徒然なるままに『今日から明日へ』 このページをアンテナに追加

2019-01-18

今週は疲れた一週間。

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◆いよいよ週末。今週は帰宅時間が遅く疲れた一週間である。以前ほど体力がなくなったようだ。年齢からも無理できない体になったようだ。回復力が弱くなったのか。

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2019-01-17

阪神・淡路大震災から24年。

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◆発生時間黙とう。阪神・淡路大震災から24年。
 6434人の命が奪われた阪神淡路大震災から今日で24年が経った。6434人が犠牲になった阪神大震災から、17日で24年となる。平成最後の震災忌も発生時刻の午前5時46分に合わせ、各地で追悼行事が開催された。兵庫県・神戸市の東遊園地では地震が発生した午前5時46分に合わせて黙祷犠牲者に祈りを捧げた。被災地の兵庫県神戸市では追悼式典が開かれている。。
 事前復興で備えていても想定を超える災害が起きる事もあるが、それでも災害が起こる前に住民同士が話し合い、復興のイメージを作っておくことが、いざというときにいち早い復興の原動力となるのかも。ただし、国や行政の力は不可欠。東日本大震災から、8年を迎えようとしているが、まだまだる現実をみると、なんとも言えない。いつ、身の回りで起きる可能性が不安である。まして昨年のように地震だけでなく、災害がおこると不安である。

<1月17日生まれの偉人・先人の言葉
大杉 栄(おおすぎ さかえ、大杉榮、1885年明治18年1月17日 - 1923年大正12年9月16日)は、思想家、作家、ジャーナリスト社会運動家
 ・名言『「失敗はなお無為にまさる』
    『人生は決して、あらかじめ定められた、すなわち、ちゃんとできあがった一冊の本でない。各人がそこへ一字一字書いて行く白紙の本だ。生きて行くそのことがすなわち人生なのだ』
清水 安三(しみず やすぞう、1891年6月1日 - 1988年1月17日)は、教育者牧師桜美林学園創立者。滋賀県出身。中学時代にウィリアム・メレル・ヴォーリズの感化を受け、同志社大学神学部に進学。さらに渡米しオベリン大学に学ぶ(オベリン名前は後に彼が創立する桜美林学園の名の由来ともなる)。1917年に中国・大連へ渡り、布教活動を開始。翌年には奉天に移り児童園を設置。1920年に北京へ移り、貧困に喘ぐ女子対象とする実務教育機関・崇貞平民工読学校を朝陽門外に開校(翌年崇貞女子学園に1938年に崇貞学園と改名)。その後、小学校や中学校を併設し、中国人のみならず在華日本人にも門戸を広げた。敗戦と共に帰国、妻の清水郁子とともに東京郊外に「キリスト教主義に基づいた国際的教養人の育成」を建学の精神とする桜美林学園を創立する。
 ・清水安三記念会 http://yasuzo-s.com/ http://oumi-shintan.com/index.php?QBlog-20130514-1
 ・名言『大学の設立こそは少き日に新島襄から享けし夢かも』

<難破船> 作詞: 加藤 登紀子 作曲: 加藤 登紀子 歌:中森明菜 https://www.youtube.com/watch?v=jyVWdqm7Ebc
 
 たかが恋なんて 忘れればいい 泣きたいだけ 泣いたら 目の前に違う愛が 見えてくるかもしれないと そんな強がりを 言ってみせるのは
あなたを忘れるため さびしすぎて こわれそうなの 私は愛の難破船
 折れた翼 広げたまま あなたの上に 落ちて行きたい 海の底へ 沈んだなら 泣きたいだけ 抱いてほしい

 ほかの誰かを 愛したのなら 追いかけては 行けない みじめな恋つづけるより 別れの苦しさ えらぶわ そんなひとことで ふりむきもせず 別れたあの朝には この淋しさ 知りもしない 私は愛の難破船
 おろかだよと 笑われても あなたを追いかけ 抱きしめたい つむじ風に 身をまかせて あなたを海に 沈めたい 

 あなたに逢えない この街を 今夜ひとり歩いた 誰もかれも知らんぷりで 無口なまま 通りすぎる たかが恋人を なくしただけで 何もかもが消えたわ ひとりぼっち 誰もいない 私は愛の難破船



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2019-01-16

今月の課題整理。そして2月以降も。

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 朝5時起床。今日の予定確認。朝から会議。午後4時から営業打合せで出張する。
 常にスケジュールを確認し、その間にデスクワークの充実を図れるように努めている。ようやく今月の処理案件と2月の処理案件のリストを整理。3月までの滑り出しはいいのかも。
 
1月16日生まれの偉人
井上 馨(いのうえ かおる、天保6年11月28日(1836年1月16日) - 1915年大正4年9月1日)は、日本の武士・長州藩士、政治家実業家本姓源氏清和源氏の一家系河内源氏の流れを汲む安芸国人毛利氏家臣・井上氏桂太郎は娘婿。太政官制時代に外務卿、参議など。黒田内閣で農商務大臣を務め、第2次伊藤内閣では内務大臣など、数々の要職歴任した。
 明治維新後は大蔵省に入り、主に財政に力を入れた。明治6年1873年)、司法卿・江藤新平らに予算問題や尾去沢銅山の汚職事件を追及され辞職。一時は三井組を背景に先収会社(三井物産前身)を設立するなどして実業界にあったが、伊藤の強い要請のもと復帰し、外務卿、外務大臣、農商務大臣、内務大臣、大蔵大臣を歴任。明治16年1883年)、外務卿となった後は、鹿鳴館建設不平等条約改正交渉にあたる。さらにパリやベルリンに劣らぬ首都を建設しようと官庁集中計画を進めた。条約改正、官庁集中計画は井上辞任に伴い頓挫した。その際に井上の秘書として活躍したアレクサンダー・フォン・シーボルトは勲一等、兄アレキサンダーと共に交渉に関わったハインリッヒ・フォン・シーボルトには勲三等が後に与えられた。両名は医師フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト長男次男である。また実業界の発展にも力を尽くし、紡績業・鉄道事業などを興して殖産興業につとめた。明治17年1884年華族令で伯爵明治40年1907年)には侯爵に陞った。日本郵船藤田組特に三井財閥においては最高顧問になるほど密接な関係をもった。これを快く思わなかった西郷隆盛は井上のことを「三井の番頭さん」と皮肉っている。尾去沢銅山事件に代表されるように実際に三井や長州系列政商と密接に関わり、賄賂利権で私腹を肥やし、散財するという行為が当時から世間において批判され、貪官汚吏の権化とされていた。

<今日の京都学>
大雄寺(だいおうじ)
・千本丸太町周辺にある浄土宗寺院。大雄寺は1603年、心誉上人によって開創された。しかし、1735年の天明の大火で焼失し、後年再建されたそうである。庫裏も本堂も、2015年に再建されたばかり。本堂の左手前には、楕円の卵のような形をしたお堂の中に地蔵菩薩像がお祀りされている。またその隣に映画監督山中貞雄(やまなかさだお)の石碑もある。庫裏の奥には枯山水庭園があった。江戸時代の儒医者松下見林のお墓がある。
・松下見林(まつした-けんりん・1637−1704)江戸時代前期の医師、儒者。寛永14年1月1日生まれ。大坂の医師松下見朴の養子。儒医古林見宜(けんぎ)に学ぶ。京都で医業のかたわら「三代実録」を校訂し,「異称日本伝」などをあらわす。後年,讃岐(さぬき)高松藩主松平頼常につかえた。元禄(げんろく)16年12月7日死去。67歳。本姓は橘。名は秀明、慶摂。字(あざな)は諸生。号は西峯山人
格言など】謹んで墓碣を建つる勿(なか)れ、吾が後人に期するところ,著述の在るあり、もって百世に朽ちざるにたらん(遺言)

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2019-01-15

今日からまた仕事ですね。

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◆今月もすでに半ば。今年度も2か月半余りで終わる。少し仕事のペースを上げて三月を迎えよう。

◆『メモの魔力』(前田裕二著)について
 起業家は、メモやノートに凝る人が多い。それはおそらく、メモやノートは、事業創出や新サービスの開発につながることが多いからでしょう。彼らは、ファミレスの紙ナプキンでも何でも、手元に紙があればすぐメモにとり、そこからアイデアを発展させて、事業に結びつけるらしい。今日の一冊は、外資系投資銀行、DeNAを経て、仮想ライブ空間「SHOWROOM」を立ち上げた起業家、前田裕二さんによるメモマニュアル
 ノートを見開きで使って、左ページに「ファクト」、右ページ左に「抽象化」した内容、右ページ右に「転用」のアイデアを書くことで、見聞きしたファクトを、事業アイデアにまで展開してしまノウハウが、現物のメモと共に紹介されている。まさに、フレームワークによりアイデアを生み出す。
ポイント
 (1)インプットした「ファクト」をもとに、
(2)気づきを応用可能粒度に「抽象化」し、
(3)自らのアクションに「転用」する
「SHOWROOM」を生み出したメモの例
○ファクト
カバー曲を歌うと、オリジナル曲のときよりも立ち止まってもらえる
・立ち止まってもらった人のリクエストに応えると、ぐっと仲良くなる
・そうして仲良くなったあとにオリジナル曲を歌うと、もっとお金がもらえる
●抽象化
・仲良くなるには、双方向性が大事
・人は「うまい歌」ではなく、「絆」にお金を払う
★転用
・双方向性があり、絆が生まれる仕組みをネット上に作る
※それによって、アーティストが自分の力で(リアルよりも効率的に)ファンを増やし、お金を稼ぐことができるようになる
 メモの本質は「振り返り」にあります。振り返ったときに、そこから抽出できる学びの要素が実は信じられないほどたくさんある。「ファクト」を「抽象化」して、それをどういう風に自分に「転用」してアクションするのか? そこまで導き出して初めて、メモとしての意味が出てくる。
言語化がうまい人の2つの特徴
・抽象化能力が高いこと。その中でもとりわけ、アナロジー力が高い。アナロジーとは、一見無関係ものの間に何らかの共通点を見つけて、結びつける思考法です
抽象的な概念名前をつける力が高いこと。まだ呼び名が決まっていないものに標語をつける、キーワードをつける力です
◆<「記録」ではなく「知的生産」のためにメモをとる>
<「では具体的に何をするか」まで書かなければ人生は変わらない>
・「ファクト→抽象化→転用」という最強のフレームワーク
前田裕二氏の「メモ術」はもっと具体的で実践的と書きましたが「ファクト(事実)→抽象化→転用」という枠組みを最強のフレームワークと称していて、前田氏は、メモを取ることで、常にこのフレームワークを意識しているとのこと。さらに、日常を全てアイデアに変えるつもりでメモを取っているそうだ。
(『メモの魔力』より引用
 「というように、メモから実践(転用)に落とし込む、例えば、前田氏がやられているサービスでは、その気づき(事実)から抽象化して、サービスに生かした手法などを、詳しく触れられています。これらの流れを、書籍に書かれた事例からざっくり転用すると・・・ある打ち合わせで、大阪・東京で宣伝用のチラシを配布した。普通にチラシを配っても、通行人に何らかメリットがないと受け取られない。大阪のおばちゃんは、何でもない時によくアメをくれる。大阪では、アメと一緒にチラシを配るとたくさん受け取られた。東京で同じようにチラシを配ったが、大阪の方が東京の3倍チラシがはける。」という話を打ち合わせ聞き(ここまでがファクト。上記を、抽象化→転用でさらに思考を深める。これらの現象を抽象化すると、大阪の方は、直接的で目に見えるメリット訴求に弱いという一つの気づきを得た。さらに、東京で同じようにチラシを配ったが、大阪の方が東京の3倍チラシがはけた、という事実(ファクト)を考えると、これが他の分野に応用可能性が高い概念と捉え、これらの事実を抽象化し、SHOWROOMにて大阪対象施策を考えて転用させたこと、などが詳しく書かれている。
メモの効用
1.知的生産性・・・ これについて前田社長は「アイデアが出やすくなる」と仰っている。 事実をメモにとるだけでなく、自分の意見、考え、疑問点なども書き込んでいくと、このメモをとるということ自体が知的生産に繋がります。それを何度も繰り返すことになるメモは、練習でありながら実践的なアイデア出しの場になる。
2.情報獲得の伝達率・・・メモをしっかりと取ろうとしても、全ての情報を書き込むわけにはいきかない。前田社長は「聞いたことを全て書きとる」とまで言っているが、なかなかそんなテープ起こしのようなマネはできない。でも、そのつもりで聞いていると、必然的にメモをまとめる力がついてくる。
3.傾聴能力・・・「全て書きとる」つもりで聞くということを実践していくと、これまた必然的に、傾聴能力が向上する。ちゃんと聞いていなければ、メモとして書き残すこともできない。アンテナをしっかり張り巡らして、「ひとつでも多くのことを聞きたい!」という前のめりな姿勢になることが大事。また、話の中のどこが重要なポイントで、より深く聞いておかなければならないのか。これを見抜く能力も向上する。傾聴とは、ただ正確に聞き取るというだけではない。
4.構造化能力・・・メモをただダラダラと書いていると、後から読んでも何のことだったか、どういう順番のメモだったか、わからなくなる。ですから、しっかりとフレームワークを作って、順序立てて、メモを構造化する必要がある。とっちらかった情報はまとまりとして意味を成さず、単発のメモでは、あとから参照することができない。上手なメモの取り方を意識していると、構造化能力が向上していく。
5.言語化能力・・・聞いたことを一字一句違わずメモ書き写す、というわけにはいかない。メモは話を要約したり、自分の頭の中のもやもやした何かをしっかりと捉えて、言語化しなければならない。もやもやが晴れないままのメモは、後から自分が見ても、なんのことかもはやわかりません。疑問をもったということは、一段階深掘りしたとこうこと。それがなんだったのかわからなくなってしまっては、そのミーティングや講演で得ることができたものの一つを、取りこぼしたということですから。言語化能力はメモに必須の能力であり、尚且つメモをとっていく中で鍛えられていく。
 メモを習慣化していくことで、自然と書くスキルが身につく。これがまさに、これもメモの魔力である
◆フレームワークによりアイデアを生み出す
ノートに罫線を引き、「ファクト ⇒ 抽象化 ⇒ 転用」という順番でメモを書き進めていく、前田流メモは備忘録にあらず。前田社長のメモは、一旦は備忘録としてとったものであっても、この罫線で分割されたノートの中で、しっかりと揉まれていきます。何度も言いますが、ここが『メモの魔力』最大のポイント。事実として書かれたメモを抽象化、一般化し、自分の事業や身の回りのものに転用できるアイデアとして具体化する
・ファクトを抽象化する
 まずは実際に目の前で起きたこと、聞いたことをメモにとります。これ自体は事実であり、個別具体的な事象ですから、「あぁそうだね」という感じ。これを抽象化してあげることで、事業や身の回りのものに転用することができるようになる。「What」「How」「Why」抽象化には三類型あり、それぞれの問いかけにより抽象化します。それぞれ得られる考課は異なる。「How」が抽象化としては最も効果的とのこと。どのように?ということですから、たしかに転用のイメージ。「Why」はトヨタ生産方式のなぜなぜ分析にも通じるもの。ビジネスマンであれば、とにかくあらゆる商品、サービスにWhy?なぜ?を向けてみてください。「What」は、抽象化の度合いはあまり高くないですが、上に挙げた「言語化」という意味では非常に重要です。それがなんであるかを抽象化してつかみ取ると、メモをとる力も向上する。
・抽象化ゲーム
 この抽象化というもの、意外と誰しも日常的にやっています。「Aって、Bだよね」という比喩がそれです。これは、抽象化したのちに別の物事組み合わせるものです。アナロジーとも言う。この「アナロジー」という言葉がでてきて、このアナロジー思考が、抽象化能力を鍛えるのに最適な思考法なんです。そこで、前田社長が編み出したのが「抽象化ゲーム」。ゲームというとなんでも面白そうに思えるのでいいですよね。ルール簡単、「Aって、Bだよね」ということをみんなで考えるんです。このAとBは何でもよくて、目に入ったものを適当に選ぶんだとか。でも、Aはできるだけ汎用性の高いものにしておかないと、この「A=B」という命題を解くことは難解になってしう。みんなでワイワイと、抽象化して、共通点を探っていく。その過程で、楽しみながら抽象化能力を鍛えているんだそうです。「エンタメとはハイボールである」なんて、ちょっとふざけているようで、それでも共通点を見つければ、妙に納得して面白そうですよね。最近はゲーミフィケーションなんていうものが流行っています。仕事でもチーム内で目標を設定して競い合ったり、ゲーム性を取り入れて、楽しみながら仕事を進める取り組みがあります。この「抽象化ゲーム」もそういったものの一つですね。
・夢をかなえるメモの魔力
 こうしてメモにとってファクトを抽象化し、転用していくことで、身の回りで起こったこと、思ったことがどんどん自分の人生に反映されていきます。夢をかなえるということは、小さなことの積み重ねです。日々メモをためていき、フレームワークでアウトプットに繋げていくことで、ひとつひとつ、着実に、夢に結び付いていくのだと感じた。イチローの言った言葉に、こんな言葉がある。「小さいことを重ねることが、とんでもないところに行くただ一つの方法だ」

1月15日生まれの偉人
◆松平 定信(まつだいら さだのぶ、宝暦8年12月27日(1759年1月15日)ー文政125月13日1829年6月14日))は、江戸時代の大名老中陸奥白河藩第3代藩主。定綱系久松松平家第9代当主。江戸幕府第8代将軍・徳川吉宗の孫に当たる。
 幼少期より聡明で知られており、田安家を継いだ兄・治察が病弱かつ凡庸だったため、一時期は田安家の後継者、そしていずれは第10代将軍・徳川家治の後継と目されていたとされる。しかし、田沼意次による政治が行われていた当時から、田沼政治を「賄賂政治」として批判したため存在を疎まれており、意次の権勢を恐れた一橋徳川家当主・治済によって、安永3年(1774年)に久松松平家の庶流で陸奥白河藩第2代藩主・松平定邦の養子とされてしまった。
 藩主に就任したのは、天明の大飢饉の最中である天明3年(1783年)であるが、それ以前から養父・定邦に代わって藩政を代行していたと言われている。定信は天明の大飢饉で苦しむ領民を救うため、自らが率先して倹約に努め、さらに領民に対する食料救済措置を迅速に行なったため、白河藩内で天明の大飢饉による餓死者は出なかったと言われている。特に東北地方における被害が大きかった天明の大飢饉で、これは異例のことと言ってもよい。これは、近隣の会津藩の江戸廻米を買い取る、西国より食糧を買い入れるなど迅速な対応によるものだった。教育においては藩士の子弟のための藩校立教館と共に、庶民のための郷校敷教舎も設置し、民衆に学問への道を開いてもいる。
 天明の大飢饉における藩政の建て直しの手腕を認められた定信は、天明6年(1786年)に家治が死去して家斉の代となり、田沼意次が失脚した後の天明7年(1787年)、徳川御三家推挙を受けて、少年期の第11代将軍・徳川家斉のもとで老中首座・将軍輔佐となる。そして天明の打ちこわしを期に、祖父・吉宗の享保の改革を手本に寛政の改革を行い、幕政再建を目指した。
田沼意次の重商主義政策役人と商人による利権賄賂政治から、朱子学に基づいた重農主義による飢饉対策や、厳しい倹約政策、役人の賄賂人事の廃止旗本への文武奨励などで一応の成果をあげた。老中就任当初から大田南畝により「白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき」などと揶揄された。海国兵談を著して国防危機を説いた林子平らを処士横断の禁で処罰したり、田沼政権の北海道開拓政策を放棄したり、寛政異学の禁で朱子学だけを正統とし、幕府の学問所である昌平坂学問所では朱子学以外の講義を禁じ、蘭学排除するなど、結果として幕府の海外に対する備えを怠らせた。

<今日の江戸学>
文久2年(1862)1月15日、老中安藤信正(磐城平藩)が登場途中、坂下門外で尊攘派の水戸浪士ら6人に襲われ負傷。坂下門外の変が起きた。桜田門外の変大老・井伊直弼が暗殺された後、老中久世広周と共に幕閣を主導した信正は、直弼の開国路線を継承し、幕威を取り戻すため公武合体を推進した。この政策に基づき、幕府は和宮降嫁を決定したが、尊王攘夷派志士らはこれに反発、信正らに対し憤激した。一人の浪士が駕籠をめがけてピストルを発射しましたが、2年前の桜田門外の変以降、警護が厳重となっていて、大事には至らなかったそう。将軍家茂と孝明天皇の妹和宮を結婚させ公武合体をすすめる信正に反対の尊皇派によるものでした。
●坂下門外の変とは
1.文久2 老中が坂下門外で襲われました 誰でしょう・・・安藤信正
2.襲ったのは誰・・・水戸浪士6名
3.老中は 井伊直弼亡き後、公武合体に力を注いできました。「和宮の降嫁」を進めてきたが、坂下門外の変により、老中を退任した。
4.この老中はどこの藩主ですか・・・磐城平藩(5万石)
5.この老中とともに 公武合体を推し進めた老中は・・・久世広周
 坂下門外の変(さかしたもんがいのへん)は、文久2年1月15日(1862年2月13日)に、江戸城坂下門外にて、尊攘派の水戸浪士6人が老中安藤信正(磐城平藩)を襲撃し、負傷させた事件。桜田門外の変で大老・井伊直弼が暗殺された後、老中久世広周と共に幕閣を主導した信正は、直弼の開国路線を継承し、幕威を取り戻すため公武合体を推進した。この政策に基づき、幕府は和宮降嫁を決定したが、尊王攘夷派志士らはこれに反発、信正らに対し憤激した。万延元年(1860年7月、水戸藩の西丸帯刀・野村彝之介・住谷寅之介らと、長州藩の桂小五郎・松島剛蔵らは連帯して行動することを約し(丙辰丸の盟約・成破盟約・水長の盟約)、これに基づき信正暗殺や横浜での外国人襲撃が計画された。しかし、長州藩内では長井雅楽の公武合体論が藩の主流を占めるようになり、藩士の参加が困難となった。長州側は計画の延期を提案したが、機を逸することを恐れた水戸側は長州の後援なしに実行することとした。文久2年(1862年)1月15日午前8時頃、信正老中の行列登城するため藩邸を出て坂下門外に差しかかると、水戸藩浪士・平山兵介、小田彦三郎、黒沢五郎、高畑総次郎、下野の医師河野顕三、越後の医師・河本杜太郎の6人が行列を襲撃した。信正は背中に軽傷を負って一人城内に逃げ込んだ。桜田門外の変以降、老中はもとより登城の際の大名の警備は軒並み厳重になっており、当日も供回りが50人以上いたため、浪士ら6人は暗殺の目的を遂げることなく、いずれも闘死した。

<今日の京都学>
◆三縁寺
 ・岩倉にある、浄土宗寺院。室町時代後期、天正年間に開創された。当初は三条大橋の東詰、江戸時代の三奇人の一人である高山彦九郎像の辺りに西願寺、養福寺、高樹院と4ヶ寺が並んであったそうです。戦後にいずれも移転し、最後に三縁寺が1979年にこちらに移転してきたそうである。表門を入ると正面階段の上に庫裏右手の階段を登った左手に本堂があり、庫裏と本堂の間に書院があり、書院の前には前庭がある。本堂の右手から坂を登っていくと墓地があり、その墓地の中に石の鳥居が見える。その奥に幕末池田屋事件で亡くなった、宮部鼎蔵などのお墓がある。当時は池田屋の近くにあったため、当寺で埋葬されたそうである。

<今日の京都新聞>
◆福笹に吉兆結び、幸せ祈願 京都・泉涌寺七福神巡り」 
福笹(ざさ)を手に寺院を回る新春の恒例行事「泉山七福神巡り」が14日、京都市東山区の泉涌寺山内の寺院であった。商売繁盛家内安全を願う多くの参拝者でにぎわった。泉山七福神巡りは毎年、成人の日に行われる。山内の寺院では戒光寺に弁財天、雲龍院に大黒天など七福神をそれぞれまつる。番外となる新善光寺愛染明王と泉涌寺の楊貴妃観音堂を含めた9カ所をめぐる。

 参拝者は福禄寿をまつる即成院で福笹を授かって巡回を始めた。縁起物タイや俵、熊手などを表した「吉兆」を福笹に飾り付け、一年の幸せを願い、各寺で手を合わせて祈願していた。

 戒光寺では、小正月にちなんで邪気を払うとされる小豆がゆが振る舞われ、参拝者が体を温めていた。

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2019-01-14

2019年の新成人は125万人・前年比で2万人増加。日本列島 北と南で その差は約50度。

2019年の新成人は125万人・前年比で2万人増加。日本列島 北と南で その差は約50度。を含むブックマーク

◆総務省統計局は2018年12月31日、2019年1月1日現在における「亥(い)年生まれ」の人口と「新成人」の人口の推計データを発表した。それによれば亥(い)年生まれの人口は1055万人で、新成人の人口は125万人との推計となり、新成人の数は2017年と比べると2万人の増加となった。9年連続で総人口に占める新成人の割合が1%を割り込むことも確認されている。
◆平成最後の「成人の日」となる14日、各地で成人式が行われています。振り袖や袴姿の新成人たちが希望抱負を語る一方で、一部では新成人がトラブルを起こし、式典が中断する場面があったようだ。新成人がおよそ3万7000人に上る横浜市では、全国でも最大規模となるおよそ2万5000人が参加するというマンモス成人式が行われた。しかし、その式典の途中で、一部の新成人たちが市長の挨拶の途中で叫び声をあげ、舞台のある方向に乱入しようとして、警察官や警備員らに制止され、式典が一時中断したようだ。一方、東京ディズニーランドでは、地元・千葉県浦安市の新成人たちおよそ1600人が参加する成人式が行われています。ディズニーのキャラクターたちも門出を祝福してダンスを披露すると、新成人たちは大きな歓声をあげたり、晴れ着姿で写真撮影したりするなどして楽しんでいた。

今日ニュース
◆日本列島 北と南で その差は約50度
 今朝、最も冷えた北海道旭川市江丹別は氷点下29度5分。最も暖かかった沖縄県多良間空港は20度0分。距離は3000キロ近く 気温差は約50度。今朝は北海道の北部や内陸部を中心に冷え込みが強まりました。北海道では氷点下25度を下回ったのが5地点もあり、中でも最も冷えた今朝の全国一位は、北海道旭川市江丹別で氷点下29度5分。今シーズン全国で最も低い気温を更新した。一方、南の方はというと沖縄県の与那国空港と多良間空港はともに今朝の最低気温が20度0分。まさに暖かい。北海道旭川市江丹別の氷点下29度5分との差は約50度にもなった。距離でいうと3000キロ近く。日本列島が縦に長いことの証でしょうか。

1月14日生まれの偉人
福田 赳夫(ふくだ たけお、1905年明治38年)1月14日 - 1995年7月5日)は、日本の大蔵官僚政治家。衆議院議員、農林大臣(第27代)、大蔵大臣(第70・73・74・78代)、外務大臣(第99代)、行政管理庁長官(第36代)、経済企画庁長官(第26代)、内閣総理大臣(第67代)などを歴任した。群馬県出身。東大卒大蔵省に入る。銀行局長、主計局長を歴任,1948年(昭和23)昭電疑獄に連坐したが58年無罪1952年無所属で衆議院に初当選し、自由党,民主党を経て自民党岸信介派に所属。岸内閣で党幹事長・農相。池田勇人内閣で党政調会長となったが,池田高度経済成長政策批判し,党風刷新連盟を作り党内反主流活動を展開。佐藤栄作内閣成立に貢献し、蔵相、幹事長、外相を歴任。ポスト佐藤の本命と目されたが、72年の総裁選田中角栄に敗れ、田中内閣では前任者愛知揆一急死後の蔵相。(角福戦争
◆三島 由紀夫(みしま ゆきお、本名:平岡 公威(ひらおか きみたけ)、1925年大正14年)1月14日 - 1970年昭和45年11月25日)は、日本の小説家・劇作家・評論家・政治活動家右翼活動家・民族主義者。第二次世界大戦後の日本文学界を代表する作家の一人である。代表作は小説に『仮面の告白』、『潮騒』、『金閣寺』、『鏡子の家』、『憂国』、『豊饒の海』四部作など、戯曲に『鹿鳴館』、『近代能楽集』、『サド侯爵夫人』などがある。人工性・構築性にあふれる唯美的な作風が特徴。晩年自衛隊体験入学したほか、民兵組織「楯の会」を結成。右翼的な政治活動を行い、その後の新右翼民族派運動に大きな影響を及ぼした。1970年11月25日、前年の憂国烈士・江藤小三郎の自決に触発され、 楯の会隊員4名と共に、自衛隊市ヶ谷駐屯地(現:防衛省本省)を訪れて東部方面総監を監禁。その際に幕僚数名を負傷させ、部屋の前のバルコニーで演説しクーデターを促し、その約5分後に割腹自殺を遂げた。この一件は世間に大きな衝撃を与えた筆名の「三島」は、日本伝統の三つの島の象徴、静岡県三島の地名に由来する。「三島」の命名を想起した清水文雄が修善寺での同人誌の編集会議を兼ねた一泊旅行のとき、「三島」を通ってきたことと、富士を見ての連想から「ゆき」という名前が浮かんだという。
細川 護熙(ほそかわ もりひろ、1938年昭和13年〉1月14日 - )は、日本の政治家、陶芸家。公益財団法人永青文庫理事長東北芸術工科大学学園長(初代)、京都造形芸術大学学園長(初代)。参議院議員(3期)、熊本県知事(第45・46代)、日本新党代表(初代)、衆議院議員(2期)、内閣総理大臣(第79代)(自民党を除く連合政権)、フロム・ファイブ代表(初代)などを歴任した。

<京都学>
◆浄心寺
・四条烏河原町の北西、いわゆる裏寺町にある浄土宗寺院室町時代の1542年に、三条室町の南側に開創。桃山時代、秀吉の寺町政策で現地に移転天明の大火で類焼したが、江戸時代中に再建。
・通常は非公開の寺院だが、2018年の浄土宗特別大公開10/4、10/5に本堂が公開。表門を入ると、左手庫裏右手に本堂。本堂の右手奥には墓地があり、その手前には石仏群があった。庫裏の左手には書院があるようだが、非公開。庫裏から一部書院の前庭が見えた。庫裏の右手に本堂がある。本堂の内陣中央には本尊阿弥陀如来像がお祀されていた。内陣の左脇壇には地蔵菩薩像、右脇壇には法然上人像、善導大師像や阿弥陀如来像が2躯お祀りされていた。また右脇壇の前に涅槃図が掛けられていた。

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2019-01-13

江戸検の成績結果。英一蝶。「このしろ寿し」

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◆昨年11月4日実施された江戸検1級の結果が発表された。受験者数398名、合格者数36名、合格率9.0%であった。一昨年に比べ、481名、64名、14.1%に比べ、難しいようだが、11回と比較したら502名、22名、4.4%程ではない。毎年連続して合格している人もいるようだが、すごいと言わざる得ない。3度目の受験であるが、運がよかったのかもしれない。特に、今回はお題問題がほぼ19点で満点に近かったことも大きいかもしれない。ただ、残念なのが、受験者数が年々減少していることである。これは2級・3級が減少しており、そのすそ野が減少しているのであろうか。

◆享保9年(1724)1月13日、画家の英一蝶が亡くなりました。72歳。英流の始祖。京都で出生、江戸に出て狩野安信に絵を学び、のち菱川師宣、俳諧を松尾芭蕉に学んだ。多賀朝湖という名で風俗画を発表、そのうちの作品が幕閣の逆鱗に触れ、(具体的な犯罪不明のようだ。)三宅島に遠島。11年後、1709年、将軍綱吉が死に、将軍が代がわりになったことを記念した大赦を受けて、一蝶は江戸に還ってくることになった。このとき、一蝶はすでに58歳になっていた。帰還する船のなかで、かれは一匹の蝶を見つけ、それまでの朝湖の名を捨てて一蝶と名のるようになったそうである。英は母の姓の花房からとられた。江戸に戻った後は英一蝶の名で作品を発表しました。代表作に三宅島時代の『四季日待図巻』などがある。

今日の京都新聞>
◆家康が礼状、わずか2軒が伝える「このしろ寿し」特異な製法
 ぷっくりと膨れた銀色の魚の背からは、酢飯の代わりに詰められたおからがのぞく。さっぱりとした甘酸っぱいコノシロとおからの素朴な味わいが調和を織りなす。「ここ独自の味。久美浜湾で捕れる魚だからこそできる味なんです」。このしろ寿(ず)しを作る河清商店の店主河村隆司さん町=がほほ笑む。全国的にも珍しいおからを詰めた魚の姿ずし。幼魚のシンコやコハダは江戸前のすしねたの定番で、久美浜では豊漁のコノシロを生かすために保存食として古くから親しまれてきた。ハレの日にも食され、「昔は『この城を守る』という意味も込めて結婚式にも出たんですよ」と妻の美重子さん。大正時代編さんの「京都府熊野郡誌」には、細く切ったコノシロの身をおからにまぶした「みぞれ寿司」が時代とともに今の姿に変化したと記す。近くの如意寺に残る文書によると、丹後国を治めていた細川家が謀叛(むほん)の疑いをかけられた際、久美浜城主だった松井康之の進言で2樽が節句の祝いに徳川家康に贈られた。家康は「たいそう美味であった」とする礼状を下し、細川家は難を逃れたという。コノシロは11月から冬の冷え込みとともに旬を迎える。河清商店では、背を割り酢で締め、いったおからにユズの皮や麻の実、調味料を加えて腹に詰める。コノシロの体長は約20センチで、久美浜湾のものは他よりも小さく、脂がのっていてもさっぱりしているという。冬は雪に閉ざされ湾内で豊富に取れるコノシロを用いた郷土の味だったが、近年は他の魚も流通するようになり食されることも減ってきた。かつて町内に10を超えた業者も今では2軒となり、漁師も2人に。厳冬の湾内での漁。兼業漁師の宮本隆さんは「コノシロ漁は経験がいる。すしに合うコノシロはここでしか取れん。あと10年は頑張るつもり」と胸を張る。変わらぬ郷土の味は地元を離れても人を引きつける。河清商店では京阪神に発送する正月用のこのしろ寿しを昨年末も夫婦作業毎日作り続けた。2人は言う。「コノシロを取る漁師がいなくなったら幻の名産となる日も来るかもしれない。それでも求める人がいる限り作り続けたい。」
ブランド京野菜「花菜」の収穫がピーク
 厳しい冷え込みが続く中、京都府長岡京市の特産品「花菜」の収穫が、同市今里の畑で最盛期を迎えた。栽培農家は凍った夜露が溶けるのを待ち、摘み取りに追われている。花菜は、府のブランド「京野菜」の一つ。各種ビタミンと鉄分やカルシウムなどを多く含み、ほろ苦さが特徴。料亭などで好んで利用される。府内では同市が代表的な産地で、JA京都中央の「長岡京花菜部会」の農家29戸が約15ヘクタールで栽培している。同部会長の能勢昌哲さんによると、今冬は気温が高く予想以上に生育が早い。収穫は1週間ほど早い昨年11月下旬から始まり、最盛期も1カ月ほど早まった。出来栄えは例年並みで、収穫量が増えていることから、例年より多い約50トンを見込んでいるという。

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2019-01-12

またも三連休。

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寒い一日である。都内でも午前中雪が降ったようである。気が付かず、午後から図書館へ。

吉宗VS宗春(再掲)

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今日の江戸学トピック>
◆元文4年(1739)1月12日、徳川8代将軍吉宗が御三家の筆頭尾張藩主の徳川宗春に隠居謹慎を命じました。宗春は藩主となって8年、芝居小屋や遊廓などを開き、地元名古屋の商工業を盛んにする一方、法に寛大な独自政策を展開しましたが、吉宗の緊縮政策に合いませんでした。政策を改めない宗春に対し、将軍自ら判断を下したというものでしたが、庶民から熱烈に支持されていた宗春を吉宗が危険視していたようである

●吉宗VS宗春
‘狙酲詆榁太犬ら110年。度重なる大火事や飢饉により幕府は財政破綻に。その影響は庶民にまで及んでいた。この惨状を救うべく二人が立ち上がる。一人は徳川御三家、紀州藩に生まれ、後に8代将軍になった徳川吉宗。そしてもう一人は御三家筆頭の尾張藩主となった徳川宗春。二人が掲げた政策は正反対であった。吉宗が打ち出したのは、国を挙げての節約生活。極端な倹約令を全国民にしき、経済を根幹から建て直そうとした。しかし宗春は、吉宗の緊縮政策を真っ向から否定。豪華絢爛、ド派手な衣装に身を包んだ宗春。吉宗に対抗し打ち出したその驚きの政策は。ある時、吉宗のもとに届いた一冊の本、「温知政要」。書いたのは宿命ライバル宗春。そこに記されていたのは反享保の改革ともいえる言葉の数々であった。宗春の思想を危険視した吉宗は、宗春を尾張藩主の座から引きずり降ろす為クーデターを起こす。
貞享元年(1684)、吉宗は紀州藩主徳川の四男として誕生。紀州徳川家は、いわゆる“徳川御三家”の一つ。御三家には将軍家の後継ぎが途絶えた時、御三家のいずれかから将軍をたてるという役割があった。御三家とはいえ吉宗は四男。出世の道は既に閉ざされていた。ところが、宝永2年(1705)、父、長男、三男が次々と急死。吉宗は思いも寄らない形で紀州藩主の座についた。さらに大きな運命が吉宗を待ち受けていた。正徳6年3月。7代将軍の徳川家継が病にかかり危篤状態に陥る。家継はまだ8歳。当然子はなく、徳川宗家の血が途絶えてしまう一大事。次期将軍候補は、御三家の尾張・徳川継友、水戸・徳川綱条、そして、紀州の吉宗。御三家筆頭、尾張の徳川継友が最有力候補とされていた。時の老中、間部詮房が将軍に指名したのは紀州の吉宗。正徳6年、6月26日。吉宗は江戸幕府8代将軍に就任した。一方、当然将軍家になると考えていた御三家筆頭尾張藩は、後継者争いに負け落胆。数年後、その尾張から吉宗にとって不倶戴天の敵、継友の弟、徳川宗春が現れる。宗春は、元禄9年、尾張藩三代藩主の子として誕生。父には多くの側室があり、子供の数は39名。宗春は20番目の男子。当然、跡取りの望める様な状況ではなく、宗春は江戸の町に毎夜くり出し、芝居見物や遊郭で遊ぶ気ままな日々を過ごしていた。宗春が35歳になった享保15年、大勢いた兄が次々と死に、存命の兄も他家を継ぐ事となっていた為、宗春が藩主の座を継ぐ事に。宗春は吉宗に藩主となった報告をする為江戸城に出向く。質素な服を着た将軍の目の前に、豪華な衣服を身にまとう宗春が現れた。片や4男、片や20男。出会うはずのない二人が、同じような道を辿り、将軍と御三家筆頭藩主として歴史の表舞台でであう。
2反辰悗竜詈討睚Г┐鳴、財政状況が追いつめられる中、吉宗が最も力を入れたのが、徹底した倹約だった。自らも率先し倹約に努めた。安い木綿の服を着て、色も地味。食事は1日2食、おかずは三品まで、それ以上は「腹の奢りである」と自らを戒めた。ある時、質素倹約を進める将軍吉宗は奇妙な噂を耳にする。「江戸にある尾張藩邸が近頃やけに賑やかで、深夜を過ぎても人の出入りがある」との事だった。この頃宗春は、日常生活に関する物の売り買いまでも制限する吉宗の政策を問題視していた。そして宗春は真っ向から吉宗に勝負を挑みはじめる。藩主となった宗春は、まず尾張藩邸の夜遊び帰りの門限を撤廃し、規制を大幅に緩める。同年、尾張に戻った宗春は、芝居の興行奨励。さらに、遊郭の営業も認める。ある日、宗春は質素になっていた盆踊りを盛大に行うよう藩庁に指示を出す。町民は浮き足だち、町は俄然にぎやかになった。が、その最中、宗春の2歳になる娘が、亡くなるとの報が入る。当然、藩庁は祭りの中止を告げ、領民たちはあきらめてこの触れに従った。ところが、「上に立つ人間の都合で、民の楽しみを奪ってはならぬ」と宗春は言い、盆踊りの再開を命じた。人々は心をうたれ、宗春を支持する者が増えた。自らの政治理念を記した本「温知政要」を、堂々と吉宗に献上した。それはまさに時の将軍吉宗に対する挑戦状であった。
そ―佞端午の節句の日、江戸の尾張藩邸におびただしい数の鯉の幟を飾り町人に見物させた。贅沢を禁じる吉宗への挑発。怒った吉宗は宗春のもとへ使者差し向け、使者は倹約令を守らない宗春の態度を咎め詰問。意外にも宗春は素直に頭をさげた。抵抗を恐れていた使者はこの態度に胸を撫で下ろす。すると宗春は使者に「ここからは世間話ですが」と断り一気にまくしたてた。「上にたつ主が倹約、倹約とおっしゃっても、貯まるのは幕府の金庫の中身のみ。民を苦しませる倹約は本当の倹約でしょうか。私は金を使いますが、使う事によって世間に金が回り、民の助けになるから使っているのです。口だけの倹約とは決して異なるものです」使者を真っ向から説き伏せてしまった。確かに吉宗が目指していたのは、緊縮財政政策による幕府の再建で、民の暮らし向きは二次的なもの。宗春の人気は急速に広がり、やがて「近々、尾張公が公儀を相手に、一戦挑むそうな」といった不穏な噂までもがでる始末。この噂は、尾張藩士たちに強い危機感を与えた。吉宗はこの尾張藩の内部分裂を見逃さなかった。ある日、吉宗は密かに尾張藩の重臣を江戸城に呼び寄せる。吉宗は、重臣を通じ尾張藩の有力な家臣たちに次々と接触秘密裏にある計画を進めていた。そして、宗春が参勤交代で江戸へ出向いていた時、重臣たちが、「宗春さまが藩主になってから決めた事はとりやめ、すべて以前に戻す。これからは藩主の言う事ではなく、我らのいうことに従うべし」と、尾張国内で勝手にお布令を出した。反宗春派によるクーデターであった。さらにとどめとなる命令が幕府から下される。「藩主宗春、行跡常々よろしからざる故もって隠居謹慎せよ」尾張で起こったクーデターの責任を宗春にとらせるという形。宗春の失脚が決まった。側近たちは皆泣き崩れた。一人宗春だけは違った。宗春はみじんも敗者の装いを見せず一言呟いたという。「おわり(尾張) 初もの」。自らの藩主人生の「終わり」を、「御三家筆頭藩主に対する初めての仕打ち」と洒落てみせた。 .
8代将軍徳川吉宗は、その生涯を通し、不安定な幕府の財政を立て直そうと戦い続けた。吉宗が進めた改革は、一応の成功を治め、吉宗亡き後も幕府が財政破綻に陥るたび、幕臣たちは享保の改革を手本とした。その吉宗が最も恐れた男・徳川宗春は謹慎を命じられると尾張に戻り、名古屋城内に幽閉された。基本的に外出は禁止母親葬儀にさえ参列することは許されなかったそうだ。明和元年(1764)、歴史の表舞台に戻ることなくこの世を去る。

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