フォーレのレクイエムを聴く

1.1週間前の日曜日は昼前から外出しました。

電車を乗り継いで1時間、横浜みなとみらいホールでの「麻布OB+合唱団」の第2回演奏会を聴きに行きました。会場はパイプオルガンを備えた立派なホールです。

 

2.この合唱団は混声四部合唱で、男声は私の出た中高のOBですが男子校なので、女声は在校生と卒業生の母親です。

男声の最年長は85歳で3人登場。何れも同級生ですが、うち1人S君は義兄でもあるので妻と二人で聴きました。

 第1回は昨年の4月、モーツアルトの「レクイエム」(「モツレク」)を聴き、ブログでも紹介しました。

「モツレク」を聴きました。 - 川本卓史京都活動日記 (hatenablog.com)

3.「レクイエム」はもともと「死者のためのミサ曲」で、曲中で歌われる「主よ、彼らに永年の“安息(requiem英語でrest)”を与えたまえ」からこう呼ばれます。

今年の第2回は、モツレクの約90年後にフランス人フォーレが作曲した、やはり「レクイエム」でした。7楽章からなり、演奏時間は約40分です。 

4.同級生のU君夫妻と4人並んでで聴きました。

(1)彼は大学の合唱団で歌い始め、その後も長年続けていましたが、体調を壊し、5年前に辞めました。

フォーレのレクイエムは大学2年の時に初めて歌い、以来通算5回も歌ったことがある由。

(2)こういう友人が隣に座ってくれるのは、私のような素人には勉強になります。

「珠玉のように美しい、と評される」

「自分の葬儀にはこれを流してほしいという友人がいちばん多い」

など話してくれました。

(3)音楽会に出向くのも久しぶりだそうで、「ソロと合唱ともに素晴らしく、感動のしっぱなしだった」とも。

 と同時に、帰宅してからU君がS君に送ったメールに、「私もご一緒できたら本当に幸せだったのですが」とあったのを思い出し、彼の残念な気持も思いました。

5.この曲の解説を、井上太郎氏の『レクィエムの歴史、死と音楽との対話』(平凡社選書)から幾つか引用します。

 

(1)初演当時、「キリスト教的でない」という批判に、フォーレ自身反論している。

「この曲を死の子守唄と呼んだ人もいた。しかし、私には死はそのように感じられるのであり、それは苦しみというよりもむしろ永遠の至福と喜びに満ちた解放感にほかならない」

(2)「フォーレ自身の楽譜を見ると、ほとんどどの楽章にも「ドルチェ」(優しく)という指定が出てくる。

(3)「第4楽章「慈悲深きイエズスよ」は、ソプラノの独唱だけの曲で、その単純さが、この世のものとは思えないほどの美しさを描き出している。

(4)最後の第7楽章「楽園にて」は、「これほど天国的美しさを描き得た曲がほかにあるだろうか」


6.この合唱団、もとはと言えば、2025年にベートーヴェン交響曲第九番を麻布OB+オーケストラと共に大合唱で演奏したいという目標で結成されたそうです。

現在85歳の同級生3人も、来年の目標達成のために、さらなる精進を重ねる意気込みでしょう。立派なものです。

読書会と『老人と海』再び

  1. 今回もヘミングウェイの小説『老人と海』です。原作は1952年ですから、

今や古典です。


2. 年老いた漁師のサンチャゴと彼を慕う少年マノーリンとの交流の場面が素

晴らしいとは誰もが言うことです。

  

(1)岡村さんからコメントを頂き、青春時代の海外一人旅の思い出を披露して頂きました。

 

(2)彼は、旅の途次、モロッコでもメキシコでもコスタリカでも、現地の少年と出会います。

例えば、「物をねだるわけでなく、いつまでも僕のそばから離れない男の子が居ました」。

「夕方公園のベンチに座って居たら、靴磨きの男の子が靴を磨かして欲しいというので、足を差し出して運動靴を見せたら笑っていつまでも僕の横に座っていました」。

 

(3)『老人と海』を読むと、いつもこういう一期一会の思い出が蘇ってくるのでしょう。 


3. 私はこの本を取り上げた読書会を振り返っています。

(1) 読書会では、話し合います。夫々の感想を聞くのが楽しみです。

自分ひとりでは気付かなかった発見があります。

 

(2) 私たちの会では、

「サンチャゴは孤独だろうか?」

「どの場面が印象に残ったか?」

などの質問が出ました。

 

(3) サンチャゴは、妻に先だたれ、貧しく、ベッド・椅子・机に煮炊きのできる土間だけの粗末な小屋に住み、魚を獲ってひとり暮らしている。古新聞で大リーグの野球記事を読むぐらいしか楽しみはない。客観的にみれば、「孤独な老人」としか言いようがない。

 

(4) しかし、「孤独ではない」という意見も出ます。

何よりも、彼を慕う少年がいる。

海を愛している。「老人はいつも海を女性ととらえていた」。

(5)そして沖合で漁をしながら、海鳥や魚に声を掛ける。ひとりごとを言う。思い出す。

舟に近づく二匹のイルカを見ると、いいな、じゃれ合い、惚れあっているんだな、と思い、洋上を飛んできた小鳥が釣り綱にとまれば、「なあ、チビ、たっぷり休んでいけ」 と声をかける・・・・                                                   

 巨大なカジキに出会い、苦闘の末釣り上げるが、その過程で相手に敬意と友情を抱く。

「人間は叩きつぶされることはあっても、負けはしないんだ」と呟き 、「だれでも何かを殺して生きている」と思い、執拗に襲い掛かる鮫と闘い続ける。

――それは、孤独など意識しない老人が、自然や動物と一体化して生きる姿ではないだろうか。


4. 印象に残る場面は沢山あります。

一つだけあげれば、つがいのカジキの片割れを釣ったときのこと。

―カジキの雄は、まず雌から先に餌を食わせる。この時も雌が引っ掛かって暴れている間、雄はずっと離れなかった。

―少年の手を借りて舟に引っ張りこんでも、まだ雄は舟から離れようとしなかった。

―それから、雄は高く跳ね上がって、雌がどうなったか知りたいように舟を見てから、ようやく深く潜っていった。

―「あれは立派だったと、いまも老人は思っている。(略)だからこそ、あのときは悲しかった・・・・」

  1. 岡村さんも海外での青春一人旅で、時には、少年や動物に声を掛けたり、

ひとりごとを言ったりしたことがあったでしょう。

「小料理屋namida」と『老人と海』

  1. 3月初めの土曜日、長女夫婦から誘われて、我が家から徒歩20分、井の

頭線下北沢駅近くの小料理屋で4人で夕食をともにしました。

 「日本酒とワインと小料理」と銘打ち、カウンターだけの10席しかない「小体(こてい)」な店です。

2.「namida」という珍しい店名です。

調理場がオープンなので店主と話が出來ます。

「泣く涙のこと?」と訊くと「そうです」という答え。

「誰もが訊くと思うけど、なぜ「涙」なの?」と次なる質問です。

 

3.「二つあります」という答えで、

一つは徳川美術館所蔵の「泪(涙)の茶杓」から。

秀吉に切腹を命じられた利休が、最後に開いた茶会のために自ら削った茶杓。弟子の古田織部が形見にもらい受け、窓を開けた筒に納めて「泪」と名付け、位牌代わりに拝んだと言われている。

もう一つは、フランスのブルゴーニュでワインを作っている女性の、「悲しみの涙と喜びの涙がある。涙の成分も違うらしい。そんなことを考えながら、良いワインを作ろうと努力している」という言葉から思いついた。

4.そんな説明でした。

二番目の説明が私にはよく分かりません。しかし、料理しながらの会話なので、これ以上質問するのは控えました。

そしておいしい料理とお喋りを楽しみながら、世界はいまも「悲しみの涙」に溢れている。ウクライナでも、ガザでも、能登半島でも・・・・。しかし、「喜びの涙」はあるか?と考えました。

 

5.たまたま翌日の日曜日には月1回の読書会があり、6人が集まりました。

今回のテキストは『老人と海』(アーネスト・ヘミングウェイ著)です。

「著者にノーベル文学賞をもたらした、文学的到達点にして永遠の傑作」と新潮文庫(高見浩)の帯文にあります。

京都の岡村さんの愛読書で、コメントに度々取り上げてくれました。

 

6.物語は、

――84日間不漁が続く老いた漁師は、慕ってくれる少年に見送られて、85日目もひとり小舟で海に出る。

沖に出て、5m半もある巨大なカジキを格闘のすえ釣り上げる。しかし、鮫に襲われて三日目に港に帰り着いたとき、船側に繰り付けられたカジキは鮫に食い尽くされ、骨だけになっていた。

疲れ果てた老人を少年が出迎える。

少年は老人に、元気になったら昔のように漁に連れていってほしい、「また一緒に行こうね」と何度も念を押し、物語は終わる―

「陸で待つ少年の存在がいい」「二人の会話や行動からにじみ出る、お互いへのリスペクトがすばらしい」と評されます。

6.この場面で少年は、大きな獲物を得たのに鮫との格闘で全てを失った老人が、怪我をしつつも無事帰港した姿を見て、何度も泣きます。

“cry”という英語が5回出てきます。

朝になって老人の小屋に行ってまだ寝ている彼の「手を見て、思わず泣き出した」。・・・小屋を出て「コーヒーを持ってこようと歩き出したが、ずっと泣きどおしだった」・・・・という具合に。

 

7.彼はなぜこんなに泣くのか?

敗者の心情を思いやる「悲しみの涙」か?

それとも,闘い抜いて無事生還した勇者と再会した「喜びの涙」か?

読書会で、そんなことを考えました。

京都で墨染寺にも行きました

  1. 今日は雛祭り。東京も梅が盛りです。

東京での梅見を楽しみつつ、まだ京都の話です。

2.2月16日、藤野さんと昼食をともにしながら「源氏物語」の話をしているうちに、「墨染寺(ぼくせんじ)に行きませんか?」という話になりました。

(1)京阪電車で、「東福寺」や「伏見稲荷」の先の「墨染(すみぞめ」駅で降りてすぐ、日蓮宗のお寺です。

(2)案内板には、「境内には、墨染の地名の由来となった墨染桜が植えられている」。その由来は、

平安時代歌人上野岑雄(かんつけのみねを)が、当時の関白の死を悼んで

深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染めに咲け」

と詠んだ。すると「当地に咲いていた桜が喪に服するかのように薄墨に咲いたと云われる」。

(3) 古今集に載ったこの歌を、紫式部は「源氏物語」で2度引用(「引き歌」)しています。

例えば、桐壺帝の中宮藤壺の死に際して、源氏が悲嘆にくれる場面――「源氏は、住まいである二条院の桜を見て、藤壺との「花の宴」を思い出し、「今年ばかりは」と独り言を言って、終日念誦堂に入って泣き暮らした」(薄雲の巻)。

源氏の「独り言」が上記の歌からの引用であることを理解する、それが当時の読者の教養でした。

(4) この歌は以前のブログでも紹介しました。

それを読んだ岡村さんが、わざわざ出かけて写真を送ってくれました。

今回私も藤野さんに連れていってもらい、感謝です。

 

(5)2月ですから、むろん桜はまだで、訪れる人も我々二人だけでした。墨染桜自体はごく小ぶりで目立ちませんが、大きな桜もあり、満開の写真がJR の「そうだ京都行こう」に載っています。

3.最後に『源氏物語』についての補足です。

(1)本書について、以下は渡部泰明東大名誉教授の紹介です。

「千年も前に、一人の女性の手によって、これだけ繊細かつ雄大な物語が生み出されたことを、日本文学史上の、いや世界の文学史上の奇跡だという人もいる。すでに鎌倉時代から古典の地位を確立し、後世の文化に与えた影響は計り知れない」。

 

(2)『源氏物語』は、紫式部自作の歌が795首も載っていると同時に、「今年ばかりは」の例のように「引き歌」を初めとする古典からの引用が豊富です。歌が(男女の)コミュニケーションのもっとも重要なツールだった時代、本書は歌詠みに必須な教養を身に付ける書物でした。

だからこそ約100年後に歌人藤原俊成は、

「源氏見ざる歌詠みは遺恨のことなり」

と述べ、この言葉が本書の価値を決定づけたと言われます。

(3)京都で2月15日に「白梅」で夕食をともにしたときも、本書が話題になりました。

夕食に招いてくれた冷泉貴実子さんは俊成卿の子孫です。

彼女は、「この時代は、女性にとって生きづらい時代だったとは思う。しかしその中で、かな文字を駆使して、歌を詠み日記や物語を書き、自己表現をしていった女性が紫式部に限らず大勢いた。世界のどこを見渡しても、千年も昔に、文学の主要な担い手が女性だったのは日本だけではないか。そのことは素晴らしいと思う」とさかんに言っていました。

京都の朝は、まずはイノダコーヒ

  1. 前回は京都に一泊した話でした。

(1)久しぶりに泊りがけの旅です。13年暮らした街だけに、この機会にお会いしたい方も多いのですが、滞在時間が限られます。

(2)フェイスブックを見て「会えずに残念」と言って頂く方も居られて有難く、こちらも同じ思いですが、忙しく活躍中の方々の時間を頂くのはどうしても気が引けます。

  1. そんな老人には、ホテルから歩いて5分のイノダコーヒの存在は有難いです。

ここに行けば会いたい方の多くにまとめてご挨拶ができるからです。

(1)常連の面々が朝早くから5番テーブルに座っておられます。

主の下前さんを始め、見知った方に挨拶し、妻ともども厚かましく仲間に入れて頂き、皆さんのお喋りに耳を傾けます。

(2)これだけで京都に居るなあという思いを強くします。

 この日は、岡村さんにお願いして、まだ開いていない旧舘にも入れて頂き、写真を撮りました。

(3)昔訪れた有名人の写真が飾ってあります。

谷崎潤一郎は京都で「現代語訳源氏物語」に取り組みつつ、時に散歩の途次、珈琲の味を楽しんだとか。吉村公三郎監督の映画「夜の河」(1956年)では、山本富士子上原謙が会う場面に使われました。

  1. (1)妻はこのあと先に帰京し、私ひとり夕方の電車までの時間を過ごしま

した。妻がキャリーバッグを引いて帰ってくれたので、私は肩にかける鞄だけになり、助かりました、高齢者の旅は短く、かつ軽装に限ります。

(2)三条通の、京都健康管理研究会のオフィスにもお邪魔しました。高齢者医療や介護を二つの課題の一つとして取り組んでいます。

理事長さんは、「若手への助成に加えて、高齢者がそれなりに、健康を自ら管理できるような情報発信、啓発できる財団として存在」したいという意欲を季刊誌の巻頭に述べておられます。

(3)そのあとは、同じ三条通京都文化博物館でやっている「紫式部源氏物語」の展示を見ました。

  1. お昼は藤野さんにお願いして、烏丸御池に近い蕎麦屋尾張屋本店」に行

きました。

昔、京都住まいのときは散歩がてら時々ひとりで訪れました。

構えがいかにも古いお蕎麦屋で、東京ではこういう雰囲気の店がほとんど無くなっているので、久しぶりに覗いてみたくなりました。

壁に「京都商工業創業年代番付」が貼ってあります。

創業の古い順番で、尾張屋は西の横綱です。寛政6年創業は西暦1465年、応仁の乱の前年というから驚きます。

 昼時を過ぎても観光客が大勢並んでいました。

  1. 二人で、お銚子とせいろを頂き「源氏物語」の話をしました。

(1) 藤野さんは、もちろん詳しいです。

文化博物館の展示を見てきたこと、「紫式部ゆかりのまち、うじには物語がある」と謳ったポスターが貼ってあったことを報告しました。

(2) 「うじ」は、13年勤務した場所です。大河ドラマ「光る君へ」の舞台としてこれから出てくるでしょうか?宇治が大いに注目されてほしいです。

(3)私は54帖の「物語」の中で「宇治十帖」をとくに好みます。そして、そう述べる研究者は少なくないようです。

 

京都祇園の料理屋に6人が集まりました。

 


  1. 先週木曜日(2月15日)、久しぶりに京都に出掛けて一泊しました。到着日は雨が降りましたが、暖かかでした。

  1. 宿は地下鉄「烏丸御池」近くの安宿ですが、どこに行くのも便利で、応対

も親切で気に入っています。

昔単身赴任したときに13年住んだ、柳馬場という通りに面したアパートも近iくです。

 到着早々、早速傘をさして散歩に出掛け、御池通から柳馬場を南に右折しました。

古いお店、丸平大木(人形店)や宮脇賣扇庵が健在なのを確かめ(京都人からは「当たり前や」と言われるでしょうが)、松井本館という和風旅館の真ん前にある、昔と変わらないアパートを眺めました。

 2ブロック下りて錦小路も歩きました。

 

3.京都に住む従妹夫妻がホテルまで来てくれて、積る話を交わしから、祇園「白梅」まで出掛けました。3組6人の久しぶりの夕食会で、従妹がアレンジしてくれました。

 もう一組は、もとの職場の同期生とその奥様です。長年パリに勤務していましたが、退職して帰国してから縁もゆかりもない京都を永住の地に選び、もう20年近く、仁和寺のそばの閑静なお住まいで暮らしています。

4.「白梅」は祇園新橋白川ほとりにあります。

(1)もとは江戸末期創業のお茶屋で、昭和24年に料理旅館に転業。

白川にかかる小さな石橋を渡って店に入ります。橋の両側に梅の古木があって、店名はここから来ています。

(2)白川を眺める部屋でゆっくりと食事を頂き、6人で他愛もないお喋りをしました。

(3)顔をだしてくれた女将の、「あたたかな雨どすなあ」という柔らかい京言葉を聞いて、例の吉井勇の歌、

「かにかくに 祇園はこひし寝(ぬ)るときも 枕のしたを水のながるる」

を思い出しました。

この店もやはりかつては吉井勇ごひいきだったそうです。

5.このところ加齢とともにすっかり出不精になって、とくに泊りがけの旅が億劫になりました。しかし、従妹の誘いに乗って思い切って京都まで出掛けてよかったなと思いました。

前回のブログに岡村さんがコメントしてくれたことを思い出しました。

6.前回、昔の職場の仲間と夫婦で、東京六本木の先輩のお宅に集まった報告をしました。

(1)こういう男女の集まりは良いですね、と岡村さんからコメントを頂きました。

(2)彼は祇園町の会長ですから、女将さん舞妓さんをはじめ、女性との付き合いは慣れています。

(3)しかし日本の男性は一般に、女性とくに連れ合いも交えての交遊はさほど多くないかもしれません。

私の職場は、海外勤務が多く、家族ぐるみで付き合い、助け合う機会が多かったです。

それと、自分の意見をはっきり言う奥様が多いように思います。この日もご夫婦のそれぞれが自分の意見を持っていて、ときにそれが異なり、昔の職場の雰囲気もこうだったなと懐かしく感じました。

(4)岡村さんはコメントの最後に、神戸の中華街に春節祭を見に行ったことに触れて、「年をとっても出来る限り外出は必要だと思いました」とも書いておられます。今回の京都で、私も本当にそうだと思いました。

京都祇園の料理屋に6人が集まりました。

  1. 先週木曜日(2月15日)、妻と二人、久しぶりに京都に出掛けて一泊しました。到着日は雨が降りましたが、暖かかでした。

  1. 宿は地下鉄「烏丸御池」近くの安宿ですが、どこに行くのも便利で、応対

も親切で気に入っています。

昔単身赴任したときに13年住んだ、柳馬場という通りに面したアパートも近くにあります。

この日も到着早々、早速傘をさして散歩に出掛け、御池通から柳馬場を南に右折しました。

古いお店、丸平大木(人形店)や宮脇賣扇庵が健在なのを確かめ(京都人からは「当たり前や」と言われるでしょうが)、松井本館という和風旅館の真ん前にある、昔と変わらないアパートを眺めました。

さらに2ブロック下りて錦小路も歩きました。

 

3.4時半には京都に住む従妹夫妻がホテルまで来てくれて、積る話を交わしから、祇園「白梅」まで出掛けました。

3組6人の久しぶりの夕食会で、従妹がアレンジしてくれました。

もう一組は、もと同じ職場の同期生とその奥様です。長年パリに勤務していましたが、退職して帰国してから縁もゆかりもない京都を永住の地に選び、もう20年近く、仁和寺のそばの閑静なお住まいで暮らしています。

(写真4-錦4547)

4.「白梅」は祇園新橋白川ほとりにあります。

(1)もとは江戸末期創業のお茶屋で、昭和24年に料理旅館に転業。

白川にかかる小さな石橋を渡って店に入ります。橋の両側に梅の古木があって、店名はここから来ています。

(2)白川を眺める部屋でゆっくりと食事を頂き、6人で他愛もないお喋りをしました。

(3)女将が顔をだしてくれましたが、「あたたかな雨どすなあ」という柔らかい京言葉を聞いて、例の吉井勇の歌、

「かにかくに 祇園はこひし寝(ぬ)るときも 枕のしたを水のながるる」

を思い出しました。

この店もやはりかつては吉井勇ごひいきだったそうです。

(写真5-4560白川)

5.このところ加齢とともにすっかり出不精になって、とくに泊りがけの旅が億劫になりました。しかし、従妹の誘いに乗って思い切って京都まで出掛けてよかったなと思いました。

前回のブログに岡村さんがコメントしてくれたことを思い出しました。

(写真6-白梅4559②)

6.前回、昔の職場の仲間と連れ合い同伴で、東京六本木の先輩のお宅に集まった報告をしました。

  • 岡村さんからこういう男女の集まりは良いですね、とコメントを頂きました。
  • 岡村さんは祇園町の会長で、根っからの祇園育ちですから、女将さん舞妓さんをはじめ、女性との付き合いは慣れています。
  • しかし日本の男性は一般に、女性とくに連れ合いも交えての交遊はさほど

多くないかもしれません。

私の昔の職場は、海外勤務が多く、家族ぐるみで付き合い、助け合う機会が多かったです。

それと、自分の意見をはっきり言う奥様が多いように思います。この日もご夫婦のそれぞれが自分の意見を持っていて、ときにそれが異なり、昔の職場の雰囲気もこうだったなと懐かしく感じました。

(写真7-4562貴実子)

(4)岡村さんはコメントの最後に、神戸の中華街に春節祭を見に行ったことに触れて、「年をとっても出来る限り外出は必要だと思いました」とも書いておられます。今回の京都で、私も本当にそうだと思いました。