は次の通り。

「「13:37 アブシャロムは、ゲシュルの王アミフデの子タルマイのところに逃げた。ダビデは、いつまでもアムノンの死を嘆き悲しんでいた。 13:38 アブシャロムは、ゲシュルに逃げて行き、三年の間そこにいた。 13:39 ダビデ王はアブシャロムを追跡するのをやめた。アムノンの死を悔やんでいたからである

14:1 ツェルヤの子ヨアブは、王がアブシャロムのことを気にしていることを悟った。」