「わからない」と言ったひとのおもいで

オーストラリアにおける「不都合な真実」の悲惨な結末 – 矢澤豊 – アゴラ


この記事の「エコ」の話はよくわからなかったのだけれど、
読んで思い出したことが、ふたつ。



ひとつめ。
オーストラリアの北東、キュランダの近くの森の話。


もともとオーストラリアは自然発火による山火事が多い場所なので、植物も山火事に適応して進化している。燃えにくい堅い皮で覆われた木々。ユーカリのタネは山火事でいい感じにこんがり焼けると殻が割れて芽を出す。バンクシアの実なんて堅すぎて、火であぶられないと中のタネが出てこない。山火事は森の生活の一部だ。


油をたっぷり含んだユーカリの落ち葉が積もって、何かの拍子に燃え上がる。山火事のあとの大雨で、植物が一斉に芽吹き、灰を栄養にぐんぐん伸びる。その仕組みを知っているアボリジニ達は、定期的に火をつけてちょうどいい規模の山火事を起こし、森を育ててきたという。この働きを「ファイアー・コントロール」と呼ぶらしい。上記の記事を読むと、アボリジニ以外の人たちにもこの知恵は受け継がれていたようだ。けど、そこの森は、そうじゃなかった。


近年、って、具体的にいつ頃かは知らないけれど、ファイアー・コントロールは禁止されるようになってしまった。禁止の理由は環境保護だけじゃなく、住宅事情やらなにやら他の要素もいろいろあったんだろうと思う。(日本の野焼きが減ったように。)ともかく人為的な山火事は滅多に起こらなくなった。一方で、木々は変わらずに葉を落とし続け、枯れ草は溜まりつづけた。植生の異変に人々が気づいた頃には、森は「燃料」でたっぷんたっぷんになってしまっていた。


一旦火がつけば今までにない規模の山火事が起こる。火が強すぎて、樹木は再生できないほどに焼けてしまうだろう。種子は焼け焦げて芽吹かないだろう。人家にも被害が及ぶような大惨事になるかもしれない。森にとってもヒトにとっても危険な状態だ。けれど、どうすればいいのかわからない。難しい問題なんだ。


そんな話を、ある人が教えてくれた。



ふたつめ。
北海道開拓跡地、森の再生の話。


開拓時代、人々は森を切り開いて更地にして畑を作った。けれども過酷な環境のために住むには適さず、放棄されてしまった場所もある。そういう場所は、広大な野原のまま、森が再生せずに荒れ地になってしまうことが多い。
その日、私達は荒れ地を森に復元するための作業のお手伝いをすることになっていた。当時小学生だった私達に何が出来るわけでもない。たぶん、体験学習のような意味合いの活動だったのだと思う。私が行ったのは、ヒトが耕作を放棄したあとクマザサに覆われてしまった小さな平野だった。クマザサは丈約1m。密集して生えるので、幼樹(木のあかちゃん)の生長に必要な日光を遮ってしまう。こうなると森へ再生するのは難しい。


私達の仕事は、笹林の中から幼樹を見つけて、光が届くようにその周りの笹を刈り取ることだった。まわりをきれいにされた小指くらいのちっちゃな幼樹は、クマザサの海のなかでスポットライトが当てられたみたいにぴかぴかして見えた。


「こんなに目立ったら、シカに食べられちゃわない?」
と、近くにいた大人に私は質問をした。柔らかい幼樹はエゾシカの大好物だと聞いていた。相手はこの企画の主催者側の人で、おそらく研究者だったのだと思う。そのひとは、私の生意気な質問にも真剣に答えてくれた。
「そうかもしれない。わからないんだ。」
ひとが自然に手を加えるとき、どんな影響が出るかはわからない。いま一生懸命みんなでやっていることも、間違っているかもしれないんだ。だから、少し手を加えたあと、何が起こるのか、様子を見るんだ。


そのひとはそう言って、また作業に戻っていった。



ヴィクトリア州の山火事のような出来事がもうおこりませんように、なにか対策が見つかりますように、と思う。わかりやすい解決策はたぶん無い。悪いことがおきやしないかびくびくしながら、慎重に、ひとつひとつ試していくしかないのだと思う。どんな方策も、時間がたてば良い面と悪い面が出てくるだろう。その度にやり方を見直さなくちゃいけないだろう。
何かを試しているとき、私はそれが正しいと信じたくなる。わかったふりをしたくなる。都合の悪いデータは見ないふりをしたくなる。そういう誘惑と戦いながら、「わからない」って言い続けながら取り組まなきゃいけないんだ、環境問題ってやつは。きっと。難しい、難しいことだ。


冒頭の記事を読んで、私はそんなことを思った。