平賀源内の生涯(再掲)

<今日の江戸学トピック>
◆波乱万丈の人生の平賀源内(1728-1779.12.18)の生涯
 江戸中期の博物学者・作家・画家・陶芸家・発明家。あらゆる分野に才能を発揮した日本のダ・ビンチ!本名、国倫(くにとも)。高松藩足軽白石良房の三男。24歳の時に藩の命令で長崎に留学、蘭学を修める。続いて江戸において植物を主にした漢方医学の“本草学”を学ぶ。1757年(29歳)、全国の特産品を集めた日本初の博覧会を開き、それを元に図鑑「物類品隲(ぶつるいひんしつ)」を刊行、注目を浴びる。
 本草学者として名を成した彼は、高松藩の薬坊主格となったが、藩の許可がなくては国内を自由に行き来できない事に不便を感じ脱藩(33歳)。この際、高松藩は源内を「仕官御構(おかまい)」に処した。これは他藩へ仕官することを禁止するものであり、源内は自ら“天竺浪人”と名乗り、秋田秩父での鉱山開発、木炭の運送事業、羊を飼っての毛織物生産、輸出用の陶器製作、珍石・奇石のブローカーなど、様々な事業に手を出した。また静電気発生装置“エレキテル”、“燃えない布”火浣布(かかんぷ、石綿)、万歩計、寒暖計、磁針器、その他100種にも及ぶ発明品を生んだ。正月に初詣で買う縁起物の破魔矢を考案したのも源内である。
 一方、画才、文才も惜しみなく発揮。油絵を習得して日本初の洋風画「西洋婦人図」を描き、司馬江漢、小田野直武(「解体新書」の挿絵画家)らに西洋画法を教えた。浮世絵では多色刷りの技法を編み出し、この版画革命を受けて色とりどりのカラフルな浮世絵が誕生したようだ。作家としてのペンネームは浄瑠璃号「福内鬼外」、戯作号「風来山人」となかなかシャレている。35才の時に書いた『根南志具佐(ねなしぐさ)』『風流志道軒伝』は江戸のベストセラーとなり、明治期まで重版が繰り返される。 『放屁(ほうひ)論』ではまず「音に三等あり。ブツと鳴るもの上品にしてその形円(まろ)く、ブウと鳴るもの中品にしてその形いびつなり、スーとすかすもの下品にて細長い」と屁の形態を論じた後、当時江戸に実在した屁の曲芸師(三味線の伴奏や鶏の鳴き声を奏でた)を引き合いに「古今東西、このようなことを思いつき、工夫した人は誰もいない」と称賛。さらに半ば自嘲気味に「わしは大勢の人間の知らざることを工夫し、エレキテルを初め、今まで日本にない多くの産物を発明した。これを見て人は私を山師と言った。つらつら思うに、骨を折って苦労して非難され、酒を買って好意を尽くして損をする。…いっそエレキテルをへレキテルと名を変え、自らも放屁男の弟子になろう」と語っている。
 ※ちなみに「土用の丑の日はうなぎを食べると元気になる」は、蒲焼屋の知人に頼まれて源内が考えたコピーで、それまで夏にウナギを食べる習慣はなかった。
 多方面にわたる才能を持ちつつも、キワモノ扱いされて当時の社会に受け入れられず、やがて彼自身も世間に対して冷笑的な態度を取り始める。著作では封建社会をこきおろす作品を発表し、幕府行政の様々な矛盾を痛烈に暴露した。 晩年(1778年)、50歳になった源内は自分を認めてくれぬ世に憤慨し、エレキテルの作り方を使用人の職人に横取りされたこともあって人間不信、被害妄想が拡大し悲劇が起きる。自宅を訪れた大工の棟梁2人と酒を飲み明かした時のこと。源内が夜中に目覚めて便所へ行こうとすると、懐に入れておいた筈の大切な建築設計図がない。とっさに“盗まれた!”と思った彼は大工たちに詰め寄り、押し問答の末に激高し、ついに2人を斬り殺してしまう。だがその図面は、源内の懐ではなく、帯の間から出てきたのであったが、発狂した源内は、厳寒の小伝馬町の牢内で獄死した(享年51歳)。 源内の墓標を建てたのは、彼と同様に好奇心が強かった無二の親友、杉田玄白。玄白は「ああ非常の人。非常のことを好む。行ないこれ非常なり、なんぞ非常に死するや」と源内の墓標に刻んだ。
  <参考 平賀源内 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E8%B3%80%E6%BA%90%E5%86%85

・平賀源内のことを下記のとおり称している。
1. (藩をはなれた源内に) 屋敷への立ち入りは今までどおり ただし他家への仕官はまかりならぬ・・・高松藩5代藩主
 松平氏第5代藩主・頼恭は平賀源内を起用し、城下の栗林荘(現在の栗林公園)に薬草園を作らせた。頼恭は水戸家(光圀の子供の家系)出身である。

2. 私のような者が担当してよかったのか。 (解体新書の挿絵を描く)・・・小田野直武
 小田野 直武(おだの なおたけ、寛延2年12月11日(1750年1月18日) - 安永9年5月17日(1780年6月19日))は、江戸時代中期の画家。秋田藩士。通称を武助。平賀源内から洋画を学び、秋田蘭画と呼ばれる一派を形成した。

3. わが文才を認めてくれた先生が、亡くなって2年後の冬 夜通し眠れず 追悼の漢詩をつくったこともあった・・・大田南畝
 大田 南畝(おおた なんぽ、寛延2年3月3日(1749年4月19日) - 文政6年4月6日(1823年5月16日))は、天明期を代表する文人狂歌師であり、御家人。勘定所勤務として支配勘定にまで上り詰めた幕府官僚であった一方で、文筆方面でも高い名声を持った。膨大な量の随筆を残す傍ら[1]、狂歌、洒落本、漢詩文、狂詩、などをよくした。特に狂歌で知られ、唐衣橘洲(からころもきっしゅう)・朱楽菅江(あけらかんこう)と共に狂歌三大家と言われる。南畝を中心にした狂歌師グループは、山手連(四方側)と称された。

4. 西洋の腐食銅版画を知ったのは源内からである。・・・司馬江漢
 司馬 江漢(しば こうかん、延享4年(1747年) - 文政元年10月21日(1818年11月19日))は、江戸時代の絵師、蘭学者。浮世絵師の鈴木春重(すずき はるしげ)は同一人物。

5. わが師は 立身出世から離脱して自由人の身となり。浮世に酔った人々の目をさますような快作を送りだしたものよ。(2代目風来山人)・・森島中良
島 中良(もりしま ちゅうりょう、宝暦6年(1756年) - 文化7年12月4日(1810年12月29日))は江戸時代の医者・戯作者・蘭学者。奥外科医桂川家三代目桂川甫三の次男で、桂川甫周の弟にあたるが、寛政頃まで家祖桂川甫筑の元姓森島(森嶋)を名乗った。平賀源内の門人で、源内を忠実に継承した文体は平賀風(ひらがぶり)と称された。蘭学者としての側面が強調されがちであるが、蘭学者としての活動は寛政期のみで、その著作の多くを戯作が占める。

6. 薬品会にも出品したし「物類品隲」も校閲し、火浣布もいっしょに工夫した。・・・中川淳庵
中川 淳庵(なかがわ じゅんあん/じゅんなん、元文4年(1739年) - 天明6年6月7日(1786年7月2日)は江戸時代中期の医者・本草学者・蘭学者若狭国小浜藩蘭方医であり、杉田玄白の後輩にあたる。前野良沢杉田玄白とともに『解体新書』を翻訳した。向学心と積極性に富み、多くの学者と交わり、蘭学の発展に貢献する。