苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

聖書信仰に生きる教団

 苫小牧福音教会が属する日本同盟基督教団は「聖書信仰を土台とし、宣教協力をするために、合議制を採る」ことを教団の三本柱としている。では「聖書信仰を土台とする」とはどういうことなのか。教団の信仰告白第一項には次のようにある。

 旧、新約聖書66巻は、すべて神の霊感によって記された誤りのない神のことばであって、神の救いのご計画の全体を啓示し、救い主イエス・キリストを顕し、救いの道を教える信仰と生活の唯一絶対の規範である。

 聖書66巻が同盟基督教団にとって唯一絶対の規範である。このように告白しなければならないのは、同じくキリスト教を名乗っていても、権威はただ聖書66巻のみとしない団体が存在するので、それらと区別するためである。

 ローマ・カトリック教会にとっての権威は、聖書と伝統の二つである。だから、カトリック教会では聖書に根拠のないマリア崇敬や聖人崇敬など伝統に含まれることも行う。また彼らの聖書には外典も含まれている。

 近代主義神学を採用している教会にとっての権威は、合理主義的理性である。だから彼らは聖書を解釈するにあたって、合理主義的理性にかなわないキリストの受肉・復活といった奇跡の類は「非神話化」して解釈する。さらに現代社会の常識の変化に合わせて聖書の福音解釈をも変更して行く。たとえば、人間観について近代主義の前提は楽観的人間観であるから、近代主義神学は原罪を否定する。また贖罪論についても、「キリストは十字架にかかって聖なる神の怒りを身代わりに受けてくださった」という聖書が教える代償的贖罪は残酷で不合理であると拒否して、主観的・道徳感化説を唱えている。

 聖書を唯一絶対の規範とする同盟基督教団に属する者であっても外典を禁書にしているわけではないので、読んでも構わないが、それは権威ではないから聖書を物差しとして批判的に読む必要がある。また、聖書を唯一の権威とするというのは、社会の動きに対してもまったく耳を傾けないというわけではない。時代を理解する必要はあるし、そこから学ぶべき真理契機もあろうが、聖書を物差しとして取捨選択するのである。真理を測る物差しは聖書66巻のみである。この世と調子を合わせるために、あたかも「教会は二千年間誤解していた。聖書はほんとうはこんなふうに教えているのだ。」などと言って、無理な新解釈をひねり出すことである。本当に聖書がそう言っているのかを極めて慎重に検討しなければならない。このことは3月22日の「教会の改革とは」で書いたとおりである。

教会の改革とは 

 「改革された教会は常に改革され続けなければならない(羅semper reformanda ecclesia reformata)」という標語がある。ある人々は、現代の世の風潮に合わせることが教会の改革だと思い込んでいるようだが、大間違いである。「改革された教会は、常に、神のことばによって改革され続けなければならない(ecclesia reformata semper reformanda secundum verbum dei)」のである。

 それはなにも教会は絶対正しいのだから、一切この世の考え方に耳を傾ける必要がないと言っているのではない。この世の文化と教会の違いが出て来たときには、安易にこの世に同調するのでなく、改めて「違い」を聖書に照らして検証すべきである。その結果、教会のあり方が聖書に適っているならば、この世の文化に合わせてはならない。けれども、時にはこの世の文化と教会のずれを聖書に照らしてみた結果、かえって教会の伝統の方が聖書からずれていたのだということが判明する場合がある。その時には教会は伝統を墨守するのではなく改革すべきである。それはこの世に合わせるのではなく、聖書に自らを合わせているのである。物差しは聖書である。

 一例を挙げてみれば、伝統的教会では礼拝で用いる楽器はオルガンに限られて来た。しかし、1970年頃からギターでゴスペルフォークがつくられるようになってきた。伝統的教会にギターを持ち込むことに眉をひそめる人々が多かった。だが、「きよしこの夜」は最初にギターで奏でられたのだなどという逸話を聞かされたりして、だんだんと馴染んできた。さらに2000年くらいになると、礼拝にドラムス(太鼓とシンバル)が持ち込まれる教会も増えて来た。もし何も考えないで単にこの世に合わせて、そうしたのだとしたら、それは良くない。だが、楽器に関していえば、旧約聖書詩篇150篇3‐5節には次のようにある。

角笛を吹き鳴らして神をほめたたえよ。琴と竪琴に合わせて神をほめたたえよ。
タンバリンと踊りをもって神をほめたたえよ。弦をかき鳴らし笛を吹いて神をほめたたえよ。
音の高いシンバルで神をほめたたえよ。鳴り響くシンバルで神をほめたたえよ。

角笛はトランペットに、笛はフルートやクラリネットに、琴と竪琴はピアノとギター、タンバリンとシンバリンはドラムに当たる。オルガンだけを正当として、こうした管楽器、弦楽器、打楽器を教会から締め出す聖書的な理由はない。ただし、賛美とは音楽をともなった祈りであるから、どんな楽器であれ、祈りの妨げになるような音楽・伴奏はよろしくない。賛美においては、音楽が祈りに先行してはならない。ことばによる祈りを支えるのが、礼拝における音楽の役目である。賛美のことばに相応しいメロディや伴奏でなければならない。

 だが、この世の風潮と教会のあり方のずれを聖書に照らしてみた結果、この世の風潮の方が聖書から外れていることが明かならば、この世と調子を合わせてはいけない。この世と調子を合わせると、教会は塩気を失った塩になってしまう。最近この世の裁判官が同性間の結婚を禁じることは憲法違反であるという判決を出した。裁判官がこの世の風潮に流されて、神の戒めに背いているのである。聖書の結婚観は、創世記1章、2章にあるとおり、男と女が結ばれることを意味している。さもなくば「産めよ、ふえよ」とは言われなかった。

「神は仰せられた。『さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。』神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。」」創世記1:26-28               

「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。」

                             創世記2:24

 

1,ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。
2,この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。

                               ローマ12:1,2

 

多であること一であること

 父子聖霊の唯一の神が、多様にして一つの世界を創造したと信じているキリスト教会は、世が一斉に「統一性」を強調する時代には「多様性」の重要性を語らねばならないし、世をあげて「多様性」を強調する時代にあっては、「一つ」であることの重要性を語らなければならない。へそ曲がりというのでなく、世に流されずにぶれずに変わらない真理を語り続けよということ。そうでなければ、単なるミーハー、塩気をうしなった塩になってしまう。

 ダイバーシティとか多様性ということばを一日に何度も聞かされる現代にあって、私たちは唯一のものを聖書で確認する必要がある。聖書が教会の土台であり、唯一の物差しだからこの世に調子を合わせてはいけない。ただ、それを個々の状況、当事者に適用するにあたっては、一人一人をたいせつに羊飼いの心をもって、ということである。だが当事者に寄り添うだけでは、多元主義相対主義に陥ってしまうし、彼らを唯一の真理であるお方に導き、救うことはできない。

「この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」ローマ12:2

 

 「当事者の声を聴くことが大事だ!」と感情的になる人は、頭を冷やしてへりくだって聖書のいう真理は何かに思いをいたすべきであり、「聖書の真理はこうだ!」ということがわかっている人は、心柔らかくして当事者の声に耳を傾け、どうすれば当事者をその唯一の真理に導くことができるかを祈り考えるべきである、ということ。

 

koumichristchurch.hatenablog.jp

最後の教団理事会を終えて・・・「強固でなく、強靭な革袋を」

 昨日は私にとっては最後の教団理事会でした。20年間のご奉仕で、定年となりました。若い私が理事会に入ったのは、理事長が吉持牧師から赤江牧師に移った春でした。そのころ教団は地域教会の自律と、理事会の役割の境界線をめぐる難題を抱えてある出来事に関して直面していました。私も微力であっても問題解決にお役に立てないかと、話をうかがって回りましたが、なにも出来なかったなあという思いです。

 しかし、この件がかたちの上にすぎませんが一応の区切りがついた掛川での総会のあと、赤江先生と坂本先生と温泉に入っていたとき、赤江先生が、「これほど教会観・教団観の違いがあると、これから前進して行くことはできない。ここは長年の懸案である教団の機構改革をして、教会観・教団観の整理をして教団全体が一致しなければならない。転んでもただで起きるわけには行かない。」という趣旨のことをおっしゃいました。そうして、一応私が責任者で、坂本牧師とともに、他の委員たちとともに教団理念検討委員会をスタートしたのでした。

 法律に明るい坂本牧師は諸教団教派の教憲・教規を研究しつつ同盟基督教団の教規の研究を担当してくださいました。私は同盟基督教団の理念を明らかにすることが仕事でした。そのために、「日本同盟基督教団は『教団』なのかそれとも『同盟』なのか?」という当時しばしば口に上った問いに答えを出さねばなりませんでした。そこで、教団の歴史を調べることにしました。ひとつは「同盟基督教団」という名称の来歴は何であるのかを調べたのです。明らかになったのは、単立教会がある盟約を結んで同盟基督教団が出来たから「同盟」と称したのではなく、スカンヂナビア・アライアンス・ミッションの生み出した教団であるから、アライアンスの翻訳として「同盟」と冠したことが明らかになりました。したがって、日本同盟基督教団は同盟なのか、教団なのか」という問いに対しては「同盟という修飾語の付いた教団」であると答えることになります。「同盟」という修飾語は「力を合わせて福音宣教をする宣教団が生み出した」という意味です。

 もうひとつ明らかにしなければならなかったのは、当時すでに教団の中で耳にしていた「聖書信仰・宣教協力・合議制」という三本柱は何を意味するかということでした。私たちの世代は岡村又男理事長から耳にタコができるくらい、このことばを聞かされました。調べてみたところ、その昔、「世の光」に常任書記であった鋤柄和明先生がこの三本柱を述べておられたことが、その最初でした。もっともそこでは「三原則」という表現でしたが。この三本柱が教団にとって根本的なことだということは、私が若いころ松原湖で持たれた「教職何十年以上の先輩たちの会議」でした。何年以上かは忘れてしまいましたが、私はその会議で下働きをしたので、その場の自由闊達な意見交換の雰囲気は憶えています。教団理念検討委員会では、この三本柱が、どのような関係にあるのかと考えました。結果、「聖書信仰を土台とし、ともに宣教協力をするために、合議制という教会政治方法をとる。」ということです。聖書信仰が土台である。宣教協力が目的である。その手段としての合議制である。・・・ということになります。
 そこで、この理念にふさわしい教団の教憲・教規を整えることが次の仕事ということでした。それは法律に明るい坂本先生が機構改革委員長になっていただいて、そういう賜物を与えられている委員の方たちを加えて、緻密な仕事をして行かれることになりました。ただ、教団理念を担当した私が何度も申し上げたのは、「新しい革袋は強固な革袋ではだめです。強靭な、つまり、強くて柔軟な革袋でなければなりません。それが同盟基督教団らしさです。」ということでした。

 

<追記>革命と改革の違い
 なぜ歴史を振り返って、教団の名称の来歴を確認し、三本柱の出所と意味を考える必要があったのか。それは、本教団の不可変の部分と可変的な部分を確認するためです。不可変の部分とは、同盟基督教団が同盟基督教団である理由ということで、それをはっきりさせたら、それ以外のことがらは時代に応じて、規模に応じて変化させることが可能となります。

 今になって振り返って思うのは、私たちは革命を起こしたのではなく、改革を行ったということです。革命は理想主義的な考え方で現体制を全否定して根こそぎひっくり返してしまうもので、おびただしい犠牲を伴うものです。改革は歴史・伝統を重んじつつ、時代と規模など状況に応じて刷新するものです。不易をわきまえた上での流行ということです。なぞらえて言えば、フランス革命と英国市民革命の違いみたいなものです。フランス革命デカルト的理性による理想主義的革命でおびただしい血を流し、長きにわたってフランスの国力を衰えさせましたが、英国の市民革命は歴史と伝統を踏まえたものだったので国力を増進しました。

北海道聖書学院卒業式

 本日、北海道聖書学院で卒業式で、2名の本科生が卒業し、春からそれぞれ道内の教会に赴任することになります。お一人は女性で、かつて3年生の夏休み前に病を得て、7年7か月の闘病を経て、昨年春に復帰し、残りを1年間学び、卒論を書き上げての卒業でした。その入院生活は、神様から与えられた課外授業だったと受け止めて、「試みに遭ったことは私にとって幸いでした。私はそのことで、あなたの掟を学んだからです。」と結んでいました。
 もうお一人は、学校教員だった男性で60歳を超えて入学後、ギリシャ語、ヘブル語でかなり苦労したこと、思いがけない病気を発症したこと、ご家族のことなどもろもろの試練を経験し、これまで自分で計画し生きてきたつもりでいたけれど、自分ではなにもできないのだ、これから伝道者としてすべて神様に委ねるほかないことを学んだと証しなさっていました。
 ほか信徒コース3名の修了。そして、学院長、教師、スタッフの異動の発表がありました。みなお世話になった方たちばかりです。気が付いたら、私はまる7年HBIで教えています。 

 

 北海道聖書学院は、聖書を原語から学ぶ聖書釈義学、聖書を教理体系として学ぶ組織神学、また教理と教会の歴史をまなぶ歴史神学、そして伝道と教会形成を学ぶ実践神学ともにバランスがとれた神学校です。学院のカリキュラム、学院生活、学費等の紹介がHPにありますから、ご覧ください。学費は格安です。 

www.hbi-wmc.org

整体師のことばと近代聖書学

 Youtuberをしている整体の先生が話していたのですが、ハワイ大学から「すぐに来い。死後間もない人体が手に入った」という知らせがあったので、そんなチャンスはめったにないので出かけて、その死後まもない人体を動かしつつ解剖するのを見て勉強することができたそうです。普通の大学医学部の勉強では、もう時間も経ち、動かすことができなくなった人体を解剖して行うそうなので、実際のからだの様々な部位の可動範囲とか、連動関係などは実は多くの整形外科の先生も見たことがないのだそうです。けれど、自分はこのような機会に恵まれて幸運だったのだと話していました。確かに動かない遺体を研究しても、生きたからだの仕組みは本当のところわからないでしょう。

 この話を聞いていて、近代聖書学の方法の問題点について思い浮かびました。近代聖書学は18世紀の啓蒙思想の世界観の下に出来た学問です。啓蒙思想家たちの多くは理神論者でした。理神論では、英知界(イデア界)に住む神は現象界(私たちが住んでいる世界)を造ったけれども、後は放置しているので、現象界はそれ自体の法則にしたがって運営されている。神は現象界に介入して奇跡を起こしたり啓示を行ったりはしない。したがって、人間は理性の力でもって、この現象界を理解できるし支配できると考えます。つまり、理神論における「神」とは哲学者の神、観念上の神、死んだ神です。
 この啓蒙思想の「神」を前提とするならば、聖書に出てくるさまざまな奇跡は事実ではなく、そこからなにか譬えを学ぶための作り話だというのです。また、聖書は他の古文書と同じように、現象界の文化現象にすぎないことになります。彼らは創世記の創造記事はメソポタミアの神話の影響下に出来上がったのだと唱えたり、創造記事をカナンの神話の創世神話の枠組みで解釈したり、ヨハネ福音書をヘレニズム思想と関係づけて解釈したり、第二神殿期のユダヤ教文献と関係づけて解釈したりするならば、正解が得られると考えるわけです。
 しかし、聖書の神は、「哲学者の神」つまり死んだ観念上の神ではなく、生ける神です。みことばをもって世界を造り、摂理をもって世界を支配し、時には被造物である自然法則を停止したり強化したりして奇跡を起こし、さらには、ご自身、人となって世界に飛び込んで来られ、死んでよみがえったお方です。哲学者の神、死んだ神を前提とする近代聖書学の営みは、動かなくなってしまった古い死体の研究をしている研究者の営みと似ているなあと感じます。また、NPPはパウロの教えと後期ユダヤ教を同類なのだと主張しますが、無理でしょう。なぜなら、当のパウロ自身が、「兄弟たち、私はあなたがたに明らかにしておきたいのです。私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。私はそれを人間から受けたのではなく、また教えられたのでもありません。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。」(ガラテヤ1:11,12)と主張しているのですから。

 イエス様の時代、ギリシャの合理主義に染まって奇跡も天使も復活も信じないサドカイ派と呼ばれる人々がいました。イエス様は彼らに「あなたがたは、聖書も神の力も知らないので、そのために思い違いをしているのではありませんか。」(マルコ12:24)と言い放ちました。イエス様は、同じことばを近代啓蒙思想の枠組みの中で聖書を研究している人々に仰るのではないでしょうか。

「教会史における教理」

 HBIの3学期は、「教会史における教理」というクラスと、「神を愛するための教理問答」のクラスを担当しました。
 前者は普通、「教理史」と名乗るわけですが、そのネーミングだと絶対精神の自己展開みたいな観念的なイメージがあるので、もっと具体的な教会の2000年間の歴史に根差しつつ、初代教会から今日にいたる教理を説きたいと思って、「教会史における教理」としました。
 神学生たちは、組織神学・カテキズムで学んできたことを、教会史の中で理解して、なるほどと胸に落ちることが多く、自分の所属する教会のルーツを知り、また、自分が遣わされていく歴史の中の教会という実践の場への心備えができたようです。