第275回 主観的な自己満足にすがる日本政府

  【社説:TPP日米合意 交渉力の強化が必要だ】(毎日新聞 2013年04月13日 02時32分)
   <米国との事前協議では、焦点の自動車分野で米国が日本製の乗用車(2・5%)とトラック(25%)にかける関税を当面維持し、保険分野では日本郵政グループのかんぽ生命保険の業務拡大に歯止めをかけることになった。日本の農産物の関税について一定の配慮を認めさせたとはいえ、交渉力に不安を残した>
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  上の社説の中の「米国が日本製の乗用車(2・5%)とトラック(25%)にかける関税を当面維持し」というのはどういうことかについては【週プレNEWS】(取材・文/興山英雄 2013年04月25日10時00分)はこう書いていました。
  <「日本の国益は守る」と宣言し、TPP協定への交渉参加を表明した安倍首相。4月12日にはアメリカとの事前協議が合意に達し、目的は達成されていると胸を張っていたが、実際に中身を見てみると、相手の要求をほぼ丸のみという屈辱的なものに終わっている><まず、自動車分野では【乗用車2.5%、トラック25%】というアメリカの関税が当面、維持されることが決まった。しかし、この“当面”というのがビックリするほど長い><乗用車で5年超、トラックが10年超とみられていますが、それ以上になる可能性も>
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  「交渉力に不安を残した」と見るのか「屈辱的なものに終わっている」と受けとめるのか?…それとも、その二つに大きな違いはない?
  環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)に参加することで最も大きな利益を享受する日本の産業分野は自動車だというのが、まあ、一般的な見方でしたよね。農業に関する交渉では(ニュージーランド、オーストラリア、アメリカなどを相手にして)苦労するだろうが、自動車についての(特にアメリカとの)交渉で勝てば、TTPへの参加は、総合的には、成功だということになる、といった具合に。…それが本交渉に入る前の、アメリカとの事前協議で、うそ、あるいは、単なる希望的観測だったことが、あっさりと、明らかになってしまいました。
  毎日新聞は「日本の農産物の関税について一定の配慮を認めさせた」と書いていますが、農業酪農団体などが求めていた、特定の産品についての“聖域化”については、アメリカはまだ何一つとして同意していません。つまり、農業分野での“取り分”がゼロのままで、自動車産業の市場拡大、収益上昇の夢は、早々と遠のいてしまったということです。
  さてさて、こんなことで「日本の国益」はどういうふうに守られるというのでしょう、安倍首相?
  「目標は達成されている」という首相の発言からは、どうしても、戦果について事実に反する発表をしつづけた“大本営”を思い出してしまいます。
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  「苦言熟考」は以前(2011-06-01)に【第202回 野球場の距離表示からでも始めますか】(http://d.hatena.ne.jp/kugen/20110601/1306903930)というエッセイを書いています。その中に、日本の歴代政府の「交渉・議論」力について触れた個所があります。
  <戦後の日本の歴代政府はみな、アメリカ政府の言いなりになってきた、という政治史観がありますよね。でも、はたしてただただ「言いなり」だったのでしょうか?そうではなくて、アメリカ政府とのさまざまの交渉・議論で日本政府は論理的に負けつづけてきたのではないでしょうか?情報は貴重な道具・武器だと考えるアメリカ政府の理詰めの議論に、あいまいさによる統治しか知らない日本政府は、ほとんどの場合で、太刀打ちできなかったのではないでしょうか?>
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  日本のプロ野球のほとんどの球場には、ホームベイスから外野の壁(ウォール)までの距離が表示されていないという事実には、日本人が情報というものについてどう甘く、身勝手に考えているかがよく反映されている−というのが【第202回 野球場の距離表示からでも始めますか】の主たる論旨でした。
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  そこで、今回も、野球を例に使って、日本人が(特にアメリカとの)交渉や議論に勝てないと思われる理由を挙げることにします。
  日本の多くの野球場には二つの「バック」がありますね。そうです、バックネットとバックスクリーンです。
  さて、あなたはマウンドに立つピッチャーです。いえ、ボックスの中のキャッチャーだということにしましょうか。
  バックネットとバックスクリーン。どちらが本当の「バック」だと感じるでしょうか?ピッチャーならバックスクリーンが?キャッチャーならバックネットが?
  では、バッターなら、どちらでしょう?フィールドでのプレイヤーの位置によって異なる?
  いや、そもそも、そんなことは考えたことがない?…そこに、日本人の問題があります。
  一つのものに二つの「バック」があることの“あいまいさ”を不思議あるいはおかしいと思わないのが日本人です。
  アメリカの球場には、日本人がバックスクリーンと呼ぶものは、まずありません。たとえ、センターの守備位置の背後にそれらしいものがあっても、それをバックスクリーンとは呼びません。そう呼んでいるのを聞いたことも、読んだこともありません。なぜなら、思いますに、キャッチャー(の守備位置)の背後に“バックストップ”が、おそらく、野球というスポーツが誕生したときから、外野のウォールやフェンスに先立って、あったからです。つまり、アメリカ人にとっては、内野から外野向けて打球を飛ばしていくのが野球なのだから、「バック」といえばキャッチャーの背後しかないのです。センター方向というのは、あくまでも、攻めていく「フロント」であって「バック」なんかではないのです。一つのものに二つの「バック」がある何かという“あいまいさ”をアメリカ人は受け入れないのです。
  ちなみに、“バックストップ”と呼ぶのは、ファウルボールなどとして飛んできたボールを止める構造物がかなずしも、すべて「ネット」でできているのではないからに違いありません。下部がレンガの壁でその上がネットになっているようなものを頭に浮かべてみてください。
  アメリカ人の思考は(それに飛打球が当たればフェアボール=ホームランとなる、両翼の端の柱を“ファウルポール”といまでも呼んでいるというような例外もありはしますが、原則としては)すごく厳密です。“あいまいさ”を嫌うのです。“あいまいさ”の中に安住していることが、多人種、多民族系で成り立っている“多文化国家”アメリカではできないから、というのがその大きな理由の一つであるに違いありません。
  アメリカ社会は、基本としては、「理詰め」で事を進めないと立ち行かないのです。
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  そんなアメリカ人(政府)と、野球場に二つの「バック」があってもそれを怪しまない日本人(政府)が重要な交渉を行うとなると、アメリカ人(政府)は当然のこととして、日本人(政府)の“あいまいさ”“甘さ”を突いてくるはずです。「さあ、どっちだ?」と迫ってくるはずです。
  アメリカとの事前協議で今回、日本が「屈辱的な」内容をのませられたのは、事前に「守るべきなのは農業の利益なのか自動車の利益なのか」についての決断が日本政府になされていなかったからだと思います。二つならべて「あっちでもないこっちでもない」あるいは「あっちもこっちも」と言いつづけて、農業団体にも自動車業界にも顔を立てつづけようとしたものの、いざアメリカ政府に追い詰められてみると、とりあえずは、夏の参議院議員選挙でそこからまとまった票がもらいたい農業を選んでしまわざるをえなかった、というようなところだったのではないでしょうか。
  一部の論者が、戦後の日本はアメリカの言いなりになってきた、というのは、そういう筋が通らない、目先を見るだけの、“自己満足”の選択を日本の歴代政府がしてきた、ということでもあると思います。
  なにしろ、そこには大きな矛盾があることがあまりにも明らかであるのに、アメリカ政府に沖縄(奄美、小笠原)の施政権を譲った状態のままで発効させたサンフランシスコ講和条約を記念して4月28日を「主権回復の日」としようというのが=客観的な事実からは目を逸らせて自分だけに心地よい主観的な自己満足にすがりつこうというのが、日本政府の基本的な姿勢ですからね、アメリカが“取り放題”を楽しむ相手として、これほど扱いやすい国はない、ということですよね。…客観的な得失にかかわらず、その主観さえ満足させてやれば日本は何でも言うことを聞く!
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  毎日新聞の社説は、日本政府は「交渉力の強化が必要だ」と述べています。しかしながら、それは高望みというものでしょう。だって、野球場に二つの「バック」があることに何の疑問も抱かないあいまいな日本人の頭脳に急に高度の交渉力が生まれるとは思えないでしょう?
  では、どうする?
  TPPの本交渉で日本がこれ以上に「屈辱的な」内容を押付けられないための何かがあるとすれば、それはおそらく決断する=腹を決めるということです。「あっちでもないこっちでもない」あるいは「あっちもこっちも」は通用しないでしょう。優先達成目標=真の国益とは何かをしっかりと定めて、そこから揺るがないことです。…本当の“国益”が何であるかが、もし安倍首相・自民党政府に分かっているとすれば…。
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  これから日本国民が気をつけなければならないのは、TPP本交渉では、窮地に陥った日本政府が偽りの“大本営発表”をくり返す恐れがあるということです。国民は、厳しい目でそれを監視しなければなりません。…やはり、何が真の国益であるかを常に考えながら。
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  ところで、報道機関…。
  たとえば、これ以上の違憲選挙を避けるための、議席の「0増5減」案に反対する野党も悪いが、選挙制度の抜本的な改正から逃げようとする政府与党もよろしくない、などといった“あいまいな”論調で良しとしている姿勢を真剣に反省してもらわなければなりません。
  世の中の事象がすべて「あれかこれか」で決まるとは思いませんが、何についても「あっちでもないこっちでもない」あるいは「あっちもこっちも」という報道機関の主張、論評は、ほとんどの場合で、何も言っていないに等しいものです。いえ、それは、そもそも、主張、論評になっていません。
  そんな“あいまいな”思考が日本を全体としてだめにしてきたのだと報道機関は知るべきです。
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  筋を通してものを考えるとはどういうことかについて関心がある方は【第211回 「入った!入った!」には普遍性がない】(2011-08-25 http://d.hatena.ne.jp/kugen/20110825/1314242301)にも目を通してください。
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  筋を通して考える習慣がないと、こんな愚かで的外れな発言しかできない、という例を挙げておきますね。
  【「ラテン系だから数字つかめない」 山本海洋相 発言後撤回】 (2013年4月27日 東京新聞 朝刊)
  <山本一太海洋政策担当相が二十六日の記者会見で、閣議決定した海洋基本計画の内容を説明する際に「ラテン系なのであまり正確な数字をつかめない」と発言した後、撤回する一幕があった><山本氏の発言を受け、記者が「特定の民族が数字に弱いという認識があるのか」と指摘。山本氏は「あまり細かいところにこだわらない習性があるという意味だった」と釈明した>
  これで「撤回」?釈明したつもり?
  ここでの問題の本質は、ラテン系の人間(民族あるいは国)だから「正確な数字をつかめない」のか「あまり細かいところにこだわらない」のか、というところにはありません。
  “ラテン系にもさまざまな人間がいる”というあまりに当然の事実を無視して、すべてを“十把ひとからげ”にして評していることが山本氏が抱えている真の問題なのです。こういうふうに、個々の現実を見ることなしに、“十把ひとからげ”にして何か(他の国、他の民族・人種、女性、障害者…など)を評する現象を偏見といいます。
  自民党の“ホープ”山本氏がこんな“偏見人間”ですからね、日本の政治が良くならない理由の一つがよく分かりますよね。
  そうそう、この「記者」が山本氏の「釈明」をすんなりと受け入れていることにも目を向けてください。偏見というものの本質がこの記者にも、おそらくは、理解できていないのです。
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  参考エッセイ 加州毎日新聞 「時事往来」 
  1988年8月23日 「続々 黒人差別」(http://d.hatena.ne.jp/ourai09/20090418/1240006699
  1988年8月11日 「渡辺式思考法」(http://d.hatena.ne.jp/ourai09/20090415/1239749274)