あなたのkugyoを埋葬する

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「わたし」間の魂的なものの不在が可能世界を使って示せるかも(考えちゅう)

 じりじりとした訳出作業のあいまに、西村清和『フィクションの美学』を読む。よかった、

「実用論的汎反意図主義」
(e)ところで、作者の意図を考慮せずに表象を解釈した場合、そしてそのときのみ、私たちはその表象を芸術作品として受容していることになる。(考慮した場合、コミュニケーションの一部として受容していることになる。)


ありがとうございました(概念の更新について少しだけ) - kugyoを埋葬する

などという主張は、すでにイーザーやハーバーマスやリクールや西村によってなされていたのね。安心した。ええ、それじゃ、コンパニョンはこれらの議論を知らなかったということか? ちょっと確認しなくてはいけないな。
 ところで『フィクションの美学』第6章中の西村の議論はうまくいってないように思う。論点先取というのではないな、循環しているのかな? カルテジアン劇場(じゃあ脳のなかの小人の意識はどうなってるの?)とか、素朴な創造論(じゃあ創造主はどのように創造されたの?)のような話になってしまっているはず。うまく修整できるとも思うのだけど。
 まとまったら、別のカテゴリ([本文は好きにしてね]記事一覧 - kugyoを埋葬する)に記すことにしよう。
 いま書いているこの記事もそうだけど、この記事の属するカテゴリに属する記事群は、うれしくなると、ついやっちゃう記事なので、該当学問分野の知見に基づかぬことをさかしげに書いてしまうことがあります。ですから、学術的な興味そしてそれのみをお持ちの方はうまくはじいてくれるとよいのではと思います。ここをアンテナに入れるなど。


 んー、いま調べてみたら、そんなこともないなあ。とりあえず、このカテゴリ([本日書き出しの前言に ついふらっと・言い出す論] - kugyoを埋葬する)に属する記事群は、すべて予言のようなものだ、と思っていただければ。