江戸城について

江戸城表について考えてみると、
・大広間とは
 江戸城内最大の建物である大広間は、将軍宣下の儀式や大名が将軍に拝謁するなど公的行事を行う最も格式の高い御殿である。上段之間には将軍が坐する。将軍の呼び名は「公方様」をはじめ、「御公儀様」「大樹様」と呼ばれていた。大広間では大名の座る場所は格式によって厳格に定められていた。以下、中段之間、下段之間、二之間、三之間、四之間など合わせて500畳で構成されている。上段の間(34畳)・中段之間(34畳)・下段之間(44畳)それぞれに7寸(21cm)の段差が付けられ、権威を演出されていた。二之間以下は将軍の姿すら見えない。将軍が下段之間に現れて二之間の大名に言葉をかけるが、平伏したままで、その姿を見ることはない。二之間では畳敷廊下の入側まで厳格に定められた位置に着座している。

・将軍宣下の儀式
 将軍宣下の儀式とは、天皇が京都で日本国の統治大権を行使する征夷大将軍に任ずる儀式である。慶安4年(1651)8月18日、家光の長男・家綱は幼年のため江戸城において勅使より将軍宣下を受け、第4代将軍に就任した。この前例で家綱以降の将軍宣下は慶喜を除き江戸城で行われた。

・白書院、黒書院
 公的な行事を行う白書院(120畳)、日常的な行事を行う黒書院(78畳)は、大広間に次ぐ格式をもつ将軍の応接間である。控之間で最高の格式をもっていたのは「溜之間詰」の大名で老中格としての権威を持ち、白書院で公方様に拝謁し、政治上の諮問を受けたことに対して意見を述べていた。毎月1日の公方様への月次御礼は大廊下詰と溜之間詰大名は黒書院で、その他の大名は白書院で行われた。

・殿中席(控之間)には、殿席、伺候席、詰所とも呼び、将軍に拝謁する順番を待つ7つの控え席があった。
 ①大廊下「上之部屋」には、将軍家の親族である御三家と御三卿(田安・清水・一橋)。
 ②大廊下「下之部屋」には、加賀藩前田家、福井藩松平家、(権中将〜権大納言)。
 ③黒書院溜之間(松溜)には、井伊掃部守、松平肥後守、松平讃岐守、この三家は常溜と称された。松平隠岐守、松平下総守、酒井雅楽頭、松平越中 守は一代限りの飛溜で功績により指名された(侍従〜権中将)。
 ④大広間(おおびろま)詰には、御三家の分家大名に四位以上の外様国持大名、伊達、細川、島津、毛利、黒田、池田、浅野の控之間としても使われ ていた(四位〜権中将)。
 ⑤帝鑑之間には、10万石以上の譜代大名(御譜代衆)や交代寄合(3000石以上の旗本・大名に準ずる者)で役職につかない者の詰所。(五位〜侍   従)。
 ⑥雁之間には、城主格以上の譜代大名で詰衆と呼ばれていた(五位〜侍従)。菊之間には、警備や護衛にあたる大番頭、書院番頭、小姓組番頭の詰  所。菊之間広縁には、二万石以下の無城譜代(陣屋大名)で詰衆並と呼ばれていた。柳之間には、五位の10万石未満の外様大名100家および高家の詰所(五位〜侍従)。

・松之廊下
 松之大廊下は、江戸城本丸の大広間から将軍との対面所である白書院に至る全長50m、幅4mのL形の廊下である。畳敷の廊下に沿った襖に狩野探淵による浜の松に千鳥が乱舞する障壁画が描かれていたことから松之廊下と呼ばれている。元禄14年(1701)3月14日午前10時頃、赤穂藩主で勅使(天皇の使者)饗応役であった浅野長矩(内匠頭)が、この廊下で儀式を司る高家筆頭の吉良義央(上野介)に斬りつけた事件で知られる。松の廊下の角柱から6間ほどの場所で吉良と立ち話をしていた梶川与惣兵衛は、吉良の後方より「この間の遺恨覚えたるか」と声をかけて吉良の背中と額を斬りつけた浅野を後ろから羽交い絞めにして取り押さえた。この殿中の刃傷事件が「忠臣蔵」の始まりである。

「人足寄場」について

◆人足寄場
「人足寄場」は、佃島のそばにありながら、「石川島人足寄場」とも呼ばれます。江戸時代に佃島と呼ばれたところは、現在は「佃1丁目」です。そして、「人足寄場跡」は、現在は「佃2丁目」です。また、現在は、人足寄場跡は、佃島からは、川幅の狭い佃堀に架かった小さな橋(住吉小橋)を渡った場所にあります。そのため、人足寄場も佃島にあったように思いがちです。そうしたことから、「人足寄場に、なぜ『石川島』という名前が冠されるのか」と疑問に思う人もいると思います。
 人足寄場は、佃島に造られたのではない。佃島は、正保元年(1644)に、摂津国佃村の漁師が、幕府から拝領した隅田川の寄州を埋め立てて築いた島です。一方、石川島は、江戸時代初期には、すでに隅田川の河口にありました。つまり、石川島の方が、早くから島として存在した。人足寄場は石川島と佃島の間の浅瀬を埋め立てて築いた土地に設置されました。ですから佃島ではない。石川島は江戸時代初期には「森島」または「鎧島」と呼ばれたと江戸名所図会に次のように書かれています。
 鎧島  佃島の北に並べり。いま、石川島と号(なづ)く(俗に、八左衛門殿島といへり。皆、大猷公(徳川家光)の御時、石川氏の先代、この島拝領するより、かく唱ふるとなり。寛政4年、石川氏、永田町へ屋敷替へありしより、炭置場・人足寄場等になれり)。旧名を森島といふよし、江戸の古図に見えたり(文亀古図)また、その図に記して云く、この島、一名を鎧島と号(なづ)く。(後略)
 石川島というのは、3代将軍家光の時代に、旗本石川正次が拝領したため、石川島と呼ばれるようになったようですが、石川正次は、通称八左衛門といったので、「八左衛門殿島」とも呼ばれたようです。この石川島と佃島の間は、葦が繁る浅瀬だったようです。そこを埋め立てて陸地としてそこに鬼平が、寛政2年に人足寄場を開設しました。
「人足寄場」というのは、無宿人を集めて、仕事を覚えさせる施設です。難しく言うと「授産更正施設」です。「人足寄場」が作られた背景には、江戸時代後期の治安の悪化がありました。長谷川平蔵宣以が火付盗賊改めを命じられた時代、江戸では無宿人が増えつづけました。無宿人というのは、人別帳の記載を削除された人を言います。人別帳から削除されるケースは、貧窮により村を離れたり、久離や勘当により親族関係が断絶した場合、追放刑による場合などがあります。無宿人が最も増えたのが天明6年・天明7年の頃だったとされています。当時は、冷夏・風水害・火山の噴火などが続き、農村が疲弊し、農村での生活ができない人が村から逃げ出して江戸に流れ込んでいました。長谷川平蔵宣以も出動し、見事、打ちこわしを取り鎮めきました。この天明の打ちこわしにより、田沼意次体制が完全に崩壊し、天明7年6月松平定信が老中となります。松平定信は、無宿人対策に取り組みはじめ、寛政元年頃、無宿人対策について意見を求めました。この際に、平松義郎「人足寄場の設立と変遷」によれば、長谷川平蔵宣以が、無宿人収容施設の構想について意見を述べ、その収容施設を引き受ける意思を伝えたと書かれています。長谷川平蔵宣以は2回にわたり上申書を提出し、収容施設の位置、作業、教誨、懲戒などについて意見具申しています。そして、寛永2年2月19日に正式に収容施設の設立を命じられています。新しく設立される収容施設は「加役方人足寄場」と命名されています。「加役方」とは「火付盗賊改」ということですので、「火付盗賊改」の管理下にあるという意味だそうです。長谷川平蔵宣以は、火付盗賊改のまま、寄場の責任者となりました。これを指して瀧川政次郎「長谷川平蔵」によれば「寄場取扱」を命じられたと書いてありますが、平松義郎氏によると「平蔵の寄場主管たる職を特称して寄場取扱と呼んだ説明があるが、そういった職名はない」そうです。「人足寄場」は、隅田川河口にある石川島周辺を埋め立てて建設することになりました。なぜ、川の中の小島が選ばれたかというと、逃亡を防ぐためであった。

<本の紹介>
・はじめての御朱印ガイド(八木 透・監修)
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・江戸名所図会を読む(川田寿・著)
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・江戸切絵図散歩 (池波 正太郎著・新潮文庫)
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・ひみつの教養 ~誰も教えてくれない仕事の基本(飯島勲著)
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<11月21日生まれの先人の言葉>
服部金太郎セイコー創業者)
 ・私が他人より優れたものがあったとするなら、それはつねに世間より一歩だけ先んじて、仕事をすることを心がけていた点である。この一歩だけ先んずることは、いちばん大切なことで、何歩も先に進みすぎると、世間からかけ離れてしまう。そうなると預言者である。商人は預言者ではない。
 ・正直は最善の商道である。外国商館が私の小さな店を信用し、何ぞざん新なものとか、何ぞ珍しい時計でも入荷すると、他の店よりまず私の店に売ってくれた。私の店に来れば、時計は豊富で、おのずから客足が多くなり、ここに店運発展の機運を形成するに至った。
三原脩プロ野球監督)
 ・野球は筋書きのないドラマである。
 ・弱小チームを強くするのは男子の本懐である。ただし、チームを強くするのは監督ではなく、球団の姿勢だ。