岐路はどこだった(4)

1年間の雲助家業だった、東海道53次の宿場町を全部、横目に走り高度成長時代の物流業界の片棒担いで地理と物流現場の最前線を垣間見れた事はオマケの様な収穫。

当時は長距離輸送の運転手は蔑称、雲助…(謂れは昔の籠担)、峠には山賊が居り、その殆どが一皮むけば雲助、山賊が雲助になったか、雲助が山賊になったか起源は分からないがお客の所持品を強奪する悪党がおり、柄が悪いのが相場の運転手が裏でそんな呼ばれ方をしていた。

ただ、今にして思えば一度だけ居眠り運転で静岡掛川の金谷峠に入る橋の欄干に激突寸前に目が覚め、自分の中では「やった!!」、将に奇跡的に回避できたのは何だったのか、今でも不思議な気がしてならない。

そんな訳で当初の思惑は挫折、貴重な一年間と名古屋時代に貰った退職金も飛ばしてしまい収支の合わない経験をしたがお金に換算できない貴重な経験をさせて貰った。

敗れて雲助を辞した訳でなく、新たな気付きの中で再出発の機会を得た事が最大の収穫

と言える。

N運送は業界2位(日本通運の次)で、私と同年位の後継者がいたが、その後~佐川、西濃運輸との競争に敗れ倒産、知る人の居ない会社になった。

名古屋に就職した事、退職金を叩いて雲助になった事、都会を引き上げて長崎拠点で創業計画を立て再出発…Uターンこれは紛れもない最初の岐路で判断ミスは無かった。

但し、バクチで貴重な給料を授業料にしたのは計算外。(NO1~NO4 完)

《次の岐路は結婚か》        

 

 

 

岐路はどこだった?

N運送に入社、その日から東京~大阪間の深夜定期のハンドルを副運転手の立場で乗車、と言っても交互運転で立場は同じ。

否、むしろ荷物の積み下ろし、燃料の補給、伝票のチェック等積み込みに入る。10トン車に大小様々な荷物を一つ一つ荷崩れがしないように満載これだけでクタクタになる。早朝6時頃、東京品川支店に到着させる為,大阪高槻本社を午後8時頃出発進行,GO~

夜12時頃名古屋当り夜食を摂り、どの辺か忘れたが静岡の小夜ノ中山で休憩、富士の裾野~御殿場経由で湘南~茅ケ崎~大森品川~新宿、最後に板橋まで転々と支店に荷下ろしし、午後五時ごろ終了、東京支店で当日は一泊。翌日、PM3時頃から東京支店で積み込み、夜の8時ごろ大阪支店に向かって復路に入る、結果…支店1泊、走行車両に2泊、往復で3日が1航海の勘定で出来高勘定、通常これを8航海して当時の給料で3万円位。

当時の運転手はまともに会社勤めが出来ない人間の職種でやくざ崩れ、小指の無い入れ墨紋々の男達の集団で、宿舎は花札、競輪競馬競艇漬けで貰った給料は4,5日で飛ばしていた、そんな処に暮らす羽目になり私の給料も入れ墨紋々に取り上げられ、最初は授業料と思い付き合っていたがそのうち取り返すぞ!と思っている内に足の甲にガラス箱が落下、全治3か月の骨折してアクセルを踏めなくなり辞めなければいけなくなった。

大型貨物深夜定期便の経験は過酷な労働条件で危険な仕事であった、雨降りの国道1号は当時まだ東名高速道路も工事中で走れず事故が多発、特に箱根の裾野、御殿場街道は蛇のようにクネクネ、下り坂で道幅も狭く大型がギリギリ交差出来るか出来ないか程の道幅で雨の日は崖下に転落し誰が立てたのか犠牲者の墓標が至る所に建っていた。

事業資金を確保する為に所得3倍増を狙い危険を承知で就いた仕事であったが過酷で命掛けの仕事をする中で事業は資金だけではなく、業界で信用を得る事こそ肝要と気付き金は借りてでも作れるが信用は自前で確保、と言い聞かせこの運送会社を退職する事にした。あっという間の1年間で得たものはと自問したら・・・(NO3完)

 

 

 

 

岐路はどこだったか(2)

名古屋で3年、営業の勉強をした。

勤めた先は大阪本社の名古屋営業所、全社で100名規模の中小企業、営業から納品、修理まで何でも…販路は東海3県から信州迄、至る所~走り廻り社会勉強もさせて頂いた。

高校出たばっかりの田舎の小僧に良く営業範囲を持たせてくれた、と今振り返れば有難く思う。

60年前の当時の友人、会社の先輩と今でもご厚誼を頂いており、生涯の思い出になっている、特に先輩のK氏には弟のように可愛がって頂いた、私が在職中に独立され薫陶を受けた方である。

次の岐路は名古屋の営業会社を辞め独立自営の道を求め先ず資金稼ぎの為、大型トラックの運転手を目指し大型免許取得の為、愛知県の自動車学校に通う、原資は3年間の退職金。

収入も無く、住む処も無い…ルンペンを免れたのは友人のお陰、居候になり45日で免許取得、晴れて資格をGET。

大阪の長距離輸送会社、N運送採用試験を受ける段階になり資格要件が示された,経験1年以上、当たり前の事だが眼中になかった。

苦肉の策で免許取得の時期を1年前に修正、面接官を上手に丸め込んで突破した。

今にして思うと面接官は見破つてたのかも、と思う、当時は東名高速道路は未開通で大阪~東京は御殿場経由のルートで深夜定期便の運転業務。今はJRのコンテナで鉄道郵送も普及してるが、高度成長期はトラック郵送が主流で各社間の競争が激しく常時、運転手不足していたのが幸運であつた。

無謀といえばこれほどの無謀はない、自動車学校のコースしか走った事が無い未熟者に国道一号長距離深夜定期のハンドルを握らせる危険性は握る者も握らせる者も一蓮托生

棺桶を担いで走るに等しく良く決断したと思わずには居られない。(次回に続く)

 

 

岐路はどこだった (1)

この年齢まで生きて暮らし、将来が短い分だけ過去と向かい合う時間が長いような気がする。

健康であれば、長生きもせねばならず、その為にいろいろ心準備をせねばならず目的のない余計な生き方は余りしたくはない。

私の人生で自分の意志で生きて来たのは18才からで、それ以前は何か成り行きの中で、暮らして来たような気がする。

人生を決算、仕訳けしてみると見えない岐路で特に考えもせず迷路に入り、障害に遭遇、損切をして突破してきたような気がする。

幼少時の運命は不可避で特に戦時中は生き延びる為に必死に逃げながら生きて来た。

五島に疎開するまでは毎日、戦火を潜り暮らしてたのではなかろうか、S19年五島に行かなければ大阪で爆死したか戦災孤児になっていたかもしれない。

3年前に仕事で通天閣がある天王寺駅に宿泊、古老住民に聞いたら可成り犠牲者がでた、言われた。

初めての岐路は矢張り、就職先を東京にするか、大阪にするか、名古屋にするか。

最後に決めた先は、戦国時代の英雄豪傑を輩出した名古屋で、照明器具のメーカー。

これは人生における最初の岐路であつた(次回に…続く)

 

 

 

 

「吞舟」の生きる道。

我家の庭の一角に一枚の石板がある。

若い時に触れた「吞舟は支流で泳がず…」を私の人生訓にして「吞舟」を私の号にした。号の上に祈念の銘言「百年無人生」が刻字されている。

昔々のはなし…何処で如何したものか、祖母が五島の資産家と再婚、結果、私も母に連れられ大阪から五島に移住、3才から18歳まで五島で暮らす事になる。頑迷を地で行く爺さんと近くで暮らす事に、血縁の無い石頭の爺さんが書き残した「人生無百年 陽春 老鶏」の木板を死後見つけ、その刻字が私の人生の親柱となり、吞舟の魚‥‥はその支柱となった。

誰も寄り付かない頑迷爺爺は70代で死亡、そんな彼が「百年無人生」肝に銘じ生きていたかと思えば親近感が沸く、同じ年代で諸々の事を語り合えば共鳴できる部分もあったろう、と今懐かしく....思う。

あの日から40年余の月日が流れ、あの時、心に刻んだ生き方が出来たか如何か。

今、人生総括の時を迎え自らに問い自らに答えを求め、改めて「支流で泳がず?」は正道で生きるを目指す事になる。

本流で生きる指針は「正義、大儀、道義」が物差し、100点は頂けないにしても75点位はGet出来た、自己採点。

私を知る人々の評価と多分異なるだろうが、自分の本意は自分しか分からない。

残り少ない人生、命の一分を100%完全燃焼して昇華させたい、と夕暮れに窓越しの桜花を見つつ思う。

 

 

最後のセレモニー

昨日見た夢に死んだ兄弟が出て来た。

最近、よく亡母や亡兄達の夢を見る、彼岸に墓参を忘れ憤慨、夢に現れたのか。

(墓参はその数日前に済ませており、恨まれる筋合いはないのだが…)

内容はハッキリ覚えてないが悪い夢でなく、少年時代と壮年時代が混合、起きた時は可なり覚えていたが暫くして蒸気のように飛んでしまったが…愉しく何かをワァワァ言いながら作業的な事をしている夢だった。

父が戦死、疎開先でそのまま暮らし辛酸生活だったが母の苦労を見て育った関係からか家族の繋がりは強く、毛利元就の「3本の矢」の育てられ方をした。

後年、少年時代の志を実現できたのは家族の協力のお陰であり、その延長線上に今日がある。

私の人生セレモニーを回顧しこれからの希望を元気な内に記しておきたい。

この世に生まれ、この世で育ち、嫁さんを貰い、子供5人得て、人間使命をほぼ果たし後はと言えば自身の処置を如何するか。

考えてみればこの世に人として誕生したのは私の意志でなく、たまたま偶然と偶然が∞無限大に重なり久保家に誕生、ウォーターフロントの公園猫に生まれて来てても不思議ではない、と真剣に考えている。

そんなわけで葬式は家族葬、納骨は半分半分で散骨し、五島灘にバラまいて欲しい。

NPOで散骨事業をするのは一つには自分の手で最終処分したいからである。

カトリック式でする事もない、あの世の存在も天国地獄も有るとは思えない。

慎太郎と同じ考えで、死んだら一巻の終わり、虚無の世界で魂も霊界も存在しない

願わくば断捨離を早く終わらせ、没己の気迫で最後のご奉公を実現したい。

それが私のセレモニー 最後の最後のセレモニー。

 

    

11回目の3月11日

今日、11回目の3.11、昼過ぎ3時ごろ防災無線のサイレンが鳴った。

振り返れば11年前の今日、年度末を控え米子の取引先に工事引き渡しに行った帰りに居住地の知人から連絡が有り地震津波、後日、東日本大震災と云われた大災害を知る。

車で安来辺りを走行、ラジオもテレビも走行中はOFFなので携帯に連絡がある迄知らなかった。

大惨事を知ったのは殆ど長崎に帰つて来てからで驚嘆したものだ。

当時は議会も選挙前で多忙、仕事も多忙で、全国から続々と支援ボランテアが現地入り私もハヤル気持ちを抑えて経過を報道に頼った。

その後、4年経過、カリタスジャパンのボランテアとして最大の被害地、岩手県大槌町

に行き、大槌川の川べりにひまわり植栽と仮設ハウスに激励訪問を10日間させて頂いたが実際は現地被災者の方々に元気と勇気を頂戴した、兄弟家族、家財産を津波被害にあいながらご高齢のおばあちゃん達が肩を寄せ合い暮らしている姿は神々しく見えた。

いつ来るか分からない自然災害は対応が難しい、日本は世界一自然の美しい国、反面~自然災害の恐ろしい国でもある

大槌の丘の上にあった「風の電話」多分今もそのままだろうが私の写真帳の中には保存されてもいない、元々あまりにも痛ましくシャッターを切れなかつた。

11年の年月が流れ、東日本大震災を忘れるな!

掛け声があちこちから聞こえて来る。

現地のTV報道でインタビューを受けた被災者コメントが胸を打った。

皆さんは忘れるな、と仰るが私達は思い出したくもない、早く忘れることが出来るなら忘れたいっ…悲痛な声である。

互いに業という宿命を背負い、生きてる間は逃げられない宿命。

人間は生まれて来た以上、死ぬまで生きて行かねばならぬ。

それが人間に課せられた宿命という名の使命だろう、ザッ~とはいかん。