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『文学の哲学』抄訳 第13章「文学」その1

 さ、それでは、ぼちぼちと、Philosophy of Literatureの興味のある章を訳していこうか。

The Philosophy of Literature: Contemporary and Classic Readings - An Anthology (Blackwell Philosophy Anthologies)

The Philosophy of Literature: Contemporary and Classic Readings - An Anthology (Blackwell Philosophy Anthologies)

 まずは13章、J.O.Urmson,"Literature" (pp.88-92.)を扱う。初出情報をあげておくとこんな感じ。
J. O. Urmson, "Literature" from George Dickie and R. J. Sclafani (eds.), Aesthetics: A Critical Anthology (New York: St Martin's Press, 1977), pp. 334-41.
 基本的に訳者の私は自然言語が苦手なので、訳がうまくいかなかった箇所は注をつけるなどして原文を併記した。
 今回は最初の6パラグラフを訳した。I wish 〜 an opera.だ。

J. O. Urmson「文学」


 この小論では、文学に関する2つの問題を提起し、その解決策を示唆しようと思う。1つめは、文学的作品の存在論的地位*1だ――つまり、いったいどんなものが、詩とか、小説とか、歴史書とかなのかという問題だ。2つめは、私たちが文学作品を読むということは、主要なほかの芸術の諸形態に接するとき私たちが行っていることと、類似しているのかどうかという問題だ。これらの問題を追究するにあたって、まずは文学以外の主要な芸術の諸形態について少し言及しておこうと思う。つまり、これは文学の変則的特徴に見えるものについての問題なのだから、最初になにを正規の特徴であると考えているかを示す必要があるわけだ。
 まずは文学を離れて、多くの主要な芸術の諸形態について考えると、西洋文化に表れたうちでもっとも一般的なものというのは、次の2つのグループに分けられる。注意しておくが、これは歴史上の一般化であって、論理的な必然性や概念的必然性がある分類ではない。1つめには、絵画や彫刻といった、ふつう創造者creative artist自身が芸術作品を形作るもののグループがある。もちろん、芸術作品は何らかの点で精神的であるというCollingwoodの見解のように、この分類に反対する想像的幻想imaginative fantasiesはあるが、私はこの論文では、絵画や彫刻のような芸術作品は物理的対象であって、盗まれたり壊されたり銀行にしまっておいて保存したりできるものだ、と見なす。これは常識的見解であるから、新しい概念の導入なしに拒否されるものではない。すると、絵画とか彫刻とかいった類の芸術作品というのは、その創造者によって考え出されかつ作り出されたものを、ふつう鑑賞者が鑑賞するということになる。*2もちろんこれは簡略化しすぎた説明で、たとえば銅像を作るのに鋳造職人が関わるといった例はあるだろう。しかし私たちは、そうした職人というのは彫刻家の道具にすぎないと考えるし、彼ら職人は芸術的決定はまったくしていないと考えている(こういう考え方がいいか悪いかは別にして)。
 2つめの芸術のグループは、その基本的形態として音楽や演劇やバレエやオペラなどを含むものだ。こちらでは聴衆や観客は、何らかの媒介なしには芸術家が作ったその作品を目撃するwitnessことはできない。ここには実演者executant artistsが必要であり、演出家が重要な審美的役割を担う。私たちが見たり聞いたりするのは、踊り手とか演奏者とか俳優とかであって、振付師や作曲家や劇作者ではない。もちろん創造者は自身の作品の演出家を兼ねることもありうるけれど、だからといってこの区別が無効になるわけではない。
 さて、少なくとも常識のレベルでは、こうした舞台芸術performing artsについての深刻な疑問が生じる。芸術作品の同一性(identity)についての疑問である。*3どうやら「モナリザ」はふだんルーブル美術館の壁に掛かっているあれとはちがうらしいということを理解するのにも、哲学的な洗練が必要となる。*4しかし舞台芸術については、事態はまったく異なっている。常識的に考えて、交響曲とかバレエとか演劇とかを、ある本やある原稿といった物理的対象と単純に同一視することはできないし、かといってあるひとつの上演a performanceというようなできごととして単純に捉えることも難しい。私たちは、じっさい、ベートーベンの第5交響曲を聞いたということを、ミケランジェロダヴィデ像を見たというのと同じように語ることができるが、私たちが第5交響曲を聞いたというのは、明らかにベートーベン第5交響曲の演奏を聞いたということと同じであって、その点、私たちがダヴィデ像の上演を見たということがありえないのとは異なっている。
 私は以前の論文("The Performing Arts", in Contemporary British Philosophy, 4)で、このような演者を必要とする芸術や芸術作品についての創造者の貢献というのは、実演者に対して上演の指示の集合を与えるものだと説明されるのがよいだろう、と論じた。同様の意見はもちろん、それ以前に他の論者からも提出されている。したがって、ベートーベンが第5交響曲を作曲したときには、彼はオーケストラへの指示の集合を考え出し、書き付けたということになる。同様に、脚本家は俳優に指示の集合を提供するのだし、バレエ作家は踊り手に支持の集合を提供するわけだ。こうした見方は、現在提出されているほかの意見より妥当なものに見える。したがって、音楽作品は上演の集合a class of performancesである、と言うのなら、作曲者がその集合の作成者であることになる。するとこの見解は、上演されていない芸術作品について考えようとすると、特に不安定になってくる。Wollheimなどが示唆する、創造者はタイプを創造するのだという考え、あるいはStevensonによればタイプでなくメガタイプmegatypeということになるが、これらにも同様に不満が残る。つまり、トークンができる前にタイプとかメガタイプとかができうるというのは理解しがたいのだ。*5
 音楽やバレエのような、聴衆が目撃するものが時間をとるできごとの集合であるような芸術、すなわち時間経過的芸術temporal artsに関しての、上演指示の集合と呼べるようなものは、実演者を必要とする非時間経過的芸術nontemporal artについて言えば、より自然な呼び方がある。「レシピ」だ。絵画や彫刻のようなこうした非時間経過的芸術は、ふつう創造者以外の芸術家を必要とせず、いままで見たように、物質的対象である作品によって構成されている。こうした芸術作品を作るのには時間がかかり、また鑑賞するにも時間がかかるかもしれないが、それ自体として時間がかかるということはない。しかし、もし我々が料理を芸術と見なすとすれば、料理には実演者としてのコックが必要であり、またコックは彼が従うレシピの創造者でもありうる。クルミのパイthe pecan pie*6ハンバーガthe hamburgerは、交響曲やバレエ同様に、その身分に問題を抱えている。私の意見では、パイづくりto create the pecan pieというのはレシピを供給することであって、それに実演者のコックが従うとき、結果としてパイa pecan pieができるのである。
 したがって、創造者は2つのことのどちらかをするだろうと考えられる。つまり創造者は、観客が目撃する物理的対象としての芸術作品を自身で作るかもしれないし、他人の実行のための指示の集合を作るかもしれない。この理由は明らかで、もし音楽のような時間経過的芸術のなかに永続するpermanent芸術作品を作りたければ、創造者は指示の集合を作るしかないのだ。音楽に永続する作品がある必要はない。*7たとえば完全に自由な演奏だけからなる音楽には、永続する作品は存在しない。理論的には、絵画の楽譜notationというのだって考えうる。創造者が、いくつもの妥当なvalid解釈を実演者が生み出せるような描き方の指示の集合を作るわけだ。なぜ我々がそんなことをしないか、いくつかの基本的な子供用の塗り絵を除けば、その理由は簡単だ。*8とにかく私は、どんな芸術の形態であれ創造者と実演者とを含むと言っているわけではないし、また逆に両方を持つ芸術はありえないと言っているのでもない。私は単に、絵画や彫刻の基本的な古典作品はあるタイプに属し、また音楽や演劇やバレエの基本的な古典作品は別のタイプに属する、という観察を述べただけなのだ。それから、高度に系統立てられた、従来の手法による芸術作品は、上記の2つのカテゴリーに分類されるだろうと考えるべき、じゅうぶんな実践的理由を注記しておこう。つまり、だれだって、即興オペラを聞きたくはないだろう、ということだ。


 読みづらいなあ。適当に改行してもいいかもしれないな。とりあえず、ここまででUrmsonの述べてることをまとめとくと、

  • いったい文学ってものの共通の特徴ってなんだ?
  • 文学の受容は他の芸術の受容と似てるのか?
  • とりあえず文学の前に芸術から攻めるぜ! 芸術は2つに大別できる!
  • 1:創造者が作ったものが直接見られるグループ!
  • 2:見られるものは実演者による上演でしかないグループ!
  • 2つめのグループにおいては、創造者は実演者に上演の指示を与えている!
  • 即興オペラは聞きたくねえよ!

ということになる。
 ここで特にわからないのはこの部分だ:

こうした見方は、現在提出されているほかの意見より妥当なものに見える。したがって、音楽作品は上演の集合a class of performancesである、と言うのなら、作曲者がその集合の作成者であることになる。するとこの見解は、上演されていない芸術作品について考えようとすると、特に不安定になってくる。Wollheimなどが示唆する、創造者はタイプを創造するのだという考え、あるいはStevensonによればタイプでなくメガタイプmegatypeということになるが、これらにも同様に不満が残る。つまり、トークンができる前にタイプとかメガタイプとかができうるというのは理解しがたいのだ。

 トークン以前にタイプを作るってのはへんだ、というのはよくわかる。だが、この話はどこへ引き継がれているのだろうか? このままでは、トークン以前にタイプができうるっていうんじゃ、楽譜=指示書って説は反駁されちゃうよ、と言っているように読めてしまう。この論文を最後まで読んでも、「トークンができる前にタイプができうる」ことを説明した箇所は見当たらない。ということは、このWollheimらの見解はUrmson自身の説とは異なる、そして妥当でない説であり、音楽作品は上演の集合ではない、と言いたいのか? それなら、「こうした見方は、現在提出されているほかの意見より妥当なものに見える。したがって、」の訳がおかしいはずだ。原文をひいておこう:

This view seems more plausible than others that are current. Thus, to say that a musical work is a class of performances requires one to say that the composer created such a class - a view which becomes especially uncomfortable if we consider an unperformed work. The suggestion of Wollheim and others that the creative artist creates a type, and Stevenson's view that he creates a megatype, also cause discomfort. It is hard to see how there can be a type or a megatype before there are any tokens.

thusの訳がいかんのか? 論文で頻出するこのthusという語はどうも好きになれない。


 なにかいい訳しかたがありましたら、ぜひ教えてください。特に原書をお持ちの方! 日本人ではいまのところ私以外に3人しか知りませんけど。みんな買おうよこの本。虚構とか文学とか考えるなら必須だよまじで。


 今後も使うはずの重要ワード:

  • 創造者 creative artist
  • 実演者 executant artist
  • 時間経過的芸術 temporal art
  • 上演指示の集合 a set of performing instructions


(追記部分 2008/7/13*9
 さて、上記のように翻訳に苦しんでいたところ、コメント欄でなまえさんから、また議論でお世話になっているid:optical_frogさんから、それぞれ訳の代案をいただきました。ありがとうございます。
 id:optical_frogさんのご指摘のうち、suggesitonの訳の部分については、追記のうえ本文を修正しました。また、This view 〜 any tokens.の部分は、お2人のご指摘を受けて、以下のように訳しなおしてみました:

こうした見解は、他の通説より妥当なように思える.たとえば、音楽作品は上演の集合a class of performancesである、と言うのなら、作曲者がその集合の作成者であると言わなくてはならなくなる──こういう見解は、まだ実際には演奏されたことのない作品を考えたときには、とくに困ったものとなる〔このような点で,「演奏の指定」説は「演奏の集合」説よりも優れている〕。Wollheimなどが示唆する、創造者はタイプを創造するのだという考え、あるいはStevensonによればタイプでなくメガタイプmegatypeということになるが、これらにも同様に不満が残る。つまり、トークンができる前にタイプとかメガタイプとかができうるというのは理解しがたいのだ。

これでやっと意味が通るようになったと思います。感謝いたします。


 id:optical_frogさんの記事はこちらです:
アームソン「文学」の訳について2カ所ほど私見を - left over junk

(追記ここまで

*1:the ontological status

*2:Thus it is the work of art as both conceived and made by its creator that spectators typically contemplate in the case of such arts as painting and sculpture.

*3:Now it is only in the case of the performing arts that serious doubts about the identity of the work of art arises, at least at the common sense level.

*4:It requires philosophical sophistication even to understand the suggestion that the Mona Lisa is not something usually can be found hanging on a wall of the Louvre.この部分は、id:optical_frogさんにご指摘をいただくまで、「この疑問は、じつは『モナ・リザ』は、ふだんルーヴル美術館の壁にかかっているものとは異なるものだという提案さえ理解せよ、というように、哲学的洗練を要求する。」と訳していました。2008/7/13

*5:2008/7/13に訳を修正しました。詳しくはこの記事の追記部分をご覧ください。

*6:ペカンはクルミ科ペカン属の樹木だそうです。ペカンなんて食べたことないのでクルミにしてやりました。

*7:There do not have to be permanent works of music;

*8:It is not difficult to see why we in fact do not do this, except in the case of some rudimentary children's painting games.

*9:2008/7/13の追記部分です。