川本卓史京都活動日記 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2017-07-23

コメントのお礼―漢詩と新島襄と元気な若者たち

| 07:49 |

1. このブログ原則として週に1回アップすることにしていますので、3人の方からコメントを頂いたお礼が遅くなりました。

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まず前回7月16日ブログ新島襄漢詩“寒梅”について」、黒幕子さん、我善坊さんのお2人、まことに有難うございます。何れも尤もな意見勉強になりました。

(1) 黒幕子さんは、詩吟指導者をしておられた由、それなら詳しいわけですね。

私が関わっている「詩歌朗詠懇談会」の会長さんも女性です。きれいな声で漢詩和歌も吟じます。

また、京都生まれ・育ちの黒幕子さんですから、新島襄の「寒梅」には、思い入れも深いのではないでしょうか。


(2)我善坊さんのコメントフォローですが、新島襄は21歳のとき、密出国して上海からボストン行きのアメリカ船に乗せてもらい、船長に「ジョー」と呼ばれて可愛がられました。

船長は、船主である実業家篤志家ハーディ夫妻にジョーを紹介しました。1865年南北戦争直後のボストンです。

新島は到着後拙い英語で「日本脱出理由」を必死に書いてハーディに提出、彼に感銘を与え、養子同然の待遇をうけ、当時としては最高のエリート教育を受けました。


まず、英語習得のため、フリップス・アカデミーという全寮制の男子私立高校に1年。ここは超名門校の1つで、ブッシュ大統領一族卒業校として知られます。

そのあとアマースト大学卒業後、アンドヴァー神学校大学院)で進学を学びました。

アマースト大学はいまも全米でも1位ないし2位の評価を維持している「リベラル・アーツ・カレッジ」です。日本外務省が若手を留学させるところでもあります。

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新島は都合10年のアメリカ滞在のあと、キリスト教伝道とその精神を基本とする教育を広める使命をもって帰国しました。

英語はもはや第2の母国語となっていたでしょう。

そんな彼が帰国して10年経った40代初めに、20年の空白を経て再び漢詩をつくりはじめ、それは死の直前まで続いた。

・・・・そういう、明治知識人の「教養」の在り方に興味を惹かれます。いま、英語漢語をともに、彼らのように駆使する知識人日本果たしているでしょうか?


2.  そんなことを考えていたら、前々回の7月9日ブログ社会起業家精神と私たちに出来ること」に、大根田さんという大学2年生からコメントがありました。

今時の大学生とは思えない、きちんとした日本語で嬉しく読みました。朝早く新宿カフェに参加してくれた1人です。9日のブログカフェで「意識の高い」若者たちに会って、

 

(1) 「弱い絆の強さ」(グラノヴェター)や「自由多事争論にあり」(福沢諭吉)の言葉を紹介し、

(2) 志を同じくする「横のネットワーク」が大事であり、よりよい社会を目指す「チェンジ・メーカー」の役割に期待する、

という話しをしたことに触れました。

(3) 印象に残ったのは皆が話をよく聞き、きちんとノートを取り、しかも自分意見を整理して述べる、その前向きな態度です。

しかも、私と会ったあとですぐに彼らだけで話し合って、「人と人とを繋ぐ」というコンセプトでビジネスコンテスト企画を応募したという、その行動力です。

(4) こういうことはとても嬉しいし、頑張って欲しいと思います。

・ちょうど新島襄が(鎖国の禁を犯して)アメリカに向けて単身旅立ったのと同じ年頃の若者です。

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・朝のカフェで語ってくれたのは、同じ大学学生との付き合いに疎外感を感じる、社会大学に不満を感じて彼らに何か意見を言うと「意識が高い系」として敬遠されてしまう・・・画一的な・自分を主張しない、違ったことを言わない、そういう雰囲気の中でどこかに同じような学生が居るのではないかと数人が集まるようになった・・・・


・例えば、自由学園という全寮制のユニークな中高を卒業して大学に入った学生がいる、大学に入って3週間、野宿をしながら日本を歩いた。

大学1年の時に、名門ラグビー部マネージャーになったが、その「体育会至上主義」に違和感を感じてやめた学生もいる、上級生に反対もできない文化があると感じた。

・1ヶ月、一人で東南アジアタイラオスベトナムカンボジャ)を旅した女子学生がいる→貧しいけどエネルギーを感じた。ポルポト虐殺歴史が衝撃的だった。日本は、むしろ「隠す文化」ではないかと感じた。

モーガン・スタンレイがスポンサーになっている「日米学生交流プログラム」に

応募して、大学から1人だけ合格し、3週間、首都ワシントンで様々な若者に会い、語り合った。

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(5) 彼らがそれぞれに、社会の閉塞感・画一観を何となく感じながら、その中で、人と違う・自分のやりたいことを見つけようと努力している、そんな前向きな生き方を感じました。

私が会ったのは彼等の2回目の集まりですが、多少は彼等の「疎外感」に自信と勇気を与える、きっかけにはなったかもしれない、などと己惚れています。

もちろん、日本社会は強固でもあり、保守的でもありますから、これから苦労もするでしょう。挫折もあるでしょう。

「だから、戦略大事なんだ。仲間を巻き込むこと、“横に”つながること、そして、センス・オブ・ユーモア大事だと思う。

また、自らが経済的社会的比較的恵まれている、そんな悩みを感じる余裕のない、アルバイト必死に追われている学生も多い、そのことを忘れないように。

比較的恵まれている君たちは、そういう人たちのためにも頑張らなければいけないと思う・・・」

最後はそんな、えらそうなことを言って、ちょっと説教臭かったかな、と反省もしています。

2017-07-16

新島襄の漢詩「寒梅」に思う。

| 07:46 |

1. 前回は、7月初め、若者たちと朝早く会って「社会起業家精神」について喋ったことに触れました。

その数日前には、東京鶯谷駅に近い「吟道会館」で詩吟先生たちと話をする機会がありました。

僭越ながら、同志社創立者新島襄について駄弁を弄したので、今回はその報告です。


酷暑毎日ですが、その中で冬の寒さを思いだして頂くために、新島の「寒梅」という漢詩を紹介します。


「庭上一寒梅    (庭上の一寒梅)

笑侵風雪開 (笑つて風雪を侵して開く)

不争又不力 (争はず又力(つと)めず)

自占百花魁 (自(おのずか)ら百花の魁(さきがけ)を占(し)む)

詩吟先生でもある友人某君の解説は以下の通りです。

――庭先の一本の早咲きの梅が風雪に耐えて花を開いている。まるで微笑むかのようである。

争いもせず、ことさらに務めもせずに、自然と百花にさきがけて、寒さの中に超然と咲いている。―――

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新島には別途「真理は寒梅の如し。敢えて風雪を侵して咲く」という言葉があります。(のち日銀総裁になった教え子の深井英五あての色紙に書き贈った)。

いま京都同志社大学チャペルの前庭に「寒梅の碑」として、この文句が刻まれています。


2. 「寒梅」の五言絶句に興味を持ったのは最近のことです。

数年前から上記の某君に頼まれて、詩吟および和歌朗詠のコンクール審査員の1人をやらされています。参加者は毎回50人、学士会館で200人ほどの聴衆の前で吟ずるのですが、「審査員の1人は素人も居た方がいい」という主催者判断で、厚かましくも仲間に加わりました。

お陰で、漢詩のものに触れる機会が出来て、なかなかいいものだなあと思うようになりました。

機会ができた1つはコンクールに加えて、審査委員長をしている石川忠久という著名な漢学者の講演があり、そのお陰で漢詩についてあらためて学ぶ機会が増えたからです。

もちろんコンクールでは毎回課題漢詩和歌が決められてその中から選んで吟じます。したがって多くの詩に接することになります。新島襄の「寒梅」も今年の課題詩の1つでした。

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課題には他に、高啓という明の時代の人の「胡隠君を尋(たず)ぬ」という詩もありました。

   「渡水復渡水    水を渡り、また水をわたり

    看花還看花    花を見、また花を見る

    春風江上路    春風 江上の路

    不覚到君家    覚えず 君が家に至る」

これも某君の解説によると

「「水を渡り」と「花を看る」を重ねたことが1つの技巧となっている。

川の多い江南揚子江の南、蘇州がある)の風景と花の咲いている温和な春景色

広々とした田園風景の中を、作者が飄々として行く。

行先の「胡」君も隠士だが、訪ねる本人も隠士である。隠士とは、世俗を避けて清閑な暮らしをする者である・・・・」


この詩も、読みながらのどかな作者の気分が伝わってくるようです。

「いつの間にか君の家に着いてしまった」という結びの句が、余韻を残します。

「やあ、しばらく。待っていたよ」と友人が招きいれて、早速2人で冷えた白ワイン(?)の杯をあげる、そして川の流れや咲く花を眺めながら語り合う。世俗の話をしない、人の噂もまして悪口も言わない。

最近は、古いものを読みかえす時間が増えたよ。いまは仲間とアリストテレス倫理学を読んでいる」

「そういえば僕も、ディケンズをもう一度読み返しているんだ・・・」

なんて会話がはずんでいく・・・・・


3. 漢詩はなかなかいいものだなと、この年になって痛感しています。

石川先生は、とにかく漢詩が大好きです、講演でも、李白杜甫世界一詩人と思う。シェイクスピアだって敵わないのではないか。この2人が同時代詩作をしたということは奇跡である・・・などと熱弁を振るいます。何事であれ、人間ここまで「惚れる」ものがあるというのは大事だなと感じます。

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そういえば、今年の4月22日東京新聞夕刊の「大波小波」というコラムに、こんな文章がありました。

百田尚樹中国を偉大な国と勘違いさせる「漢文」の授業は廃止せよ」(『SAPIO』)5月号」には唖然とした。日本人は、中国への危機感が薄い。それは古典文学などを通して漠然とした「中国への憧れ」があるからで、その元凶漢文の授業らしい。漢文は「趣味世界」なので廃止すべきだというのだ・・・・」。


私は「SAPIO」という雑誌に載った原文を読んでいないので孫引きですから、誤解もあるかもしれません。しかしこのコラムの筆者の指摘通りだとしたら、驚きです。

漢文漢語大事にすることと、いまの人権無視中国批判することとは、まったく別次元の話ではないでしょうか。

日本語の成り立ちそのもの、そしてその後も漢語存在がどれだけ日本語を豊かにしたか・・・は、日本人常識だと思っていましたが。

てなことを書いていたら、冒頭に紹介した新島襄漢詩についてうんちくを披露する紙数がなくなりました。

しかし明治時代知識人はよく漢詩作りました。鴎外は総数230首、漱石は190首(彼は英詩も作りました)。乃木将軍の詩も秀作との評判です。

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新島場合は、21歳から10年間アメリカで学びました。その前と、帰国してから10年経って死去する5年ほど前から詩作を再開しました。上海から密出国(当時まだ鎖国の禁があった頃)してアメリカに行こうとするときに作った詩(「男児志を決して千里に馳す」で始まる)もあり、函館港に詩碑が建てられています。

「寒梅」は、1889年明治22年)12月大磯での作と推定されています。46歳11カ月で死去する直前です。病をおして同志社大学設立のための募金活動上京中に発病して大磯で療養、この地で亡くなりました。

中断の時期が長いため総数は50首に過ぎませんが、その中で「寒梅」はなぜか、詩を吟ずる人たちに愛されて、いまもよく歌われます。

You tube聴くことも出来ます。鴎外や漱石を吟じる人はあまりいません。

アメリカ洗礼を受けて神学校に通い、宣教師として帰国し、キリスト教主義を基本とする教育日本再生の鍵となることを信じ、志半ばで亡くなった新島襄が他方で漢詩を愛し、その思いをこめた詩を好んで歌う人がいまも居る。

漢詩を愛し、歌い、作り続けるという日本人文化を、これからも守っていってほしいと願う者です。

私の身近にも大学時代の友人が1人、もとの職場の友人が1人、何れも退職後ですが、漢詩を熱心に作っています。

黒幕子黒幕子 2017/07/16 12:18 40代〜50代にかけて詩吟を稽古していまして指導者の資格も持っておりました。
詩吟の世界では杜甫と李白は双璧です。それから「寒梅」や「故隠君尋ぬ」はコンクールや昇段試験の課題吟に出されることが多い名吟です。
退職後、私の先生が大怪我をされて教場が遠方に移ったことなどもあって退会しましたが、吟はともかく漢詩をもっと勉強しておけばよかったと思っています。
百田氏の漢文排斥の弁は全く共感できません。彼自身も含めて日本人の教養の根底には漢文の素地があると思います。特に文筆に関わる人は。彼の言動はこのことに限らず常軌を逸しているようです。

我善坊我善坊 2017/07/21 10:47 明治以前の教育を受けた男子が、自分の思いを詩に託すには漢詩か和歌しかなかった。現在の日本語文は森鴎外や夏目漱石が苦心の末に創作したもので、ことに叙情にとどまらず志を述べるには漢詩文しかなかったのですから、新島襄が漢詩で思いを述べたのは自然なことです。「漢文の授業を止めろ」というのは、明治前半期までの日本人との対話を止めろというに等しい。実に野蛮な話です。
もっとも、漢詩文はあくまで漢語ですから、日本人がこれですべての意を通じるには無理がある。ことに漢詩は文字以上に発声(ことに平仄)を重視するものですから、日本人がまともな漢詩を作るのは難しく、支那人にも評価してもらえたのは副島種臣と乃木希典、それに漱石くらいと聞いたことがあります(この評価の適否は、私には分かりませんが)。言語感覚に優れた極めて限られた人は、漢語が話せなくても漢詩文を読むうちに平仄まで分かってしまったのではないかと言います。漢詩は所詮漢民族のものですから、同じ作詩するなら「日本人の漢詩」に留まらず彼らにも評価されるレベルを目指すべきだと考えますが、どうでしょう?
台湾では高齢者の間に短歌を作る人が多く、『台湾万葉集』まで編まれました。それは日本人が読んでも美しい短歌で、決して外人の真似ごとを「お上手!お上手!」と拍手するようなレベルではない。同じように、日本人が漢民族やアングロサクソンに感動を与える様な漢詩、英詩を作る―これが究極の相互理解ではないか?

2017-07-09

「社会起業家精神と私たちに出来ること」

| 07:27 |

1. 前回は、生前退位をして「上皇」になられたら京都に〜と希望している京都人が居るという話を書きました。

http://www.asahi.com/articles/ASK6D51N0K6DPLZB01K.html

そこでつまらぬジョークを思い出しました。

世界にいま、永遠に退位しそうもない女王が2人いる。1人は英国エリザベス2世!そして、もう1人は・・・・・・トランプ女王」。


2. ジョークはさておき、先週は2回、多少真面目なお喋りをする機会がありました。

月曜(3日)は10人、木曜(6日)は6人と、ごく少人数ですが、こういうゼミ形式で集まるのはとても好きです。他方で、一方的に何十人もの人に喋るのは昔大学の授業でよくやりましたが、苦手です。

ということで6日の話を記録しておきたいと思いますが、大学2年生が4人、PTA(おそらく40代半ば)の女性が2人、朝の7時半から新宿の某カフェで11時まで賑やかに話し合い、面白かったです。


3. 一時期に比べると少し話題にならなくなりましたが、私は今だに「社会起業家精神」の広告塔を任じていて、若者にそれを伝えたいと思って、お喋りをしました。

 社会起業家とはソーシャルアントレプレナー(social entrepreneur)の邦訳ですが、

貧困差別や、さまざまな社会的課題ビジネス手法を生かして事業として取り組み、社会をよりよい方向に変えていこうとする人たちのこと」。

“元気人”と呼んでもいいと思っています。

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当日はまず30分ほど、レジュメに沿って話し、あとは若者たちが自らの想いを語り合いました。

(1) 京都大学で新しい学科設立を準備したときに2回、アメリカ大学社会起業家支援する団体(Ashoka)を訪問して、関心を持ったこと。

(2) 2006年にバングラデッシュのグラミン銀行創設者ムハマド・ユヌスノーベル平和賞を受賞したこともあって,こういう存在や彼が主張する「ソーシャルビジネス」が注目されたこと。


(3) 京都で、仲間と「京都ソーシャルアントレプレナーネットワークKSENケーセン)」を立ち上げたこと。

(4) 2010年京都新聞が大きく取り上げてくれた、しかし大学定年退職し、会も活動報告を作成して解散したこと。

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(5) しかし、仲間たちと一緒に活動したことの意義は大きいし、仲間たちはいまそれぞれの生き方をしつつ活動で学んだことを心に持ち続けているだろうこと。


4. そんな話をした上で、さらに以下を続けました。

社会起業家精神にとって大事なのは?)

(1) カタリスト(catalyst)−自分触媒になって科学変化を起こす存在

(2) レバレッジ(leverage)―自らを梃子(てこ)にしてリソースを拡げる

(3) そして何といってもやはり根っこにあるボランティア精神

の3つだと思う。


(そして、何か新しい活動をしていく上で大事なのは?)という問いかけで、

(1) 「学び」と「気づき」から始めてはどうか?「学び」は本を読んだり、いろんな人に会ったり、見知らぬ土地を旅したり、

➡そこから「気づき」が生まれると思う。


(例えば、私であれば、2000年前後に読んだ、グラミン銀行を取り上げた本、「世界を変える人たち」という社会起業家を紹介した本、ユヌスの自伝・・・・などから大きな「気づき」を貰ったと思う)

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(2) そこから、「共感」と「協働」がもてるか?考えてみてはどうか?

 

(3) その上で「ネットワーク」がつくれるか?考えてみては?

ここで「ネットワーク」とは横につながる、フラットな人と人とのつながりで、つながるためには「居場所」も大事だ・・・・・

として、京都には古い町家提供してくれる人達がいて、格好な居場所が見つかりやすい、新しいことに好奇心をもち「つながる」文化もある、(だから私は京都が大好き)という話しもしました。


(4) 最後に、そういう、いわば「弱い絆(例えば、友人の友人といった・・・)が実は、ひょっとして「強い絆」(家族とか、職場上下関係党議拘束で締め付ける政党利害関係の結びつきなど)よりも意外に強いのではないか、として

弱い絆の強さ(The strength of weak ties)」という、あるアメリカ社会学者論文の話をしました。

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5. と、ここまでは老人の「イントロ」で、その後の学生PTAの話の方がはるか面白かったのですが、記録する紙数がなくなりました。


ただ、彼ら大学2年生4人+数人は、大学学部も違う、まさに「弱い絆」の仲間で、しかし何か「変化」を求めて集まろうとしている、この日がまだ2回目の集まりだということでした。

私の経験も多少の参考になったのではないか、彼らが「カタリスト」になってぜひ「居場所」と「つながり」を継続していってほしいと願う者です。


おそらく、いまの大学や、友人や、広く言ってこの社会に必ずしも満足していない、何か動いてみたいと思っている、そういう若者たちだろうと思います。

大学で会う友達の多くが、日々の流れの中で、現状に満足していて、だけど必ずしも充実感を持っていない、勉強もしていない・・・・・どうもそんな風に感じていて、


しかし、そう思う彼ら少数派は「意識が高い系」と揶揄されて、敬遠される・・・・・

そういう若者たちが「横のネットワ―ク」を作ろうとしているようです。

及ばずながら応援したい、と思いつつ彼らと別れました

大根田大根田 2017/07/16 19:03 川本様


先日、新宿のカフェでお世話になりました大根田と申します。
貴重なお話ありがとうございました。

木曜の朝にお話を伺いましたが、その日の内に皆で授業の合間にもう一度集まり
横のつながりを得られる機会がもっとあったらいいよねという話で盛り上がりました。
そこで、4日後の10日に締め切りが迫っていたビジネスコンテストに
「人と人とを繋ぐ」というコンセプトの基、企画を応募いたしました。

おかげ様で、書類審査を通過し、2次面接へと進むことが出来ました。
決勝まで進むことが出来るかはまだ分かりませんが、全力でぶつかっていきたいと考えております。


これからも、より多くの方と知り合える機会を自ら求めていく所存です。
機会がございましたら、またお会いできればと思っております。

繰り返しにはなりますが、先日は誠にありがとうございました。

2017-07-02

京都から須磨迎賓館での結婚式

| 07:45 |

1. 先週の週末の話です。京都に1泊し、翌日は神戸市須磨まで足を伸ばし、昔の教え子の結婚式に出席しました。

宇治市にある、京都名前の付いた私立大学に13年在籍し、2011年定年退職して東京に戻って以来、こういう機会は珍しく、須磨は行ったことがないので好奇心もあって、有難くお招きをお受けしました。

東京からの直行はきつかろうと、前日は勝手知ったる京都に泊まりました。

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2. その日の夕食は、鴨川に近い北大路にある小さなビストロで従妹夫婦フランス料理をともにしながら歓談し、二次会では昔のNPOの友人とバーに行き、翌朝は、堺町六角上がるにある「イノダ」本店珈琲をのみ、毎朝365日同じ円卓に座っている「主(ぬし)」ともお喋りしました。

たまに行く京都は、観光にはまったく縁がなく、旧知の人たちとの再会が楽しい時間です。

「イノダ」では、黒い制服を来たフロア責任者女性から「お久しぶりですね」と挨拶されて感激し、「主」に伝えたら、「京都人は口先だけですさかい〜」と例によって京都人らしい含羞のおもむきで、答えが返ってきました。

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フランス料理屋での会話は、天皇生前退位にからんで、新しい天皇即位京都でやったらどうか、上皇になられる今上天皇京都を主たるお住まいにしてはどうか・・・・

といった京都庶民の願いが話題になりました。

現実性があるとは思えませんが、個人的には、面白い発想だと思います。

すべてが東京に集中しているなかで、「歴史文化を発信する拠点京都にある」という、この国の多元性をあらためて意識することには、意味があるのではないでしょうか。

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従妹の話では、即位の礼は、今上天皇けが東京で、それまではすべて京都だったとのこと。今でも京都御所紫宸殿に「高御座」があって、今上天皇ときはわざわざ京都から持っていったとのことでした。


3. 須磨の話ですが、京都からJR三ノ宮芦屋経由で1時間以上かかり、やはり遠いです。

観光協会の案内書には、

須磨は古来風光明媚土地柄として知られ、多くの文人墨客憧憬の地であった。

明治中期以降、華族や多くの財界人たちが須磨に移り住み、西の別荘地“須磨”として全国にその名を馳せてきた・・・・」

とあります。


その1人に西尾某という富裕な貿易商がいて彼が1919大正8)年に建てた洋館がいまも残り、兵庫県指定有形文化財指定をうけつつ「神戸迎賓館」として一般に利用されています。

前庭にチャペルも作られて、ここでの結婚式のあと披露宴がありました。卒業地元農業団体就職して立派に活躍している若者の姿を見るには嬉しいものです。

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以下僭越ながら、拙い祝辞の一部を紹介させて頂きます。

(1) 新郎と私のご縁は、大学です。

今から20年前に開学した、宇治市にある比較的新しい私立大学

開学して6年後に「現代社会学科」という新しい学科ができました。

彼はその2期生として入学して来ました。

(2) ここで、当時の「現代社会学科」について少しお話しすると

・少人数教育大事にして、先生学生との距離が近い。

現代社会のさまざまな課題を学びの対象として、とくに「社会起業家精神」をもった、営利非営利社会貢献とを結び付けようとする人材を育てたい。

・したがって、実社会との結び付きやゼミ大事にする。ゼミは2年生から始まり、4年生のときには「卒業論文」が必修でゼミ教員指導のもとに、何らかの「作品」を作って大学生活を終えるという「思い出」を大事にする。

(3) 新郎は私のゼミ生の1人だったが、その特徴を言えば、

地元京都滋賀の親元から通学してくる学生が多い中で、彼は兵庫県山間部から一人で京都下宿したという比較的珍しい存在

・真面目な、しかもご両親のご家庭が偲ばれる、しつけのよくできた、いまどき珍しい若者

・出来たばかりの大学および学科入学してくるのは、好奇心の強い・チャレンジ精神のある若者が多いが、彼もその1人だった。


(4)ということでゼミ卒論指導での接触がもっとも濃くなるが、いまどきの学生は本を読まない、授業中ノートをとらない、文章を書くのが大の苦手というのが普通

したがって、「卒論」を書けと言われても、テーマを何にするか、参考書として何を選ぶか、どのように文章化するか?で大いに苦労し、悩むことになり、面倒をみる教員の手間暇もたいへんである。

4年生の12月末が提出の締め切り期限だがなかなか進まず、研究室にたびたび訪れては、個人指導をうけることになる。

そんな中にあって、新郎は、早くから、テーマも決まり、参考文献も自分で選び、15人のゼミ生の中でいちばん早く提出してくれた。

そういう点で、憎々しいくらい、世話のやけない学生だった・・・・・

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4. と喋ったあと、最後新婦について補足して喋りました。

(1) 親御さんのお名前で招待状を頂くのは最近少なくなっているが、今回はそうだった。そして新婦側にはお母様のお名前が記されてあった。

(2) どういう事情か分からないが、独りで新婦を育ててこられたのかなと拝察し、お名前を拝見しながら、何となく胸が熱くなった。

(3) というのも私事ながら、私は幼い時に戦争で父を亡くし、母が育ててくれた。結婚とき本当に喜んでくれたことを記憶している。

(4) 今回皇族眞子さま婚約したお相手もやはり早く父上を亡くした若者だと聞いている。「僕がお母さんを守る」と小さい時から語っていると新聞が伝えていた。

(5) 新郎は優しい人柄だから、言うまでもないと思うが、新しくできたお母様にそういう想いで接してほしい。

新婦の方は、新しくできたお父様とお母様に大いに甘えて接してほしい。

そして、親御さんともども皆様で素敵な家族をつくりあげていってほしい・・・・と心から祈念しつつ、私の拙い挨拶を終らせていただきます

2017-06-25

京都から遅く帰宅して憩う

| 08:04 |

1. 我善坊さんコメント有難うございます。

オルテガ大衆危惧をいだき(知的エリートを高く評価したというのが日本での評価のようですが〜」とあります。

私は「日本での評価」は、西部邁を少し読んだぐらいでよく知りません。しかし西部氏は「オルテガ知識人のための知識軽蔑し、大衆の真ん中にいようと努力した人である・・・“一緒に独りで”いることの緊張に堪えぬく精神、それがオルテガのいう貴族・・・たることの条件である」という批評は的確だと思います。

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(1)実は本書についてはすでに2011年2月ブログを始め過去に何度も紹介しています。http://d.hatena.ne.jp/ksen/20110218

その間ずっと本書と付き合ってきた訳ですが、今回またまた取り上げたのは、

「彼が言う“大衆”と“エリート邦訳では少数者)”の定義は、我々が普通に考える目に見える存在ではなく、人間の2つのタイプだ」という「私の読み」を確認し、その背景にはいまの現時点での、この国についての危惧があるからです。


(2)多少繰り返しになりますが、彼は「社会は、つねに2つのファクター、少数者と大衆のダイナミックな統一体」と理解します。そして、この違いは「人間の種類による分類なので」あり、「大衆とは自分に対してなんらの要求も持たない人々、“生きるということ”が自分既存の姿の瞬間的連続以外のなにものでもない」人々、と定義します。


(3)したがって我善坊さんの言われる「旧エリート層への失望」とは、まさにオルテガが本書で嘆いていることですね。そこから、「(いまの日本の“目に見える”)少数者にだって実は、(オルテガ)の言う意味での“大衆”が少なからず増えているのではないか・・・」という危惧につながる訳です。


(4)そしてオルテガは、「生きるということ」とは?を次のように、美しい(と私が考える)言葉定義します。


――「生きるとは、何かに向かって放たれていること、1つの目標に向かって歩くことだ。そしてその目標は、私の道程でもなければ、私の生でもない。それはわたしわたしの生を賭けるもの、したがってわたしの生の外に、彼方(かなた)にある何者かである・・・」―――

おそらく、オルテガ自らが「賭けた」のは「人類気高い叫び」と彼がよぶ「自由主義デモクラシー」であるでしょう。


(5)ということで、前回のブログの続きになってしまいましたが、コメントを頂けるのは有難いことで、説明が少し足りなかったかなという反省にもつながります。

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2. 話は変わりますが、実は所用があって京都神戸に行っており昨夜帰宅しました。

このブログ原則として週1回、日曜日の朝アップしています。

起床してすぐに家人東大駒場キャンパスまで約30分の散歩。そのあと国際ニュースをみて(旧東京銀行で一緒だった若い同僚の夫人がよく同時通訳で登場します)、それからPCに向かいます。ブログ原稿はだいたい土曜日の夜にほぼ書いておきます。


ところが昨夜は旅から遅く帰宅して、原稿を書く気分になれませんでした。

ということで、気楽に音楽を聴いてから寝ることにしました。

音楽CDではなく、PCを開けた序でに「お気に入り」に入れてある Youtubeからです。(サイト著作権関係しょうが、時々、突然削除されてしまうことがあるのが難点ですが、その点を除けば私のような素人には音を含めて十分楽しめます。)


昨夜は、

(1) まずは、眠気を覚ますような、モーリス・ベジャール振付の「ボレロ」から。

https://www.youtube.com/watch?v=SsSALaDJuN4

15分強をひとりで踊り続ける集中力と、後半にかけてますます力強く美しく踊る姿がみごとです。終わって拍手と「ブラボー!」が2分以上続きます。

(2) 続いて、ベリーニオペラノルマ」から、有名な「清らかな女神よ(Casta Diva)」。

https://www.youtube.com/watch?v=yiGpm56Bi8s

https://www.youtube.com/watch?v=B-9IvuEkreI

これは何といってもマリア・カラスしょうがアンナ・ネトレプコもいいなと同じ曲を2回聴きました。


(3) やはりオペラの中の「Va, pensiero」も(ヴェルディの「ナブッコ」)。

今回は「フラッシュモブ」にしようと、コベント・ガーデンのロイヤルオペラハウス前での即興演奏Youtubeを開けました。

f:id:ksen:20170625080048j:image:w360:right

https://www.youtube.com/watch?v=P_Y-yJBa8FA

フラッシュモブは,街頭やレストランデパート空港などで突然、音楽に遭遇する人たちの嬉しそうな表情がいいですね。

どこかの図書館で突然演奏が始まるサイトもありました。勉強中・読書中の誰も文句を言わず、面白がっていて、終わって拍手する人もいました。


(4) 最後は、映画音楽から3つ。

・初めに『カサブランカ』から。

イングリッド・バーグマンが、カフェピアノを弾くサムに「あの曲を弾いてよ(Play it, Sam)」と頼む場面。ここでサムは「私は最近声もさびついてね(I am a little rusty)」といったんは断る、初めて映画を観たとき、その際の「rusty」という言い方を面白いなと思った記憶があります。

https://www.youtube.com/watch?v=7vThuwa5RZU

・もう1つは同じカフェで、占領しているドイツ軍将校に対抗してフランス国家を皆で歌う場面です。

https://www.youtube.com/watch?v=KTsg9i6lvqU

・そして最後は「蛍の光」、原曲スコットランド民謡のAuld Lang Syne。

哀愁ウォータールーブリッジ)』でヴィヴィアン・リーロバート・テイラー食事中、最後にこの曲が演奏されて、他のお客と一緒に名残りを惜しみながら、ワルツを踊る場面です。これが、二人の「永遠の別れのとき」になります。

https://www.youtube.com/watch?v=6egm4SNGLbY

たくさんの美女を眺めたお陰で、旅の疲れもとれたような気分になって床につきました。

ということで、今回のブログは、まことに簡便な文章申し訳ありません。