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120209

これじゃない

D

新しいプリキュアのエンディング。

これ凄いんですよ。モーションキャプチャとかで人間の動きを忠実に再現しているんだろうけど、それにしても人間的すぎる。それに手書き風の質感とかも、これどうやっているんだろね、現場では普通に再現可能な技術なんだろうか。特に1:03あたりのアップなんかは全然破綻してなくてドキッとした。とにかくアニメ的な描画できわめて生物的な動きをしている、その点では今まで見た中で最高のように思う。


でも同時に、この方向でいいんだろうか、という疑問もある。例えば髪の毛なんかを、今みたいに部分的にモジュール化したものに物理演算を適用するんじゃなくて、もっと細かく毛の一本一本の空気感まで再現するとか、衣服や装飾品なんかももっと柔らかく現実に近い動きをさせるとか、それこそ蓮舫が潰しかけたスパコンなんかを動員してゲロを吐くレベルの過酷なレンダリングをやれば良いと思う。限りなく三次元の現実に近い二次元の女の子が跳んで走って食べて寝て泣いて。ただその先に僕らが求めた美少女は居るんだろうかっていうと、ちょっと疑問なんだよね。


我々がときめいているのは多分「人間的なキャラクター」ではなくてあくまで「人間をキャラクター化した何か」だと思うんだよ。髪はボリュームがあってふわふわしててほしい。足は長いほうがいい。目は異常に大きくてウルウルしててほしい。できるなら60fpsで動いてほしい。だから別に数学的に物理的に正確な運動をしたからと言って、よりときめくわけじゃないと思う。多分これまでもどこかで重心の破綻や、物理学を覆すスカートの力学や、筋量を凌駕する高速運動みたいな、そういう非現実的ながらもお約束みたいなものが脈々と受け継がれていて、それの総体が萌えの対象になっていたようなところがある。「人を(都合良く)擬人化してできた、人ではない何か」のような妙なものがアニメの美少女であって、人間的な動きっていうのは、どこかで部分的に削ぎ落されていたんじゃないかな。


ここまで書いて、こういう文句ってのは昔からずっとあったんだろうなとも思った。より先進的でテクノロジカルな手法で既存のものを表現しなおしたら、「これじゃない」って言われるような現象。小説の映画化なんかは典型的な例で、原作を知っている人間ができた映画をまともに褒めた記憶がない。人間が想像力で補完した部分の作用は、技術では再現できない、ということなのだろう。初代ドラクエをやった人間が最新のドラクエをやって「なんか違う」と言うのは、思い出補正の他にそうした作用もあるということか。

発達した文明による古典の再表現は、必ずロスを生じる。しかもそれは、古い方の表現を接種した人間にしか観測されない。

文明の呪いだと思う。


人間の感動や熱情の中には、来るべき技術の進歩によって寂しき「損失の輪郭」を与えられることが確約された部分がある。過去に感動した何らかの物語が技術的に映像や物質そして十分に再現可能だという時代が来たとき、我々はどこかで「こんなんじゃない…!」を感じなければいけない。結局最後まで再現できなかった、あれは何だったのだ、という感情とともに、墓場に道連れにせざるを得ない感情があるのだ。当然現在の感情にもそうした部分が存在するわけで、それをもっと日頃から意識しなければならないのかもしれない。


「これは面白いぞ」というストーリーを思いついても、いざ書いてみると全く面白くないというのは、文字という文明の呪いであり、それは他人の頭に電極ブっ刺して意識を共有するような時代にならない限り、映像にも画像にも音声にもついて回る天罰なのだと思う。

120131

死の記事

誰かの死について書かれた記事に接すると妙な気分になる。故人へ捧げる文章を書くなとは言わないが、自分で書くことは絶対にないだろう。この違和感はずっと昔から、インターネットを始めたころからあって、いまだに上手く表現できない。

身近な人が死ぬと、少なからぬ罪悪感が沸く。死ぬに限らず、集団から追放されたり戻れなくなったりした人間や、死んだ動物に対し、自分が生きながらえる罪深さと引きとめられなかった無力さを、自覚することもなくいつしか感じるようになっていた。人の死をダシにアクセスを稼ぐのが悪いとは思わない。ただただ個人的な経験の末に根を張ってしまった、「あがなう言葉があるのか」という自分への問いかけだけに引きとめられ、知人の死を書けないでいる。

ネットに限らず何かを表現したがるような人間は、作ったものにその時点では満足しているはずだ。GOサインを出しているはずだ。そのはずだ。ならば私は誰かの死に充てた文章の、その背中を押せるか。

無理だと思う。自分を突き落とす行為のように思う。

120125

俺は変顔をマジで許さない

変顔を特技と公言する芸能人を許さない


変顔が変顔なので普段の顔は変ではありませんとでも言いたげなルックス強者の驕り


「女優やモデルのプライドをかなぐり捨てて」という前提は全く空しくただただ私を苛立たせる


特権階級が冷やかしに市井の視察に来たようなものでアラブ諸国なら武装した反政府組織に射殺されている。蜂起せよ


冷やかしでしかない


ファッションでブスを装うのは不細工に対する侮辱であり、蜂起すべき


テンションが上がるだけで変顔になる森泉は事務所を通じて武装蜂起の声明を出すべき


世界のナベアツが数字でアホになる芸をやったとき、BPOには「障害者のマネをしているようで不愉快」との意見が寄せられた。変顔はどうか?


変顔は明確に不細工に対する侮辱である


白目をむくのは死者への冒涜ではないのか


きゃぴーぱみゅぱみゅの変顔は白目をむいて力んでいるだけ


絞首刑に処された囚人はああいう顔になる。加害者の人権は?


変顔が生産可能になれば産経新聞のカメラマンが職を失う


骨格に由来する不細工への社会的不利は差別に相当する


それで飯を食う自称変顔が得意なアイドルを許すな


第一面白くない


変顔はOKで鼻フックはNG。蜂起せよ


清水アキラのようにセロハンテープで肉を引っ張るような工学的手法を用いる度胸もないクソアイドルが中途半端に不細工の人権を侵す


幼稚園の発表会と同じ。アイドルなのに良く頑張りましたという生温かい視線だけが充満し非常に不愉快

111225

2011年総括

今年印象に残っている出来事を総括します。


形式上の童貞を捨てました

d:id:kubomi:20110909 に書いてあります。

ソープに行って人生初のセックスをしましたが何とも言えない経験をして帰ってきました。後日談も何もないというか、記憶に刻まれた程度で、人格形成に影響を及ぼすなどのことはありませんでした。世間でよく言われるように童貞を捨てることが人格を変えるのではなくて、彼女を作り性行為までこぎつけるという、一連の交渉・妥協・自己犠牲・ユーモアなどの過酷な訓練を経て人格に影響するのだと思いますので、形式上の童貞卒業、実質上の童貞維持という結果になりました。


ネットの人と会いました

ネットでしか付き合いのなかった人と現実に接触するという経験を今年初めてしました。名前は伏せますが2名、男女それぞれ1名ずつの方とお会いしました。思えばネットでこの名義で何かを書くようになってから7年程度経ちますが(そしてこういう出会いを格別に望んだことはありませんでしたが)、とうとうか、という感じでした。

自分の社交性のなさと知性の低さにただただ絶望するばかりで、みんなすごいし、ずっと蟄伏したい。お会いした後も、その人の生身とアカウントが統合せず、結局ネットはネット現実は現実という風にしか捉えられず、自分にはデジタルネイティブなど名乗る資格はないと痛感するばかりでした。

部活でそれなりのポジションを与えられているので名前を売るために実名でのtwitterも始めたのですが、同じ競技の界隈の人(東京のとある女子大生)にたまたまお会いする機会があり、そこで「いつも読んでます」なんて言われて、まあこれもネットの人に会ったと言えば会ったということになる(会うまで人とアカウントは一致していなかったが、会って相手側から申告され、判明した)。


家族が全員スマホ化していて嘲笑の眼差しを受けました

皆と同じようにスマホの手術を受けたい。


大喜利をやりました

一度でいいから大喜利をやってみたいなー、でも友人同士でやったら多分酷いことになるよなーどうしたらいいもんかなーという旨をtwitterで発言したら、「鴨川杯」との回答を頂き、プレ大会の「カワシモ杯」に参加しました。素人参加型の大喜利ですが、張り詰め過ぎもせず馴れ合い過ぎもせず、良い感じのアトモスフィアで戦わせてもらいました。結果は16人中3位でした。良い刺激をもらいました。


111209

インターネットの文体

文体というか、いわゆる「あの頃のインターネット」というか、それは自分の場合テキストサイトのあの頃から存在する趣の話になる。

テキストサイト界隈における時系列やスタイルの興隆を語ろうとすると特定のサイトを指標にする必要があるので(そしてそれは望まれないので)詳しくは書かないが、どこかでおおかたのサイトが「垢抜けた」時期とそうでなかった昔があって、後者に蔓延していた文体が失われたということを嘆く人は居る。その文体は常に竹槍を構えるようで、空回りしていて、貪欲で、くどい。だけどそれが当時は格好良くてスタンダードだったし、そういうのを書きたくてネットで文章を書き始めたという経緯が私にはあるから、これを否定するものではない。だけど今になってみれば、「童貞の演武」こそがインターネットのすべてだった。今でも大好きだけれども。

そういう精神性や文体は、果たして「衰退」したのか。あるいは現存するそれは過去から「受け継がれた」ものか。

それは違う。

私はブログだろうがツイッターだろうがああいう文体は慢性の病のように未来にも蔓延ると思う。

ツイッターには一日に厳選された呟きを数回しか投稿しないことでセルフブランディングをする面白おじさんが大勢いる。誰とは言わないけど、その投稿からは古のテキストサイトの香りがする。なぜだろうか。厳選しているからだろう。

自己愛に基づいて自分が何を書くかを取捨すれば、その香りなのだ。面白いものを温めるということ。アーティスティックな創作でもロマンチックな囁きでも何でもなく、ただただ面白い人と思われるためにネタ溜めて書くという行為が、筆圧を大きくし言い回しや場面転換の密度を過剰に吊り上げる。比喩は正義で語勢はフルオン。それは渾身の長文ネタをHTMLで打ち込んでいたかつての人たちの士気と、そんなに変わらないような気がする。

人は「面白い人だと思われたい」と思ったその日から、自尊心を際限なく肥大させ、そのうち一部は本当に面白い人になっていく。そして面白くないものを書くことを恐れるがあまり、毒にも薬にもならない言葉の端から順に仰々しい刺繍を施すようになる。それこそが当時の、「あの頃のインターネット」の文体なんじゃないか、そしてその条件下では人は誰しもテキストサイトを追体験するのではないか。そう思うようになった。しかし毒か薬かを判断しなくてもよい(するための猶予をインターフェイスが与えない)ようなサービスが増え、「必ずしも面白くしなくてもよい場」を次々に与えられた結果、それは相対的に霧消した。そのことは紛れもない事実だと思う。