ピノキオP「アッカンベーダ」考

【MAYU】アッカンベーダ【オリジナルPV】
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 「アッカンベー」というのはご存知の通り、下のまぶたを指で下げて、舌をべーっと出すやつですね。僕はやったことないですけど、漫画やアニメなんかではものすごい当たり前のようにこの表現が出てくるので、ボディランゲージとして知らない人はいないと思います。僕は人にやられたこともないですけど。
 ちなみにビッグコミックオリジナルの巻末には「赤兵衛」という漫画が載っています。

 語源の由来としては「赤い目」が転訛したもので、あれ?「べー」のところは舌を出す動作のことなんじゃないの?と思うかもしれませんが、本来は別に舌を出すものではなかったみたいですね。「べー」と舌を出すだけでも同じ意味にはなりますが、こちらは「からかい」よりも「おどける」要素の方が強いような気もします。もちろん言葉のニュアンスというのは使われる場面や状況によって変わるものです。
 これのもっと腹立つバージョンが「べろべろばー」なのかなと思ったりもしたんですが、「べろべろばー」なんて赤ん坊をあやす時くらいにしか使わないし、それ以外の時にやったら単に頭のおかしい奴だと思われるだけですね。世知辛い世の中だ。
 ちなみに今年の大河ドラマは「黒田官兵衛」です。

 前口上はこのくらいにして、「アッカンベーダ」という曲は一聴するとただの恋愛ソングのように聞こえますが、「ラブソングを殺さないで」という世の中のラブソングを全部ひっくるめたような曲を書いた人が、今さらただのラブソングを書くでしょうか。この曲に共感するという人がいたとして、「初恋を思い出した」とか「女心がわかっている」とか、そういう感じ方も純粋だし、最終的には僕もそこへ帰り着くべきだと思うんですが、この曲は恋心にフォーカスを当てながら、カメラを引くとものすごい深淵が広がっている。そういう感じ方ができる曲だと思うのです。最近のピノキオPの曲には総じて言えることかもしれませんが。

「何て言えば正解だっけ」

 人は状況に合わせた台詞を無意識のうちに選び取っているもので(無意識に話しているというわけではなく、浮かんでくる言葉自体が無意識的ということ)、怪我人を心配してデーゲームの結果を尋ねたり、物を拾ってくれた人に井戸の話をし始めたりはしません。心配したら「大丈夫?」、親切には「ありがとう」。「売り言葉に買い言葉」ということわざがありますが、これは喧嘩だけでなく、あらゆる会話に対して言えることです。
 巷にはそれまでの脈絡を全部無視していきなり突飛なことを言い出すような人もいますが、そういう人は普段から周りにいてくれる人たちに感謝する必要があるでしょう。

「急に刺したり 首を絞めたら大事件だね」

 好きな人と二人っきりで頭がごちゃごちゃになっちゃってる女の子だからこそ、この歌詞はすんなりと入ってくるわけですが、小汚いおっさんが街をぶらついている時にこう考えてもおかしくないんですよ。ただそれだとあまりにも不穏なので、恋愛にフォーカスを当てることでカモフラージュしている。でもね、小汚いおっさんだって「素直にしゃべりたい」とは思っているはずなんですよ。

「台本にないセリフは言えない」

 しかし、すべての言葉が状況や場面に応じて出てくるのならば、それは状況や場面が作り出した台詞に過ぎないのではないか。それどころか、自分はどこかで聞いたセリフをなぞったり、受け売りを話し­ているだけで、本当に自分の中から出てきた言葉など無いのではないか。疑いだすとキリが無くなってきます。『Aの時にはBと言う』の台本(テンプレート)ばかり作って、その通りに話しているだけ。
 まず状況があって、その後に言葉がある。では、まず言葉があって、そこから状況が生まれることは? その答えが「台本にないセリフは言えない」。行き詰まりです。

「わかりやすいあやつり糸で あなたの望むままに」

 曲の後半になって出てくるこの歌詞が出口の無い懐疑論のえげつなさをさらに加速させます。自分だけではなく、相手も同じように台本通りのことしか言えないので、「わかりやすいあやつり糸」が見えてしまうのです。そして、その通りに踊らされる。いや、自分から踊るんですね。
 「何でもない、また明日。」っていう台詞の既視感すごくないですか?
 「どうしたの?」「ううん、何でもない」こんなやり取り僕らフィクションの中で何回見せられてきたんでしょうね。この曲はそれをあえてやっているんです。日常の会話は記号と化して、それぞれに対応した記号のやり取りになっていく。冒頭の話に戻りますが、「アッカンベー」なんていまどき子供だってしません。

 フィクションの中の型にはめ込まれていくというテーマでは別に「週刊少年バイバイ」という曲があります。こちらも単純に漫画にフォーカスを当てて皮肉っているだけではなく、カメラを引いてみると現実世界の読者がいるわけですね。漫画というのは現実から描き起こされたものであるはずなのに、漫画から描き起こされたような人物がいて、どうにかして物語を面白くしようとしている姿が「打ち切り漫画のキャラクター」によく似ている、という歌詞の鋭利さは特筆ものです。

 「週刊少年バイバイ」における「素直な気持ちを叫んだってよくある記号の羅列だって」という歌詞は、「アッカンベーダ」に先んじてその本質を集約しています。漫画の中だけの話ではないんです。現実世界のコミュニケーションですら漫画化している。
 もちろん考えすぎです。疑いだしたらキリがないんです。だから「違う違う違う」と首を振らなければならない。ちゃんと自分の言葉で、たとえどこかで聞いたことのあるようなフレーズでも、吟味して、咀嚼して、反芻して、ようやく吐き出してこそ、想いは伝えられるものではないでしょうか。少なくとも「想いを伝えたい」という想いは伝わるはずです。

 そして、僕たちは「アッカンベー」がこちらに向けられている意味を今一度考えてみるべきではないかと思います。「かわいい」とか呑気に言ってる場合じゃないですよ。

ねこみぞ

 道のわきにある みぞから ねこが出てくるのを 見たことがある? みぞにはフタがはまっていたり、 雨の日には 水が流れていたりするけれど、 ねこたちは体が小さくて やわらかいから 自ゆう自ざいに出たり入ったり、 雨の日にはすいーっと泳いだりして、 町の中をじゅうおうむじんに かけまわっている。
 みぞが町じゅうに はりめぐらされているおかげで ともだちに会いに行くのも かんたんだし、 何かこわいことがあった時には すぐにかくれられるので とても安心。こわいことっていうのは ちかくで大きな音がなったり、 車や人間においかけられたりすること。 だから ねこはいつも 耳をピンとそばだてて こわい気配をさがしている。
 人間たちが入れないような みぞのおくには ねこだけのひみつきちがあって、 みんながいつもしているように ごはんを食べたり、 テレビを見たり、 べんきょうしたり、 夜になったら いびきをかきながら ねむったりしている。 人間にかわれている ねことはちがって 何から何まで自分でやらないといけないから たいへんだけど、 ここでの暮らしを気に入っているねこも けっこういるみたい。 なんたって みぞの中を歩けば どこまでも行けるのだから。 せまいへやのなかに とじこめられているよりも ワクワクするんだろうね。
 でも 中には みぞのおくから出てこないで ずっとテレビを見たり ごはんを食べてばかりいるねこもいて、 そういうねこは 自分でも気がつかないうちに まるまると太ってしまう。 そうして ごはんがなくなって おなかがすいたから ひさしぶりにどこかへ出かけようとしたところで はじめて体が大きくなりすぎて みぞから出られなくなっていることに 気がつくんだ。
 みぞの中はめいろみたいに入りくんでいて、 ベテランのねこでもときおり 道をまちがえてしまうことがある。 みぞから顔を出して あたりをキョロキョロとしているねこがいたら それは思っていたのとはちがう場所に出て、 困っているねこだろうね。 よっぽど大きなまちがえ方をしなければ そこまで遠くに出ることはないけど、 ふしぎなことに 道をまちがえたまま 戻ってこないねこもいる。 みぞの中には はりめぐらされた道とはちがう べつの世界につうじているヨコ穴や 落ちたら最後 ねこのジャンプ力でも のぼってこられないタテ穴があいていることがあって、 ねこたちはみんな気をつけているんだ。 戻ってこなかったねこは もしかしたら その穴のおくふかくへ行ってしまったのかもしれないね。
 みぞと同じように 穴もあいている以上は どこかにつうじているはずで、 それは地球のうらがわかもしれないし、 ねこにとっても さらにひみつのきちかもしれない。 そこが ねこにとって ねこみぞ以上に かいてきなばしょだったとしたら だれひとりとして もどってこないのも うなずける。 おさかながいっぱいとれたり、 どれだけ太っても困らなかったり、 車や人間たちに追いかけられたりしないところ。 そこは ねこたちの らくえんなのかな?
 それでも ほとんどのねこは その日その日を気ままにすごすだけで まんぞくしているから そんなところがあったとしても われさきにと向かうことはないだろう。 ただ よっぽどいいところだと ひょうばんになったら さすがのねこもゆっくりと少なくなって、 わたしたちの気がつかないあいだに 町からねこは いなくなっているかもしれないね。
 それが ねこだけとも かぎらないけど。




7歳向けに書きました。

ヒトデ、爆散

 救われると思って手を伸ばしたら引っ掴まれて離してくれなくなっただけのことを運命とか言って軟禁状態を続けているところにまっとうな生活が付き従ってきたらそれはもう人生だろうななんてことを考えながら何物にも手を伸ばせずに引っ掴まれることもなく毎日を無為に過ごしていたヒトデが昨晩自殺した。目が覚めてから今日が土曜日だということに気が付いてホッとするいつもの朝にホットコーヒーを淹れてから無作為にかけようとした電話の隣の水槽の中で無残な姿に変わり果てたそいつを俺は二度見した。そして一先ず今まで一度も考えたことのなかったヒトデの死に方について常識の範囲で想像しうるかぎりのパターンを十個くらい思い浮かべてからそれらが今目の前で死んでいるヒトデに一つもかすりすらしないことに改めて生命の神秘を感じたりした。ヒトデは爆散していた。
 千切れてバラバラになっているだけなら「爆散」の「爆」の部分は確かではないはずだが不思議と爆散という響きに確証があったのは昨日五十個の星の散りばめられた国で大規模な爆破テロがあったためだろう。テレビをつけると今日もニュースではホットトピックスとしてその事件が扱われて凄惨な現場から爪痕とか警戒とかいう言葉を駆使して臨場感のあるリポートが成されている。俺はホットコーヒーを飲みながら最近ではネットの普及によって絶滅にひんしているタウンページを繰ってペットショップだとかペット霊園だとかの電話番号を調べて本当なら休日を有意義に過ごすために恋人だか友人だかにかけるはずだった受話器を手に取った。端的に言えばペットショップやペット霊園ではまともに取り合ってはくれなかったもののそのあとに思い付きでかけた熱帯魚などを扱っているアクアショップではやや食い気味なほどに状況を説明させられて午後にヒトデを持っていくことになった。これに関しては自分でも願ったり叶ったりというか水槽の中で爆散したヒトデを前にして先行きの見えない朝もやの中で一束のわらをつかんだような気持ちだった。ただ先方の午後とは言わずに今すぐにでも来てくれと言わんばかりの対応に少しだけ引いたのと今日はやっぱり恋人だか友人だかと出かけて気分を晴らしたいという気持ちが次第に強くなってきたのでアクアショップには何の断りもなく行かないことにした。
 翌日になって昨日と変わりなく水槽の中で爆散しているヒトデを見ると情感など何一つ湧いてこないでこれはもうただの死肉でしかないと思い始めたので手っ取り早く処理するためにも昨日電話したアクアショップになかば押し付けるつもりで持って行くことにした。水槽にはヒトデしか入っていなかったのでそのまま車に担ぎ込むとふだんの要領でアクセルを踏み込んだが水槽の中でちゃぷちゃぷと波打つ音が聞こえたのでおのずと制限速度を守ることになり目的地までには当初の予定よりも十五分くらい遅く到着した。アクアショップはすでに営業しており俺は店内に入って店長らしき人物を見つけると「遅くなりました」と告げた。頭の禿げかかった中年男性は「はあ」と言って何の事だかわかっていなかったようなので「ヒトデの件でお電話差し上げたものです」と伝えると目つきを変えて「なんで昨日来なかったんですか」と少し怒気の混じった声を上げた。俺は一瞬このおっさんは客に対してとるべき態度を見誤っているのではないかと感じたものの個人経営の店なんてものは大概こんなものなのかもしれないし何よりそれだけ生き物たちにかける情熱があるということだからここにヒトデの死肉を持ってきたのは間違いではなかったと思った。俺は車から店内に水槽を運び込むともう自分のやるべき仕事は終わったという風に帰ろうとしたが店主に呼び止められてなぜだか地下室に同伴することとなった。一見どこにでもある大きさの自宅店舗に地下があるというのは驚きだったが深海魚だとかそういう環境でしか飼育ができない生き物も取り扱っているのだろう。店主の背中からにじみ出る汗がポロシャツにハート形の沁みを広げていくのを眺めながらひとしきり階段で降りてドアを開いたら到着かと思いきやそこにあったのはエレベーターだった。店主が手早くナインキーを打ち込むと扉が開いて俺たちはさらに地下深くまで降りていった。「地下で核実験でもしてるんですか」と冗談交じりで聞くと店主は振り返らずに「それに近いことはしている」と答えた。俺は店主の背中から彼の後頭部もハート形に禿げかかっていくだろう気配を読み取った。
 エレベーターを降りてからさらに通路を進んで最後の堅牢な扉が開かれた先には地上には無かった大型の水槽がいくつも立ち並んでいた。中にはクジラでも入りそうなプールと呼んでもいいくらいの大きさのものもあってそのいずれにも謎の溶液が満たされているばかりで中には何も入っていなかった。俺が爆散したヒトデの入った水槽を抱えながら呆気にとられていると店主はおもむろに「工場長!」と叫んだ。その呼び声を聞きつけたのか工場と呼ばれた広大なスペースの奥の方から人影がにょっきと現れてこちらに歩いてきた。そいつは最初遠近法が狂っているのかと思ったが近づくにつれて身長が三メートルもある巨大な赤ん坊であることがわかった。つなぎを着ている姿は確かに工場長と呼ばれるにふさわしいのだがなぜ赤ん坊であると思ったのかというと頭が異常にでかい上に顔面が生まれたての赤ん坊の泣き顔そのままだったからだ。工場長は「こちらへどうぞ」と言ってつなぎのファスナーを下したのでいったい何を見せつけられるのかと思ったがそこにあったのはただただ何もない空間だった。店主は工場長の体を真っ二つに裂くように押し広げなから中に入っていったので俺もその体が弾性で縮まらないうちに急いで潜り抜けた。外目からは何もないように思われた空間に入ってみるとそこにはまた水槽が立ち並んでいて今度はちゃんと中に生き物も入っていた。ただどのような角度から何度目をこすって見ても水槽の中に入っているのは紛れもなく人間だった。「あの、この人たちは」と先行く店主に話しかけると「昨日爆破テロがあっただろう」とやはり振り返ることなく答えた。「こいつらはその実行者たちだ」
 店主はある人間の入った水槽の前で立ち止まると俺にヒトデの入った水槽を降ろすように指示した。そしておもむろに手を突っ込んでヒトデの死肉の一つを水の中から取り出すと目の前の水槽の中に放り込んだ。水槽の中の人間は気配を感じ取ったのか目を閉じたまま片腕だけをすばやく動かして死肉をつかみ取りむさぼり食べた。「どういうことなんですか」「ヒトデは念を持った生き物であり種族間で共感覚を持っている。遠き星条旗の翻る土地で命を落とした同胞のことを思って自らの変わることのできない焦りや苛立ちややるせなさから自死を選んだのだろう。その血肉は新たなる革命を生み出すための養分として今再び吸収された。君には感謝している。人海に離れすんだ彼らがこうして戻ってくることはまれにみることであり貴重な資源の再利用は我々にとっても有益なことだ」「そんなことを聞いているんじゃない。俺は大切な友人を食べさせるために持ってきたんじゃない。人に食われるくらいなら俺が食べてやる」そう言って俺は水槽の中に残っていたヒトデの死肉を洗いざらいつかみ取ってはむさぼり食べた。途端に眩暈がして視界が歪み目の前にいたはずの店主がヒトデの形に姿を変えたかと思いきやとうとう気を失ってしまった。救われたと思っているやつは馬鹿なんだという声が頭の中で何重にもなって鳴り響いていた。

武器、裸、棒

 もうダメかもしれない。死のう死のうと言葉ばかりで思っている。死ぬより先にやることはたくさんあるはずなのに、手っ取り早く現状を打破する裏技みたいに死を持ち出して、気狂いのナイフみたいに振り回している。そんなもの使う勇気すらないだろうに。そういうものを本気で使うやつは、いざという時まで引き出しの奥にひっそりとしまっているんだ。そして、よもやこれまでと追い詰められた時になって、ようやくそこに一発逆転の秘密兵器が眠っていたことを思い出したように取り出してくる。そいつを使うことにためらいはあれど、その意志に迷いなど無く、ぐさりとやるんだ。死のう死のうとぼやいているばかりの俺みたいなのは、とりあえず腹底に剣でも呑んでみないかぎりは、そいつを自分の武器にすらできやしない。
 打製石器磨製石器、青銅器、鉄器、人類の武器は歴史とともに頑丈で成形しやすい素材を使うようになっていった。中でも火薬を使った鉄砲の発明は時勢を大きく変えただろう。狩猟から戦争へ。個人から集団へ。より広範囲に、より効率的な殺傷能力を求める過程で武器は次第に身体の感覚から離れていった。使い手が人間である以上、最大の障壁は「実感」だった。傷つける実感。壊す実感。そこから生じる未来への想像力。究極にまで簡略化されたアクションによって、それらの実感が人類の手から奪われてしまった時、武器はこの世界から忽然と姿を消した。一見すると平和に見えなくもない世界。武器を捨てて、手を取り合うことができるかもしれない世界。しかし、武器は捨てられたわけではなかった。形を失くし、実感を失くして、俺たちの心の中に埋め込まれていたのだ。
 愛しかないんじゃないかと思う。よくわからないけど理解を超えたもの。きっとそれがあると信じて疑わない人たちによって、限りなくそれに近づいていく漸近線が描けるのであれば、もうそれがニアリーイコール愛なんじゃないかと思う。幸せになりたいなら幸せになろうとしさえすればいい。いつかそうやって幸せになろうとしていたことすら幸せと呼んでもよかったと思える時がくる。実体がないなんて言うなって。そんなものあったら逆にめんどくさいことになるんだって。理解から遠く離れて、距離感なんて掴めなくて、前に見たやつと一緒かどうかもわからないけど、時とともに形を変えるものだって信じているからこそ納得できるんだって、そんな感じの妄言を吐く人間が世の中には腐るほどいるし、それは俺たちの中に埋め込まれた武器にだって同じことが言える。
 武器を使うのに動作がいらなくなった以上、得物を取り出したり、引き金を引いたり、スイッチを押したり、ましてや武器そのものや標的を思い浮かべるなんてことすら何の意味も持たなくなった。そこには実感がないのだから。何も考えないうちに防衛システムが働いて危険や敵は排除されていく。毎朝の通勤の途中、庭いじりをしていたら犬が吠えた時、久しぶりの一家団欒、パズルゲームでハイスコアを出した時、エトセトラ。思いがけない瞬間に武器は発動し、身を守り、外敵を排除しているかもしれない。しかし、それを当人が知る由は無いのだ。武器を捨てよと高らかに叫んだ挙句が血反吐で赤く染まった水面下を見えないようにするだけの「空はこんなに広いのに」的な、それ本当にハッピーエンド?的な、滝壺に真っ逆さま落ちるのをただ待ち続けているだけのすこぶる病的な世界。大丈夫じゃないのに大丈夫だよって言っちゃって、本当に大丈夫だと思われてるのを自分でも本当は大丈夫なような気がしてきたけど、やっぱりダメだったよ!みたいなのは本当にもうやめにしよう。
 言葉にしたらくだらないと思ってしまうことでも、胸の内に秘めている間は自分だけの大それたことだっていう認識があるからこそ、誰しもが意味ありげな沈黙を捨てきれない。つらいつらいと吐き出し続けたって、つらくても口に出さずにいたって、つらいことには変わりないんだから、そこに優位性なんてものは絶対に生まれないはずなのにね。沈黙。沈黙。沈黙。痛みを口に出さなくなったら、その口にちんぽ突っ込んで、それでも飲み込んでしまうなら、心の中の武器の(本当はそんなものないんだけど)銃口は確実に心臓を狙っているから、そのまま撃ち抜かれて次の段階に行けるかもしれないって思っている天使が昨日部屋の隅でホコリ食べてました。

「Lollypop Rainbow」所感

第十六回文学フリマin大阪(4/14)にて配布予定「Lollypop Rainbow」に収録された7作品のうち、拙作を除いた6作品の感想を順次アップしていきます。
わりと平気でネタバレしていたりするので宣伝用というよりは、そういうの気にしなかったり、読むつもりはないけど内容が気になる人向けです。

冊子の詳細はこちらへ
http://yozora.hatenablog.com/entry/2013/03/23/200726

2.卵を落とす

 ――絶対に忘れたくないなって、なかったことにしてはいけないなって

 流麗な文体に年々どころか月々磨きがかかる作者の新作ということで、本誌屈指の読みやすさを期待していたら、読んでいてどうも落ち着かないところがある。その原因はなんだろうかと読み返すまでもなく、章ごとに視点や人称が変わることにあると気が付くんだけど、逆に言えばそんな大きな変化が『どうも落ち着かない』くらいで済んでしまうんだなあ。
 時の流れとともに少しずつ壊れていく男女の物語は、4章立ての1が「僕」の一人称、2が「私」の一人称、3、4が三人称という形で、二人から少し距離を置いて語られる構成となっている。
 こんな面倒くさい視点の切り替えをしながら、一つの作品として流れが全く断たれず、ブレないのは流石だと思います。

 この作品を読むにあたっては「時間」というものが大きなファクターになっているように思う。小6の回想から始まって高2、高3、大学二年、三年と進み、四年の春頃に終わりを迎える一連の時間軸は、物語にスピード感を与えているのとは裏腹に、“あらゆる時間から取り残されたような”二人を浮かび上がらせ、前進することができない停滞感を全編に重く漂わせる。

 どうして二人は取り残されているのか。前に進むことができないのか。
 小学生の時に見かけたイジメから人生に対して諦観を持ち続ける北見は、浦河との出会いから二人で生きていく道を見出そうとする。そこには彼女が他の誰かと寝ることすら許容してしまう相変わらずの諦観はあれども、未来に思い描く生活があり、希望があった。
 一方で高校時代から大切なものも、夢も持たない浦河は職場や北見との関係性の中で、忘れたふりをしていた不安に苛まれ始める。彼女にとってバイトや煙草、セックスはその不安から目をそらすための逃げ道だったのかもしれない。バイトを辞めてから堕ちていくばかりの浦河は、過去の出来事から失うことを極端に恐れ、ついには北見の前から姿を消してしまう。

 自分の命が卵のように壊れやすいものだと知りながらも、その中でもがくように幸せを求める北見と、それに応えることができないまま壊れてしまった浦河。
 同じ時を流れる二本の線が交わった後は離れていくだけだが、この二人の場合はずっと交わることなく、絶妙な間隔を保ってきたのだろう。それが浦河の告白からさわやか(?)な読後感を残すラストに至って、ようやく交わり、そして離れていった。
 “ずっと昔に終わってしまっていた”浦河の時間は動き出し、北見の方は取り残されたまま、その手に持った卵の中で何を思うのか。
 読み終わった後で、彼の将来を思い描くと虚無感が強すぎてつらくなりますね。
 北見君、サナトリウム行こう。

4.デッドエンドフラッシュバック

――僕が許す。僕が助けて、一緒に背負うよ

 初めて見たループものって何だったろうか。記憶の糸をたどってみると、それはおそらくドラマ「世にも奇妙な物語」だったと思う。何べんやっても、その日の夜によりを戻そうとした妻と娘が死んでしまい、目覚まし時計のアラームに起こされて、また同じ一日を繰り返す。最終的に前もって犯人を殺したらふつうに時間は動き出したけど、当然のごとく捕まって妻と娘とは二度と会えなくなってしまったよ、というお話。
 同じ一日を繰り返すことの疲労感。失敗を続けていくうちに、もうこれしかないという手段を思いつく機転、あるいは乗り出す決意といったものが(それがどういう結末を迎えようとも)ループもののよくある終わり方であり、そこから脱する方法だ。
 この作品も映画や小説、アニメなどにまたがって延々と育まれてきたループものの文脈から生まれたことに疑念の余地はないが、その種類として一番近いのは意外とゲーム、それも時間SFとは関係ないRPGかもしれない。

 ヴェネチアを舞台にして軟派な一人称で語られる物語。本能の赴くままにひた走る主人公にストーリーが付き添うようにして進むので、読者はヴェネチアの景観や祖父の遺言、夢の中の女の子のことなんか気にせず、ただただ主人公を(嫌でも)視界の中に捉えて、その動向を見守るように読み進めていく。
 物語は一人の少女を救うためのループに入り、その解決手段として志されるのが「魔法」の習得。主人公は繰り返される一日の中で気を高め、時には町の人間に話しかけたり、ただ殺されるだけの無慈悲な戦いを続けながら、いつか怨敵を倒すために鍛錬を続けるのだ。

 どうだろう。言いたいことはだいたいわかってもらえたのではないだろうか。
 どこへ行こうとも画面の中に居続ける主人公、殺されるたびにループする世界、町の人間との会話、魔法を習得するまでのレベルアップ。これらの要素はドラクエ、FFなどを始めとするRPGの世界と共通する。
 何べんやっても倒せない相手は、負けイベントでもない限り、鍛えに鍛えればいつかは倒せるはずなのだ。そういう意味では、この物語に緊迫感といったものはあまり感じられない。まあ、その一番の原因が主人公の軽薄な語り口にあるのは言うまでもないが……。
 しかし、この主人公は(たとえ屈折していようとも)ちゃんとした意志を持った人間であり、そんな繰り返しに耐えられるほど精神が屈強ではない。いつ終わるとも知れない日常に疲れ果て、飽き飽きし、無駄な自殺をしてしまうような点は、ほとんどプレーヤー目線に近いともいえよう。

 そして、軟派だとか軽薄だとか散々なことを言いはしたが、この小説の最大の魅力は主人公にあると言ってもよく、その人格が破綻したような変態ぶりはループものの主人公としては類を見ない存在だ。作品の序盤で主人公は水浴びする幼女を見つけて、次のように考える。〈それにしてもなぜ幼女をみんなは見ないのだろう。頭くるってんのかな。〉そこで誰もが思うだろう。くるっているのはお前の方だと。
 ただ、饒舌に語られる冗句の中にも、幾ばくかの真理が隠されていることにも注目したい。
 最後に僕が作品中でもっとも感銘を受けた一文を掲げて、評を終わりにしよう。

〈兄という存在は妹の喜びを上位に置くべきなのだ。〉

5.クラウベン・エッフェの家

 ――この先誰かが〈素敵な家〉だと思ってくれるだろうか

 ふつうどんなにおかしい小説でも本文を読み進めるうちに「ん?どういうことだ?」という疑問が生じて、そのおかしさを解き明かそうと、さらに読み進めていくものだと思うんだけど、この小説の場合は本文に入る前――というのは、冊子をめくって(僕の場合はファイルを開いて)タイトルを見て、作者の名前を見た瞬間から「どういうことだ?」が始まった稀有な作品。
 ただ、このおかしさは作者本人を知らないと、一旦はスルーされてしまう可能性のあるもので、そういう意味ではアンフェアーというか、こんなのアリ?って感じはするんだけど、それも別段ミステリーだとか、“解き明かされなければならないもの”というわけでもないので、構造というよりも表記の問題に近いような気はする。

 それが具体的にどういうものかというと、〈はじめに〉において何食わぬ顔で登場し、作中でも脚注を加えていく『訳者』が「本来の作者」の仕掛けた第一次の語り手であり、それに続いて始まる本編を書いたマルティネッリなる人物が『作者』を偽った第二次の語り手であるというもの。
 つまり、一種のメタ物語世界的な構造を成してはいるけど、入れ子の隙間が狭いことこの上ないというか、根本的に作品を作品の中に落とし込んでしまっている、額縁小説オブ額縁小説なんですね。
 これを簡単に言えば、架空の翻訳という五文字にも収まるんですけど、どれくらい面倒くさいことをしているのかを実感してもらうために面倒くさい書き方をしました。
 しかし、この小説はただ面倒くさいことをしているだけではなく、〈はじめに〉における作者周りの情報や、原文との差異を説明する脚注など、翻訳物ならではの技法を凝らしている点はまさに“精巧”かつ“成功”していると言えます。
 『訳者』のいる第一次世界の広がりと、劇中劇である「クラウベン・エッフェの家」、双方が同じくらいの質をもってこの作品は成立しており、これは並の力量ではできないというか、やろうと思いませんよね。

 そして、その「クラウベン・エッフェの家」についてなんですが、正直なところ一読しただけではわけがわかりませんでした。まあ、再読したところですべてを理解できるとも思えないのですが、そこで自分の知識や経験不足を呪っても仕方がないし、適当に適当を重ねたようなことを言うと、実存の問題、表向きには『家』というものがテーマになっていて、その裏にも様々な主張が隠されているみたいです。
 僕が思い出したのは安部公房「赤い繭」という同じように自分の家がわからなくなってしまう男の話で、そちらが寓話的であるのに対して、この話はどこか神話的ですらある雑然性の中に置かれている気がします。個の揺らぎを個の落ち着くべき場所に求めた挙句、自分が家そのものになってしまう。そこらじゅうに散りばめられた暗喩は理詰めでようやく解き明かされるものもあれば、想像力に訴えかけてくる文章から天啓のように湧いてくるものもあり、そこに惹きつけられた人は自然と再読を要されるでしょう。
 酔った方が明晰になる思考や、性への嫌悪感など、比較的わかりやすく共感しやすい部分もあり、その言葉や行動が意味を越えて、得体のしれないイメージへと変化していく過程、その鮮やかな跳躍には目を見張るものがあります。

さかさまに

猫村いろは】さかさまに【オリジナル曲】
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トランペット吹きのボカロP、マンボウさんの新曲がいい。

1.音がいい。
サックス、ギター、フルート、コントラバス、トランペットといった楽器の生演奏で独特の世界観を形成している。
曲の展開に合わせて聞こえてくる音も目まぐるしく(耳まぐるしく?)変わるのでメリハリがついていてる。

2.歌詞がいい。
時間軸の反転を完全に一方的でスピーディーなものとして印象的に描いている。
「ひとつずつ忘れるために子どもたちは学校に通う」「心から好きだったあの人もやがて見知らぬ人になる」といった、気の利いた切ない歌詞がさりげなく出てくるあたりにハッとさせられる。

3.構成がいい。
出だしの15秒でメインテーマを提示してからの管楽器による派手な開幕。掴みが完ぺき。
最初のサビが終わった直後から繋ぎが不安定になるが、もう少しで破綻してしまいそうな危うさに引き込まれる。
ガラッと陽気になったり、記録映画のような古めかしさを帯びたりした後、ついには静謐な空気が漂う胎内までたどり着くが、そこを終着点とせずに、ラストの展開へと持って行くことで、見事に物語の意図は解き明かされ、マーチは幕を閉じる。

4.動画がいい。
N○K風のタッチで丁寧に描かれるアニメーションがいちじるしい変化を伴う音楽に安定感を与えている。
主張しすぎず、かといって控えるわけでもなく見せるところでは見せて、一つの作品として非常によく馴染んでいる。

5.調教がいい。
今まで聞いてきた猫村いろはの中でもかなり聞きやすい部類。

総評:すごくいい