川本卓史京都活動日記 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2017-06-18

いまウェーバー『職業としての政治』オルテガ『大衆の反逆』を読み返す

| 08:14 |

1. 東京梅雨にしては雨が少ないですね。田舎の畑では作物だけではなく草もまたまた伸びてきていることでしょう。

f:id:ksen:20170608102430j:image:w360:right

今年もそろそろ半分が終わりそうですが、何だか楽しい話題が少ない気がします。

私の場合 社会出来事新聞から知るのが主ですが、新聞によって取り上げ方が違うでしょう。東京新聞を眺めていると、どうも暗い気持になります。産経新聞であれば(読んだことはありませんが)「やった、やった。次はいよいよ改憲だ」と明るい気持になるのかもしれません。

世論が分裂しているのは、日本欧米と同じでしょう。


ただ欧米と違うのは、選挙に意外性がないことですね。

英国総選挙は、「労働党躍進、若者が支え」とあり、18〜34歳の63%が労働党投票した由。フランスの結果も新鮮な印象でした。


もっとも、老い先短い老人が、いたずらに嘆いたり、逆に勇ましい意見を吐いて「俺は憂国の士だ」なんて言ったりするのも(最近、ある同世代の友人から「国を憂いている」という三島由紀夫みたいな発言がありました)、どうかなと思います。


青年未来」。この国を憂えて、どうにかしようと考えるのは若者に任せた方がよいのではないか。

暴論と言われるでしょうがそもそも75歳(80歳でもいいが)を超えたら、以後選挙権はないとしたらどうでしょう?すでに社会への貢献度が低い・これからも寄与度は低くなる一方の人間は黙っていた方が良い、と真面目に考えるのですが・・・・


2. という気持で、この国の政治に老人は黙っていようと考えていますが、それでも気になって、せめて古(いにしえ)の賢人の意見確認したくなります。

東大駒場キャンパスで憩いながら家から持参した2冊の文庫本を読みかえしました。

f:id:ksen:20170612132626j:image:w360:right

1つは、マックスウェバーの『職業としての政治』(1919年)もう1冊はオルテガの『大衆の反逆』(1930)です。何れも「古典」、「過去」の産物です。

しかしオルテガは、「歴史とは、自分の背後に多くの過去すなわち経験もつということ、成熟した文明を維持し継続していくための第一級の技術である」と言います。


3. まずはウェーバーですが({訳者・脇圭平}、

(1) 政治本質的属性権力であり、権力を追求せざるをえない。「倫理」ではない。

しかし、その事実は、政治実践者に対して特別倫理的要求を課す。

(2) 「政治タッチする人間は、権力の中に身をひそめている悪魔の力と手をむすぶのである」。「もしこれが見抜けないなら、政治の結果だけでなく、政治家自身内面をも無惨に滅ぼしてしまう」。

(3) だから、可測・不可測の一切の結果に対する責任を一身に引き受け、道徳的に挫(くじ)けない人間政治倫理がしょせん悪をなす倫理であることを痛切に感じながら、「それにもかかわらず!(デンノッホ)」と言い切る自信のある人間けが政治への「天職ベルーフ)」を持つ。

f:id:ksen:20170616140902j:image:w360:right


4. 今度はオルテガです。ルソーの『社会契約論』が18世紀代表し、マルクスの『資本論』が19世紀象徴するように、オルテガの『大衆の反逆』(1930年)は20世紀表現している、と評する人がいます。


(1)  本書は「今日ヨーロッパ社会において最も重要なのは大衆が完全な社会的権力の座に登ったという事実である」という文章から始まります。

訳者神吉敬三は、「オルテガは、社会を少数者と大衆のダイナミックな統一体としてとらえ、社会は少数者が大衆に対して持つ優れた吸引力から生まれると考える」。


(2) ここで「大衆」とは、自分は「すべての人」と同じであると感じ、そのことに喜びを見出しているすべての人のことであり、

他方で「選ばれた少数者」は、自らに多くの、かつ高度の要求を課し、すすんで困難と義務を追う。(オルテガは彼らを「真の貴族」とも呼びます)。

(3)そして、社会に方向を与え、共同の計画提示しうる真の「少数者」と大衆との相互行為社会原動力である。

➡彼はこうした基本的判断に立って、現代社会大衆支配社会と断じ、その可能性と危険性とを分析していきます。


(4) その危険性とは――現代大衆人に恐るべき欲求とそれを満足させるための手段をあたえたが、その結果、過保護の「お坊ちゃん」と化し、(略)自分があたかも自足自律的人間のように錯覚し、自分より優れた者の声に耳を貸さない人間と化してしまったのである。

➡これが「大衆の反逆」の本質であり、こうした大衆人が社会的権力の座を占めたところに、現代危機本質がある・・・・


5. 注意しなければいけないのは、オルテガが言う、この2つの人間のタイプは、「社会階級による分類ではなく、人間の種類による分類なのである」。

「以前ならわれわれが「大衆」と呼んでいるものの典型的な例たりえた労働者の間に、今日では、錬成された高貴な精神の持ち主を見出すことも稀ではないのである」。

逆を言えば、「権力者」の中に少なからず「大衆」がいるということです。


しかし、現実には、「選ばれた少数者」というとき、それは「選良」であり、エリートであり、具体的には政治家であったり高級官僚であったりすると、「大衆人」である皆は考えるでしょう。

もちろん私もそう考える「大衆人」の1人ですが、

そうであればこそ、ウェーバーの言う「政治」に携わり「権力」を追求し「悪魔と手をむすぶ」存在である彼らが、まさにオルテガの言う「真の“選ばれた少数者”」であって欲しいと心から願います。

f:id:ksen:20170612121254j:image:w360:right

願わくば形式的には「選ばれた少数者」である彼らに、忙しい時間の合間を見つけてでも、この2つの名著を読みかえして頂きたい。

そして、例えばオルテガの以下のような言葉を胸に刻んでほしいと思う者です。

(1) 「政治において、最も高度な共存意志を示したのは自由主義デモクラシーであり、隣人を尊重する決意を極端にまで発揮したものである」

(2) 「自由主義とは至上の寛容さなのである。・・・それは、多数者が少数者に与える権利なのであり、したがって、かって地球上できかれた最も気高い叫びなのである」。


言うまでもなく、いまの与党はここでオルテガが言う「自由」と「民主主義」を党名にしているのですから。

我善坊我善坊 2017/06/18 21:00 オルテガは大衆に危惧をいだき(知的)エリートを高く評価したというのが日本での評価のようですが、仔細に見てゆくとそう単純ではないように思われます。
『大衆の反逆』を書いた後、当時(1930年代)の王制下スペインの支配層に失望し、以前は否定的に見ていた社会主義にも関心を持ち始めます。市民戦争に際して亡命し、第二次大戦後にフランコ政権下のスペインに帰国しますが、その主目的は社会教育にあったのではなかったかと思われます。つまり、大衆社会を受け容れたうえで、大衆の知的向上により政治の改革に期待をかけていたのではないか。旧エリート層への失望がそういう行動を採らせたのではないかと思えます。
オルテガは「私は、私と私の環境だ」と言ったと記憶していますが、講壇の学者というよりは真の意味でのジャーナリストで、状況に正面から立ち向かい、ときに状況によって自らが変えられることさえ惧れない。
オルテガのそういうダイナミックな面がなかなか理解されていないような気がしますがー。

2017-06-11

『アメリカの憲法が語る自由』と日本の「憲法改正」

| 07:25 |

1. 英国総選挙も終わりました。メイ首相の思惑が外れてEU離脱交渉は難航するでしょう。しかしトランプハード・ブレクジットを支持するか不支持かを問わず

どちらの国も、2大政党がそれなりに機能して「チェック&バランス」が働いているのは、羨ましく思います。

f:id:ksen:20170610173407j:image:w360:right

畑の草取りも多少はしないといけないので、田舎の家に来て古い小さいTVで国際ニュースを見ながら、そんなことを考えています。

残念ながら、こなしの花が例年より早く、もう終わってしまい、れんげつつじや山法師や藤など山の花が咲いています。

畑では、腰が痛くならないように、「こつこつ、ゆっくり」の作業ですが、鶯がのどかに鳴いています。


2. ところで前々回のブログトランプ踏み絵」というタイム誌の報道について、いろいろと友人からコメントを貰い、感謝しております。


「「自分達が一番大事にして守らねばならないのは憲法」と言い切って、官僚

最高権力に堂々と抗する国は羨ましく思います」というコメントがあり、


過去アメリカ歴史においては、アメリカ合衆国憲法では許されない奴隷制度や西部開拓インディアンに対する迫害などがありましたね。今度はしっかり憲法を守り、民主主義自由平等を守る模範を示してほしいです」というコメントも頂きました。

230年のアメリカ憲法史は、まさに自らの過ちを正していく歴史でした。

例えば、奴隷制度が廃止された後も、最高裁1896年判決で、「分離すれど平等」というおかしな法理で公的人種差別事実上認めました。

これを明確に憲法違反とした最も重要な「ブラウン事件判決」が出たのが1954年、60年近くかかりました。

太平洋戦争時の日系アメリカ人強制収容違憲性を争ったフレッド・コレマツは、1944年には敗訴しました。それでも諦めずに戦った彼は44年後に勝訴(強制収容違憲とする判決)を勝ち取りました。

f:id:ksen:20170608120803j:image:w360:right

憲法制定200年を記念した1987年出版された『アメリカ憲法が語る自由』(第一法規)は、「憲法過去2世紀にわたって再三、我々の自由保護し、拡大する可能性を証明してきた」と、エドワード・ケネディ上院議員(当時)が序文で述べます。

アメリカ司法に、政治に、過ちはあった、いまもある。しかし憲法存在を、徐々に正義を実現し、自由を勝ち取る歴史としてとらえています。


3. 翻ってこの国の現状はどうでしょうか?いまはまだ「日本国憲法」がれっきとし

存在しています。まずは、それを尊重することが大事だと思うのですが、昨今の報道を読みながら、どうも「改正」先にありきという気がしてなりません。


憲法については過去ブログで何度も触れてきました。

例えば、2013年6月25日8月13日、15日、23日と4回続けました。

(1回目)http://d.hatena.ne.jp/ksen/20130625 は憲法9条について

(2 回目) http://d.hatena.ne.jp/ksen/20130815

は、「アメリカからの押しつけ憲法ではないか」という意見について

(3回目)http://d.hatena.ne.jp/ksen/20130819

は、アメリカ憲法と「修正(amendment)」の意味について

(4回目)http://d.hatena.ne.jp/ksen/20130823 は「私たちの頭で考える憲法改正」について、それぞれ触れました。


今回はやや雑感ですが、

(1) まずは現行憲法の基本理念国民主権基本的人権平和主義)をもう一度再確認することから始めるべきではないでしょうか。

(2) その上で一部を「改正」すべきところがあるとすればそれはどこなのか?なぜなのか?逆に、守るべきものはどこなのか?を議論するべきでしょう。

(3) いまの憲法は「アメリカの押しつけだ」という意見がありますが、この点をどう考えるかは上記2013年8月15日ブログで触れました。

f:id:ksen:20170609084724j:image:w360:right

(4) 現行憲法は、少なくとも戦後70年以上定着しています。

対して、明治大日本帝国憲法は45年の命でした。それよりはるかに長く、私たちの「自由」を守るべき存在だった現行憲法を「押しつけ」と否定する人たちは、

「じゃ君たちは現行憲法の全てを否定するのか?」

現行憲法大事なところ、残すべきところはどこなのか?」

「仮に全否定するとしたら、現行憲法下での70年は君にとって何だったのか?アメリカの押しつけで生きてきた人生だったのか?」

さらに言えば「改正すれば、押しつけから解放されるのか?」・・・

と訊きたいものです。

いま議論されている改正「案」は、むしろアメリカ政府にとって大いに満足できるものではないのか?

改正」後の日本は、引き続き、アメリカ意向を「押しつけ」られた国家になるのではないか


4. .というようなことを考えています。

もちろん私の友人の中にも「勇ましい」意見の人もいるでしょう。

お互いに冷静に話し合うこと、異論に耳を傾けること、

そして何よりも憲法理念は「自由」を守ることにあるという価値観を私たちも共有できるか、考えること・・・


私が学んだ中学高校は「自由」を大事にした学校だったのではないか

そう思って、久しぶりに分厚い「麻布学園の100年」(1995年)を開いてみました。

f:id:ksen:20170606085938j:image:w360:right

冒頭に、編纂委員長田中理事の「発刊の辞」、当時の根岸校長細川理事長の「刊行に寄せて」が載っており、それぞれ以下の文章があります。


田中)「・・・軍国主義思想統制の暗雲に覆われた時期においてすらも、麻布に学んだ男たちはほとんど異口同音に「のびのびと自由雰囲気の中でそれぞれが自己を伸ばすことができた」と語っている・・・」

根岸)「・・・麻布は、真の意味での「自由」の伝統を持つ。・・・そして〜江原先生精神と行動が、学園の「自由」の基底に流れているのを感じる」

細川)「個性ゆたかな人間性を養い、自由闊達校風のもと、自主独立自覚を培う精神こそ、わが麻布学園建学の精神であり・・・」


この3人が何れも「自由」という言葉英語で言えば「リベラル」でしょう)を強調しておられるのを読みかえしました。

コメントを貰った友人たちも同じ学校で学びました。同じ文化を共有したのではないかと感じます、

そういえば来年4月から名前が消える「東京銀行」も自他ともに許す「リベラル」な企業文化でした。

良き学校職場に恵まれ、良き友に恵まれ、幸せなことです。

2017-06-04

電車で人と喋り、電車で本を読む。

| 07:36 |

f:id:ksen:20170528112853j:image:w360:right

1. いつも書いていますが、東京新聞というのは面白い新聞で、リベラル標榜しつつ、芸能文化スポーツが大好きです。5月最後31日夕刊は、「正々堂々、大関高安誕生平成生まれ日本出身初」が1面トップの大きな写真入り記事でした。

大相撲と言えば、5月場所千秋楽28日の白鴎優勝のインタビューYoutubeで見ました。

「1年ぶりに帰ってきました。リハビリで大変だった」に続いて、高安関の活躍に触れて「お母さんがフィリピン人だからフィリピンの人も喜んでいるでしょう」というコメント記憶に残りました。こういう感想は「日本出身関取」からは出ないのではないでしょうか。

f:id:ksen:20170601084937j:image

2. 5月の週末には谷中天王寺への墓参と谷中銀座散策もあり、6月に入ってからの二日目の金曜日

昼前に、地下鉄半蔵門線に乗ろうと渋谷駅電車を待っていたら、昔の職場で一緒だった女性に偶然会いました。

たまたま、行先が「永田町」と一緒で(私は国会図書館に行くので)、車内も空いていたので、並んで座って暫らくお喋りしました。

彼女1987年に、今は無い(ちょっと寂しいけど、来年4月には銀行名もなくなる)銀行に入って8年勤めました。大学生お嬢さんがいる、そんな近況報告から始まりました。


国内支店長を1か所だけ、たった1年半やった経験があって、その時の新入社員でした。昔の職場は、大卒女子を、企業採用するのはまだ珍しかった時期から継続していて、その時も男子3人に女子3人が私のいる支店に配属されたと思います。「総合職」の採用一般的になった時期で、東大での女性が私のところに初めて入ってくるというのも話題でした。彼女はい弁護士として活躍いる由。


時代ものんびりしていたのと、銀行雰囲気もあったと思いますが、「先輩たちとご自宅によばれて奥様の手料理をご馳走になった、忘れられない」という思い出話がでました。私はすっかり忘れていましたが。

実は彼女に偶然渋谷で会うのは初めてではありません。「これも不思議な縁ですね」という話しも出ました。彼女もそうだし私も老齢にも拘らず、結構外に出ているということもあるかもしれません。それにしても「ばったり」、それも1度ならずというのは珍しいかもしれません。

車内で旧知の人と偶然一緒に座る機会はまずないので、結構楽しい時間でした。


3  ところで、旧知ならともかく、車内で見知らぬ人と言葉を交わすというのは、そうはないでしょう。

と思っていたら、仕事東京田舎を毎週電車で往復している「某」さんから、楽しいメールが届きました、以下、事前承諾もなく勝手にご紹介します。

――――湘南新宿ラインでの車中、栗橋から乗ってきた親子と楽しいひととき

 座席は四人掛けのボックス席なのです。お互いに目で挨拶。(無口な息子に)お母さんが、「いまちょっとケンカ中なので」みたいなことを笑顔でひとこと。


 わたしは、そのとき上下二段組み500ページを超える長編小説を、ほぼ読み終え

るところでした。数ページ読むと、最後の短い一節を残すだけになる。そこで黙って

本を読み続けました。一区切りにたどりついて前に目をやると、その子は分厚い文庫本を読んでいます。佳境に入り、最後20ページくらいを残すのみ、といったところ。集中して夢中で読んでる感じ。

 「厚い本ですね。面白い?」

 「面白いです」即座に答えが返ってきました。重松清さんの本だそうです。面白

て、ぐんぐん読んでしまうそうです。

 それから、いろいろ話をしました。

お二人は、川口のお祖母ちゃんを訪ねて行くところだそうです。電車が大好き。E……型とか、詳しい。母親の話では、自分には仕事があって、こども(6年生だそうです)は3年生ころから一人で電車に乗って、あちこち出かけていたそうです。


本を読むのは好き、なんですね? でも、サッカーとかは好きじゃない? あまり運動は得意じゃないのよね、とお母さん。訊いてみると、虫は苦手なんだそうです。いえ、小さいころはそうでもなかったのよね、とお母さん。「そうだった?」とこどもの方は

ちょっと腑に落ちない。わたしは虫が好きで田舎暮らしをしています、と自己紹介


 ・・・・そんなこんなで赤羽まで、ご一緒する。ホームでは、最後まで手を振って

くれてました。なんだか名残り惜しいような気持でしたね。―――

f:id:ksen:20170602150045j:image:w360:right

3. とてもいい話だなと思いました。いまどき、夢中になって車内で本を読む小学生がまだ居るのだというのは、大げさかもしれないけど感動的です。

しかも、「運動は苦手だ」と言う、こういう子供って、いまの時代に合わないんじゃ

ないかな、独りでいる時間が多いかもしれない、と自分の子ども時代なども思い出しました。

「某」さんに、早速返事をして、こんなことを書きました。

「昔、大江健三郎が(どの本だったか忘れたのですが)、何かのエッセイ電車読書する若者の姿を書いていました。読みふけって、ちょっと眼を本から離して放心したように車窓から見える外の景色に眼をやる・・・という光景に感動した、という趣旨文章で、読んでいる私も心に残りました。

 本を(とくに若者が)読みふけっている姿って、いまも昔も美しいですね。


5. 私は、6年前まで10年以上、京都で働いていたときは、月に2〜3回は新幹線に乗って往復しました。その中で一緒に座り合わせた乗客と会話を交わしたというのは数回しかありません。

しかし、2度と会うこともない「見知らぬ乗客」同士ですが、その何れもが楽しい時間でした。

 うちの1回は中年女性で、たまたま私は仕事必要があって、英語論文を読んでいました。

 その合間に隣に座った女性から「海外生活が長いのですか?」と訊かれて会話が始まりました。

 すると自分の息子のことを語りだして、アメリカ東海岸寿司屋に勤めて、寿司を握っているという。岡山大学を出てそのまま渡米してしまい9年になる、帰国する気はなく、永住権もとって楽しく暮らしているらしい、我々両親はまだ一度も行ったことがないのだが、心配している・・・・


そんな話を訊いて、単身海外雄飛する若者の1人だなと嬉しく感じて、ぜひ息子さんに会いにいったらいいですよと大いに勧めた記憶があります。

その後、この青年はどうしているだろう?両親は彼に会いにいっただろうか?

と某さんのメールを読んで思い出しました。

2017-05-28

トランプ「ロシアゲート」と「憲法を守る」人たち

| 08:20 |

f:id:ksen:20170511120209j:image:w360:right

1. いまの「かの時」は、まだ薔薇咲き誇る「時」でしょうね。

前回のブログは、「かの時に我がとらざりし分去れの方への道はいずこ行きけむ」の歌を紹介しました。

たまたま直後に友人に会ったので、この歌を披露しました。「誰の歌か知ってる?」の質問に、博学な彼が珍しく知らず、ちょっと得意になりました。


「かの時」とは何時か?も話題になりました。庶民であれば、大学進学、就職、そして結婚の三大イベントでしょうか。 


(1)私事にわたりますが、私であれば、進学の「時」でした。

国立大学と、いま皇族婚約話題になっている国際基督教大学(ICU)の2つを受験して運よく合格し、どちらにするかで迷いました。


ICUは日米のキリスト教長老派によって設立され、マッカーサー財団名誉理事長として寄付金募集に尽力しました。英米流のリベラルアーツ英語力を教育方針とする大学で、いまは知りませんが、当時は入学試験ユニークでした。知能テスト論文(与えられた長い・人文科学論文を読んで、自由感想を書く)と面接の3つだけ。もともと受験のための勉強が大嫌いだったので、こういう入試は助かりました。

(2)それが、自慢話になって恥ずかしいですが、時効ということでお許しください。

入学免除トップ3人の中に入った」という合格通知を貰ったのです。

理由は推測できて、面接の印象だと思いました。

アメリカ人先生に「なぜICUを志望したか?」を訊かれて、広島原爆に遭ったこと、父親原爆で死去したこと、大学ではアメリカ原爆投下問題を含めて日米関係研究したいと拙い英語で答えたのです。

これが、おそらくアメリカ人学者キリスト教精神に訴えたであろうことは十分に予想されます。

f:id:ksen:20170511114808j:image:w360:right

(3)もちろん「志望動機」は本心でしたから、ICUに学びたいと真剣に考えました。

しかし、母子家庭で2人の弟が居ます。当時ICU授業料国立の4倍以上でした。「授業料を援助してくれる制度はないだろうか?」という話しになって、親切にも義兄(姉の夫)が大学まで訊きに行ってくれました。「入学時には入学免除の特典しかない。授業料減免制度もあるが、それは入学してからの成績で判断される」という回答でした。

それも当然だろうなと思い、諦めました。


まあ、私の場合所詮どちらを選んでも平凡な人生がとくに変わったとも思えませんが。


2. 自分人生ではなく、もっと大きな「かの時」なら話は違うでしょう。例えば、

この4カ月、「かの時、ヒラリーを選んでいたら、どう変わっていたか?」と考えるアメリカ人も多いのではないでしょうか?


タイム誌の最新5月29日号が「トランプへの踏み絵(loyalty test)」と題して、いまホワイトハウス機能不全におちいり、混乱し、士気は上がらず、まるで葬儀場に行くような暗い表情で歩いているスタッフが多い、という記事を載せています。早くも職探しを始めている人もいるとも。

f:id:ksen:20170527094256j:image:w360:right

こんなことを書いています。

(1) トランプ言動選挙前と変わっていない。

衝動的である。

即興的・思い付きである

感情を抑えられない。

・彼は「誰をも不安にさせることを好む(He likes everyone being on thin ice)」


(2) しかもトランプ大統領が部下にもっとも強く要求するのは、ボスである自分に対するloyalty(忠義・忠誠)である。

オーナー企業経営者ならそれもありかもしれない。

しかしアメリカ連邦政府官僚がloyaltyを捧げ、守らなければならないのは「アメリカ合衆国憲法」だけである。

トランプは、この違いを理解していないのではないか


(3) その結果、彼らは、国民憲法を守る義務と、大統領を守り・自分キャリアを守ることとの相克に悩むことになる。


3. しかし、タイム誌は、他方でトランプに抗して、「自分は何よりも憲法に対して忠実である」と公言する高級官僚が少なくないことも伝えています。

解任されたコミーFBI長官もその1人。

彼の指揮のもとに、いわゆる「ロシアゲート」の捜査継続しようとしたFBIで、空席になった長官の代行を務める次官も、「私たちは今後も、国民を守り、憲法を守るために、正しいと信じることをやる」と明言している。


司法省副長ローゼンスタインも同様の発言をして、モラー(Mueller)元FBI長官を「特別検察顧問」(special counsel)に任命して、ロシアによる大統領選介入疑惑コミー解任に司法妨害がなかったかの捜査を命じた。

f:id:ksen:20170527094327j:image:w360:right

ラー氏は、、「上司の言いなりにならない硬骨漢」として評価が高く、コミー氏の前任のFBI長官ブッシュ・ジュニアオバマの両政権下12年勤めた。

彼もまた就任にあたって、「憲法を守るために、全力で与えられた仕事をする」と誓っている。

しかもローゼンスタイン司法省副長官が、モラーの任命をホワイトハウスに知らせたのは発表の直前だった。トランプ大統領に事前の相談も了承もなく、自らの権限決断した。トランプローゼンスタインにモラーの解任を迫ることは可能だが、そんなことをしたらニクソン前例があり、かえって命取りになるだろう。


「なかなかやるじゃないか」と感じたアメリカ人が多かったか、或いは「そんなことは当然」と感じたか。

英国エコノミスト誌は「アメリカの“チェック・アンド・バランス”の勝利」と呼んでいます。


やはり、「忖度(そんたく)」という英語がない、というのが十分理解できます。

アメリカ合衆国憲法」は成文の法であり、「忖度」の余地は全くありません。


4. そうは言っても、タイム誌も、捜査がどう進展するかは不透明としています。この点は日本でも十分報道されていますが、

(1)そもそもトランプ政権に不利な証拠が立証できるかどうかが分らない。

(2)かってニクソンの「ウォーターゲイ事件」で議会が弾劾にかける決議をしたときには、上下両院とも野党民主党が多数を握っていた。

今回は与党である共和党が多数。

従って、議会がどう動くかが予測できない。


(3) しかし、モラー氏が、トランプ大統領意向を「忖度」することなく、独立して「憲法」に対してのみ忠実に、調査し、判断し、行動するだろうことは期待できるでしょう。

そして、それこそが本当の官僚の姿ではないだろうかと考える者です。

2017-05-21

「信濃のコロンボ」と信濃追分「分去れの碑」

| 08:15 |

1. 花と緑の美しい季節になりました。神代植物公園薔薇が咲き誇っています。

それぞれの花のイメージに合わせてどういう名前を付けるか、栽培者の楽しみでしょう。「イングリッド・バーグマン」「マリア・カラス」「ジナ・ロロブリジタ」など美女名前が多く、「プリンセスダイアナ」も「プリンセスミチコ」もありました。


f:id:ksen:20170511115735j:image:w360:right

2.ところで前回友人がTV出演して、正調江刺追分を歌ったと報告しました。今回はその続きです。

(1) 出演したのは「信濃コロンボ」という長野県警捜査一課の警部活躍するシリーズテレビドラマです。

刑事コロンボ」という大人気だったアメリカドラマの「本歌取り」で、よれよれの背広とレインコートを着てさえない風体の・しかし粘り強く殺人事件を追いかけ、かならず犯人をつかまえる刑事ピーター・フォーク扮する)をお手本にしています。


(2) 「信濃コロンボ」の第4回の舞台軽井沢の「信濃追分」で、殺人事件が発生、東京の「本郷追分」でも事件が起き、被害者が何れも北海道江差町出身だというので、警部捜査の足を伸ばす。そこで背景として、「江差追分」を歌う場面が出て来る、ここにセミプロである友人がエキストラとして登場して、奥様も合わせて踊りました。堂々として、とてもよかったです。


(3) この友人が雑誌「あとらす35号」に書いた文章日本民謡追分節の変遷」から勝手引用すると、


・「江差追分」は日本民謡の中でももっとも有名でしょうが、これは舟唄であり、「危険な航海を冒して江差に来た北前船船乗りや、ニシン漁の漁師たちは、無事に蝦夷地に着いた安堵感をこの歌に込めて歌った」。

・ところが、「追分節」という民謡ルーツは馬子唄であり、とくに「江差追分節」の原形は「信濃追分節」である。

・「追分」は、もともと「牛馬を追い、分ける場所」を意味し、そこから街道分岐点意味するようになった。

・全国に「追分」と名の付く場所は多くあるが、中でも信濃追分中山道越後に行く北国街道分岐点)がもっとも栄え、参勤交代時代街道一の宿場だった。


・ということで、「信濃追分」と「江差追分」とは深いつながりがあり、このテレビドラマはその歴史的事実をうまく使っています。


3. まずは冒頭で、信濃コロンボ警部が,「信濃追分」に友人を案内する場面があり、ドラマ軽井沢観光案内にもなっています。


(1) ここが中山道と北國街道分岐点というところに、「分去れ(わかされ)の碑」が立っています。この碑もテレビに映り、警部説明する場面もありました。

f:id:ksen:20170425131451j:image:w360:right

(2)このシーンを見て、数年前に別の友人から教えてもらった「プリンセスミチコ」の歌を思い出しました。

「かの時に我がとらざりし分去れの、片への道はいずこ行きけむ」


(3) 美智子皇后短歌の名手として知られていて、その作品は、永田和宏の「現代秀歌」(岩波新書)にプロの作者と並んで、取り上げられています。永田氏はこう解説します。

f:id:ksen:20170425131530j:image:w360:right

―――「ある時にみずからが選択したひとつの道があった。当然、選択しなかった方の道もあったはずで、そのあり得たかもしれないもうひとつの道は、もしそちらを択んでいたらどのような方向へ推移していっただろうかと思い返す、そのような歌ととった」


そして続けて ――「「かの時」とは何かは明確には何も述べられてはいないが、当然のことながら、それは皇太子妃になるかどうかという選択であったことだろう・・・・」

ただし、ご本人はとくに深い意味はなく、学生時代から軽井沢によく行っていて、この「碑」を見た時にふと浮かんので作った、と言っておられるそうです。

教えてくれた友人は、「日本戦争を択んだとき」という解釈もあるのでは、と言っていました。


何れにせよ、読む人の誰にも、「かの時」はあったでしょう。読む人自身のことに思いを馳せることの出来る、「秀歌」だと思います。あなたの「かの時」はいつ・どういう状況だったでしょう?

f:id:ksen:20170507105404j:image:w360:right


4. 最後になりますが、この「信濃コロンボ4」を見て、アメリカ元祖コロンボ」とのドラマづくりの違いを感じたので、そのことも触れておきます。

日本ドラマは実にウェットな物語になっているなあと痛感したことです。本筋とは直接関わりない物語や場面が多く、

 

(1) 殺人犯麻薬グルーのボス。ここに江差出身青年が脅されてメンバーに入っている。姉が1人いて、弟の身を案じて自分が身代わりになろうとする、何ともセンチメンタルな場面が出て来る。

(2) この姉の友人が軽井沢洒落た店をやっていて、殺人事件に巻き込まれる。彼女東京にいる富裕な父親と、事情があって疎遠にしている。信濃コロンボ警部捜査を続けながら、本筋にまったく関係ないが、この親子の仲をとりもつ努力をする。


(3) 最後は、逮捕された麻薬ボスに、警部が悔い改めるように説教する場面で終わる!

f:id:ksen:20170518154151j:image:w360:right


(4) これに比べて、アメリカの「コロンボ」は、何ともドライです。

犯人は常に、ロスアンゼルス郊外の豪邸に住む、知的職業につく大金持ちのエリート著名人です。IQの高そうなインテリです。傲慢でもありスノビッシュでもあります。

それを追求するコロンボは、当初は犯人から見下される、庶民代表格です。


犯人最後に必ず罪を暴かれますが、最後までふてぶてしく、悪びれることなく振る舞います。

この、「庶民」対「富裕層エリート」という対決の構図が、そして最後後者が前者に敗北するというドラマが、この番組の人気の秘訣でしょう。

それはアメリカの「反知性主義」とつながるかもしれません。


(5) えてして日本ドラマでは、「エリートの悪」対「庶民」の対立という物語はあまり好きではなく、むしろ対立を包み込むウェットな人間関係が望まれているのではないでしょうか。

(6) 因みに、「反知性主義」とは、「日本ではネガティブ意味に使われるが、アメリカでは必ずしもそうではない」というのが『反知性主義アメリカが生んだ「熱病」の正体』(森本あんり、新潮新書、2015)です。

―――「反知性主義は、知性に反対する主義ではない。それは、一部の権威特権階級が知性を独占することへの反発であり、徹底した平等主義によって裏打ちされている。

権力と結びついた知性は、知性が本来もつ反省」の能力を失う。反知性主義は、知性のこうした堕落への批判を含んでおり、むしろ知的運動であるとも言える。」――


日本の、「何でもウェットな人間関係に解消しよう」という思想とはだいぶ違うように思えますが、どうでしょうか?

もっとも、この国ではそもそも権力と知性とが結びついているかどうか自体問題かもしれません・・・・・