昭和改元の日

◆1926(大正15・昭和元)年のこの日、大正天皇崩御し、皇太子であった裕仁親王践祚した。東京日日新聞(現在の毎日新聞)は、早くから「新しい元号は『光文』になるらしい」という情報を得ていたため、政府の公式発表の前に「元号は『光文』に決定」と報じた。しかし政府は元号を「昭和」と発表したため、この「大特ダネ」は「大誤報」となってしまい、編輯主幹の木戸元亮は責任をとって辞任した。「光文」は新元号の候補の中にあったが、政府内では既に「昭和」に決定していた。しかし、東京日日新聞の報道から政府の公式発表までの時間があまりに短かったことから、「元々『光文』に決定していたものが、新聞で先に報道されてしまったため『昭和』に急遽変更した」という噂が生まれた。 ちなみに平成スタートの日は1月8日である。

(今日の出来事)
プロ野球楽天は25日、田中将大投手(25)の新ポスティングシステムでの米大リーグ移籍を容認すると発表した。楽天は同日、申請を行い、日本野球機構(NPB)は大リーグ機構(MLB)に楽天が上限2000万ドル(20億8000万円)で設定した譲渡金を通知した。
東京都知事選 来年2月9日投開票。東京都知事選に向けて都庁では選挙管理委員会が開かれ、告知日を来年1月23日、投開票日を来年2月9日にすることを正式に決まった。

(12月25日生まれの偉人)
◆乃木 希典(のぎ まれすけ、嘉永2年11月11日(1849年12月25日) - 大正元年(1912年)9月13日)は、日本の武士(長府藩士)、軍人、教育者。階級は陸軍大将。栄典は贈正二位・勲一等・功一級・伯爵。第10代学習院院長。家紋は「市松四つ目結い」。幼名は無人(なきと)で、その後、源三と名を改め、頼時とも称した。 さらに後、文蔵、次いで希典と名を改めた。また、出雲源氏佐々木氏の子孫と称したことから源希典との署名もよく用いた[2]。号としては、静堂、秀顕、石樵及び石林子を用いた。「乃木大将」または「乃木将軍」などの呼称で呼ばれることも多い。
 明治期の代表的陸軍軍人。長府藩(長州藩支藩)藩士乃木希次の3男。幼名は無人。文を志し吉田松陰の叔父玉木文之進の塾をめざしたが、文武両道を諭され入門を許された。明治4(1871)年陸軍少佐。西南戦争では歩兵第14連隊長心得を務め、田原坂の激戦で連隊旗を失う。これが終生乃木を苦しめたといわれている。母寿子は妻帯を勧め,11年8月27日薩摩(鹿児島)藩士湯地定之の4女お七(結婚後,静子)と結婚させたが,鬱屈の情を酒にまぎらす日々は続いた。しかし、19年川上操六とドイツに留学し戦術を研究したことが転機となった。帰国後,軍紀確立などに関する意見書を提出する一方,自らは常に軍服で身を律した。日清戦争では第1旅団長として旅順を占領した。28年中将に進み,翌年台湾総督に就任。日露戦争では大将,第3軍司令官として出征し,難攻不落といわれた旅順要塞を3回にわたって総攻撃し、37年12月5日203高地を占領した。翌年1月1日,旅順要塞司令官ステッセル中将の降伏申し入れに同意,翌日水師営で開城規約が成立,5日ステッセルと会見した。旅順陥落までの戦闘で2子が戦死し、悲劇の将軍として国民的敬愛を集めた。3月奉天(瀋陽)の会戦で第3軍は北方へ退くロシア軍と激戦を展開した。39年軍事参議官。40年伯爵、明治天皇の信任厚く、41年学習院院長に任じられた。明治天皇大葬の日、東京赤坂の自宅で割腹して殉死し、夫人もその後を追った。「水師営の会見」(作詞・佐佐木信綱,作曲・岡野貞一)は,文部省唱歌として歌われた。
 <参考文献>大浜徹也『乃木希典』、和田政雄『乃木希典日記』、黒木勇吉『乃木希典
司馬遼太郎は『坂の上の雲』のなかで日露戦争での乃木将軍を、無能な将軍として書かかれておりますが、『殉死』では明治天皇を慕う武人としての生き方を美しく書かれています。
・乃木大将の出身地:城下町長府に残る乃木希典の史跡
長府は西暦193年、仲哀天皇神功皇后により豊浦の宮が築かれた由来から、忌宮神社が創建され、数々の神事が継承され、大化二年(646年)には、長門国府として長府と呼ばれるようになり、政治的・軍事的拠点として重要な役割を果たした。
慶長五年(1600年)、関ヶ原の役後、毛利秀元が長府五万石の城主として入府以来、武家屋敷の町として平和な藩政時代もあったが、幕末になりますと文久・元治の馬関攘夷戦、七卿の来府、蛤御門の変、長州征伐と激動と苦難の道を辿ることになる。元治元年(1864年)十二月十五日、功山寺における高杉晋作の回天の義挙により歴史は大きく転回し、やがて明治維新を迎えることになる。
・復元された旧乃木邸 (長府市乃木神社内)
 乃木神社は全国に建てられまが、下関市長府以外では、函館市室蘭市・栃木県那須郡・東京都港区・滋賀県蒲生郡京都市伏見区香川県善通寺市にある。現在保存されている乃木旧邸は大正3年(1914)、そのゆかりの地に忠実に復元されたもので、極めて質素な生活をしていたことを偲ばせる。乃木は安政5年(1858)、十歳のとき父とともにこの地に帰り、十六歳で萩に従学するまで、長府城下で過ごした。希典が11歳の時、親戚にあたる吉田松陰が、幕府に捕らわれ処刑された。萩に従学とは、松陰の叔父である玉木文之進に弟子入りしたことをさす。玉木文之進は『松下村塾』の創設者であり、松陰に徹底的な教育を叩き込んだ(あまりにも厳しい教育であったため松陰の母は松陰に「もうお死んでおしまい」と言ったくらい)人である。こんな人ですから心身ともに鍛えあげられたのでしょう。 玉木文之進前原一誠を中心とした『萩の乱』に関与し、切腹した。
◆堂本 印象 (どうもと いんしょう、1891年12月25日 - 1975年9月5日)は京都市生れの日本画家。帝室技芸員日本芸術院会員。本名:堂本三之助。西山翠嶂(すいしょう)にまなぶ。大正10年帝展で「調鞠(ちょうきく)図」が特選、15年「華厳(けごん)」が帝国美術院賞。昭和11年母校京都市立絵画専門学校(現京都市立芸大)の教授。寺院の障壁画などを数おおく制作したが,戦後は抽象画も手がけた。
京都府立堂本美術館 http://insho-domoto.com/index-j.html
◆金子 光晴(かねこ みつはる、1895年(明治28年)12月25日 - 1975年(昭和50年)6月30日)は、愛知県津島市生まれの詩人。本名は安和。弟に詩人で小説家の大鹿卓がいる。妻も詩人の森三千代、息子に翻訳家の森乾。暁星中学校卒業。早稲田大学高等予科文科、東京美術学校日本画科、慶應義塾大学文学部予科に学ぶも、いずれも中退。
 父大鹿和吉は酒商だが、興業や鉱山に手を出していた。1897年,金子荘太郎・須美の養子となり、荘太郎の転勤で,京都,東京と移り住む。小林清親(きよちか)に日本画を学び、後の放浪旅行中には、絵で糊口をしのいだこともある。1915年、肺尖カタルで病臥(びようが)し、詩作を始めた。16年、義父の死で,遺産20万円を義母と折半したが、短期間に散財、残った金で、19年から2年間、ヨーロッパへ留学、ベルギーのブリュッセル郊外に滞在して、初めて向日的な日々を送り、西欧文化への目を開かれた。( http://1000ya.isis.ne.jp/0165.html

<本の紹介>
・将軍・乃木希典 http://d.hatena.ne.jp/asin/4585040951
天皇 http://d.hatena.ne.jp/asin/4594068987

<昨年の今日> http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20121225/p1 http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20121225/p2