シーボルト事件

<江戸学トピック>
シーボルト事件(シーボルトじけん)は、江戸時代後期の1828年に起きた事件。1825年には異国船打払令が出されており、およそ外交は緊張状態にあった。文政11年(1828年)9月、オランダ商館付の医師であるシーボルトが帰国する直前、所持品の中に国外に持ち出すことが禁じられていた日本地図などが見つかり、それを贈った幕府天文方・書物奉行高橋景保ほか十数名が処分され、景保は獄死した(その後死罪判決を受け、景保の子供らも遠島となった)。シーボルトは文政12年(1829年)に国外追放の上、再渡航禁止の処分を受けた。当時、この事件は間宮林蔵の密告によるものと信じられた。
樺太東岸の資料を求めていた景保にシーボルトクルーゼンシュテルンの『世界周航記』などを贈り、その代わりに、景保が伊能忠敬の『大日本沿海輿地全図』の縮図をシーボルトに贈った。この縮図をシーボルトが国外に持ち出そうとした。シーボルトは、江戸で幕府天文方高橋景保のもとに保管されていた伊能図を見せられた。地図は禁制品扱いであったが、高橋は学者らしい単純さでシーボルトのために写しを同意した。後のシーボルト事件はこの禁制の地図の写しを持ち出したことにあった。シーボルトらが1826年7月に江戸参府から出島に帰還し、この旅行で1000点以上の日本名・漢字名植物標本を蒐集できたが、日本の北方の植物にも興味をもち、間宮林蔵蝦夷地で採取した押し葉標本を手に入れたく、間宮宛に丁重な手紙と布地を送ったが、間宮は外国人との私的な贈答は国禁に触れると考え、開封せずに上司に提出した。
 高橋景保間宮林蔵のあいだには確執があったといわれる。間宮がシーボルトから受け取った手紙の内容が発端となり、多くの日本人と高橋景保は捕らえられ取調べを受けることになり、日本地図の返還を拒否したため、シーボルト自身も処分の決定を待つことになってしまった。
 江戸で高橋景保が逮捕され、これを受けてシーボルトへ高橋より送った「日本地図其の他、シーボルト所持致し居り候」ため、シーボルトの所持する日本地図を押収する内命が長崎奉行所にもたらされ、出島のシーボルトは訊問と家宅捜索をうけた。軟禁状態のシーボルトは研究と植物の乾燥や動物の剥製つくりをしてすごしたが、今までの収集品が無事オランダやバタヴィアに搬出できるかどうか心配であり、コレクションの中には個人的に蒐集していた標本や絵画も所有しており、これが彼一人の自由には出来なくなっていた。
 シーボルトは訊問で科学的な目的のためだけに情報を求めたと主張し、捕まった多くの日本人の友人を助けようと彼らに罪を負わせることを拒絶した。自ら日本の民になり、残りの人生を日本に留まることで人質となることさえ申し出た。高橋は1829年3月獄死し、自分の身も危ぶまれたが、シーボルトの陳述は多くの友人と彼を手伝った人々を救ったといわれている。なお、シーボルト安政5年(1858年)の日蘭修好通商条約の締結により追放が解除となり、翌安政6年(1859年)に長男アレクサンダーを伴って再来日し、幕府の外交顧問となっている。
 長崎市鳴滝にあるシーボルト記念館の研究報告書である『鳴滝紀要』第六号(1996年)発表の梶輝行の論文「蘭船コルネリウス・ハウトマン号とシーボルト事件」で、これまで通説だった暴風雨で座礁した船中から地図等のご禁制の品々が発見されたという説が後日の創作であることが判明した。コルネリウス・デ・ハウトマン号は1828年10月に出航を予定していたが、同年9月17日夜半から18日未明に西日本を襲った猛烈な台風(いわゆるシーボルト台風)で座礁し、同年12月まで離礁できなかったのである。従来の説は壊滅的な被害を受けて座礁した船の中から、禁制品の地図類や三つ葉葵の紋付帷子などが見つかっていたことになっていたが、座礁した船の臨検もなくそのままにされ、船に積み込まれていたのは船体の安定を保つためのバラスト用の銅500ピコルだけだった。しかし、日本の地図を持ち出すことは禁制だと彼自身知っていたはずであり、日本近海の海底の深度測定など、スパイの疑惑が晴れたわけではない。シーボルト高野長英から、医師以外の肩書は何か、と問われて、「コンテンス・ポンテー・ヲルテ」とラテン語で答えたと渡辺崋山が書いているが、これは「コレスポンデントヴェルデ」であり、内情探索官と訳すべきものである。

12月4日、幕府天文方高橋景保が世界地図の作成に。

◆とうとう通算1790日・1790日継続中になった。あと10日すぐに通算1800日・1800日継続中を迎える。そろそろ連続記録は年内で終わりにすることになろう。残念であるが、、、。已む得まい。仕事は別として、私の目標はまず第一に江戸検1級合格である。仕事外の時間は、江戸検の勉強に割きたい。

◆9時過ぎに老健施設で母親と面会。11時過ぎに自治会の餅つき大会に参加。環境が変わったことに伴い、老化が進んだ感が否めない。これからリハビリがうまくいくのか心配。車椅子生活になる可能性が大かも。今後も介護に不安を覚える。

<今日の江戸学チェック>
◆文化4年(1807)12月4日、幕府天文方高橋景保が洋書をもとに世界地図の作成を命じられました。幕府が異国船の来航が増えるにつれ世界地図の必要性を感じたため。長崎の通訳馬場佐十郎のサポートを得て翻訳をすすめ、文化7年には「万国全図」を完成させました。景保は地理学の発展にも貢献。伊能忠敬による初の実測地図も、忠敬の死後、景保の手で出版されています。しかしのち、景保はシーボルトに日本地図を渡した罪で刑死するのです。
高橋景保(たかはし かげやす、天明5年(1785年) - 文政12年2月16日(1829年3月20日))は、江戸時代後期の天文学者。通称、作左衛門。天文学者である高橋至時の長男として大坂に生まれた。渋川景佑の兄。文化元年(1804年)に父の跡を継いで江戸幕府天文方となり、天体観測・測量、天文関連書籍の翻訳などに従事する。文化7年(1810年)、「新訂万国全図」を制作した(銅版画制作は亜欧堂田善)。一方で伊能忠敬の全国測量事業を監督し、全面的に援助する。忠敬の没後、彼の実測をもとに『大日本沿海輿地全図』を完成させる。
 文化8年(1811年)、蛮書和解御用の主管となり、「厚生新編」を訳出する業務を始めている。文化11年(1814年)には書物奉行兼天文方筆頭に就任したが、文政11年(1828年)のシーボルト事件に関与して10月10日に伝馬町牢屋敷に投獄され、翌文政12年(1829年)2月16日に獄死している。享年45。獄死後、遺体は塩漬けにされて保存され、翌年3月26日に、改めて引き出されて罪状申し渡しの上斬首刑に処せられている。このため、公式記録では死因は斬罪という形になっている。墓は上野の源空寺。高橋至時伊能忠敬高橋景保大日本沿海輿地全図組三人頭の墓地が並んでいる。
●蛮書和解御用(蕃書和解御用、ばんしょわげごよう)は、1811年(文化8年)に江戸幕府によって設置された蘭書を中心とした翻訳機関。幕府の編暦・測量を司る天文方内に置かれた。蛮(蕃)書和解御用掛( - かかり)とも。天文方高橋景保の提唱により設置され、大槻玄沢宇田川榕菴、青地林宗など優秀な蘭学者が翻訳官に任命された。シーボルト事件後は、同じ天文方の山路諧孝・彰常父子が引き継いだ。その後も、洋学所、蕃書調所、洋書調所と名を変えて存続し、現在の東京大学の起源の一つとなった。

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<今日の小池劇場>
東京五輪パラリンピック再生可能エネルギー積極活用”
 東京都・港区で行われたシンポジウムにて、小池知事は、東京五輪パラリンピックで”再生可能エネルギー積極活用”する構えを伝えた。具体的には、燃料電池車などの再生可能エネルギーを積極的に使用していくことだそう。