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苫小牧福音教会 水草牧師のメモ帳

2015-10-04

神に背を向けた人間  ・・・・・日本同盟基督教団信仰告白06

創世記3章1−19節



「初めに人は、神のかたちに創造され、神と正しい関係にあった。しかしサタンに誘惑され、神の戒めに背いて罪を犯し、神のかたちを毀損した。それゆえ、すべての人は生まれながら罪と悲惨、死の支配のもとにあり、思いと言葉と行為とにおいて罪ある者である自分努力によっては神に立ち返ることができず、永遠の滅びに至る。」(日本同盟基督教団信仰告白第4項)

1.「善悪の知識の木」

(1)神の主権の下に生きる幸い

 創造における人間についての後半に「神と正しい関係にあった」とあります。「神との正しい関係」は創世記2章16節に出てくる「善悪の知識の木」に表現されています。神は次のようにおっしゃいました。

2:16「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。 2:17 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」

 このご命令は、本来、「人間は神の主権の下に服従して、自分の分をわきまえて生きるべきもの」であることを意味しています。人にはそれぞれ許された分というものがあるわけで、分をわきまえることは、人が生きる上でたいへん重要なことです。たとえば、政府というのは憲法の下に置かれた機関として、憲法を尊重しこれに従うという分の中で国を治める仕事をしていれば、それは正常な状態ですが、憲法が気に入らないからといって、好き勝手憲法を変えたり無理やりな解釈をしたりすれば、国は混乱し入らぬ争いを内外に引き起こして、国民は不幸になります。もっと身近なところでいえば、家庭においては子どもには子どもとしての分、親には親としての分があります。親は子どもが幼い頃に、子どもは親の権威の下にあることを教えることが肝心です。

神は万物の創造主であり、私たちはその御手になる被造物です。両者は陶器師とその手の中の粘土のような関係です。創造者は、その粘土に対して絶対的主権をもっています。陶器師がある粘土を茶碗に、ある粘土を急須に、ある粘土を花瓶に造ってその用途を決める主権を持つように、私たち人間は、創造主の作品ですから、創造主の定めた善悪の基準の下に置かれています。「初めに、人は神と正しい関係にあった」というのは、被造物として創造主権威の下にへりくだって生きる者で、神を愛し、隣人を愛し、被造物を耕し守る幸いな生活をしていたということです。

この木の実の実を食べないということは、アダムが神の権威の下にへりくだって生きることの証でした。逆に、アダムがこの実から食べるということは、神の主権を拒否して、己の分を踏み越えることを意味しました。

(2)自己と隣人と被造物との関係の調和

 人間は神との関係、自分自身との関係、隣人との関係、そして他の被造物との関係のなかに生かされています。人間は、特に若いとき「自分は何者なのか?何のために生きているのか?自分には生きている価値はあるのか?」というアイデンティティの問題に悩みます。神の権威の下に自分を置いていたとき、まず、人は自分自身調和して生きることができました。自分は神が愛してくださっている「神のかたち」において造られた神の作品なのだとわかっていたからです。

また、人は神の権威の下にあるとき、内面において意志をもって自分の欲求を正しくコントロールできました。食欲、性欲、知識欲、所属欲などさまざまな欲は、きちんとコントロールされているならば本来、人が生きていく上で必要で有益なものです。

 また、神の主権の下にあったとき、人は隣人と正しい関係にありました。そのことを聖書は、アダムと妻は「二人ともは裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。」と表現しています。お互いを信頼し受けいれ合っていたことを意味しています。お互いに「神のかたち」にしたがって創造された尊い存在であるということを認め合って生きているからです。

 神と正しい関係にあったとき、人は他の被造物との関係においても調和がありました。植物だけでなく、熊やライオンといった野獣に襲われる心配もなく、病原菌に苦しめられることもなかったはずです。川は清々と流れて洪水を起こすこともなかったでしょう。

 このように、創造主である神の主権の下に生きていたとき、人は自分自身を愛し、隣人を愛し、被造物を慈しみ管理して生きることが出来たのでした。

2.反逆・・・サタンの誘惑

 しかし、残念ながら最初の人アダムと妻は、サタンに誘惑され神のご命令に背いてしまいました。

(1)サタンとは

 創世記3章に登場する「へび」は、黙示録のいう「あの古い蛇」であり、聖書のほかの箇所で悪魔サタン・巨大な竜・ベルゼブル・空中の権の支配者・この世の神と呼ばれる霊的存在者です。

「こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。」(黙示録12:9)

どうしてサタンのような神の敵対者存在するのか?不思議な気がします。聖書サタン起源について詳細を述べず、ごく簡単に教えているだけですから、あまり深入りしないことが心得として大事です。もともとサタンもまた神の被造物である御使いのひとりでしたが、傲慢にも自分のおるべき所を捨てて、神の呪いを受けた者です。サタンは単数ですが、神に背いた御使いたち複数でサタンの手下です。福音書にたびたび出てくる悪霊は、そういうサタンの手下たちです。

ユダ書は言います。「1:6 また、主は、自分の領域を守らず、自分のおるべき所を捨てた御使いたちを、大いなる日のさばきのために、永遠の束縛をもって、暗やみの下に閉じ込められました。」サタンは、己の分を捨てて思い上がって地に落とされた天使たちのかしらです。(伝統的には、イザヤ書14:12−15、エゼキエル書28:11−19はサタン高慢高慢になり落とされた記事として読まれてきました。)

 黙示録によれば、サタンの最期はゲヘナにおける永遠の滅びと定まっています。それで、サタンは、人間を惑わし、神の民を迫害し、一人でも多く自分と同じように神に背き、ゲヘナ永遠の炎に苦しむものたちを増やしたいのです。

(2)サタンの誘惑と人間の罪

 サタンはまず、女に神のことばに対する疑いを抱かせました。「蛇は女に言った。『あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。』」(創世記3:1)こう言われて、女は蛇に言いました。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。 3:3 しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と仰せになりました。」(創世記3:2)彼女アダムからきちんと教わらなかったせいか、神のご命令を正しく説明できません。神は、「それにふれてもいけない」などとはおっしゃいませんでした。また、「あなたがたは必ず死ぬ」と言われたのに、「死ぬといけないからだ」と少し弱いニュアンスで説明しています。神のことばに付け加えたり水増ししたりするとサタンの罠に陥ります。

サタンは、次に人間の欲望につけこみました。

「そこで、蛇は女に言った。『あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。』そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。」(創世記3:4−6)

 サタンは「あなたがたは神のようになれる」と、虚栄心をくすぐりました。すると、彼女の目にとって善悪の知識の木の実は「食べるのに良く」見えて肉の欲を刺激されました、目に慕わしくて目の欲(好奇心)をそそるものとして映りました。サタンは肉の欲・目の欲・虚栄心という欲につけいって、罪に誘い込むのです。

結局、彼女は罠に落ちて食べました。そうすると、今度は彼女は神のようにでなく悪魔のようになって、自分の夫を誘惑して彼にも食べさせてしまいます。「それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた」(創世記3:7)

3.罪の結果

 禁断の木の実を食べたとき、何が彼らに起こったでしょうか。信仰告白文は次のように言っています。「神のかたちを毀損した。それゆえ、すべての人は生まれながら罪と悲惨、死の支配のもとにあり、思いと言葉と行為とにおいて罪ある者である自分努力によっては神に立ち返ることができず、永遠の滅びに至る。」

 罪の結果として、ここでは、神のかたちの毀損、原罪と悲惨、死と滅びという三つの側面から学んでおきましょう。

(1)「神のかたち」を毀損した

 人は本来、「神のかたち」において造られた尊い存在です。私たちは、「神のかたち」とは、まずコロサイ書1章15節から三位一体第二位である御子のことであると学びました。次に、コロサイ書とエペソ書から、知と義と聖つまり、知性と道徳性宗教性であることを学び、また、「神のかたち」とは三位一体の神のように互いに愛する存在であるということを先に学びました。

しかし、このすばらしい神のかたちが罪の結果、壊れてしまいました。人間はきよく愛に満ちたイエス様とは似ても似つかぬ者となりました。それは知性と道徳性宗教性が全部消えてなくなったという意味ではありません。もし人間から知性も道徳性宗教性がすっかり消えてしまったら、もはや人間でないでしょう。ここで言おうとしているのは、知性・道徳性宗教性はあるにはあっても、真の神に反逆する知性・神に反逆する道徳性・神に反逆する宗教性になってしまったということです。神の主権の下にへりくだることを恥として、神なしで、人は知性の力、その産物である文明の力で生きてゆけるのだとうそぶく知性。また、神なしで自分良心を頼りに生きられるのだという高慢道徳性宗教宗教でも、オカルトに凝ったり、偶像の神々を拝むような宗教性になってしまったというのです。

 

(2)原罪と悲惨

 人はアダム堕落以来、生まれながらに罪の性質をもつ者となってしまいました。これを「原罪」と言います。ダビデが「ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました」(詩篇51:5)と嘆いたように、人は母の胎に宿ったときから罪深い性質を帯びるようになってしまいました。その原罪から、思いと言葉と行為におけるさまざまな罪が生じてきます。

 まず人は自分自身内面で欲望をコントロールできなくなりました。それは、アダムと妻が作ったいちじくの葉の腰覆いに現れています。彼らは禁断の木の実を食べた口でなく、自分の性器を恥じました。それは、神の戒めにそむいたとたん、肉欲が彼らの道徳性を無視して肉体を突き動かすようになってしまったからでしょう。人は、自分自分の欲望をコントロールできなくなり、自分良心に背く悪を行う惨めな状態に陥りました。「このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。』(創世記3:7)

 また、彼らは、かつてあれほど慕わしかった神の御顔を恐怖と嫌悪の対象とするようになり、園の木の陰に身を隠すようになりました。「そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である【主】の声を聞いた。それで人とその妻は、神である【主】の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。」(創世記3:8)とあるとおりです。

 また、隣人との関係においても悲惨が生じました。神に追及された夫は「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」(創世記3:12)と妻と神に自分の罪の責任転嫁しました。かつて相互に信頼し合っていた夫婦の間に相互不信が生じ、裏切り合う関係となりました。また、かつて夫婦の間にあった、<夫の妻に対する献身的な愛と、妻の夫に対する信頼と服従>が失われ、<夫が妻を暴力的に支配し、妻は夫に奴隷的に服従・反抗する>という悪循環に陥ってしまいました。このことは、エペソ書などが新生したキリスト者夫婦の関係には、<夫の妻に対する愛と、妻の夫に対する信頼と服従>という関係であると教えていることからもわかります。

 さらに、人と被造物との関係において悲惨が生じました。「土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。」(創世記3:17,18)とあります。「いばらとあざみ」は、被造物の人間に対する反抗を象徴しています。神に背いて以来、人は、恐ろしい野獣や病原菌風水害におびえて生活しなければならなくなりました。やがて人間は、こうした被造物の反逆を文明の力をもって支配するようになり、今度は環境破壊という問題を生じています。

 要するに、神という権威に反逆したとき、人は自分自身が何者であるかがわからなくなり、自分内面において肉体が精神に反逆することを経験しなければならなくなり、対人関係においても不調和を、対被造物関係においても不調和経験しなければならなくなったのです。これらがアダムと妻の堕落以来、私たち経験している、罪の結果としてのさまざまな悲惨です。

(3)三つの死

 人はみな生まれながらに罪と悲惨の中に置かれています。そして神に背いたままにこの世を過ごすならば、最後に待っているのは、永遠の滅び以外にはありません。「あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」(創世記3:19)とあるのは、肉体的死です。

さらに、信仰告白文は、「自分努力によっては神に立ち返ることができず、永遠の滅びに至る。」と言います。

 神は、「(善悪の知識の木から木の実を)取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」(創世記2:17)と警告されました。最初の夫婦があの実を食べたその時、彼らは肉体的には即死しませんでしたが、霊的には即死しました。すなわち、神との霊的な交流が断たれて、彼らは神を恐怖と嫌悪の対象とするようになりました。

やがて、彼らは肉体的にも死ななければならなくなりました。そして、肉体の死後には神の前に、その思いと言葉と行為において犯した罪に応じて、永遠の滅びの宣告を受け、ゲヘナに陥らねばならなくなってしまいました。これは第二の死です。

 黙示録は神に背いた人の最後について次のように教えています。「しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。」(黙示録21:8)

結び

 最後に、救い主の約束を簡潔に話しておきます。神は、アダムと妻が罪を犯した直後、二つの形で、救い主キリストの到来を予告されました。一つは、「女の子孫」としての到来です。女の子孫のかかとに蛇(サタン)は噛み付くが、次の瞬間、彼の頭は踏み砕かれてしまうというのです。サタンイエス十字架にかけて殺して勝利を得たと喜んだ瞬間、御子は十字架の死をもって私たちの罪をあがなって復活してくださることの預言です。

 もう一つのキリストの到来の約束は、神が二人のために手づから動物犠牲にして作ってくださった皮衣です。これは、後の日の旧約時代の動物犠牲による罪のあがないと、それらが指差していたイエスキリスト十字架における罪のあがないとを指差しているものでした。本日は聖餐主日です。神が私たちのために用意してくださったキリスト十字架出来事をしのびながら、これにあずかりましょう。

2015-09-06

同盟教団信仰告白06   神のかたち

「はじめに人は、神のかたちに創造され、神と正しい関係にあった。」(日本同盟基督教団信仰告白4a)


「神は仰せられた。『さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。』

 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。『生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。』」(創世記1章26−28節)


「御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。 なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。」(コロサイ書1章15、16節)


1.人間観の重要

 

(1)人間とはなにか?

 昔からいろいろな人が、「人間とはなんであるのか?」と考えてきました。アリストテレスは「人間ポリス動物である」と言い、パスカルは「人間はひとくきの葦である。しかし、それは考える葦である。」と言いました。また、ヨーロッパ啓蒙主義時代のあるド・ラ・メトリという思想家は「人間機械である」と言いました。また、進化論の観点からいえば「人間生物進化の頂点にいる動物だ」と言い、DNAの解析が進んだ現代では、「人間とは遺伝子の束である」などと言います。

 どういう人間観を持つかと言うことは大事なことです。なぜなら、人は自分が何者であるかと考えるところにしたがって振舞うからです。たとえば、「人間機械である」という考え方は相当浸透した人間観であり、その影響で、近現代人は人間をあたかも機械のように扱うようになりました。その積極面から言えば、それ以前、刃物を入れるべきではないとされていた人間のからだにも、メスを入れて外科手術をしたり、内臓移植という部品交換することができるようになりました。けれども、他方では、「人間機械だ」という考え方は、人間価値仕事量といったデータのみで価値を測定することができるという考え方をもたらし、その尊厳を見失わせてしまいました。

 

(2)人間の偉大さと卑小さ

 聖書人間観の特徴は、人間創造主である神との関係において捉えている点です。神との関係において人を捉える人間観のみが、「人間とは何者なのか」ということを正しく私たちに教えるものです。

 創世記1章は、人のみが「神のかたち」に創造されたことを教えています。人間は神に似た者として造られた点で、尊い存在なのです。しかし、同時に、人間は被造物にすぎないという点では、造り主の前でほかの被造物と同じくちっぽけな存在なのです。人間の偉大さと卑小さの両面をとらえることが重要です。

 神様に背を向けた近代人は、科学文明の力を手に入れ、自らを偉大な者として思い上がり、その力で自然を征服して行きました。が、その結果、核兵器を造って自分自身を滅ぼそうとしていますし、あるいは、人間自身の生存の基盤である環境破壊して今や危機的状況にあります。他方で、神に背を向けた近代人は、人間は他の動物と何も違ったところはないのだから、種の保存の本能にしたがって生きていればよいのだと考えたり、あるいは人間精巧コンピュータを備えた機械にすぎないように考えるようになりました。そうして生きる意味道徳も見失って、自らを傷つけ、家庭と社会破壊しています。

人間の偉大さのみを知ることは有害です。また、人間の卑小さのみを知ることも有害なことです。しかし、人間の偉大さと卑小さの両方を知ることは有益なことです。聖書は、人間が「神のかたち」に造られていることを根拠として、互いに尊びあうべきだと教えています。同時に、聖書は、人間は神の前に被造物なのだから謙遜に礼拝感謝生活をすべきであると教えています。


2.「神のかたちに創造され」

 では、「神のかたち」とは何を意味しているのでしょうか。聖書から3点、学んでおきましょう。

(1)「神のかたち」とは神の御子(第二位格)である

 コロサイ書によれば、「神のかたち」とは御子つまり聖三位一体第二位格を意味しています。パウロは、万物の創造について語る文脈のなかで、御子が「神のかたち」であり、万物は御子にあって造られたと述べています。

 「御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。 なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。」(コロサイ書1章15、16節)

 しかも、ここで用いられている「神のかたち」を意味するギリシャ語「エイコーン・トゥ・セウー」は、新約聖書が書かれた当時広く用いられていた七十人訳と呼ばれるギリシャ語旧約聖書創世記1章の「神のかたち」で用いられている語と同じですから、使徒パウロが、創世記1章26,27節を意識していたことは確かです。コロサイ書は、御子が人間創造におけるモデルであると教えているのです。このことは、古代教父エイレナイオス、オリゲネスも教えています。

 そして、ヘブル語本文を直訳すれば、「万物は御子にあって造られた」「万物は御子によって造られ、御子のために造られた」とあります。御子は創造において、父なる神と被造物との仲保の役割を果たしていることがわかります。そして、人間は、本来、御子つまり「神のかたち」において(ヘブル語:「ベ」)創造された者です。

 そういうわけですから、新改訳聖書第三版の創世記1章27節は「神は人をご自身のかたちとして創造された」と訳しているのですが、コロサイ書から考えると、むしろここは「神のかたちにおいて(ヘブル語:ベ)創造された」と訳したほうがよいところです。英語聖書ではほとんどin the imageと訳しています。人間は直接的な意味で「神のかたち」なのではなく、仲保者である御子において、神に似た者として創造されたのです。御子は、救いにおいてばかりでなく、創造においても仲保の役割を果たされたのです。いやむしろ、創造において仲保者でいらっしゃるから、救いにおいて仲保者となられたのです。

 人は、本来、御子に似た者として造られたものだからこそ、後に人間が神に背いて滅ぶべき者となってしまったとき、御子は人なって、キリストとしてこの世に来てくださり(受肉)、人間の代表として罪の贖いを成し遂げてくださいました。そして人間を「神のかたち」である御子に似た者として新しく創造し、完成してくださるのです(信仰告白第6項、第8項参照)。

 

(2)「神のかたち」は「知・義・聖」である

 エペソ書とコロサイ書は、キリストにあってなされる人間における「神のかたち」の再創造について、次のように教えています。

「新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。」(コロサイ3:10)

「またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。」(エペソ4:23,24)

 この箇所から逆算すると、堕落によって毀損してしまった「神のかたち」には、「知」と「義」と「聖」という三つの側面があったことがわかります。一応、知とは知性、義とは道徳性、聖とは宗教性意味しているということができましょう。御子に似た者として造られた本来の人間は、神の御旨を悟る知性と、神の御旨にしたがって被造物を治める王に必要な道徳性と、世界のためにとりなし祈る祭司としての宗教性とを備えていたということです。神様に祈り、神の御旨を探り、そして神の御心にそって世界を治めるのが人間の務めです。神様人間に知と義と聖を与えることによって、「地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」(創世記1章−28節)という任務を果たすことが出来るようにしてくださいました。

「支配する」ということばに抵抗を感じる人が多くいますが、その内容は神から委ねられた神の作品である世界を、暴君でなく善い王として適切に治めることを意味しています。これを文化命令と言います。文化命令創世記第二章では次のよう表現されています。

「神である【主】は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。」(創世記2:15)

 神が人間に命じた被造物の支配とは、これを「耕し」かつ「守る」ことを意味しています。「耕す(アーバード)」ということばは、しもべ(エベド)と同じ語根のことばですから、大地の世話をするということです。また、「守る」とは被造物世界をしっかりと管理して滅びることがないように守ることを意味しているといえるでしょう。ですから、神様人間に被造物を支配しなさいとご命令をくださったのは、被造物を暴君的に奪い取るのではなくて、神の代理である正しい王として、利用しつつ、これを保護しなさいという意味です。

(3)互いに愛し合う共同体

 「神のかたち」の理解としてもう一点挙げておきます。

「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」(創世記1:27)

 御子イエスに似た者として、また、知と義と聖を与えられた者として、また、人間は互いに愛し合う共同体として造られました。三位一体の神は、父と子と聖霊が互いに愛し合う共同体的な神でいらっしゃいますので、このお方に似たものとして造られた私たち人間もまた、孤立して生きているわけではなく、互いに愛し合い仕え合う共同体的な存在であるということです。「人間」ということば自体、「人の間」と書くように、一人きりで生きられるものではありません。互いに活かし活かされる関係のなかで、生きているのです。

 主イエス人間に与えられた多くの戒めのなかで最もたいせつな戒めは何ですかと質問されたとき、神を愛することと、隣人を自分自身のように愛することである、とお答えになりました。人は、本来、「神のかたち」である御子に似た者として造られたので、キリスト信仰というのはひとりひとりを大切にしますが、それは利己主義個人主義をよいというのではなく、共同体的な信仰なのです。キリスト者信仰は、イエス・キリストを長子とした神の家族の中で私たちは霊的に育まれていくものなのです。「目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。」(1ヨハネ4:20,21)教会は、愛の道場です。

人間は、神に愛されて自分存在の尊さを知り、神の愛に活かされて隣人を愛して生きるように本来造られました。ですから、隣人を憎むときには人はなにより自分自身を苦しめてしまいます。創造者の目的から外れた使い方をしているからです。主はわたしたちにキリストにあって愛を表してくださいました。神の愛を知って、私たちは愛することを少しずつ学んで成長していくのです。

「 4:9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。

4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

4:11 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。」1ヨハネ4章

 

結び

 私たち一人一人は、神のかけがえのない作品です。神様私たちを、御子キリストに似た者として造ってくださいました。あなたの身近な隣人もまた、神様のかけがえのない作品です。このことを日々、忘れないで生きてまいりましょう。

2015-08-02

同盟教団信仰告白05 創造と摂理

創世記1:1-2:3


3.神は、永遠の御旨により万物を創造し、造られたものを摂理によって統べ治める絶対主権者である。(日本同盟基督教団信仰告白

序 創造摂理

 神は永遠の御旨、すなわちご計画を、創造摂理というみわざによって実行に移されます。創造というのは、神が無から万物をお造りになったことであり、摂理というのは、創造された世界を神が保ち、導き治めることを意味しています。18世紀啓蒙主義(合理主義)の流行した時代以降、欧米で理神論(デイズム)という思想が流行するようになりました。彼らは、神が世界をこのように秩序あるものとして造ったことは認めますが、神が世界を今も配慮し時には特殊なかたちで介入するお方であることを認めません。理神論のいう神は世界を造ったあとは、これを放置していて、世界は、いわば自動巻きの時計のように、それ自体の合理的な法則だけで動いているのだというのです。

 しかし、聖書においてご自分を啓示している神は、世界創造しただけでなく、世界を配慮し保ち統治なさり、時には特別な介入さえもなさる神です。聖書自体、そうした特別の介入である啓示というわざの産物です。


1.三位一体創造主

 父、子、聖霊三位一体をそれぞれのわざに目立つ点から、父なる神を造り主、御子イエスを救い主、聖霊を慰め主と呼ぶことがあります。これを経綸的(けいりんてき)三位一体論などと申します。それはそれでわかりやすく意味のあることですが、子細に聖書を読みますと、創造においても、救いにおいても、慰め励ますことにおいても、父と子と聖霊はともにそのみわざを行っていらっしゃることがわかります。父は主宰、子は実行、聖霊は仕上げという分担と見られるようです。創造についていえば、

1:1 初めに、神が天と地を創造した。

1:2 地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。

1:3 神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。

 父は主宰者として万物を創造なさいました。「1:1 初めに、神が天と地を創造した。

とあるとおりです。

 また、神の霊すなわち聖霊が、神の発せられる「光あれ」ということばを今か今かと待っているようすが創世記1章2節にしるされています。

1:2 地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。

 御子はヨハネ福音書では別名「ことば」とも呼ばれるお方であって、御父のみこころにしたがって、万物を創造なさいました。「はじめに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方ははじめに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」(ヨハネ1:1-3)

 神のことばが発せられるや、聖霊詩篇104:30に「あなたが御霊を送られると、彼らは造られます。  また、あなたは地の面を新しくされます。」とあるように、万物を造り仕上げられたのです。

 以上のように、万物の創造は父と子と聖霊なる三位一体の神の協働のみわざなのです。御父が万物を創造することを意志され、御子(ことば)は実行に移し、聖霊はそれを最終的に仕上げられたのでした。

 

2.創世記1章の意図・・・造り主こそ礼拝されるべきお方

(1)造り主こそ

 創世記には1章から2章3節までの第一の創造にかんする啓示と、2章4節から末尾までの創造に関する第二の啓示が記されています。1章の啓示が語ろうとするメッセージはなんでしょうか。創世記の記者モーセが、最初の読者として想定したのはエジプト脱出をしてきて間もないイスラエルの民です。彼らイスラエルの民は400年にもわたって、エジプトの地で過ごしてきました。エジプトにはさまざまな偶像がありました。太陽をはじめとする天体の数々、鳥や牛や狼など獣を神々としてあがめる人々、蛇やワニを崇める人々、巨大なナイル川を神としてあがめる人々、スカラベなど昆虫を神とあがめる人々などがいたのです。

 モーセが民に教えたいことは、これらエジプトで神々としてあがめられていたものは、ひとつ残らず神の作品、神の被造物であるということです。創世記では、第一日目に光、第二日目に大空と海、第三日目に陸地と植物、第四日目に天体、第五日目に海と空の生き物、そして第六日目に陸上の動物と最後に人間という順番で創造の業が記されています。これらはみなエジプトでは神々としてあがめられていたものです。

自然のものはすばらしい。しかし、それらは礼拝する神ではない。これらの作品の数々を造ってくださった創造主こそ礼拝されるべき唯一のお方です。例えば太陽が地球を暖め、作物を育てるからといって、太陽を神として拝む人がいます。古代エジプトのラーとか天照大神というのは太陽の神とされています。けれども、太陽は神が造られたストーブ兼明かりであって、神様がこれを貸していてくださるのです。寒い冬にぶるぶる震えていたら、隣のおじさんがストーブを貸してくれたとき、ストーブに「ありがとう」と頭を下げるのではなく、隣のおじさんに「ありがとう」と頭を下げるべきでしょう。同じように、私たちは太陽にではなく、太陽を造り、貸してくださっている神様にこそありがとうございますとお礼をすべきです。「あなたには、わたしの他に他の神々があってはならない。」と十戒の第一番目に命じられているとおりです。

「造り主こそ、ほめたたえられるべきお方です。」


(2)多神教、汎神論とのちがい

 世界には無数の宗教があり、無数の世界観があるというふうに思っている方がいらっしゃるかもしれませんが、実際には、神と自然の関係からいうと、それほど多くの世界観があるわけではありません。

第一は、世界永遠の昔からあって、そこにさまざまな神々が誕生してきたという多神教の世界観です。私は子どもの頃、ギリシャ神話、古事記、北欧神話を読みましたが、みなそういうパターンです。古代エジプトでも、メソポタミアでも、インドでも、ギリシャでも、多神教が支配的でした。空の神、山の神、森の神、太陽の神、また、死者であれ生きている人間であれ神々として祀ります。多神教では八百万の神々をあがめるのです。日本の古事記、日本書紀の世界観もこの多神教です。

多神教の神々というのは、有限でしばしば不道徳存在であったりします。天照大神は弟が高天原を荒らしまわってひどいことになったので、ショックを受けて天岩戸に隠れてしまったなどとかかれています。彼女を岩戸から出すために、アメノウズメノミコトという神は卑猥な踊りをして、神々が乱痴気騒ぎをしたともあります。

第二は、神イコール自然であるという考え方があります。これは少し哲学的なものです。有限な存在人間的で身近な感じで面白くはあっても、とうてい神として崇めるに値しないと考えた思想家たちは、この自然の根本原理みたいなものこそ「神」とすべきだとしました。これを汎神論といいます。汎神論によれば、神々も人間動物も虫もミミズもオケラも植物も石ころもすべては唯一の「神」の現れであるとします。あらゆるものには仏性がやどっているという大乗仏教の考え方も、汎神論です。哲学の世界ではスピノザという17世紀オランダの哲学者も汎神論を唱えました。

 個物は「神」という大海の表面に現れた波のようなものです。したがって、神の存在自然存在は同時であるということになります。世界がなければ神もありません。また、「神」と世界は一つですから、世界が汚れれば神も汚れます。その「神」というのは非人格的な原理のようなもの、法則のようなものですから、人格と人格の対話としての祈りはありえません。ただ人は「神」について観想するのみです。

 では、聖書にご自分を啓示された神はどのようなお方でしょうか?多神教における有限な神々とも、汎神論における非人格的な宇宙の原理とも違います。

神は永遠から永遠にいますお方であって、かつて世界存在しませんでした。しかし、ある時、神が世界創造しようと決断なさり、おことばをもって世界を無から創造なさったのです。「光あれ」と神が意志してことばを発せられると、光ができたのです。「大空よ水の間にあれ」とことばが発せられて、大空ができました。「地はひとところに集まれ」とことばが発せられて陸地ができたのです。世界とそこに住むあらゆる生き物は、過去の時点で造られた有限な存在です。ただ神のみが永遠の無限の存在なのです。

 また、神は「光あれ」とおことばを発し、光と闇とを区別して命名し、創造における各段階において「よし」という満足感を現わされたお方です。真の神様は、知性と感情と意志と創造力を持たれる人格的な存在なのです。これに対して世界はあるときまで存在せず、あるときに出現し、神が意志していてくださるかぎりにおいて存在する有限なものです。

 ですから、無限の人格神である造り主のみが礼拝されるべきお方です。


3.多様性と統一性・・・共に生きる世界

 神様は無からことばによって万物を造られました。その神の作品である世界の根本的特徴を見ておきたいと思います。

 第一日目は光、 第二日目は大気と海、  第三日目は陸地と植物

 第四日目は天体、第五日目は鳥と海の生物、第六日目は陸上動物人間

 そして、第七日目は安息。

こうしてみると、世界は多様な要素が、秩序をもって統一的に作られたシステムなのだということが表現されていることがわかります。実際、私たち生活している世界は、大宇宙の天体の動きと、地上の一輪の花が咲くということが見事に関連しているのです。

 一つの植物が花を咲かせ実をならせることをごくおおざっぱに考えてみよう。地球には自転と公転を正確に繰り返すことによって、適切な気温と四季の 移り変わりを導くシステムがあり、降り注ぐ太陽エネルギーを有害光線は極力遮蔽しつつ、適度に地上に受け止めて気温を保つ水蒸気の温室効果というシステム があります。太陽光は海の水を水蒸気に替えて雲として、これを陸地に配分し大気を循環させるという気候のシステムがあり、土にまかれた種が芽を出して育って花を咲かせたときミツバチやチョウが受粉を手伝うというシステムがある。一つの植物が育つには、土の中の微生物の働き、植物の光合成の仕組み、その他、分子レベルまで追求すれば数え切れないほど多くの仕組みがある。仔細に見てゆけば、一輪の花が咲いて実をならせるということのために、ミクロの次元からマクロの次元まで全宇宙が連動しているのです。このように、私たちの住む世界は、見事に多様な要素が見事に統一性が保たれて、一つのシステムとして機能しています。

 多様性と統一性は、おいしいおにぎりの秘訣でもあります。おにぎりはぎゅーっときつく握りすぎると、団子みたいになっておいしいものではありません。さりとて、握りがゆるいと食べているうちにぼろぼろと壊れてしまって、これもいただけません。おいしいおにぎりは、一粒一粒のお米が生きていて、かつ、しっかりとまとまっているものです。つまり、多様性と統一性の両立がおにぎりの秘訣です。社会に適用すれば、統一性を強調しすぎる社会は全体主義に陥り、多様性を強調しすぎる社会個人主義に陥ります。多様性と統一性の調和がたいせつです。被造物のありかたには、三位一体の神の影が落ちているということができるでしょう。当然、教会のあり方もそうです。

12:25 それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。

12:26 もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。

12:27 あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。(1コリント12:25−27)



4.摂理(被造世界歴史性)

 神様は、はじめに「光あれ」とおっしゃり、次に大気と海、次に、陸地と植物・・・と段階をふんで万物を創造したと創世記1章は告げています。神の全能をもってすれば、こうした段階を踏まなくても、「世界よありなさい」と言って、一日ですべてを造ることができました。けれども、神様はあえて段階的に、つまり、時間的な経過をへてお造りになったのでした。それは、この私たちの生かされている世界が時間的・歴史的なものであって、時の中で神様に導かれて行く者なのだということを顕わしています。それはつまり、神は摂理の働きをもって歴史を導かれるお方なのだということを意味しています。

神の被造物に対する配慮を、摂理というのです。私は「配剤」という訳語はピタリであるなあと思うのです。配剤とは「医者がその患者の状態に応じて、必要な薬を調合す る」という意味から、一般に「ほどよく取り合せる」という意味への広がりを持っています。魂の医者である神様が、神を愛する患者のために、ある場合は病気を試練という薬、ある場合は事業の成功という薬、ある場合は失恋という薬という具合に、薬を取り合せて病んでいる魂を快方に導くということです。また、ある人は案配という訳語を用います が、これもなかなかの名訳であります。「ほどよく並べること」と国語辞典が言いますように、神が私たち人生に起こり来る様々な事件をほどよく並べることによって、私たちを御自身の御心にかなう者に形成して下さるということです。ともかく、神の摂理には配慮、配剤、案配といったニュアンスがあることを理解してください。

 聖書のなかで見事に摂理について教えている箇所のひとつは、ヨセフ物語でしょう。若くして兄たちに憎まれて隊商に売り飛ばされたヨセフは、奴隷に実を落としながら、主の不思議摂理のなかでエジプトの宰相に上り詰めます。そうしたところに、オリエント世界を覆う大飢饉が襲います。すると、カナンの地から兄たちが食料の買い付けにエジプトにやってきました。ヨセフが自分のことを明かすと兄たちはおそれおののきます。復讐されるのではないか、と。しかし、ヨセフは恐れる兄たちに対して言うのです。

50:19 ヨセフは彼らに言った。「恐れることはありません。どうして、私が神の代わりでしょうか。

50:20 あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。

 見事な摂理信仰です。ヨセフは神の摂理に対する信仰によって、兄たちへの恨みから解放されたのでした。兄たちが悪をなしたとしても、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画によって召された人々のためには、神はすべてのことを働かせて益としてくださる。」(ローマ8:28)という信仰です。神はすべてのことを働かせて、神の民が神を愛し、隣人を愛する者へと造り変えていってくださる、それがローマ8章28節の意味です。

 統治としての摂理の頂点は十字架出来事です。また、サタンは神の御子を当時のユダヤの宗教家を用いて殺害してしまいます。ところが、これこそ神の人類救済の要としての十字架であったのです。実に神は、サタンの悪巧みをも逆手にとって、私たちの救いを成就したまうのです。

結び

 創造摂理についてハイデルベルク信仰問答から


問27 あなたは、神様摂理とは、何であると思いますか。

答 神様の、全能で、あらゆるところで今働いている力であると思います。

その力によって、神様は、天と地を、そのすべての被造物といっしょに、

神様ご自身のみ手によってなさるかのように、保たれ、また、支配されるのです。

なぜなら、木の葉も草も、雨も日照りも、

実り豊かな年も、実りのない年も、食べることも飲むことも、

健康も病気も、富も貧しさも、

すべてのものが、偶然にではなく、

神様の父親としてのみ手によって、わたしたちに与えられるのです。



問28 神様創造摂理とを知ると、わたしたちにとって何の役に立つのですか。

答 わたしたちが、あらゆる不幸の中でも、忍耐深くなり、

幸福の中では、感謝をして、

未来のことに対しては、わたしたちの信頼できる、お父様である神様に、

全面的に信頼するようになることなのです。

なぜなら、なにものも、私たち神様の愛から切り離すことはできないからです3。それは、すべての被造物が、完全に神様のみ手の内にあり、神様のご意志によらないでは、揺れることも、動くこともできないからなのです。

2015-07-05

永遠の御旨・・・同盟基督教団信仰告白(4)

エペソ1:3−7

「1:3 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。

1:4 すなわち、神は私たち世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。

1:5 神は、みむねとみこころのままに、私たちイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。

1:6 それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。

1:7 この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。」エペソ1:3−7


日本同盟基督教団信仰告白第3項

「神は、永遠の御旨により万物を創造し、造られたものを摂理によって統べ治める絶対主権者である。」


 プロテスタント教会聖書を唯一絶対の権威としています。格別、私たちの属する日本同盟基督教団は「聖書は誤りの無い神のことばである」と信じる聖書信仰を標榜しています。でも、一言で「聖書を信じる」といっても、これだけ辞書みたいに膨大な聖書ですから、茫漠とした話です。そこで「私たち教会は、聖書全体の教えの要約は次のようなものだと理解して信じています」というのが、信仰告白文です。日本同盟基督教団信仰告白8か条の本日は第三番目です。

 ここには三つのポイントがあります。ひとつ目は「永遠の御旨」であり、二つ目は「創造」であり、三つ目は「摂理」です。今日は、その一つ目「永遠の御旨」の教理です。神の永遠の御旨は神学用語では「聖なる定め」と書いて「聖定」と言います。

1. 永遠の御旨(聖定)

(1)万物が造られる前に

 永遠の御旨、聖定というのは、三位一体である真の神の天地万物が存在する前からのご計画という意味です。私たちが住んでいるこの地球、この宇宙は永遠から存在するものではありません。宇宙は、真の神様創造なさったときから始まったものです。

 古代からインドやギリシャなど聖書の啓示を受けていない文明世界では、多くの人々は宇宙は永遠のものである考えてきたようです。これを恒常宇宙論といいます。けれども、神様聖書を通して、この天地万物には始まりがあると啓示していました。永遠であるのは、ただ真の神のみなのです。(ちなみに、宇宙に始まりがあるというのは現代科学では定説化されています。)

 さて、天地万物が存在するより前、つまり、永遠の昔から、永遠の現在のうちに、父と子とは聖霊にある愛の交わりのうちに生きておられます。「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」(ヨハネ1:1,2)とヨハネ福音書冒頭にあるとおりです。また、主イエスが天の父に語りかけたおことばのなかで、父なる神が世界存在する前から、御子を愛しておられた(ヨハネ17章)とあるとおりです。父と子と聖霊は愛の交わりのうちにあって、私たちが住んでいるこの天地万物の創造と、その統治について相談をなさりご計画をお立てになったのでした。その計画が「永遠の御旨(聖定)」ということです。

 父と子と聖霊の唯一の神が、そのように天地万物の創造とその統治について相談をなさったことが、ちらりとうかがい知られるもう一つの聖句が、創世記1章26節の「われわれ」ということばです。

「 神は仰せられた。『さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。』」

 世界はこの三位一体の神の永遠の御旨(聖定)によって創造され、かつ、営まれています。17世紀英国のピューリタンの信仰告白では次のように告白されています。

「神は、まったくの永遠から、ご自身の御旨のもっとも賢くきよい計画によって、起こり来ることは何事であれ、自由にしかも不変的に定められたが、それによって、神が罪の作者とならず、また被造物の意志に暴力が加えられることなく、また第二原因の自由や偶然性が奪い去られないで、むしろ確立されるように、定められたのである。」(ウェストミンスター信仰告白3:1)


(2) 神の計画と人間の自由意志

しかし、昔から、この神の永遠の御旨、聖定の教理は「扱い方に注意」とレッテルの貼られた教理です。というのは、人間の理屈は、すぐに「もし神様がすべてお定めになっているのなら、人間は自由意志のないロボットになってしまう。」といいたくなるからです。こういう考え方を決定論または運命論と言います。決定論・運命論が極端になると、すべては神のなさることであり、すべては運命なのだから、人間自分の行動についてなんら道徳的な責任を取らなくて良いという理屈になります。「わたしが泥棒をしたのも、神のご計画だったのだから、私には責任はい」というふうに。

しかし、聖書はそうは教えていません。聖書は「神のご計画はたしかにある。同時に、人間の自由意志と責任もたしかにある」と教えているのです。そのことを表現するために、先の信仰告白は慎重にこう言っています。神は「自由かつ不変的に定められた」と。神の変わることのない計画があり、そこには人間の自由もまた含まれている計画なのです。神は私たちの計り知れない知恵をもって、被造物である人間や御使い自由意志も含めて、しかし、変わることのない計画のうちに定められたのです。これは人間の論理を超えたことですが、聖書がたしかに教えていることです。

<神の永遠の御旨と人間の自由意志>というふたつの事実が両方聖書には書かれています。ある神学者は、<光は粒子であり、かつ、波である>ように、神の永遠の御旨があり、かつ、人間には自由意志があると説明しています。この事実は、人間理性・論理の限界です。有限な被造物についてさえ、人間の理性のおよぶことのできないこうした不思議があるのですから、まして、無限の創造主である神の永遠の御旨について、有限で時間のなかでしか生きられない私たちの理性が及ぶことができない不思議があるのは当然のことであるといえます。

神は私たち人間に知性を与えてくださいましたから、私たちは知性をもちいて聖書を読み、その御心を悟るように努力します。けれども、有限な被造物にすぎない私たちの知性には限界がありますから、神様のすべてを理解することができるわけではありません。パスカルは、「知性の限界を認めるところに知性の偉大さがある」といいました。理解できなくても、私たちは、聖書の語るところを信仰によって受け入れるのです。


(3)神の民の選び

神の永遠の御旨、つまり、永遠の聖定のなかでも、特に人間の救いに関する神様の定めについて聖書は「選び」ということばで教えています。

特に人の救いが神様永遠の御旨のうちにあることについて、エペソ人への手紙に次のようにあります。

エペソ書1:4,5「すなわち、神は私たち世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。 1:5 神は、みむねとみこころのままに、私たちイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」

世界創造なさる前に、神が、ご自分の民をキリストの内にお定めになっていらっしゃるのです。そして、神はそのお選びになった人々をこの世から召し出す(召命)ために、福音宣教という使命を私たち教会にお与えになりました。つまり、私たちが「神の御子キリストは、あなたの罪のために十字架にかかってくださり、三日目によみがえってくださいました。神に立ち返り、イエスを信じなさい。」と宣べ伝えるとき、神が永遠の御旨のうちにお選びになっている人々は、「あ、主がわたしを呼んでいらっしゃる」と気づいて、悔い改めて主のもとに帰って来るのです。私たち一人ひとりもそうでした。

「通信小海」の第三ページは福音欄としているのですが、そこを読んでも、まったく馬耳東風、猫に小判という状態の人が多い中で、「ああ、これは真理だ」と神に選ばれた人は悟るのです。神に永遠の御旨のうちに選ばれたあなたは、福音を聞くと、聖霊のお働きによってイエス様は神の御子だと悟り、教会に集って神様礼拝するようになります。あなたは、自分の意志でイエス様を救い主と悟って受け入れたと思っているけれども、そして、それは一面の事実なのですが、実は、神があなたを万物の創造よりまえに、永遠の御旨のうちにキリストのものとして選んでいらしたからなのです。

私たち人間には誰が神の選びのうちにあるかはわかりません。わかりませんが、キリストの福音によって召しがなされるとき、キリストの福音を悟り受け入れることによって、神の選びの事実が明らかにされていくわけです。

2. 永遠の御旨、また、選びの教理が明らかにされた目的

 先に申し上げたように、永遠の御旨の教理、選びの教理というのは、扱いに注意しなければ決定論・運命論に陥って害になるものです。それでも、神がこの教理を聖書においけ啓示なさることをよしとなさったのは、この教理の目的が正しく理解するならば、有益なものであるからです。三点挙げておきたいと思います。

(1)伝道者が励まされて確信をもって伝道するため

選びの教理を誤解する人は、「どうせ選ばれた者は救われるのだから、伝道などする必要はない。」と言います。これはさかさまです。

使徒パウロがコリントの町に伝道したとき、人々の反応はよかったのですが、反面、反対も激しくて暴力沙汰もあり、パウロの協力者もひどい目にあいました。自分が痛めつけられるのはともかく、協力者が大怪我をさせられたときには、さすがのパウロも心くじけそうになりました。そんなある夜、復活の主イエスが幻のうちに現れて、パウロに向かっておっしゃいました。「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから」と。(使徒18:9,10)

神の選びのご計画があるからこそ、迫害があったり、誰も馬耳東風であったり、と困難にくじけそうなときにも伝道を続けることができるのです。私たちには神の永遠の御旨のすべてを知ることはできませんが、「すべての生きている者にキリストの福音を宣べ伝えなさい」というご命令と、神の選びの民は福音を聴くとき悟って悔い改めるという約束は知らされています。だからこそ、どんなに伝道困難と思われるような国にも地域にも、伝道者たちは出て行って福音を宣べ伝え、世界中にキリストの福音は今日まで広がってきました。いっさいは永遠の神の御手のなかにあると確信したからこそ、波濤を越え、人食い人種にもキリストの福音を宣べ伝えることができました。

(2)救われた者が揺るぐことなく、神の似姿を目指して励むため

 選びの教理を誤解する人は、「どうせ神に選ばれているんだから、正しい生き方などしてもしなくても同じだ」と言います。しかし、これはさかさまです。選びの教理を正しく受け止めた信徒は、揺るぐことなく神のみこころに従うようになります。ペテロの手紙第二です。

「1:4 その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。

1:5 こういうわけですから、あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、 1:6 知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、 1:7 敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。

1:8 これらがあなたがたに備わり、ますます豊かになるなら、あなたがたは、私たちの主イエス・キリストを知る点で、役に立たない者とか、実を結ばない者になることはありません。 1:9 これらを備えていない者は、近視眼であり、盲目であって、自分の以前の罪がきよめられたことを忘れてしまったのです。

1:10 ですから、兄弟たちよ。ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい。これらのことを行っていれば、つまずくことなど決してありません。」(2ペテロ1:4-10)

 神に選ばれ、キリストの福音によって召された人は、神様に罪を赦されると同時に、キリストの御霊をそのからだに住まわせるようになるので、必ず御霊の実をその品性のうちに結ぶようになります。それが「信仰、徳、知識、自制、忍耐、敬虔、兄弟愛、愛」と表現されているものです。パウロの手紙でいえば「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」です。それが選ばれたことのしるしです。御霊の実をむすぶようになってきているとしたら、「確かに、こんな罪深くちっぽけな私だけれども、神様はたしかにわたしをお選びになり、お召しになったのだ」と平安をいだくことができるでしょう。

 そういうわけで、神の選びは、その人がキリストを信じ、その人格のうちにキリストの御霊の実をむすぶようになるときに、明らかにされていくのです。


(3)神の恵みの栄光がほめたたえられるため

 「選び」ということばは誤解を招く場合があります。たとえば「特選の白菜」といったら、特別すばらしいから選ばれたということでしょう。だから、俺は神に選ばれた偉いんだ。と傲慢になる。しかし、聖書でいう選びについての全くの誤解です。

神は、人がこの地上に生を得る前に、その人を選んだわけですから、その人が立派な行いをしたとかいうことが現れる前に、その人を選んだのです。ということは、その人の行いを理由として選んだのではないのです。神様は、ただ一方的な恵みによって、選ばれる側のとりえに拠らずにキリストの内に私たちをお選びになったのです。ですから、私たち神の民としては自分を誇る理由がありません。傲慢になるのは愚かなことです。ただ神様の恵みをほめたたえるほかないのです。

「それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。」(エペソ1:6)

と書かれているとおりです。

むすび

 私たちは、時間のなかに生きている有限な存在ですから、神の永遠の御旨のすべてを悟ることなど到底できません。

 しかし、神がその永遠の御旨のなかで、私たちキリストのうちに選んでいてくださったからこそ、キリスト十字架の福音を聞かされたとき、それを悟って、自分の罪を認め悔い改めてキリストを信じ礼拝するものとなりました。

 この永遠の御旨のうちに選ばれた人々が、この南佐久郡にも多くいますから、私たちはたゆむことなくこの地の人々にも福音をあかししてまいりましょう。また、永遠の御旨のうちに選ばれているからこそ、日々悔い改めつつ、御子の姿、御父のすがたを目指して生きてゆきましょう。それは、なんのとりえも無い私たちを選んでくださった神様の恵みの栄光が褒め称えられるためです。

2015-06-07

三位一体の神・・・同盟基督教団信仰告白(3)

ヨハネ4:24、申命記6:4

創世記1:26、箴言8章、ヨハネ福音書1:1−3、17:5,24

日本同盟基督教団 信仰告白(2013年改訂)第二項

神は霊であり、唯一全能の主である。神は永遠に父と子と聖霊三位一体であって、その本質において同一であり、力と栄光とを等しくする。

1. 神は霊である

「神は霊である」という表現はなにを意味しているのでしょう。イエス様は、

ヨハネ4:24 「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」

 とおっしゃいました。「霊とまことによって礼拝する」という表現は、なかなかむずかしいのですが、神の御霊に満たされて知情意すべてを傾けて、神の真実にかなった礼拝をささげるという意味であると解します。真理の御霊に導かれ、うわべの形式でなく全人格をもって礼拝しなさいということです。なぜか、それは、神様ご自身が、生ける人格でいらっしゃるからです。生ける人格でいらっしゃる神は、今も生きて働いておられ、私たちと人格的交流を持ってくださるお方であるということです。

 「神は霊である」というのは、旧約聖書表現で言えば「生ける神」ということにあたりましょう。旧約時代、イスラエルの民が迷い込んだパレスチナの異教の神々がありました。バアル、アシュタロテ、ダゴンなどなど。しかし、いずれも木を刻み大理石を刻んでつくった死んだ神々にすぎませんでした。知性も感情も意志もないただの石ころ、木材でした。

 また、もし神が石ころなどの偶像ではないにしても、単なる原理とか法則のような非人格的存在にすぎないとすれば、私たちが神に祈ることは無意味なことです。たとえば万有引力の法則に向かって「万有引力さま、リンゴを落とさないでください」などと祈っても無駄なことでしょう。私たちの会話、祈りは、相手が人格であってこそ意味あるものです。

 旧約聖書に登場する聖徒たちは、神に向かって叫び祈ります。また、神は人に向かって語りかけられます。今も、神は聖書のみことばを開くとき私たちの心を照らして、私たちに悟りを与えてくださいます。それは、神は霊であって、私たちと人格と人格の交流を持ってくださるお方であるからです。

 私たちが「知る」というばあい、その対象がモノである場合と人格である場合があります。対象がモノである場合には、私たちは一方的に対象を知ります。観察したり、重さを量ったり、過熱したり、分析したりして、知るわけです。けれども、相手が人格である場合にはそうは行きません。相手が人格である場合、相手がその心を開いて語ってくれるとき、初めて相手を知ることができます。同時に、自分自身を相手に対して心を開いて語るということが必要です。このように人格と人格が出会うためには、相手を知ろうとするだけでなく、同時に自分も相手に知ってくださいという態度が必須なのです。

 神は霊であり人格でいらっしゃいますので、私たちが神を知りたいと願うならば、まず自分自身、神に対して心を開いて「神様、どうぞ私を知ってください。私の人生の傷も、痛みもすべて知ってください。」と祈ることです。そして、聖書を通して、またその説き明かしである説教を通して語られる神に対して耳を傾けることです。

 主イエスは「神は霊ですから、私たちは霊とまことをもって礼拝しなければなりません。」とおっしゃいました。形だけでなく、自分自身の心の一番深いところを開いて礼拝をささげるのです。主を求め始めた方も、このように神様に向かってありのままの心を打ち明ける会話をなさるようにお勧めします。それを祈りといいます。神は生きていて、聖書を通して語り、私たちの魂の叫びに耳を傾けてくださるご人格です。


2.唯一全能の主


申命記6:4「聞きなさい。イスラエル。【主】は私たちの神。【主】はただひとりである。」

 この世には神と呼ばれるものはたくさんあります。なぜでしょう?聖書はなんと言っているでしょう。 ローマ書1章によれば、世界を造られた唯一の神がいらっしゃるのに、私たちの先祖がこのお方に背を向けてしまったために、真の神がわからなくなってしまったのでした。けれども、人間はもともと神に向かい合うように造られた心ある存在ですから、その空洞のようになってしまった心を満たすものを求めるのです。「神は人に永遠への思いを与えられた」(伝道者)のです。

そこで、創造主に背を向けた人間は、さまざまな被造物を神々として祭り上げるようになってしまいました。鳥や獣や昆虫や石や大木や太陽・月、死者の霊、生きている人間などなんでも神々としてまつるようになりました。こういうのを多神教といいます。また、非人格的な宇宙の原理を「神」と呼ぶ人もいます。これは汎神論と呼ばれます。いずれも被造物を創造主ととりかえて拝んでいるのです。

 また、新約聖書では、主イエスが、「人は富にも仕え、また、神にも仕えることはできません」と特に警告なさったように、拝金主義(マモニズム)は強力な偶像崇拝です。今日でも経済第一主義は世界をおおっている最大の偶像崇拝かもしれません。カネさえあればなんでもできる。物ばかりでなく人間価値、人の愛情、人間のいのちまでも金銭に換算して価値がはかれると思い込んでいるのは、マモニストです。

また、国家主義という偶像礼拝もあります。バビロンの王は自らの象徴として巨大な黄金の柱を立てて諸国の民に礼拝を求めました。ローマ皇帝は、神なる皇帝としてやはり国民礼拝をもとめました。私たちの国でも、ほんの70年前、天皇は神であるとして礼拝を求められました。「一旦緩急アレバ義勇公ニ奉じ・・・」と、国家が、当然のように国民に命を差し出せと要求する国家主義もまた一種の偶像崇拝です。

十戒の第一番目に「あなたには、わたしのほかに、他の神々があってはならない。」とあるように、動物であれ人間であれお金であれ、神ならぬものを神として祭り上げて拝むことは、神がもっとも忌み嫌われる罪であり、配偶者をとりちがえる姦淫の罪に譬えられています。

 まことの神は唯一絶対の、永遠から永遠にいまし、無から万物を創造なさり、私たち生命を賜った神です。

この唯一絶対の神は、「全能の神」です。「全能の」というのは何でもご自身が望むことがおできになるという意味です。真の神は、全能とならんで全知・遍在という形容がされます。全知はすべてを知っておられて、神の前には心の中までも隠せるものはなにひとつないという意味です。遍在は、あまねく存在するという意味ですから、神様は、ここにいますと同時に、地球の裏のアルゼンチンにも、月にも、アンドロメダ星雲のかなたにも時空を超えて存在していらっしゃるのです。

神が唯一全能の神であられるからこそ、私たちはこのお方に頼る甲斐があります。多神教の神々というのは、能力的にも道徳的にも頼りにならない神々です。ギリシャ神話ではゼウスという神がもっとも偉大な神ということになっていますが、この神は結構きまぐれで女たらしで、いつも奥さんのヘラを恐れています。古事記を読みますと、アマテラスオオミカミは、弟のスサノウが高天原に上ってきて乱暴狼藉を働くと悲しみ嘆いて天岩戸に引きこもりになってしまいます。多神教の神々というのは、みな有限な神々ですから、親しみやすさは感じられても、頼りにならない神々です。しかし、聖書にご自分を啓示してくださったお方は唯一全能のお方ですから、まことに頼りがいのあるお方です。

3.永遠に父子聖霊三位一体

 「神は永遠に父と子と聖霊三位一体であって」とあります。聖三位一体、これこそキリスト教独自の教えであり、<唯一絶対の神が愛の神である>ということを示している真理です。神が三位一体であられるということばは聖書の中にはありません。聖書が<神は唯一である>と言っていることと、<父なる神であり、御子イエスは神であり、聖霊は神である>と言っているので、それをまとめて簡潔に「三位一体」呼び習わしているのです。

 「永遠に」ということばが付けられているのは、古代の異端アレイオスが言ったように御父のみが存在していて、御子が存在したときがあったということはないということを意味しています。御子は父から生まれましたが、それは永遠の誕生でした。御子は黙示録で「わたしはアルファであり、オメガである」とおっしゃっています。もし、御子が途中から現れたなら、「わたしはベータであり・・・」とおっしゃったでしょうね(笑)。

 人間の理性が、三位一体の真理を思いついたわけではありません。人間の考え出した宗教は、神の至高性を徹底的に主張するイスラム教のような唯一神教か、逆に、神を人間の延長線上に構想した多神教なのです。神ご自身が聖書において、三位一体を啓示してくださったので、はじめて三位一体の真理を人は知ることができるのです。しかし、その真理はただ理解不能の神秘mysterionではなく、解いて味わうほどに意義深い謎aenigmaです。

 神は絶対者であるということは、言い換えると、神は唯一であるということを意味しています。「絶対」とは対するものを絶する、つまり、匹敵するものが存在しないお方という意味です。ですから、神様が絶対者であられるということは、神様は唯一であるということと同義なのです。複数いたら絶対者ではないのです。

申命記6:4 「聞きなさい。イスラエル。【主】は私たちの神。【主】はただひとりである。」

とあるとおりです。旧約聖書はたしかに神が唯一絶対のお方であるということをおもに啓示しています。「【主】は私たちの神。【主】はただひとりである。」それは、きっとこの偶像に満ちた世界には、まずなによりも神はご自分の唯一性を明らかにする必要があったからでしょう。そうしなければ、ギリシャ神話やエジプトの神話と同じように、多神教と混同されてしまったでしょうから

 一方、わたしたちは、先ほど「神は霊である」ということを学びました。その意味は、神は知性と感情と意志をもっておられる人格的なお方でいらっしゃるということです。人格的な存在は、愛するとか、語り合うとか、心通い合うとか、他の人格とそういう関係をもつものです。ということは、世界存在する前、永遠の昔から存在なさる唯一の神が、世界との関係なしに、人格的な神であられたということは、その神のうちには永遠から永遠に、愛し合い、交流する複数の人格がいらっしゃるということを意味しています。愛する者、愛される者が、その唯一の神のうちに存在していらっしゃるということです。

 旧約聖書のうちに神のうちには複数の人格的交流があることを暗示している箇所がすでに存在しています。創世記1章26節をごらんください。

1:26 神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。」

 神様はここで「われわれ」と、ご自分のことを指して言っています。ある人々は、これは「尊厳を表す複数である」とか「神が天使に語っているのだ」という説明します。それは、彼らの前提が、聖書釈義の目的は執筆者の意図に到達することであるからでしょう。創世記記者が三位一体を知っていたはずはないから、「われわれ」が三位一体を暗示していたはずはないということになります。けれども、私たちは「聖書はすべて神の霊感による」と信じている者として、聖書全体を読んでいくと、聖書の著者である聖霊は、この不思議な箇所について徐々にあの時、「われわれ」とおっしゃった意図をあきらかにして行かれたことに気づきます。

 箴言8章は「知恵は呼ばわらないだろうか。」と始まりますが、その「知恵」が不思議な人格的存在として語り始め、そのお方は、万物の造られるまえに主とともに存在し、主とともに万物を組み立てたお方であると告げられています。

8:22 【主】は、その働きを始める前から、

 そのみわざの初めから、わたしを得ておられた。

8:23 大昔から、初めから、大地の始まりから、

 わたしは立てられた。

8:24 深淵もまだなく、水のみなぎる源もなかったとき、

 わたしはすでに生まれていた。

8:25 山が立てられる前に、丘より先に、

 わたしはすでに生まれていた。

8:26 神がまだ地も野原も、

 この世の最初のちりも造られなかったときに。

8:27 神が天を堅く立て、

 深淵の面に円を描かれたとき、

 わたしはそこにいた。

8:28 神が上のほうに大空を固め、

 深淵の源を堅く定め、

8:29 海にその境界を置き、

 水がその境を越えないようにし、

 地の基を定められたとき、

8:30 わたしは神のかたわらで、

 これを組み立てる者であった。

 わたしは毎日喜び、いつも御前で楽しみ、

8:31 神の地、この世界で楽しみ、

 人の子らを喜んだ。

  新約聖書になると、さらに啓示が前進し三位一体の真理があきらかにされて行きます。ヨハネ福音書1章。旧約聖書では、神とともにいます「知恵」と呼ばれましたが、こちらでは神とともにいますお方は「ことば(ロゴス)」と呼ばれています。

  1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

1:2 この方は、初めに神とともにおられた。

1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

 さらに、主イエス世界創造なさる前から、御子と御父とは愛の交わりのうちにあったことを明らかにされました。ヨハネ17章

17:5 今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。


17:24 あなたわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。

 父は子を愛し、子は父を愛します。父と子を結ぶものは愛です。ある古代神学者は、「愛する者」「愛される者」そして「両者をむすぶ愛」の三位一体の謎を理解しました。愛は聖霊であるということです。

 まとめますと、神は絶対者であるので唯一のお方です。同時に神は人格でいらっしゃるので、その唯一のお方のうちには、愛する者、愛される者、両者を結ぶ愛の三位一体があるということになります。聖書に、「神は愛です」とあります。唯一絶対の神が愛であられるということは、すなわち神は三位一体であられるということを意味しています。

 まことの神は唯一の絶対者ですから恐るべく、また頼りがいがあるお方です。まことの神は父と子と聖霊の愛の神でいらっしゃいますから、私たちはこのお方の愛にすがって生きることが出来るのですし、祈ることができるのです。

 わたしたちは霊とまことをもって礼拝生活を生きてまいりましょう。