「カンブリア宮殿」にみる地方の底力・・・道の駅と地方商店街。そして結城豊太郎記念館

◆①『地方の底力SP 第一弾!〜道の駅が生む奇跡の集客術〜』(2014年3月20日放送 22:00 - 22:54 テレビ東京カンブリア宮殿」より)
 静岡・富士市東名高速道路の上り線にある道の駅「富士川楽座」にはプラネタリウムがあり、非常に人気がある。また、福岡・大任町の道の駅「おおとう桜街道」も人気で「1億円トイレ」なる優雅なトイレがある。一方、高知・土佐清水市の道の駅「めじかの里土佐清水」は、売上が少なく赤字続き。3月いっぱいで運営から撤退するという。道の駅は地元自治体が施設を作り、運営は第3セクターや民間企業が行っているのが通常。全国で道の駅が乱立する中、運営会社が撤退する施設も少なくない。
 山口・萩市の道の駅「萩しーまーと」には午前中から客が続々と詰めかける。中はまるで港町の市場のよう。地元・萩産の鮮魚を販売している。「萩しーまーと」は、裏手にある「萩地方卸売市場」から新鮮な魚を仕入れているという。また、店内に料理店「浜料理 がんがん」があり、買った鮮魚をその場で調理してくれる。3月9日、「萩しーまーと」でイベント「真ふぐ祭り」が行われた。駅長・中澤さかなが仕掛けた真ふぐをアピールするために、来場者に無料で真ふぐを提供するというイベント。道の駅「笠岡ベイファーム」の池田駅長など、中澤を師とあおぐ人は多い。中澤さかなは、元リクルートの社員だったが、43歳のときセミリタイヤ。萩で募集していた新たな道の駅の駅長に応募し、見事に採用され萩にやってきた。しかし、中澤を待っていたのは、観光客狙いのずさんな計画案。悩みぬいた中沢は地元住民向けの道の駅を作ることを決意した。「萩しーまーと」は、観光バスとは決別し、ターゲットは地元住民に絞っている。そのため、肉など普段使いの商品が集められている。「萩しーまーと」のヒット商品「オイル・ルージュ」は、萩地方卸売市場で仕入れた「金太郎」と呼ばれるクズ魚を使った、地魚のオイル漬け。東急百貨店 東横店で販売されており、イタリアンレストラン「ラ・ソラシド」の奥田シェフなど有名シェフにもファンは多い。道の駅「萩しーまーと」を成功させた中澤さかなが考える「道の駅を失敗しないための秘策」についてトークをした。失敗しない秘訣として、「観光バスとの決別」、「キャラクターを作らない」などが挙げられた。村上はゆるきゃらについて「事実のごまかしである」などと意見した。
 愛媛・内子町の道の駅「内子フレッシュパークからり」は、ただ屋根をつけただけのオープンスペースで、ところ狭しと野菜が並んでいる。スーパーに比べて値段が安く、また鮮度が高いため、田舎町では考えられないような賑わいをみせる。「道の駅 内子フレッシュパークからり」では、生産者のスマホに売れ行き情報が届くというシステムが使われており、それを見ながら野菜を収穫、鮮度の高いものだけを売り場に出すことができる。野菜のほかにも絶品商品が目白押しで「みかんデニッシュ」などが人気。「内子フレッシュパークからり」には他の道の駅にない秘密がある。地元の家庭で作られた食べ物や、木工細工、花など、「地元家庭産」の商品が販売されているのだ。これを目当てに遠方から訪れるファンも多い。「道の駅 内子フレッシュパークからり」のリーダー・野田文子さんは、これまで様々な取り組みにチャレンジしてきた。現在も地元で穫れた柑橘果実じゃばらを使ったパンを試作するなどしている。「内子フレッシュパークからり」で売られている商品をスタジオで試食した。商品には生産者の名前と電話番号が書かれており、生産者に直接注文することもできる。「からり」発展のきっかけになった商品は野田文子さんの作ったドライフラワーだったという。「内子フレッシュパークからり」は町の存亡をかけた道の駅だった。葉たばこの生産地だった内子町だったが、近年たばこの消費量が急激に減ったため、町内の農家に危機が訪れた。そんな状況を打開しようとはじめられた産直市場が「からり」の前身で、そこに乗ったのが野田文子ら農家の女性たち。女性たちは「からり」を通して生きがいを見つけた。道の駅「内子フレッシュパークからり」について、村上は「女性たちが初めたことが革命的だった」などと話した。また、「萩しーまーと」の中澤さかなは「みんなで盛り上がって楽しんでいる姿が理想的」などと感想を言った。
 野田文子の道の駅「内子フレッシュパークからり」への参加にご主人は反対だった。反対するご主人に隠れ、野田はしいたけを盗み、道の駅で販売していたという。道の駅「内子フレッシュパークからり」への参加に反対するご主人に隠れ、しいたけを盗み、販売していたという野田。ご主人に怒られてもやめなかったという野田に、その理由を聞くと、「今までにない経験をしたから」などと話した。
 収録を終えた村上龍は、「地方の自立、簡単ではない。精神論では無理だ」などとし、一方で、自立を成功させた「萩しーまーと」や「内子フレッシュパークからり」の成功の秘訣について書きしたため、編集後記とした。
②『地方の底力SP第二弾!〜苦境にある地方商店街!奇跡の再生術〜』(2014年3月27日放送 22:00 - 22:54 テレビ東京カンブリア宮殿」より)
 高松市にある高松丸亀町商店街では他の街づくりに携わる職員などが年間1万3000人が視察に訪れる。この商店街は470メートル、商店街はテーマに沿った店舗が200店舗ほど入っている。さぬき菓匠はお菓子の名店として有名となっている。まちのシューレ963ではヘルシーランチが人気となっている。高松丸亀町商店街の人気復活の仕掛け人は古川康造と鹿庭幸男だった。丸亀商店街の問題点は業種の片寄りがあることだった。それは「定期借地権」を使った再開発を行うことで解決できると古川は考えた。地主との話し合いは難航したが、なんとか全員一致でなんとか着工にとりかかることができ最初の再開発で売り上げは2倍となり通行量も3倍になった。
 バブル期に危機を察知した前理事は勘でシャッター街になることを感じたと話していたという。村上龍の疑問点として「所有と利用の分離」をなぜ気付けたのかと聞いたところ、古川は地権者は土地を取られてしまうんではないかという考えが浮かぶ、しかし今回の手法は62年間の定期借地権なので62年後には土地は孫達の手元にもどるようになっているそれが再開発。苦労した点について聞くと街と一蓮托生だったため賛同者が反対者を説得してくれたためそれが功を奏したと話した。村上龍は「商店街再生は情緒の問題ではない」という視点を展開した、それに対し「地域に税金をたくさん落とすビジネスを作らなければならない、地域に税金を落とすことが大事」と話した。ぶらくり丁商店街ではシャッター商店街の現実を反映している。シャッター商店街は全国でも4割となっている。和歌山市の中心街では4割の住民が減少している。
 高松丸亀町商店街はバブル景気に伴う土地高騰で人口は郊外に流出し、残ったのは高齢者ばかりだった。住民を戻そうと定期借地権付きマンションを建設し、安さが売りだったことから即日完売した。立地条件もよく、住民の伊川文子さんは満足している。また建物内には美術館北通り診療所があり、24時間対応の在宅診療も行っていることから住民にとっての安心感は高い。さらに付近の大学病院と提携し、重病とわかればすぐさま搬送してくれる。高松丸亀町壱番街にある定期借地権付きマンションでは住民の多くが高齢者ということで出張サービスを行っている。さらに一画にはスーパー「まちマルシェ きむら」があり、素材も鮮度抜群。他にもレストラン、手芸店、高齢者同士の交流を図るためにカルチャーセンターもある。独り暮らしの安藝菜穂子さんは車いすを使っていて、施設はバリアフリーなので利便性もある。また商店街が運営するまちバスもあり、運賃は100円の安さで年間400万円の赤字を計上しているが駐車場も商店街が運営しているので黒字化に成功。さらに高齢者に駐車場の管理を任せることで、雇用も創出している。
 丸亀町商店街振興組合の古川康造理事長は高齢な居住者を集めることで商店街は活気づくとコメント。その上で居住区に24時間対応の医療施設を完備し、聞きとり調査を行ううちに独り暮らしのお年寄り同士が食事を楽しめるサービスなども考えているとコメント。高松丸亀町商店街は兵庫町商店街、片原町商店街と隣接していて、シナジー効果を生んでいることで再び活気づくようになったという。また地元の生産者が野菜などを持ち込むマルシェが月に1度開催されている。高松丸亀町商店街で土産物プロジェクトを担当する塩田教介さんは香川・三豊市のレモン農家を訪れた。小林憲由さんが生産する有機栽培にこだわったレモンを使った「レモンのハチミツ漬け」をプロデュースし、常設店や屋台などで販売された。他にも和三盆を使ったお菓子「ヌーベル和三盆 ガイコツ」なども販売するなど、地場産業とコラボしている。高松丸亀町商店街振興組合の古川康造氏は生産者が作った野菜などを自分で持ち込んで商店街で売るという新たな市場開設を目指していると語った。村上龍はなぜ商店街が4年で再開発できたのか疑問を呈すと、古川氏は地域内のコミュニティによるものとコメント。一方でコミュニティが崩壊しているのは不在地主が多く、再開発などに投資してもリターンは少ないという。高松丸亀町商店街振興組合の古川康造氏は復活できる商店街の条件に、地域のコミュニティが残ってさえいれば手法はいくらでもあるので再生はまだ可能とコメント。
 収録を終えた村上龍は再生を果たした高松丸亀町商店街について、もっとも重要なのは信頼に裏打ちされたコミュニティの残存で、人が離れることでコミュニティが崩壊すれば資金やアイデアをもってしても再生は不可能。高松丸亀町商店街は街を再生しただけでなく、確固たる信頼も取り戻したと評した。

◆「地方の町が消える!?人口減少にどう立ち向かう」(2014年5月24日放送 8:15 - 9:30 NHK総合ニュース深読み 」より
 本日の深読みコーナーのテーマは「地方の町が消える!?人口減少にどう立ち向かう」。今月8日、日本創成会議の増田寛也座長らがこのままだと896の自治体が消えてしまう可能性がある事を報告した。一体それにどう向き合っていけばいいのか?「地方の町が消える!?人口減少にどう立ち向かう」をテーマにトーク増田英彦早見優、専門家らをゲストに迎えた。徳永圭一アナが人口減少問題について解説。最近、地方都市ではお年寄りの数も減り始め、年金による老人経済が期待できなくなり、お店や病院も経営できなくなる。仕事が無くなる事で若者は仕方なく東京に出る事になり、人口問題の研究グループの報告では全国の市区町村のうち896の自治体が消滅する可能性を指摘している。また、今回の報告書では過疎が縁遠いと思われていた東京についても、高齢化と出生率の低さについて指摘しており、この問題について全国で今から考えないかという主張が大きな柱になっている。
 竹田忠は、東京は人口減少問題に対して気づきにくいが、日本全体で有効な対策を早く取らなければいけないと指摘。今回人口減少について報告した日本創成会議のメンバーの1人・樋口美雄は、高齢者は地方に残りたいという気持ちが強いが、若者がいなくなってしまうと介護難民の問題などが出てくる、少子高齢化は更に進んでいくと解説。藻谷浩介は、東京都の最大の問題は子どもが生まれていない事で、今のペースだと日本全体では64歳以下の人口は100年ぐらいでいなくなると解説。樋口美雄は、地方ならば出生率が必ずしも高いという訳ではない事を補足した。藻谷浩介はマイクロソフトなどの外国のベンチャーを例に挙げ、これらの企業は都市部以外に仕事を作っていると語った。専門家らによると、田舎に人がいなくなって困っている先進国は日本ぐらいで、外国の企業も含めて東京に仕事が集中している現状があるという。
 藻谷浩介は、東京の人は地方が衰えたら東京が栄える様に思っているが、外国から見ると一緒に沈んでいく様に見えていると指摘。また、視聴者から届いた「東京の大規模団地は一斉に老化して消滅の危機になっていくと思う」「東京などの給与水準があれば地方にも帰る」などの意見を紹介。竹田忠は、東京は地方から人を集めておきながら、自分の所ではなかなか子どもを産ませないという二重の罪があると語った。
 NPO法人ふるさと回帰支援センターによると、20代・30代の相談件数が増えており、地方へ出たい若者は急増中だという。その一方、番組には「田舎に移住したいが仕事が見つかるか不安」などの意見も届いた。徳永圭一アナによる人口減少問題のプレゼン。地方に住みたいと思う人が気にする大きな問題は仕事と子育ての2つだが、子育てに関しては、現在はフィンランドの「ネウボラ」(保健師が子育てなど、多岐にわたる事柄をアドバイスしてくれる場)が注目されている事を紹介した。徳永圭一アナは続いて、島根・海士町について紹介。海士町は地域活性のパイオニアであり、外の人の意見を取り入れて商品化された「さざえカレー」が人気になっている。海士町の山内道雄町長は、塩やナマコも地域活性化に役立てており、現在の人口約2400人の内、437人がここ10年の内に本土から移住してきているという。現在子どもが増えているのは“田舎の田舎”で、その中でも島根県が優れているというデータがある。藤山浩は、地域活性化のキーワードは「目指せ1%」であり、いきなりホームランを狙いすぎるのはよくないと語った。
 藻谷浩介は、過疎地には耕作放棄地が沢山ある為、真面目に努力すれば100〜200万の農業収入を得る事が出来て、家賃も非常に安い為に豊かな暮らしが出来るケースが多いと解説。藤山浩は、地域活性の為には地産地消にしていく考えが有効で、学校の机なども地域で作ってしまえばいいと語った。藻谷浩介は、日本の貿易を見るとフランスやイタリアから地産地消品を買い込んでいるが、地方に人材を投入して今まで生かしていなかった資源を生かすと人が食べれる様になってくると語った。樋口美雄は、まずは地方にリーダーがいる事が必要で、必要に応じて外からの意見を取り入れれば良いと語った。藤山浩は最後に、東京と地方が喧嘩をしないで助けあう様な関係になってほしいと語り、疎開保険というシステムがあると例を挙げた。

結城豊太郎記念館http://nansupo.ddo.jp/nanyo-cl/yuuki/
 江戸の旧薩摩藩邸を移築した。大蔵大臣、拓務大臣、日銀総裁をつとめた。「ふるさとは国の本なり」といい、人づくりに力を注ぐ。中学時代に家族銀行を提案し、話題になるなど早くから金融に興味を持っていた。採用が無いのに当時の高橋是清副総裁に直談判して入行。経世済民が原義の経済に関心を持つ人物だった。請われて安田財閥に入り、大安田銀行の創建。興銀総裁、商工中金創立なども行った。高等文官試験に通っていたが、経済金融を学ぶため日銀を選ぶ。実務よりも諸学国の視察に重点を置き、現状把握を通して未来に向かって想像性を養ったとある。山形中学、二高、東大。故郷の赤湯には、上下水道を引き、風也塾を設立し若者を運指導、臨雲文庫を設立し万巻の書を寄付し図書館とした。修身・斉家・治郷という言葉を用い、郷学という言葉も使った。吉田松陰を尊敬。20歳年下の東洋学・人間学の権威である安岡正篤を亡年の交わりと称して師事したという。当時、国内有数の読書家として知られ、財政経済金融の専門書は勿論、文学・歴史書を特に愛好し、広く新刊書まで読破された。

<昨年の今日>「自分を磨くとは、自分の心を耕し、成長をさせること。自分の理想に近づけるように少しずつ努力すること。」http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20130524/p1