函館戦争。領国周辺の江戸史跡を歩く

明治2年箱館五稜郭を本拠に抵抗を続ける榎本武揚旧幕府軍に対し、新政府軍は熊本藩一大隊の増派を決定。大隊はアメリカ汽船ハーマン号に乗船して江戸湾を出撃するが、同船は荒天により房総半島勝浦沖で沈没、260余名が死亡。
箱館戦争(はこだてせんそう、慶応4年/明治元年 - 明治2年(1868年 - 1869年))は、戊辰戦争の局面のひとつで、新政府軍と旧幕府軍との最後の戦闘である。旧幕府軍蝦夷地での根拠地から五稜郭の戦いとも呼ばれる。この戦いの最中に干支が戊辰から己巳に替わったことから、己巳の役(きしのえき)と呼ばれることもある。

◆両国周辺の江戸史跡を歩く
勝海舟生誕の地
 両国駅から徒歩5分くらいの場所にある両国公園内に生誕の地の碑が建っています。この場所は勝海舟の父・小吉の実家である男谷(おだに)家があった場所で、海舟はここで生まれました。子供の頃海舟は、従兄にあたる男谷精一郎(おだにせいいちろう)の直心影流の道場で剣術を学んでいました。師匠・男谷精一郎は剣の腕はもちろんのこと、人格者であったようで、試合では3本中1本は必ず相手に取らせるというエピソードが残っていて、剣聖と言われるほどの人物でした。その腕と人柄を買われ、のちに講武所の剣術師範役も務めています。海舟は7歳の時に11代将軍家斉の目に止まり、孫の初之丞(はつのじょう)の学友として大奥に住み込みで出仕することになるのですが、それまでの7年間をこの地で過ごしました。未来の将軍候補とお近づきになって将来は安泰かと思いきや、この初之丞(当時は一橋家を継いで一橋慶昌)が早世してしまい、海舟の出世の道は閉ざされてしまった。
●吉良邸跡
 勝海舟生誕の地から5分くらいのところに、おそらく両国で一番有名であろう史跡「吉良邸跡」がある。忠臣蔵で有名な吉良上野介(きらこうずけのすけ)のお屋敷跡です。元々吉良邸は江戸城の近くにあったそうなのですが、松の廊下での刃傷事件後、赤穂浪士が討ち入りをするという噂が流れ、周囲の大名たちが迷惑がったため幕府が江戸城から離れたこの地に移転させたと言われている。今は本所松坂町公園として住宅街の一角のほんの小さな敷地だけしか残っていませんが、当時は広大なお屋敷で2550坪。今の86倍もの大きさがあったそうだ。しかし、ここに上野介が住んでいたのは移り住んでから仇討ちされるまでの1年2ヶ月ほどの短い期間でした。赤穂浪士の討ち入り後、このお屋敷は幕府に没収されてなくなってしまった。現在の吉良邸跡は、昭和になってから地元の有志によって旧吉良邸の中庭にあった井戸の辺りの土地を買い戻し、東京市に寄贈して記念公園にされたそうなので、勝さんが近所に住んでいた頃には吉良邸は存在していなかったようです。
●鼠小僧も眠る 回向院
 吉良邸跡から京葉道路に出て左に少し行ったところに回向院があります。回向院は、明暦の大火(振袖火事)で亡くなった身元不明や身寄りのない人たちを弔うため、将軍家綱の指示で設けられた「万人塚」が元となっています。そのような経緯で建てられたため、回向院の理念は「有縁・無縁に関わらず、人・動物に関わらず、生あるもの全てのものへの仏の慈悲を説くもの」だそうです。回向院を出て左に行くと両国橋があります。昔隅田川には橋が架かっておらず、明暦の大火ではこちら岸に逃げられずにたくさんの方が亡くなったそうで、その後教訓を生かして造られたそうです。
 勝海舟は『氷川清話』の中で両国橋にまつわるこんな話をしている。 「おれが子供の時には貧乏で、正月の餅を用意する銭がなかった。ところが親戚から、餅をやるから取りにこい、と言ってよこしたのでそれをもらいにいって、風呂敷に包んで背中に背負って帰る途中、ちょうど両国橋の上でどうしたはずみか風呂敷が破れ、せっかくの餅がみんな地面に落ちてしまった。ところがその時はもう真っ暗だったので拾うに拾えず、ニ、三個は拾ったが、あまりに忌々しかったから橋の上から川に投げ込んでしまった。」とのこと。
●幕末三舟の一人、山岡鉄舟 生誕の地(竪川中学校正門前に「山岡鉄舟旧居跡」の案内板あり)
 両国橋を本所側へ引き返して、勝さんと同じく本所で生まれ育った幕末三舟の一人、山岡鉄舟の生誕の地を目指す。北斎通りを錦糸町方面に歩くこと約20分。現在の竪川中学校がある場所に山岡鉄舟の生家、小野家がありました。旗本小野家の五男として生まれた鉄太郎(のちの山岡鉄舟)は、10歳の時、父が飛騨郡代として飛騨高山に赴任するまでの約10年間をこの地で過ごしました。
 幕末三舟のもう一人でもある勝海舟の旧居跡は、山岡旧居跡から南に5分ほどの超至近距離。勝は、男谷家で7歳まで過ごし、9歳までの2年間大奥に出仕して、その後はこの地にあった旗本岡野孫一郎の敷地内に住んでいた。


<今日の京都新聞
大文字山斜面に塑像仏片50点 幻の「檜尾古寺」跡か
 奈良時代に粘土などで盛んに造られた「塑像仏」の破片約50個が、京都市左京区の山林で見つかったと、元市考古資料館長で京都女子大非常勤講師の梶川敏夫さんらが5日、発表した。平安時代前期以前にあった幻の「檜尾古寺(ひのおふるでら)」建物跡を同大学の学生と調査し、確認した。市内における塑像仏関連の発見は4例目となる。調査したのは、大文字山(如意ケ嶽)の南に位置する尾根斜面。2017年5月から18年10月にかけ、梶川さんと同大学考古学研究会が、遺跡の測量や建物礎石の確認、地表遺物の採集を行った。これまでに檜尾古寺に関する建物2棟の遺構を確認していた。塑像仏の破片は、2棟のうち北側建物跡でまとまって見つかった。最大のものが幅約5センチで、渦巻きのような形だったり、仏像の衣文を思わせる線刻があったりする。京都造形芸術大の岡田文男教授(保存科学)が分析したところ、漆の表面に金箔を貼った「漆箔(しっぱく)」が施され、火災を受けて金箔が溶けて丸い粒子になって残っていることが分かったという。塑像仏は、奈良に都があった白鳳期から天平期に多く造られた。ただ、平安時代になるとあまり造られなくなったとされ、市内の出土例は、北野廃寺出土の仏頭などに限られている。
◆新年迎え「日本一早い」茶摘み 柔らか新茶味わう
 「日本一早い」とされる茶の初摘みが5日朝、京都府木津川市相楽台の福寿園CHA遊学パークであった。研究員らが、温室で芽吹いた柔らかな新茶を摘み、新年の茶業発展を祈った。同パークでは、1年を通して茶葉が収穫できる栽培方法を研究している。約100平方メートルの温室では、昨年11月下旬から夜間に蛍光灯を点灯させ、茶が深く休眠しないように工夫。暖房で室温を20〜25度に保つことで生育を促し、同12月初旬には新芽が芽生えた。前年に続き、12月下旬から覆いをして日光を遮り、渋みが少なくうまみの濃いかぶせ茶を育てた。府南部の露地栽培より4カ月ほど早く茶摘みを迎え、福寿園の福井正興社長らが、宋から茶の種を持ち帰った栄西禅師ら先人の像に茶葉を供えた。続いて研究員たちが緑鮮やかな新芽約5キロを一つ一つ手で摘んだ。茶葉はこの日、同社の宇治茶工房(宇治市)で手もみ製茶し、招待客に振る舞われた。