「Lollypop Rainbow」所感

第十六回文学フリマin大阪(4/14)にて配布予定「Lollypop Rainbow」に収録された7作品のうち、拙作を除いた6作品の感想を順次アップしていきます。
わりと平気でネタバレしていたりするので宣伝用というよりは、そういうの気にしなかったり、読むつもりはないけど内容が気になる人向けです。

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http://yozora.hatenablog.com/entry/2013/03/23/200726

2.卵を落とす

 ――絶対に忘れたくないなって、なかったことにしてはいけないなって

 流麗な文体に年々どころか月々磨きがかかる作者の新作ということで、本誌屈指の読みやすさを期待していたら、読んでいてどうも落ち着かないところがある。その原因はなんだろうかと読み返すまでもなく、章ごとに視点や人称が変わることにあると気が付くんだけど、逆に言えばそんな大きな変化が『どうも落ち着かない』くらいで済んでしまうんだなあ。
 時の流れとともに少しずつ壊れていく男女の物語は、4章立ての1が「僕」の一人称、2が「私」の一人称、3、4が三人称という形で、二人から少し距離を置いて語られる構成となっている。
 こんな面倒くさい視点の切り替えをしながら、一つの作品として流れが全く断たれず、ブレないのは流石だと思います。

 この作品を読むにあたっては「時間」というものが大きなファクターになっているように思う。小6の回想から始まって高2、高3、大学二年、三年と進み、四年の春頃に終わりを迎える一連の時間軸は、物語にスピード感を与えているのとは裏腹に、“あらゆる時間から取り残されたような”二人を浮かび上がらせ、前進することができない停滞感を全編に重く漂わせる。

 どうして二人は取り残されているのか。前に進むことができないのか。
 小学生の時に見かけたイジメから人生に対して諦観を持ち続ける北見は、浦河との出会いから二人で生きていく道を見出そうとする。そこには彼女が他の誰かと寝ることすら許容してしまう相変わらずの諦観はあれども、未来に思い描く生活があり、希望があった。
 一方で高校時代から大切なものも、夢も持たない浦河は職場や北見との関係性の中で、忘れたふりをしていた不安に苛まれ始める。彼女にとってバイトや煙草、セックスはその不安から目をそらすための逃げ道だったのかもしれない。バイトを辞めてから堕ちていくばかりの浦河は、過去の出来事から失うことを極端に恐れ、ついには北見の前から姿を消してしまう。

 自分の命が卵のように壊れやすいものだと知りながらも、その中でもがくように幸せを求める北見と、それに応えることができないまま壊れてしまった浦河。
 同じ時を流れる二本の線が交わった後は離れていくだけだが、この二人の場合はずっと交わることなく、絶妙な間隔を保ってきたのだろう。それが浦河の告白からさわやか(?)な読後感を残すラストに至って、ようやく交わり、そして離れていった。
 “ずっと昔に終わってしまっていた”浦河の時間は動き出し、北見の方は取り残されたまま、その手に持った卵の中で何を思うのか。
 読み終わった後で、彼の将来を思い描くと虚無感が強すぎてつらくなりますね。
 北見君、サナトリウム行こう。

4.デッドエンドフラッシュバック

――僕が許す。僕が助けて、一緒に背負うよ

 初めて見たループものって何だったろうか。記憶の糸をたどってみると、それはおそらくドラマ「世にも奇妙な物語」だったと思う。何べんやっても、その日の夜によりを戻そうとした妻と娘が死んでしまい、目覚まし時計のアラームに起こされて、また同じ一日を繰り返す。最終的に前もって犯人を殺したらふつうに時間は動き出したけど、当然のごとく捕まって妻と娘とは二度と会えなくなってしまったよ、というお話。
 同じ一日を繰り返すことの疲労感。失敗を続けていくうちに、もうこれしかないという手段を思いつく機転、あるいは乗り出す決意といったものが(それがどういう結末を迎えようとも)ループもののよくある終わり方であり、そこから脱する方法だ。
 この作品も映画や小説、アニメなどにまたがって延々と育まれてきたループものの文脈から生まれたことに疑念の余地はないが、その種類として一番近いのは意外とゲーム、それも時間SFとは関係ないRPGかもしれない。

 ヴェネチアを舞台にして軟派な一人称で語られる物語。本能の赴くままにひた走る主人公にストーリーが付き添うようにして進むので、読者はヴェネチアの景観や祖父の遺言、夢の中の女の子のことなんか気にせず、ただただ主人公を(嫌でも)視界の中に捉えて、その動向を見守るように読み進めていく。
 物語は一人の少女を救うためのループに入り、その解決手段として志されるのが「魔法」の習得。主人公は繰り返される一日の中で気を高め、時には町の人間に話しかけたり、ただ殺されるだけの無慈悲な戦いを続けながら、いつか怨敵を倒すために鍛錬を続けるのだ。

 どうだろう。言いたいことはだいたいわかってもらえたのではないだろうか。
 どこへ行こうとも画面の中に居続ける主人公、殺されるたびにループする世界、町の人間との会話、魔法を習得するまでのレベルアップ。これらの要素はドラクエ、FFなどを始めとするRPGの世界と共通する。
 何べんやっても倒せない相手は、負けイベントでもない限り、鍛えに鍛えればいつかは倒せるはずなのだ。そういう意味では、この物語に緊迫感といったものはあまり感じられない。まあ、その一番の原因が主人公の軽薄な語り口にあるのは言うまでもないが……。
 しかし、この主人公は(たとえ屈折していようとも)ちゃんとした意志を持った人間であり、そんな繰り返しに耐えられるほど精神が屈強ではない。いつ終わるとも知れない日常に疲れ果て、飽き飽きし、無駄な自殺をしてしまうような点は、ほとんどプレーヤー目線に近いともいえよう。

 そして、軟派だとか軽薄だとか散々なことを言いはしたが、この小説の最大の魅力は主人公にあると言ってもよく、その人格が破綻したような変態ぶりはループものの主人公としては類を見ない存在だ。作品の序盤で主人公は水浴びする幼女を見つけて、次のように考える。〈それにしてもなぜ幼女をみんなは見ないのだろう。頭くるってんのかな。〉そこで誰もが思うだろう。くるっているのはお前の方だと。
 ただ、饒舌に語られる冗句の中にも、幾ばくかの真理が隠されていることにも注目したい。
 最後に僕が作品中でもっとも感銘を受けた一文を掲げて、評を終わりにしよう。

〈兄という存在は妹の喜びを上位に置くべきなのだ。〉

5.クラウベン・エッフェの家

 ――この先誰かが〈素敵な家〉だと思ってくれるだろうか

 ふつうどんなにおかしい小説でも本文を読み進めるうちに「ん?どういうことだ?」という疑問が生じて、そのおかしさを解き明かそうと、さらに読み進めていくものだと思うんだけど、この小説の場合は本文に入る前――というのは、冊子をめくって(僕の場合はファイルを開いて)タイトルを見て、作者の名前を見た瞬間から「どういうことだ?」が始まった稀有な作品。
 ただ、このおかしさは作者本人を知らないと、一旦はスルーされてしまう可能性のあるもので、そういう意味ではアンフェアーというか、こんなのアリ?って感じはするんだけど、それも別段ミステリーだとか、“解き明かされなければならないもの”というわけでもないので、構造というよりも表記の問題に近いような気はする。

 それが具体的にどういうものかというと、〈はじめに〉において何食わぬ顔で登場し、作中でも脚注を加えていく『訳者』が「本来の作者」の仕掛けた第一次の語り手であり、それに続いて始まる本編を書いたマルティネッリなる人物が『作者』を偽った第二次の語り手であるというもの。
 つまり、一種のメタ物語世界的な構造を成してはいるけど、入れ子の隙間が狭いことこの上ないというか、根本的に作品を作品の中に落とし込んでしまっている、額縁小説オブ額縁小説なんですね。
 これを簡単に言えば、架空の翻訳という五文字にも収まるんですけど、どれくらい面倒くさいことをしているのかを実感してもらうために面倒くさい書き方をしました。
 しかし、この小説はただ面倒くさいことをしているだけではなく、〈はじめに〉における作者周りの情報や、原文との差異を説明する脚注など、翻訳物ならではの技法を凝らしている点はまさに“精巧”かつ“成功”していると言えます。
 『訳者』のいる第一次世界の広がりと、劇中劇である「クラウベン・エッフェの家」、双方が同じくらいの質をもってこの作品は成立しており、これは並の力量ではできないというか、やろうと思いませんよね。

 そして、その「クラウベン・エッフェの家」についてなんですが、正直なところ一読しただけではわけがわかりませんでした。まあ、再読したところですべてを理解できるとも思えないのですが、そこで自分の知識や経験不足を呪っても仕方がないし、適当に適当を重ねたようなことを言うと、実存の問題、表向きには『家』というものがテーマになっていて、その裏にも様々な主張が隠されているみたいです。
 僕が思い出したのは安部公房「赤い繭」という同じように自分の家がわからなくなってしまう男の話で、そちらが寓話的であるのに対して、この話はどこか神話的ですらある雑然性の中に置かれている気がします。個の揺らぎを個の落ち着くべき場所に求めた挙句、自分が家そのものになってしまう。そこらじゅうに散りばめられた暗喩は理詰めでようやく解き明かされるものもあれば、想像力に訴えかけてくる文章から天啓のように湧いてくるものもあり、そこに惹きつけられた人は自然と再読を要されるでしょう。
 酔った方が明晰になる思考や、性への嫌悪感など、比較的わかりやすく共感しやすい部分もあり、その言葉や行動が意味を越えて、得体のしれないイメージへと変化していく過程、その鮮やかな跳躍には目を見張るものがあります。