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   文学フリマで買った同人本の感想書いてます。第8回, 第9回第18回第19回第20回第21回

2009-05-13

「小説解放区 10周年記念増刊号」

第8回 文学フリマで買った同人本の紹介です。

  • C-04 小説解放区:「小説解放区 10周年記念増刊号」(\0)

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 こちらのブースにはたしか開場間もないころに訪れたはず。もう10年以上も活動を続けておられるそうで、ぱらぱらめくったときに、収録作「双子と薔薇と、カレーの日」を見て、また、同人が互いの作品に感想を述べているらしいことを知って、1部いただくことにしました。

 収録作品は7つ。10年の活動のなかから、作品と感想とを選んで再録してあるそうな。


 こちらが同人のサイトだそう。

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「迷いの森」

 さあ、猫が出てくる小説でございます。

 亡くした祖父や家族への距離のありようは、よく語られてはいないがよく描かれていると思います。

気乗りしない親戚連中と顔を合わせなければいけないことも、憂鬱の一つだった。彼らは因習と体面にばかり固執し、田舎を毛嫌いする異端児である僕を快く受け入れない。あそこにいても、疎外感を植えつけられるだけ。

 それでも帰省したのは、死者に対する敬意の表れにすぎない。

などと、祖父を「死者」とくくってしまう突き放した語り口のいっぽうで、道に迷った山中で、子猫ポテチを運んでやる痩せ猫に出会えば、

 僕が同じ場所を見つめても、何も見えない。だけど、猫に祖父が見えているのなら、伝えて欲しい。僕は今も、元気でやっているよ、と。

というように、「祖父」への情を露にするし、下山して「従兄弟」や「父」の姿を見つけると、

 やっと、帰ってきたのだ。胸に詰まる思いがこみあげる。

とも語ってしまう。状況によって感情は簡単に変化してしまうことや、語りによってそれを捕捉することの困難さやが、この作品では描かれています。

 高校3年にもなれば、わけもなく自宅が疎ましくなり、「ここではないどこかへ行きた」くもなるでしょう。通夜のために帰省したところを道に迷えば、祖父の霊魂のことを考えて心温めたくもなるかもしれませんし、はらぺこで下山したときに自分を待っていた人間に出会えば、そいつが親の敵だろうと安堵してしまうかもしれません。

 自分を語ることほどたやすくてまちがいのないことはない、かのように思えるのは錯覚で、そこで語られたのがほんとうに“自分の気持ち”なのか、それとも定型化された感情パターンをクリシェによってむりにあてはめているだけなのか、という問題を、「うららかな春の午後を思わせる、暖かな日差し」とか「枝の隙間から鮮やかに輝く星は、疲弊した心には眩しすぎて目を瞑った」とかいった表現を利用して、この作品は考えているように思います。


「双子と薔薇と、カレーの日

 私の親戚に庭師をしていたのがいて、彼の家の庭には幾輪ものバラが毎年咲くのだが、そういえばバラの香りはどんなのだか思い出せません。芳香の強いのはまた別種のバラなのでしょうか。

 語り手「俺」は非常に厳しい立場に置かれています。料理中に「背後から抱きつ」いてしまうほど「大切」な相手の「聖くん」は、自分の兄弟(「片割れ」)であるし、同じく「大切」な幼なじみの「美春」はこともあろうに「聖くん」と相思相愛です。そこで「俺」は身を引くことにしているのですが、こういう関係を描いた作品ってえてして、友人に配慮して身を引くほうの男の心理が、女を交換・譲渡するというホモソーシャルの傾向を色濃くしているんですよね。ところがこの作品だと、「俺」は「聖くん」にも愛情を抱いていて、「聖くん」に「美春」を“譲る”のではなく、

 俺は美春と聖くんの、どちらも同じくらい大切で、どちらかを失うくらいなら、どちらかの特別なんていらないから。

と独語します。ここで注目すべきは、相思相愛の「聖くん」と「美春」との関係を壊した場合、「俺」が失うのは「どちらか」であって、両方ではないとされていることです。「聖くん」から「美春」を奪うことで「俺」と「聖くん」との関係が悪化する、というのはよくある物語ですが、「美春」から「聖くん」を奪うことで「俺」と「美春」との関係が悪化する(のに「聖くん」との関係は保たれる)というのはかなり珍しいと思います。

 この小説の執筆時に与えられていたテーマは「におい」だそうですが、こんなに(非・性的な意味で)性のにおいがしない恋愛小説を読んだのは久々でした。さらに言えば、この3人なら、もっと別な愛の形をきっと模索できると思います。

 ところで、この小説においては、「俺」の心境はまったく変化せず、3人の表面的な関係も何ら変わりません。ほとんど現在形で描かれていると言ってもいいです。小説内時間が減速しているのですね。そこもこの小説のおもしろいところかもしれません。


fantasista.」

 「私」は恋人の「本郷さん」に対して、妊娠の報告よりも気がかりな疑問を抱えています。それは「本郷さん」がときどき犬に見えることです。見えるどころか、感触までも犬らしくなっているようで、

 御犬様は顎を私の頭に乗せて、肉球のある手で器用に私の髪を撫でる。首元に顔を埋めると毛並みはふかふかと柔らかく、私はうっとりしてしまう。

などの描写もあります。

 斉藤美奈子『妊娠小説』などをひくまでもなく、妊娠って日本の文学ではとんでもない一大事として扱われていたわけです。相手がときどき犬になる男だというのなら、なおさら妊娠は大問題でしょう。しかしここでは、そのような世俗のことよりも、「本郷さん」のことばかりが気になってしまう「私」の感情が描かれていて、興味深く思いました。

 ロマンチック・ラヴを描いた小説って、世俗のできごとに邪魔されるピュアな愛情、なんてものを扱ったのが多いし、この作品でも「今日だって給料日前で苦しいところを奮発して、できる限りのボリューム料理を作ったのだ。」なんて記述もあるにはあるんですが、それでもけっきょくなんとか作れてしまうあたり、いやあ、思考実験ってほんとにいいもんですね。


「夢」

 「二年生になってもうすぐ一ヶ月。」とのことで、五月病に見舞われた「成田あかり」が、「部長」に励まされて油彩をがんばるおはなし。

 「趣味で絵をやって」いて弁護士を目指しているらしい「部長」の自画像がおもしろいです。

 そう部長は言って、彼のキャンパスを指差した。そこにはブルーを基調とした抽象的な絵が描かれていた。

 青い色をバックに白いなんだかのっぺりした丸がまん中に描かれていた。それが彼の横顔で、この絵は自画像だということだった。

 「自画像」というのを照れ隠しなどでないとして真に受けるなら、あれだけ自信たっぷりに「あかり」を諭した「部長」の自己イメージは、宙に浮いた空虚な白丸だということになります。「将来は弁護士になりたい、が彼の口癖」だそうですが、ほんとうにそれは彼自身の願望なのかどうか、「部長」の内面は一切描かれていませんが、ここで登場するのが「部長」の自画像である点も含め、興味深い描写です。


「愛する人のお眼鏡に」

 「祖母」が亡くなった「祖父」の愛情を気にするさまを、既に結婚している「私」を語り手に描いた作品でした。

 祖父は祖母に一度だけ涙を見せて懇願した。

「お前の手でこの首を絞めてくれ。お前に殺してもらえたら本望だ」と。

 最後に一言、祖母と見守るみんなの前で、祖母ミツに対し、

「ミツ、苦労をかけたな。申し訳ない。お前は唯一、俺が愛した女だ。これからの人生を楽しく過ごした後、俺のところに来てくれ」と残した。

のような愛情表現を受けながら、それでもなお「祖母」は

「私はあの人のお眼鏡にかなっていたのかね。あの人は幸せだったのかね」

と繰り返し問い続けます。「迷いの森」について書いたときにも述べたように、他人の気持ちはどのように表象されたとしても簡単に変化しうるため、いくらでも疑うことができます。死の直前、それも家族の前となれば、妻を愛する気持ちを表現する気になるのがむしろふつうでしょう。そんな言葉では、どの時点までの「祖父」の考えを表しているのかはさっぱりわかりません。語り手「私」はまだそれに気づいていませんが、長い時間を「祖父」とともに生きてきたからこそ、「祖母」は迷ってしまうのです。


「てのひらの物語」

 「単調で特別面白いわけでもない日常」を過ごす「僕」の語りのあと、「幼馴染」の「晴香」とともに「異世界」にやってきた「僕」の語りが続く物語です。

 ここは決して作られた世界などではなく、人が生きている世界だということ。ダリアの語る様子からはその現実感がひしひしと伝わってきた。この世界はハッピーエンドばかりが溢れた都合の良い物語の世界ではない。一人一人が今を生きている、れっきとした一つの世界なのだ。

という、しつこいくらいの語りから容易に想像のつくことは、この「異世界」こそ「僕」が案じているように「都合の良い」世界であろう、ということです。世界における「都合」とはだれの「都合」でしょうか? もし、分割された2つの「僕」がおなじ「僕」だとすれば、彼にはとつぜんになかのよい「幼馴染」ができたことになりましょう。悲劇さえも「僕」の「都合」のために要請されたものではないか? 「僕」はそんな疑問は(まだ)抱きませんが、「『五年前に異世界人が現れたせいで大津波が発生し、一つの国を滅ぼした』という噂」も流れるこの「世界」は、やはりうさんくさく見えてきます。

 このうさんくささは、「異世界」にやってきた「僕」を描いた部分の後半にも現れています。「ここは異世界で、僕は旅人だったのから。」という1文と1行あきのあとからは、人称が三人称になっているのです。文体が変わらないため気づきにくかったですが、このように秘密裏に三人称に移行することによって、焦点化のズレが起こり、読者は物語を少し遠くから眺めさせられます。それが物語であるとわかってしまうほどには。


ルーシー

 亡くなった「ルーシー」のかわりに「ルーシー」として自己形成してきた妹「エリー」が語り手です。

 私の名前はルーシー。パパもママも私のことをそう呼ぶ。隣のおじさんも、昔お世話になった元警官のフィリップさんも。友達も、知らない人も。

 読み終わって、なんかへんだな、と思うのは、この語り手はいったいどのくらいの年齢なのかしら、ということです。「昔お世話になった元警官のフィリップさん」ってどういうことなのでしょう。どこでお世話になったというのか。しかも、「フィリップさん」は医者や牧師ではなく「元警官」です。

 そう考えると、あるいは語彙の選択(「吐瀉物はいつも、嫌なにおいがした」など)も考え合わせると、語り手はそこそこの年を食っているのではないか、少なくともそれほど幼くはないのでは、と思えてきます。語り手が年を食っていればいるほど、この話の純粋さや悲劇性は増すと思うので、こういう仕掛けはだいじなのかもしれません。

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