「新選組、最後の戦い」

文京学院生涯学習センターでは、江戸検1級合格者の「お江戸ルほーりー」堀口茉純さんが講師を務める全3回の講座「新選組、最後の戦い」の受講生を募集。鳥羽伏見から箱館まで戊辰戦争を戦い抜いた旧幕府軍の最精鋭部隊・新選組の足跡を辿ります。第12回江戸検の「今年のお題」学習にも役立つはず。

新選組(しんせんぐみ)は、江戸時代末期(幕末)に、京都において反幕府勢力を取り締まる警察活動に従事したのち、旧幕府軍の一員として戊辰戦争を戦った武装組織である。
 幕末の京都は政治の中心地であり、諸藩から尊王攘夷・倒幕運動の過激派志士が集まり、治安が悪化した。従来から京都の治安維持にあたっていた京都所司代京都町奉行だけでは防ぎきれないと判断した幕府は、清河八郎による献策で浪士組の結成を企図。江戸で求人した後、京に移動した。しかし清河の演説でその本意を知った、近藤勇芹沢鴨らが反発、京都守護職会津藩主、松平容保の庇護のもと、新撰組として発足した。同様の配下の京都見廻組幕臣(旗本、御家人)で構成された正規組織であったのに対して、新選組は浪士(町人、農民身分を含む)で構成された会津藩預かり」という非正規組織であった。隊員数は、前身である壬生浪士組24名から発足し、新選組の最盛時には200名を超えた。任務は、京都で活動する不逞浪士や倒幕志士の捜索・捕縛、担当地域の巡察・警備、反乱の鎮圧などであった。その一方で、商家から強引に資金を提供させたり、隊の規則違反者を次々に粛清するなど内部抗争を繰り返した。慶応3年(1867年)6月に幕臣に取り立てられる。翌年に戊辰戦争が始まると、旧幕府軍に従い転戦したが、同戦争終戦と共に解散した。
 文久2年(1862年)、江戸幕府庄内藩郷士清河八郎の建策を受け入れ、将軍・徳川家茂の上洛に際して、将軍警護の名目で浪士を募集。翌文久3年(1863年)2月27日、集まった200名余りの浪士たちは将軍上洛に先がけ「浪士組」として一団を成し、中山道を西上する。浪士取締役には、松平上総介、鵜殿鳩翁、窪田鎮勝、山岡鉄太郎、松岡萬、中條金之助、佐々木只三郎らが任じられた。京都に到着後、清河が勤王勢力と通じ、浪士組を天皇配下の兵力にしようとする画策が発覚する。浪士取締役の協議の結果、清河の計画を阻止するために浪士組は江戸に戻ることとなった。これに対し近藤勇土方歳三を中心とする試衛館派と、芹沢鴨を中心とする水戸派は、あくまでも将軍警護のための京都残留を主張。鵜殿鳩翁は、浪士組の殿内義雄と家里次郎に残留者を募るよう指示。これに応えて試衛館派、水戸派、殿内以下、根岸友山一派などが京都の壬生村に残ったが、根岸派は直後に脱退。殿内・家里は排斥され、同年3月、公武合体に基づく攘夷断行の実現に助力することを目的とし、新選組の前身である「壬生浪士組」(精忠浪士組)を結成。一方、江戸に戻ったメンバーは新徴組を結成した。壬生浪士組は壬生村の八木邸や前川邸などを屯所とし、第一次の隊士募集を行う。その結果36名余の集団となり、京都守護職松平容保から、主に不逞浪士の取り締まりと市中警備を任される。4月、大坂の両替商平野屋五兵衛に100両を提供させ、これを元手に隊服、隊旗を揃え、隊規の制定にとりかかる。6月、大坂相撲の力士と乱闘になり殺傷する。壬生浪士組にも負傷者が出た。奉行所は力士側に非があると判断。力士側は壬生浪士組に50両を贈り詫びを入れる。8月、芹沢鴨ら約30名の隊士が、京都の生糸問屋大和屋庄兵衛に金策を謝絶されたことに腹を立て放火。刀を抜いて火消を寄せ付けず、一晩かけて焼き尽くす。同月、壬生浪士組八月十八日の政変の警備に出動し、その働きを評価される。そして、新たな隊名「新選組」を拝命する。隊名は武家伝奏から賜ったという説と、松平容保から賜ったという2つの説がある。後者の説は、会津藩主本陣の警備部隊名を容保からもらったという意味である。9月、近藤・土方ら試衛館派が八木邸で芹沢鴨、平山五郎を暗殺。平間重助は脱走、野口健司は12月に切腹。水戸派は一掃され、試衛館派が組を掌握し近藤を頂点とする組織を整備した。
 元治元年(1864年)6月5日、池田屋事件尊王攘夷派志士を斬殺・捕縛。8月、禁門の変の鎮圧に参加。池田屋事件禁門の変の働きで朝廷・幕府・会津藩から感状と200両余りの恩賞を下賜されると、同年9月に第二次の隊士募集を行い、更に近藤が江戸へ帰郷した際に伊東甲子太郎らの一派を入隊させる。新選組は200名を超す集団へと成長し、隊士を収容するために壬生屯所から西本願寺へ本拠を移転する。長州征伐への参加に備え、戦場での指揮命令が明確になる小隊制(一番組〜八番組及び小荷駄雑具)に改組。「軍中法度」も制定した。しかし新選組に出動の命令はなかった。慶応3年(1867年)3月、伊東らの一派が思想の違いなどから御陵衛士を結成して脱退。同年6月、新選組幕臣に取り立てられる。同年11月、御陵衛士を襲撃し、伊東らを暗殺する(油小路事件)。
 慶応3年(1867年)10月に将軍・徳川慶喜大政奉還を行った。新選組旧幕府軍に従い戊辰戦争に参加するが、初戦の鳥羽・伏見の戦いで新政府軍に敗北。榎本武揚が率いる幕府所有の軍艦で江戸へ撤退する。この時期、戦局の不利を悟った隊士たちが相次いで脱走し、戦力が低下した。その後、幕府から新政府軍の甲府進軍を阻止する任務を与えられ、甲陽鎮撫隊と名を改め甲州街道甲府城へ進軍するが、その途中甲州勝沼の戦いにおいて新政府軍に敗退する。再び江戸に戻ったが、方針の違いから永倉新八原田左之助らが離隊して靖兵隊を結成。近藤、土方らは再起をかけ、流山へ移動するが、近藤が新政府軍に捕われ処刑され、沖田総司も持病だった肺結核により江戸にて死亡。また諸事情で江戸に戻った原田は彰義隊に加入し上野戦争で戦死した(諸説あり)。新選組宇都宮城の戦い会津戦争などに参加するが、会津では斎藤一らが離隊。残る隊士たちは蝦夷地へ向かった榎本らに合流し、二股口の戦い等で活躍する(蝦夷共和国も参照)。新政府軍が箱館に進軍しており、弁天台場で新政府軍と戦っていた隊士たちを助けようと土方ら数名が助けに向かうが、土方が銃弾に当たり戦死し、食料や水も尽きてきたため、新選組は降伏した。旧幕府軍箱館五稜郭において新政府軍に降伏した(箱館戦争)。

新吉原誕生。

◆明暦2年(1656)12月24日、幕府は江戸葺屋町一帯にあった吉原遊郭に、浅草の移転を命じました。浅草は当時浅草田圃と言われるような寂しい場所。そのため幕府は、遊郭の敷地を1.5倍にする、夜の営業も認める、移転料を1万5000両出す、江戸にある200数十軒の風呂屋をつぶす(湯女がいたため)という条件を出しました。この移転準備中に起こったのが明暦の大火で、葺屋町にあった吉原は全焼します。

◆吉原の歴史
 1.吉原の誕生
 慶長10年(1605年)、江戸柳町で遊女屋を営んでいる庄司甚右衛門をはじめとする遊女屋稼業の者たちから遊郭設置願いが幕府に出された。江戸に散在する遊女屋を一ヶ所にまとめ営業したいというのである。しかし、この時の甚右衛門たちの願いは、時期尚早という理由で却下された。諦めない甚右衛門たちは、慶長17年(1612年)同様の願いを提出し、今度は幕府も願いを取り上げた。実際に営業が許可されたのは5年後の元和3年のことであった。
 このときの遊郭設置条件は、
  一.設置場所以外では遊女屋はいっさい認めない。
  一.客は一昼夜以上店にいてはならない。
  一.遊女は贅沢な着衣は用いないこと。
  一.遊郭は質素なたたずまいとし、町役は他の江戸の町と同様にすること。
  一.身元不審の者は奉行所へ通報すること。
の五箇条だった。幕府は設置場所として、日本橋葺屋町の北はずれにある二町四方の湿地帯を与えた。この湿地帯にはどこもかしこも葭が生えており、このままでは建物は建てられないほど地盤は軟弱であった。甚右衛門たちは早速地盤整地のための埋め立てを開始する。この工事は一年ほどかかり、どうにか元和4年(1618年)11月、置屋17軒、揚屋24軒で営業が始まった。この頃には「遊郭」という言葉はなく、単に「遊女町」「傾城町」と呼ばれていた。遊女を傾城と呼ぶのは、君主が色香に迷って城が傾いたという中国の故事から来ている(「漢書外戚伝」の逸話より)。埋め立て後、そこら辺一帯が葭の原だったことから、新たに「葭原(よしわら)」と名付けられた(アシは悪しに通するのでヨシとも発音した)。そして、さらに商売繁盛の縁起をかつぎ「吉原」となった。ここにいずれ日本最大の歓楽街へと変貌する吉原が誕生したのである。
 2.新吉原の誕生
 吉原の誕生した元和4年は豊臣氏滅亡の4年後で、新しい日本の中心都市・江戸へと人々は集中し始めていた。また、寛永16年(1635年)に発令された「武家諸法度」による参勤交代制度などにより、江戸の人口は膨張を加速していった。これらの人口を構成していたのはほとんどが男であり、必然的に吉原の商売は潤いをみせたのである。誕生当初の吉原は町人地から離れた辺鄙な場所だったのだが、江戸の人口が増加するにつれて周囲には町人が住みだし、次第に商業地、町人地の中心になってしまったのである。このため、幕府は吉原をさらに江戸の郊外へと移転させる計画を立てた。吉原のような悪所が江戸の顔のように繁栄しているのを快く思わなかったのである。それには、この頃の客の中心が武士だったこともある。明暦2年(1656年)10月、幕府から吉原に移転命令が下った。移転先は、浅草・浅草寺北の郊外にある日本堤という場所で、通称浅草田圃といわれたところである。
 郊外の人気のないところへの移転命令に対し、当然の如く吉原の遊女屋連中は反対した。これに対し、幕府側も心得たもので、この移転に対して破格の条件を出した。その条件とは、
  一.土地面積は今までの1.5倍与える(約2万坪)。
  一.移転料を1万5千両支給する。
  一.今まで昼間だけだった営業を夜も認める。
  一.江戸中の風呂屋にいる湯女と称する遊女の営業を一切禁止する。
  一.郊外へ移転するので町役である火消し作業を免除する。
という、かなり優遇されたものだった。
 明暦3年8月浅草田圃への吉原の移転が完了した。最初にできた吉原を「元吉原」、移転先の吉原を「新吉原」として区別するが、一般に「吉原」といった場合、新吉原をさしている。新吉原は以後300年、昭和33年(1958年)4月に施行された「売春禁止法」まで続き、地名は変わったものの現在も独自の風俗地区として存在している。ちなみに、「東京都台東区千束」というのが現在の地名である。
 新吉原完成から数ヶ月後、幕府は江戸中の風呂屋へ通達を出した。一切の遊女(湯女)をおいてはいけないというものである。職を失った湯女たち約600人全員が吉原送りとなった。幕府は移転に際する約束を守ったのである。こうして、規模が1.5倍になった吉原は遊女の数も元吉原時代の2倍になり、2,000人近くを数えた。吉原の案内書である「吉原細見」によれば、享保13年(1728年)の遊女の数は2,552人とあり、弘化3年(1846年)には7,197人とある。遊女の数は増え続けていったのである。さらには、吉原の移転に伴い客層にも変化がでた。元吉原時代は昼間のみの営業だったため、暇な武士階級が客の中心だったが、夜の営業が許可されたことにより、客層の主体が町人になっていったのである。
 「世の中は暮れて郭は昼になり」と川柳にあるとおり、吉原は江戸期を通して不夜城となったのである。

今日は12月24日。これからのテーマはまずは江戸。

◆これからのテーマは江戸。
 江戸検定一級不合格。まずは、リベンジである。来年こそ合格を目指していきたい。そのためには、今年の合格率4.2%の中に入れるよう、勉強していきたい。3月からセミナーが始まるが、当面過去問の整理と知識量を増やすために、江戸関係の本の読み込み作業に2月までは取り組んでいこう。まずは、結果をだせる勉強に取り組んでいこう。

◆本日からJR東京駅前で始まった「東京ミチテラス2016」が始まる。LED内蔵の直径2mのバルーンイルミネーションとライン状LEDを使ったダイナミックで躍動感のある空間演出が行われています。12月28日の予定。

<戦後12月24日の歴史>
◆1948年GHQが、岸信介児玉誉士夫A級戦犯容疑者19人を釈放。1951年リビアがイタリアから独立。イドリース1世が国王に即位。1951年吉田書簡。外務大臣吉田茂がダレス米国務長官に書簡を送り、国民政府を中国正統政府として選ぶことを表明。1953年奄美群島返還に関する日米協定に調印。翌日発効。1968年「アポロ8号」が世界初の月周回飛行を開始。史上初めて月面から地球が現れる「地球の出」を撮影。1971年新宿伊勢丹前の交番近くでクリスマスツリーにみせかけた鉄パイプ時限爆弾が爆発。9人が重軽傷。新左翼による初の無差別テロ。1976年福田赳夫が67代内閣総理大臣に就任し、福田赳夫内閣が発足。1979年ソビエト連邦軍アフガニスタンに侵攻。1987年北朝鮮に拿捕された第2富士山丸の紅粉船長ら2人に教化労働15年の判決。1988年消費税導入などを盛りこんだ税制改革6法案が参議院を通過、成立。社会・共産両党が牛歩戦術などにより抵抗。1994年ノルウェーの探検家リブ・アーネセンが女性として初めて単独で南極点に到達。2002年宇宙開発事業団が地球環境観測衛星「みどりII」を打上げ。 2006年大阪市営地下鉄今里筋線(今里〜井高野)が開業。