川本卓史京都活動日記 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2016-08-21

オーハンゴンソウの駆除と『社交する人間』(山崎正和)

| 07:59 |

1. デトックスマツコさん、7月24日付の・ジパング会員証の不携帯で「制裁」を受けた話に、8月15日コメントを頂き、有難うございます。

80歳の母上が同じような目にあって、おまけに「ほとんど犯罪者扱い」だったとのこと。会員証をただ忘れただけで、いくら何でもひどいですね。お気持ちお察しします。

「同じ経験をなさった方のお話が伺えてなんとなく救われました。」

と書いておられ、ブログにアップしてよかったな、と思いました。


2. ところで、前回書いた蓼科の「うんちく・じゃがいもパーティ」ですが、天気も良く、無事に実行、昼前から夕方まで長時間、ほとんど戸外にて賑やかに過ごしました。

4組8人にもう1人飛び入りがあり、この方が、女子大英文科の名誉教授言語学権威というので、会話のレベルが上がりました。


1週間あとの土曜日(昨日)は今度は朝から2時間ほど、区域繁殖するオーハンゴンソウの駆除作業に老夫婦で参加しました。管理事務所から声がかかり、事務所から2人、住民が5人参加してのボランティア労働です。

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オーハンゴンソウ(大反魂草)は、北米原産キク科の「特定外来生物」。

「特に北日本中部日本高地で多く、繁殖力が強く、在来植物生態系に影響を及ぼす恐れがある。そのため、全国各地で駆除作業が行われている」。

しかし、「地下茎や埋土種子土壌シードバンク)で繁殖することができ、単純に刈り取るだけでは根絶は難しく、スコップなどで根ごと引き抜き、抜き取った根は焼却処分する必要がある」(ウィキぺディア)

とあるように、結構面倒な作業でしたが、いい汗をかきました。


3. そんな時間を過ごしながら田舎でも人に会う時間結構あるなと思いつつ、もう

何年も前に愛読した『社交する人間ホモ・ソシアビリス』(山崎正和2003年)を思い出し、書棚から手に取りました。


人間社会的動物」とはよく言われるが、むしろ「社交的動物なのだ」という問題提起に沿って、「社交」の意義と復活を論じる著作です。

著書は例えば、こんな風に書きます・

(1) ――この世で人が人に会うことの不思議さに感動し、1回ごとの邂逅(かいこう)を生涯の大事と考える「一期一会」の教えは、日本茶の湯の中心的な思想だった。


西洋でも18世紀の前半には、社交に文字通り、命を賭けて、「虚礼」を実業以上に人生の義務として重んじる人びとが生きていた ――


(2) ――(そして)社交のなかでは人びとは互いに中間的な距離を保ち、いわば付かず離れずの関係を維持することが期待されている。この点、日本語の「つきあい」という言葉は含蓄に富んでいて、この両義的な距離感覚をみごとに言い表している。

――

(3) ――社交的な人はしらけない人であって、自分のものではないさまざまな感情物語に「つきあう」ことのできる人である―

――社交する精神はすべてにしらけない関心を抱き、それでいて本質的に無欲であることが期待される。何ごとをも遊びと見なしながら、その遊びに対して真面目でなければならない。

というような定義から始めて、遊戯との関係、その作法歴史経済政治文化文明との関係現代社会における意味・・・と論じて、最後は以下の考察で終わります。

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(4) 「もし現代文明に「第三の道」と呼べるものがあるとすれば、それは一方に地球社会、他方に国家企業を含めた組織社会をひかえて、その両方に拮抗して個人に心の居場所を与える、もう1つの人間関係でなければならないだろう」

著者の問題意識は、現代は「社交」の重要性が忘れられている、その復権が大事ではないかということです。「開かれた・横のネットワーク」の大切さと言い換えてもよいかもしれません。

そして、国家企業の硬い・合理的な「社会」が、「社交」の柔らかい・しかし礼儀作法を守った人間関係と対比されます。

このあたりを読み返して、うんちく・じゃがいもパーティもオーハンゴンソウのボランティア作業も「社交する人間」の営みなのかなと感じました。

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僭越に言えば、オリンピック選手1人1人の姿に感動しますが、他方でスポーツも、国家企業の硬い・合理的な「社会」と対比する柔らかい人間関係=「社交」の一形態と考えたいなと言ったら、選手諸兄姉に失礼でしょうか。

それでも、もちろん死にもの狂いの努力の結果とはいえ、「思い切り楽しみました」なんていう受賞のコメントを聞くと、「社交の精神」のある人だなと嬉しく感じます。


4. 『社交する人間』の中で著者は「社交」には、遊戯性と作法身体性とともに、会話の重要性を強調します。

そこで最後に、英国思想家マイケル・オークショットという人が「会話」についてどう言っているか?について、前々回取り上げた『保守主義とは何か』から孫引きすると以下の通りです。

この本の著者は、オークショットの「保守的であること」という論文で彼が、「人類の会話というヴィジョン提示している」として以下のようにそれを解説します。


友情目的が友人を変えることではないように、会話の目的は何らかの結論を出すことではない。会話で大切なのは複数の話し言葉が行き交うことである。多くの異なる言葉出会い、互いを認め合い、そして同化することを認めないのが会話の本質である。

つの「声」が他を圧倒してしまうのは、会話ではない。

このような会話こそが、人間人間の関わり合いについての適切なイメージであるとオークショットはいう。」


――こういう発想は、山崎正和の言う「社交する人間」にも通じるのではないか、と考えました。

いまの日本でも、「社交的動物」が増えるといいなと思います。

2016-08-14

じゃがいもを掘りながら「生前退位」と保守を考える

| 07:53 |

1. 老夫婦2人、田舎の家に過ごし、野生の鹿が闊歩する姿や畑や山々を眺めているとどうも人間社会が遠く感じられて、リオ五輪高校野球TV殆ど見ておりません。

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一昨日は、朝早くから2人で、ジャガイモを掘りに行ってきました。

田舎に夏を過ごしている友人4組8人を本日の昼前に招いて、庭で「じゃがいもパーティ」を開く予定です。

全員年金生活者ですから、手作りじゃがいもソーセージと、精々1000円ちょっとワインを飲んで、もっぱら「うんちく」を傾けるという、ごく手軽・安上りの催しです。その代り、「うんちく」はそこそこのレベルだろうと自賛しています。


畑にはもうすでにコスモスが咲いていました。

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2. 保守主義」について長文のコメントを頂いた我善坊さんもメンバーの1人なので、「うんちく」の話題の1つになると思い、ここではお礼だけにしておきます。

私は、やはりいまは保守を論じるより、リベラルの復権が大事

かつ、「保守するためには変わらねばならない」という信条も;まず「何を保守するのか」を明確にしなければ、単なるレトリック面白さで終わってしまうのではないか、と懸念する者です。


我善坊さんからは「伝統伝統ゆえに墨守するのが保守主義」というコメントもありました。

しかし、その「伝統」とは具体的に何を指すのでしょうか?日本会議のような人達の主張は「反動」であって「伝統」でも「保守」でもないというネガティブ意見は伺いましたが、ポジティブな「伝統」の中身は具体的に何でしょう?

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実は、8月9日新聞一面「天皇陛下生前退位示唆」という大見出しを眺めながら、そんなことを考えました。

この問題も「じゃがいもパーティ」で取り上げられるのではないかと思います。もちろん我々庶民が余計な口を出すべきではないかもしれない、まして明仁天皇意図忖度するのはおこがましいこととは思いますが。

しかし、発言を読み返して、私が印象に残ったのは、やはりここで「伝統」という言葉を使っていることです。

すなわち、

憲法下で象徴位置づけられた天皇の望ましい在り方を、日々模索しつつ・・・・

日本皇室が、いか伝統現代に生かし・・・人々の期待に応えていくかを考え・・」

その上で

「これまでのように、全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが難しくなるのではないか

と案じ、最後

象徴天皇の務めが常に途切れることなく、安定的に続いていくことをひとえに念じ・・・」という言葉で終えておられる。


3. 早速私は、「小六法」を書棚から取り出して、憲法皇室典範とを読み返しました。

憲法は、第1章「天皇」の1条から8条まで、皇室典範は、全37条、この4条「即位」に「天皇が崩じたときは、皇嗣が、直ちに即位する」とあることご承知の通り。

従って、

―「生前退位」の問題だけであれば、憲法改正する必要はない。皇室典範の変更(典範そのものを変えるか、一時的特別法でやるかはともかく)は必要

理解されます。


そして、これこそ、「保守する」ものが明確であるからこそ、「保守するためには変わらねばならない」という信条が単なるレトリックに終わっていない好事例だと思います。

即ち

(1) 天皇にとって「伝統保守する」とは、「天皇制」を守ること、より具体的には「象徴天皇制を守ること」であり、それを「保守」するためにはまさに「(生前退位を認めるという点で)変わらねばならない」と考えておられるのではないか


(2) さらに言えば、天皇にとって(おそらく皇后にとっても)「保守」とは「日本国憲法を守る」ということではないのか。


4. 上の(1)&(2)のうち、(2)まで考えておられるか否かは、もちろん推測の域を出ません。

しかし、以下に補足するように、

少なくとも両陛下の今までの言動を見る限り、かなりの確度で推察されるように私は考えます。

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(1) 両陛下が、鎮魂と慰問の旅を続けておられることは周知の通り。

   ・沖縄へは1975年皇太子として初めて訪問ひめゆりの塔火炎瓶を投げつけられる。訪問皇太子時代に5回、即位後も5回。

   ・1994年硫黄島、95年、広島長崎東京都慰霊堂

   ・2005年サイパン、15年ペリュリュー島(パラオ)、16年、フィリピン・・など。

(2) 「どうしても記憶しなければならない4つの日」として、沖縄戦終結の日(6月23日)、広島原爆投下8月6日)、長崎原爆投下8月9日)、終戦(8月15日)をあげ、「この日は外せない公務以外は入れず黙とうを捧げている(1981年記者会見にて)

(3) 靖国神社には参拝せず。


(4) その他、憲法象徴天皇制についての天皇発言を紹介すると以下の通り、

・「戦後連合国占領下にあった日本は、平和民主主義を守るべき大切なものとして、日本国憲法を作り、今の日本を築きました。・・・」(2013年、80歳の誕生日記者会見

・「大日本国憲法下の天皇の在り方に比べて、日本国憲法下の在り方の方が天皇の長い歴史で見た場合伝統的な天皇の在り方に沿うものと思います」

2009年、成婚50年の記者会見

(以上は、実は我善坊さんの親しいご友人の資料引用させて頂きました)


(5) また両陛下は、沖縄について、多くの歌を詠んでおられることもご承知の通りです。例えば、


――― 激しかりし戦場(いくさば)の跡眺むれば平らけき海その果てに見ゆ

――― 沖縄のいくさに失せし人の名をあまねく刻み碑は並み立てり

――― クファーデーサーの苗木添い立つ幾千の礎(いしじ)は重く死者の名を負ふ

3首目は美智子皇后の作です。


5. 以上、「保守するのは何か」を明確にして、その上で、場合によっては「変わらねばならない」というエドマンド・バーク保守主義意味を私なりに理解して記録したつもりです。


ちなみに宇野東大教授は、「現実歴史的連続性を無視し、自由のための制度破壊し、さらには、民主主義全否定するならば、それはけっして保守主義はいえない。少なくともバーク的な意味での保守主義ではない」(13頁)

と語ります。

2016-08-07

『保守主義とは何か』(宇野重規、中公新書)を読む

| 07:54 |

1. (JR東海からの「制裁」)についてここ2回書いてきました。

まだ友人から親切なメールが来ますので、感謝とともに報告します。

彼は、JR東海ジパング倶楽部事務局電話してくれて以下の回答があったそうです。

「車内での点検を強化するようになったのは、最近不正使用が目立つように

なったからで、会則の変更はなく、運用対処している。

同様のクレームが増えているので、会員に注意を促す方策(例えば会員誌を

活用する等の方法)を検討中である。」


「同様のクレームが増えているから・・・」という言い方は、運用の変更を事前に周知徹底していないことを認めていると思いますが、それを今になって(制裁を科したあとで)「注意を促す」というのは、まさに「フェアでない・後出しじゃんけん」ではないか、と私は考えます。

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2. (『保守主義とは何か』)

ところで我善坊さんから「保守主義」について長いコメントを頂きました。

今回は少し硬くなりますが、「和歌」と「短歌」の違いから離れて、

最近読んだ『保守主義とは何か、反フランス革命から現代日本まで』(宇野重規中公新書2016年)を紹介し、政治思想としての「保守主義」を考えてみたいと思います。

あとがき」で、著者は

(1) まず、「必ずしも自らを保守主義者とは考えていない」人間保守主義を考えることに意味があるのではないか、と立場を明らかにします。

(2) その上で、「いまはむしろ保守主義におごりや迷走が見られるのではないか

(だから)「劣化」が起きているようにみえる保守主義批判的に再検討しなければならない」という問題意識に立って、「保守主義の源流」といわれる英国思想家エドマンド・バークから説き始めます。

3.(「何を保守するか?」)

保守するためには変わらなければならない」という有名なバーク信条クレド)も紹介されますが、


もっと大事なのは、と宇野東大教授は以下のように語ります。

(1) 「批判的に再検討する」に当たっては、「一人一人が何かを守る」という原点に戻ることが必要ではないか。(P.5)

(2) 「守るべきものは何か?」は人によって異なる。


(3) しかし、少なくともエドマンド・バークに戻れば、彼の保守主義とは「個人の自由を維持することであり、民主化を前提としつつ、秩序ある斬新的な改革が目指される」。

(4) このように、「保守主義とはあくまで自由という価値を追求するもの」であり、だからこそ、早々と自由確立を達成した英米保守主義が先行して確立したのも不思議ではない、と宇野さんは続けます。


(5) ということは(ここからは私見ですが)、「保守するためには変わらねばならない」という信条についても、

まずは「変えるべきでないものは何か?」を踏まえて、その上で「何を変えるか?」を考える精神の構えが重要であり、それは保守反動とは全く異なるということでもあります。

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4.(日本の現状は?)

このような観点からすれば、日本の現状についての著者の以下の認識と厳しい批判は、よく理解できます。

――(1) 戦後日本保守主義は、本質的に「何を保守するのか」、曖昧さを残すものとなった。

現在、世に「保守主義」は溢れている。しかしながら、バーク定義に立ち戻るならば、日本に本当の保守主義存在したのかは疑問が残る。(P.189)


(2) もしバークに従うのであれば、・・・イデオロギー的な転換を試みることには、あくまで慎重でなければならない。もし、それを変更するとしても、現行秩序に内在する自由論理を発展させ、斬新的な改革をはかることが優先的な課題となるべき。

歴史の中に連続性を見出し保守すべき価値を見出す保守主義の英知が今こそ求められている。(P.190~191)


5.(これからの保守リベラルは?)

このような、バークに沿った著者宇野さんの立場からは、リベラル保守がともに「自由」を守るという一点で、重なりあう点が多いということになります。


しかし、両者の対立軸がまったく無効になるとも考えにくい、と著者は以下のように述べます。


――人間道徳基盤に<ケア><公正><自由><忠誠><権威><神聖>があるとすれば、リベラルが後三者よりもむしろ前三者を優先するのに対し、保守は後三者を前三者と等しく重視するという違いが重要である。(P.203)

――仲間との関係を優先する前者の立場保守と、普遍的連帯を主張する後者立場リベラル親和性もつといえる。このことは、政治において、共同体の内部における「コモンセンス」を重視するか、あるいは自由平等な個人の間の相互性を重視するかという違いとも連動し、今後の社会を論じていく上で有力な対立軸となるであろう。

 ――いずれにせよ重要なのは、多様な志向共存可能にすることである。リベラル保守とが生産的な対抗関係を維持することは、今後も引き続き重要課題であろう。(P.204)


6.(最後に、もう一度リベラルの復権を)

(1)以上、宇野さんの内容をごく簡単に要約しました。

(2) 読みながら感じたのは「必ずしも自らを保守主義者とは考えていない」という著者の主張への共感です。

(3)さらに付け加えれば、著者の言うように「(いま、おごりや迷走が見られる)保守主義批判的に再検討する」ことが必要であるとすれば、

「いま、あまり元気がないリベラル批判的に再検討しつつ、その復権に期待すること」ももっと大事ではないか、と考えました。

最近19世紀古典、ジョン・スチュアート・ミルの『自由論』を新訳(2012年)で再読したせいもあるかもしれませんが、

私個人としては「もういちどリベラリストの諸兄、頑張れ!」と応援したい気持ちです。

我善坊我善坊 2016/08/08 11:29 宇野常規のE.バークの読み方(力点の置き方)には多少違和感を覚えますが、未だこの新刊を読んでいないので、これ以上の論評は避けたいと思います。しかし「日本に本当の保守主義が存在したのかは疑問が残る」という指摘は、これこそ私が言いたいことでした。疑問が残るどころか「日本には保守主義は、ことに政治的保守主義は、明治以来皆無」と言い切って差し支えない。
明治国家が第一に目指したのは文明開化(欧化)で、これは上からの急進的改革(革命)です。
明治国家が創設した国家神道も明治天皇制も、いずれも江戸時代までの700年の武家支配のもとで形成されてきた日本の伝統文化とは無関係なもので、もちろんそれ以前から、7世紀に統一国家が創られて以来の伝統とも殆ど無縁なものでした。(宮中祭祀でさえ、大嘗祭などごく一部を除けば、明治以来新たに創られたものが大部分です)
明治の世に強いて保守主義を探すなら、戊辰戦争で負けた旧幕臣や賊軍諸藩にこそ見られたはずですが、それもやがて「自由」民権運動に吸収されてゆき、その後進が政友会であり、戦後の自由党、自民党です。
日本にあるのは右翼(極右)、反動だけで、それを「保守派」と呼ぶのは筋違いもいいところ。彼らが日本の伝統と考えるものはほとんどが明治の作り物で、しかも上から(国家によって)作られたものに過ぎない。伝統をまったく勉強していませんね。
彼らが拠って立つところは、伝統ではなく「反左翼」であり、左翼が絶滅危惧種となった今は、矛先を「反リベラル」に変えたに過ぎない。「すべてのアンチ(反)は、思想として検討に値しない」と言ったのは、20世紀を代表する保守主義者、オルテガ・イ・ガセットです。

2016-07-31

JR東海からジパング会員証不携帯で制裁を受けた話の続き

| 08:25 |

1. 前々回のブログに書いた「和歌短歌の違い」について我善坊さんから丁寧なコメントを頂き、お礼を忘れました。周回遅れですが、勉強になりました。俳句の「型からの解放」は芭蕉から、他方で短歌の「(和歌からの)解放」は子規からですか。

「型」について考えると面白いですね。「保守」は「型」ではないかと思う者ですが、真正保守主義者を自認する我善坊さんは、どうお考えでしょうか。


2. 他方で、前回のブログは「JR東海からジパング会員証不携帯制裁を受けた話」でしたが、arz2beeさん、まことに有難うございます。

「それが決まりですからは怖い」のコメントはまさに正論ですね。一見いんぎん無礼だが要は「問答無用」の風潮が社会にはびこっているのでしょうか。

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実は、このブログにはフェイスブック個別メールなどいろいろとコメントを頂き、感謝しております。

そこで今回、頂いた内容の一部を報告させていただきます

3. まず、フェイスブックで「理路整然とした反論はお見事で、こちらの方が私には参

考になりました」というお褒めの言葉を頂きました。光栄の至りですが、でも結局「のれんに腕押し」ですから意味ないですね。


4.次に私と同じように、今まで「ジパングの会員証&手帳」の携帯を忘れて乗車している方が結構多いのではないかと推測されることです。

こういう人には私のブログ発信は「警戒警報発令」になったようで、感謝されました。

ある友人からはこんなメールが来ました。

「私も今まで、会員手帳と会員証の提示を求められたことはありませんが、今後は

万一の場合に備え、携行を励行したいと思います」。

これには早速「万一の場合どころか必ずチェックすることになった筈で、一切反論は許されないから、「励行したいと思う」どころか、必ず携帯するように」と忠告しました。

別の友人からは「ボケないうちに自分ズボンにでも手帳を結びつけておかないといけないね」と言ってきました。


5.もう1つ面白いと思ったのは、

「先日、旅行社にてジパングを使いJR切符を求めた。そうしたら「必ず手帳携帯ください」といつこく言われたので何かなと思っていたら、ブログを見て納得した」というメールです。


このどこが面白いか?と言うと、旅行社は、「しつこく言う」が、その背景と影響を説明していないことです。つまり、JR東海自身が背景と影響(3月26日から運用を変えて、携帯なければ差額料金を取るよ)を旅行社に話していないのでしょう。

これは、極めて「姑息な」というか、厳しく言えば「手の内を明かさい」「フェアでない」対応ではないでしょうか?

(話が逸れますが、アングロ・サクソン社会では「フェア(公正)かどうか」がもっと重要判断基準です。その前提が「情報開示」です。

伝説ではあるけど、昔の日本教科書にも載った、ワシントン桜の木エピソードは、このことを言っています。これが「正義justice」です)。


6.次に、別の友人から「他のJRでは今もやってないよ」という報告です。

実は、私も同じ経験をしました。

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たまたま田舎の家で夏を過ごしており、所用があって、7月27日朝、茅野から新宿まで中央線あずさ」を利用しました。ジパング切符を買って、何より大事な「会員証&手帳」を「ズボン」はともかく鞄の奥にしっかりしまって乗りました。

道中、一切、検札はありませんでした。


――ということは、私の苦い経験はJR東海に限ったやり方だと思われます。

ジパング倶楽部の会員証・手帳はあらゆるJRの利用に共通です。他の新幹線だろうが、中央本線あずさ」だろうが、同じ規則適用されます。

しかし運用は同じではない。

しかもJR東海だって、少なくとも3月7日までは、「あずさ」の7月27日対応と同じだった。

――ということは、JR東海は運用方法を変えたということでしょう。しかも、そのことを事前に周知徹底することなく「(今までは紙に書いただけだった)規則」を持ち出して「ここに書いてある」の一点張りで「新しい運用」を強行した訳です。

―――これが「アンフェア」でなかったら、「アンフェア」とは何なのでしょう?


7.もちろん、不携帯のチョンボについて、こちらに落ち度があることは認め、お詫びしています。しかし、事前通知なく「制裁」を食らわすというやり方は果たして「フェア」か?

誤っても許してくれないほど重大な過失なのか?しかも今まで何も言われず、突然の「制裁」だが、JRを始め、誰にも不利益や損害や迷惑を与えていないと思う。

頂いたコメントはまだまだあります。

もう少し、一般論本質論にわたるものです。

例えば、


(1) 規則一点張りの「コンプライアンス法令順守)が最重要」の杓子定規社会に、いつからか日本はなってしまった・・・・という嘆き。

(2) 「その中でも JR場合安全運航が金科玉条で、どんな部署でも現場恣意的判断を許さず、ルール厳守が組織文化軍隊みたいなものでしょう」という企業文化

感想日本軍隊が敗れたのは「現場恣意的判断を許さない」組織文化のせいもあったのではないかと思いますが、どうでしょう?)


(3) なおJR一般については、大学時代に「鉄道研究会」に所属し、今も電車をこよなく愛する某君から、長いメールが来ました。

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彼は住まい関係でJRの利用が頻繁ですが、いかにひどいかを延々と書いてくれました。具体的事例を一々を紹介する紙数はありませんが、

「JRは国鉄時代から悪くなったことはあっても良くなったことはあまりないのでは、というのが私のかねてからの感想です」

「JRへの文句を書き始めたら丸1日かかっても終わらないほど、いろいろ言いた

いことがあります」

という言葉をそのまま引用させて頂きます。


8.また「全く貴兄の言う通りで、ジパング倶楽部への抗議文と、新聞への投書をぜひとも実行すべき」というご提案も頂きました。

これには、気持ちは分かるが「残念ながら、それだけの元気もエネルギーも(時間の余裕も)ありません」とお断りしました。

申し訳ないですが、投書にはあまり興味がありません。

そんなことをしてもJR東海の対応が変わるとも思えないし、逆に京都市助役さんに八つ当たりで跳ね返ったらまことに気の毒だと思うからです。

得てして、こういう組織って、「上にはペコペコ、下には権威主義」という人が多いでしょうね。これこそ、福沢諭吉が、日本社会病理として鋭く批判した「権力偏重」でしょう。


9.それより、昔暮らした、英米豪州の、こういう場合の「悪く言えば、いい加減な」「よく言えば、寛容な・自分裁量判断対処する自由な」社会を懐かしく思い出します。

もちろん、これらの国では、電車しょっちゅう遅れるし、チョンボだらけです。

問題は山のようにあります。日本ほど、完璧でも安全でも清潔でも正確でも便利でも、ない。しかし、人間は間違いを起こす動物です。(ジパング手帳を)忘れる動物です。

自分にも寛容だが、その分他人にも同じように寛容」な社会に暮らすと、住み心地がいいな、私も「他人にできるだけ寛容に接したいな」という気持になります。

我善坊我善坊 2016/07/31 22:37 「保守」は「型」(の遵守)ではないか?そのとおりですね。
「型」の多くは永い年月をかけて出来上がるもので、「伝統」と言っても良い。伝統を伝統ゆえに墨守するのが保守主義だと思います。これに対して、理性による合理的な判断に基づいて「あるべき」を設計するのが(啓蒙)自由主義です。
だから保守は経験主義と親和性があり、リベラルは合理主義と親和性がある。
ただし伝統に依拠して一歩も動かないのは、保守主義ではない。世の中の多くの人々が認めるに至った考えは、既に伝統の一部をなしていますから、人々の最後尾からでもこれを受け容れてゆかねばならない。映画『山猫』の有名な台詞「変わらずにあり続けるためには、変わらねばならい」というのは、保守主義の真骨頂を示した言葉です。過去に拘泥わって世の中の動きに目を瞑り、世界の人々が既に受け容れている思想さえ拒否するのは、単なる反動であって、保守とは似て非なるものです。
和歌と短歌は同じ三十一文字でも、そもそも目的とするところが全く違うのですから、どちらが良いということは言えない。ただし保守派としては、折角の伝統ある和歌が京都のほんの一部の人々だけの文藝になってしまった現状を、大いに残念に思う次第です。同じように「型」のなかで言葉を活かし、多くの式目の制約の中で表現を楽しむ「連歌」(連句とも言う)の方は、今日でも広く愛好されているのですから。

2016-07-24

楽しい京都と、あまりに官僚的ではないかJRさん

| 07:51 |

1. 京都に2泊して、気楽な割烹に2日通い、新人賞受賞の若い作家に会ったことを前回書きました。

2日間とも飛び込みの外国人観光客が現れて、初日イタリア人の姉弟、弟はミラノ工科大学学生

2日目は家族5人のフランス人父親パリ銀行勤め、母親インテリアデザイナー、3人の子供はカナダベルギードイツと離れ離れに暮らし、今回の夏休み日本で集合したとのこと。

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こんな人たちに会って、楽しく、常連さんと一緒に「一期一会」の会話を楽しみました。

彼らもよほど楽しんだのでしょう。姉弟は、私が帰京した後、祇園祭宵々山の夜にまたお店に食事に現れて、いわゆる「裏を返して」くれたそうです。

しかしこの話は陽気な女将がすぐにフェイスブックにアップして沢山の写真を私のサイトにも、いわゆる「タグ付け」をしてくれたので付け加えることはありません。


2. 今回、長々と記録しておきたいのは、京都到着前後の・あまり愉快でない出来事です。

こんな話を載せるのは、私のブログ方針には反するのですが・・・・

JRジパング倶楽部」の会員になっていて、東京京都往復の新幹線はいつもこれを使って「ひかり」で(のぞみは使えない)の3割引きを有難く利用しています。

3月7日以来4カ月ぶりの新幹線の、7月11日の車中で検札に来た車掌さんに切符を見せたところ、ジパングの会員証を見せろと言われて、持っていないと答えたところ、規則携帯を義務付けているので見せない場合は差額料金を払わないと京都で出られないと言われました。

こんなことは初めての経験だったので、ちょっと驚きました。


そこで即OKはせず、結局車掌さんとの会話ではらちが明かないので京都駅に着いてから3人の助役さんと話をしました。

やりとりは以下の通りです。

(1) 会員手帳に「駅もしくは車内で係員から会員手帳・・の提示を求められたときは必ず提示してください」とあることは知っている。携帯しておらず提示できなかったのは、私の落度・過失であり、その点は謝る。

しかし、忘れたりして提示できなかった場合は、差額料金を払えとは手帳に書いていない。

(2) しかも、ジパングは65歳から有効で、私は12年以上使っており、2011年までは京都仕事をしていたので今までに200回以上、品川京都を往復しているが、一度も手帳提示を求められたことはない。

ということは、規則は実際には実施されていなかった。つまり、紙に書いた規則はあるが、運用はそうではなかった。かつ仮に提示を求めて持っていなくても、「差額を払え」とは言わなかったのではないか?つまり、運用が変わったということではないのか?(そして私はそのことを今まで知らなかった)。

―――この2点を糺したところ、JRさんは、「その通り認める」という返事でした。


(3) それなら、「何時から、運用が変わったのか?」

3月26日から」

――「運用が変わる前に、会員に対して周知徹底すべきではないか

3月7日に、京都から品川まで乗車したのが最後である。その際、乗車券提示は求められたが、会員手帳提示は求められなかった。

乗車券をみれば「ジパング利用」は分かるのだから、「3月26日以降からの注意を言ってくれるが親切ではないか

―――これに対する、JRさんの答えは「おっしゃる通り、事前の周知徹底が足りなかったと私も思います。しかしこれがルールになっており、私の一存では如何とも出来ません」の一点張りでした。

(4) それなら、と私がさらに問い糺したのは、

ルール規則というのは不正を防止することにあり、不正によるJR不利益を正すことにある筈。


しかし、私は不正は一切犯していないし、JR不利益を何も与えていない。それは会員手帳記載された記録のコピーを見ればわかると思うがどうか?」

JR 「分かります」

私「それなら、すでに車内で家内電話して会員証が自宅にあることを確認してある、このコピーを取って、京都駅ファックスする。それを受け取れば、私が不正を犯していない、忘れただけということが立証できる筈だが・・・・」

ここまで言ったら、さすがに納得してくれるだろう・・・・

と私はかなり自信を持ったのですが、結局これでもダメで、JRさんのおっしゃる通り差額料金を払って改札を出させて貰いました。

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3. 「運用が変わったことを本日まで知らず、ただ忘れただけで不正もしておらず、不利益も与えておらず、おまけにファックスコピーを見れば購入記録ははっきり分る筈。

それなのに、「ダメ」と言うのは、これは殆どいじめ」ではないか」と思ったのですが、どうでしょうか?

いちばん面白かったのは3人の助役さんの以下のような発言です。

(1)あなたの言うことはよく分る。私だって同じような主張をしたかもしれない。しかし、私の判断では何ともできません

(2)実は、運用3月26日から厳しくなることについて、事前に周知徹底すべき(例えば、会員に手紙を出すなり、毎月会員宛てに送る月報に通知すべき)ではないか本部提案したのですが、返事はありませんでした。

(3)「ファックスについては、あなた理屈は分かるが本部に照会したら「ダメ」と言われました」

という返事で、これにはさすがに驚きました。


助役といったら私のような庶民からは相当の管理職と思いますが、それでもそんな判断自分でできないのですか?」

「そうなんです」

「これが、日本会社普通の姿ですか。それともJRさんが例外的ですか。迷惑不正もないと信じたら(信じると何度も言ってくれました)裁量と融通をきかせる、そういう判断も認められない組織なんですか!」

最後に、そう言わざるを得ないほど驚いた出来事で、

まだまだありますが、こんな話題いつまでも朝からぐちぐち書くのも我ながらうんざりしますので、この辺にします。詰まらぬ話で恐縮です。

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それにしても

「皆さん、文句を言わずに払っています。あなたの言い分は分かりますが、あなただけ例外扱いは出来ません」

とも言われました。日本人ってよほど大人しいのか、私がよほど変わっているかでしょうね。

京都での2日間が何とも楽しかったので、この出来事けがまことに残念でした。

arz2beearz2bee 2016/07/26 08:57 それが決まりですからは怖い、これでいくつかの国がとんでもない間違いをしたような気がします。ITの時代、一回は注意だけのイエローカード二回目は申し訳ないが課金させていただくレッドカード方式が良いと思います。たかだか数秒でチェックできるはずのことです。

デトックスマツコデトックスマツコ 2016/08/15 12:30 私の母80歳も、京都旅行の帰りに同じ経験をしました。
車内のデッキにずっと立たされ、ほとんど犯罪者扱い。
差額を支払うと言っても車掌は激昂してしまい大変だったそうです。
後から、JR東海窓口にクレームをつけましたが、慇懃無礼な対応で、やり場のない気持ちになりました。
同じ経験をなさった方のお話が伺えてなんとなく救われました。