京都で『京都ぎらい』(井上章一)を読む

1. 先週は京都に1泊しました。家人がしばらく行っていない,古い友人にも会いたいということで二人旅です。
幸いに天気も恵まれ、さすがに2月は空いていました。勝手が分っていて、親戚や友人たちの住む街は安心感があって、のんびりします。


北野天満宮に参拝をして、8分咲きの梅林を歩いて、バスを乗り継いで、仁和寺にも寄り、「四条烏丸」まで戻り、「柳馬場蛸薬師上ル」にある大学生協が経営する宿に帰ってきました。いつもながら思いますが、こういう地名がいいですね。

2.のんびりバスに揺られながら、
「東京と違って、京都のバスは、後ろから乗って、前から降りる。降りるときに代金を払う」とあらためて気付きました。
東京では、前から乗って、先に払って、後ろから降ります。

どっちだっていいと言えばその通りですが、
(1) まず、街によって「違う」のが嬉しい。
「文明は普遍的なもの・合理的なもの・機能的なもの。対して文化はむしろ不合理なものであり、特定の集団においてのみ通用する特殊なもの」という司馬遼太郎の言葉を思い出しました(『アメリカ素描』)。
「都市によってバスの乗り方が違うのは、安全上問題がある。全国一律にすべきである」なんて言い出す人間がこれからも出てこないことを祈ります。


(2) 前から降りる・降りるときに払う方式のバスが他の街にあるかどうか知りませんが、なかなかいいです。
と言うのも、そうなると、何となく「有難う」と運転手に一言声を掛けて降りたくなります。


東京でも自宅が停留所に近いのでほぼ毎日乗ります。
バスで通学する小学生と時々乗り合わせますが、学校でしつけられているのか、降りるときに、大きく・可愛い声で「有難うございました」と叫んでいきます。
微笑ましい光景ですが、私が後ろから降りるときに、大声で言うのはちょっと恥ずかしい。運転手さんにだけ聞こえるようにそっと口に出して降りたい、それには京都のバスがいい・・・・
などと下らぬことを考えました。


(3)「違い」と言えば、これはご存知の通り、東京はエスカレータに乗ると左に立って、右から追い越していく。京都は逆で、止まっている人は右に立って左から追い越す。
京都駅になると京都以外の旅行客の方が多いせいか東京方式の方が優勢ですが、地下鉄で2駅の四条烏丸までいけば、ここはもう「洛中だぞ」とばかりに誰もが右に立ちます。
今回、大丸百貨店の光景、短いエスカレータに誰もが右に立っている、その姿が面白いので写真を撮りました。

そういえば、ロンドンの地下鉄のエスカレータはどちらに立つか、ご存知でしょうか?

京都と同じです。
右に立つか?左か?

それぞれ理屈があると主張する向きもあるかもしれないが、別に理由なんかない、ただ前からそうなんだと理解したいです。これが「文化」、皆同じになったら詰まらないのではないか。


3. もう1つ、今度は地名ですが、
北野天満宮に行く途中でバスがあちこち停まります。
今出川通りをしばらく西に走るのですが、アナウンスが「次の停留所は、堀川今出川(つまり堀川通今出川通の交叉するあたり)」とあり、
続いて「今出川大宮」とあり、さらに行くと「千本今出川」です。
なぜ「堀川」が先で、なぜ「大宮」だと後になるのか?「千本」は前に来るし・・・
おそらく理屈はないのではないか?
昔から皆がそう呼んできたから、だけのことではないか。これも、大げさだけど、やはりこれが「文化」だろう・・・
ということで、京都に行くと、しょうもない「文化」が幾つも残っていることになぜかほっとします。


4. なぜこんな詰まらぬ話をするか?というと、新幹線の車中で、最近話題の『京都ぎらい』という本を読んだからです。
ごく気楽に読める短い新書本ですが、今年の「新書大賞」受賞だそうで、なかなか面白いです。
東京の本屋でも平積みで並んでいますが、京都の本屋ではさらに山のように並んでいます。

著者は井上章一という国際日本文化研究センター教授。
自らは洛外の嵯峨野で育ちいまは宇治に住んでいる。これは洛中の人達からは「京都人」とは見なされない。
ということで、長年、ひがみと恨みを抱き、京都人の中華意識・差別意識を改めて取り上げ、「京都人にはいやらしいところがある」と書き始めます。


今回、先祖代々長く京都に住む人たちと多く会いました。この本を話題にしたところ、誰も読んではいませんでしたが、話題は知っていました。
「たしかに京都人にはいやらしいところがある」と同意した人もいます。
「例えばバスの車内で大騒ぎをしている子供がいるとする。
そういう時に京都のバスだったら、乗客は母親に向かって
「元気なお子さんやすなあ」と話しかける。
これこそ京都人の「いけず」であろう」という具合です。
もちろん褒められたと思って、「有難うございます」と返事する人はいないでしょうが。


5.しかし、この本で私がいちばん面白いと思ったのは「あとがき」です。

―――著者によれば、京都では「七五三」は「ひちごさん」と読む。
・・・しかし、「東京の政府は、「しち」に正統性を与えている。
霞が関の役人は、各地方でしたしまれてきた地名を、みとめない。
以前、京阪電車で「七條駅」の近づく電車が「しちじょう」というアナウンスが流れる。
私と前後して電車から降りたおばあさんが、「なんや、ここ四条とちゃうやないの、まだ七條(ひっちょう)やんか」とおこりだした。
それを聞いた私は、泣きたいような・抱きつきたいような気持になった。そうや、おばあちゃん、ふたりは、どっちも国家権力にふみにじられた被害者や。
・・・上七軒(京都の花街の1つ)は“かみひちけん”や。――――

ここを読んで、地名ひとつでも国家権力の被害者だと感じるあたり、この人もやはり京都を愛しているんだなあと感じたのは私ひとりでしょうか?

『京都ぎらい』の著者はいろいろ京都の悪口をこの本の中で書いているけど、これが京都人の「いけず」で、バスの中で「お元気なお子さんやすなあ」と話し掛けるたぐいの、ほめるのが実は批判、批判は実は愛情の裏返し、ということではないでしょうか?


対して、東京で生まれ育った私は単純人間ですから、井上教授のような難しいレトリックを駆使するのは無理で、「京都は好きです」としか言いようがありません。