南北戦争とリンカーン大統領―なぜいま、リンカーンか?

柳居子さん、さわやかNさん、有難うございます。
泉屋博古館はまだ入ったことがありません。京都には
いい美術館・博物館がたくさんありますね。但し(もちろん全国
どこでもそうですが)入場料が高いので年金生活者は選別せざるを
得ません。

さわやかNさん、「戦争」というテーマは、11月8日の拙ブログにも
長いコメントを頂きました。

ハリー・ポッターは血統とエリート教育とリーダーと戦争の物語だと
思います」
というコメント面白く読みました。残念ながらハリー・ポッターを読んで
いないのでこちらからのコメントはできませんが。

実は私もこのところ「戦争」について
考えていて、小説『リンカーン』(ゴア・ヴィダル
もそういう一連の思考の中に位置しています。

ということで、またまた硬い話で敬遠されそうですが、
リンカーン大統領について考えます。


1. 彼が大統領に就任したのが、1861年3月4日。約1カ月後の4月
12日に南北戦争が勃発している。
そして、南部連合の首都リッチモンド陥落が1865年4月3日。
南軍の総司令官リー将軍降伏が9日。この時点で戦争はほぼ終結
リンカーンが暗殺されたのは4月14日である。
つまり、彼は、在任期間のすべてを戦争とともに過ごしたのである。


2. しかも、この戦争たるや、アメリカの歴史の中でも群を抜いて戦死者
(戦病死を含む)の多い(推定約62万人)、残酷・悲惨な戦争だった。
  当時の人口の約2%に相当し、これは現在であれば6百万人の死者
という恐るべき数字である。
因みに、アメリカではCivil Warと呼ぶのが普通であり、
これは普通名詞としては「内乱」「内戦」を意味する。つまり
同じアメリカ人同士の殺し合いである。
その意味で日本の近代であれば「西南の役」が該当するだろう
(これは南北戦争終結の22年後、死者は約2万人)


3. これだけの悲劇を大統領として戦ったリンカーンは、歴代の
 中でももっとも偉大な大統領という評価が定着している。
 なぜか?なぜ、これだけの悲劇と死が正当化されるのか?


 もちろん「奴隷解放の父」と言われるように、この戦争を
通して黒人の奴隷制度を廃止したという功績は大きい。
しかし、よく知られているように、彼は、決して急進的な
奴隷制度廃止論者ではなかった。彼の当初の主張は、奴隷州(奴隷を
認めるかどうかを決めるのは各州。従ってこれを認めない北部自由州
と認める南部の利害が対立し、戦争の原因となった)を
これ以上拡大させないというに留まっていた。
 
 (青が北部アメリカ合衆国、赤が南部連合
  水色が合衆国・北部にとどまった奴隷州)

しかも「奴隷解放宣言」を出した当初の理由は彼自身
認めているように、主として南部に打撃を与えるための軍事的な
もので、かつ、南部連合を国家として承認する恐れのあった英国を
けん制する目的もあった。
この時点での「宣言」の中身も、南部連合の諸州における奴隷を解放
するというもので、アメリカ合衆国に留まった奴隷州については対象外
としていた。

4. リンカーン1864年再び共和党から
立候補し再選される。

対立候補民主党マクレラン(上の写真)はもと北軍の総司令官・将軍で
部下の兵士に人気があったという。南部連合との、いっさい
条件をつけない即時全面講和を打ち出し、他方でリンカーン
南部が奴隷制度廃止を認めない限り、戦いは続くと主張する。
ところが長引く戦いに疲れ、戦死におびえ、平和を希求するはずの北軍の兵士は
こぞってリンカーンに票を投じたという。
なぜか?


5. なぜ、リンカーンアメリカでもっとも偉大な大統領なのか?
そもそも、いまなぜリンカーンなのか?
私自身の疑問に答えるべく、ゴア・ヴィダルの『リンカーン』最終章を
紹介することにしたい。

本書はリンカーンの暗殺でそのドラマは幕をとじる。

いわばエピローグとしての最終章は、
ジョン・ヘイが大統領秘書官を辞して外交官としてフランスに赴き、
1867年の1月1日、時のナポレオン3世とその王妃による外交団を
招いてのレセプションに出席した描写にあてられる。
招待客との会話で故リンカーン前大統領について、どんな人物だったかと
訊かれたヘイは「決して自らの信念を疑ったことがなかった人」
と答え、「これは驚いた。とても謙虚な人柄と聞いているが」という
質問に対して、「謙虚な人でした。しかし謙虚だけでは、あれだけの
偉業を成し遂げることはできなかったでしょう」と続ける。


 「リンカーンの大統領としての評価は?」との質問には「歴代でいちばん
でしょう」と答える。「ワシントン初代大統領よりも上ですか?」という
質問へのヘイの答えは以下の通りである。


リンカーン大統領は、ワシントンよりもはるかに大きく困難な課題に直面
したと思います。南部諸州が合衆国を離脱することは憲法上認められる
はずです。しかし、彼は、憲法はそれを認めない、合衆国が割れることは
あり得ないという主張を決してまげませんでした。その考えはたった
1人の人間が担うにはあまりにも大きな責任と犠牲をともないました。
しかし彼は、その結果が歴史上もっとも悲惨な戦争を引きおこすに至っても
大義を捨てず、戦い抜き、勝利しました。その結果彼は、合衆国をもとに
戻しただけでなく、彼の抱くイメージに沿った、まったく新しい国を
作り上げたのです」。 


6. まさしく当時のヘイも現在のゴア・ヴィダルも、自由と民主主義
によって立つ「理念型」としてのアメリカ合衆国は、リンカーン
大統領の傑出したリーダーシップ・人格と、60万をこえる死者の血の
あがない、によって再生したのだ、そしてそれは正しい営為だったのだ
というゆるぎない確信をもっているようにみえます。


それは、「一人の生命は全地球よりも重い」という、よく言われる
言葉と、まったく対極にあるようにみえて、実はどこかで深くつながっている
のではないでしょうか。