基準から外れた人はこうしてる

社長になるのは失業するより簡単だ。
失業するためには就職か起業しなくてはならないが、社長は文字通り誰にでもなることができる唯一の職業だ。


昨日、商店街にお祭りの準備でしめ縄をつけた。
夜は軽い打ち上げ。
同席した若い人が将来は社長になりたいみたいな事をいっているのを横で聞いてふと冒頭のようなことを思った。
誰かが社長なんて誰だってなれるんだよ、続けたり人を育てるのが大変なんだみたいなことをいっていたが、多分そうなんだと思う。
自分などはまだ駆け出しだが、同じことを続けることの大変さや、人とやることの大変さは身にしみている。



さて、こんなエントリーがあった。

「基準から外れてしまった」人をどうするか
http://d.hatena.ne.jp/michikaifu/20090907/1252383861
日本は、全体として「規範意識」の強い社会であると思う。それがいいほうに作用すれば、「犯罪が少ない」「電車も宅配便も時間通り来る」「約束を守る」「信頼できる」ということにもなるし、それは日本人のいいところだと思う。でもそれは、規範から外れてしまった人にとっては厳しい社会であるために、そうならないように皆必死になっている、という言い方もできる。
(中略)
何もしないまま規範の厳しい日本の社会にいたら、脱落して「引きこもり」になるのではないかと思う。今、「引きこもり」とレッテルを貼られている人たちの多くは、こうして現在に至ったのでは、と想像してしまう。彼らを「怠け者」として単に叱咤激励するだけでも、「それでいいじゃないか」と甘やかすだけでも、いけないと想像する。
(中略)
日本でも、「規範から外れたら一巻の終わり」という恐怖「だけ」で人を縛る時代はそろそろ終わりにして、ちょっと「外れた人でも何とかなる」方向にバランスをシフトしてほしい


昨日同席された方で、若者の自立支援をされている文化学習協同ネットワークさんというNPOがあった。
聞けばひきこもりになってしまったような子達の自立支援をおこなったり、相談者のステージにあわせて他所を紹介したりするというようなことをやられている。
以前から存在は知っていたのだが、その実態は想像していたものとまるで違った。
話しを聞いてそんなものがあるんだーと、関心した次第である。
まさに先述のエントリーが対応策として提案しているような内容をやられている。
民間のセーフティーネットである。
http://www.npobunka.net/
日本の社会インフラがダメダメだといっても、あるところにはあるので絶望する必要はないと思う。
崖から落ちそうなときひとりでなんとかなるものではないので声をだして助けを請うことは重要だよね。
意外とその扉は外側からなら簡単に開いたりするもんだ。



うちのお店をてつだってくれている子に引きこもりが居る。
正確にはもと引きこもりだ。
わずかの社会人生活でずたぼろになり、南米あたりで外こもりを数年した後、日本にもどってきてダメな感じでひきこもっていたので週に数時間でいいから顔出せとうちに来てもらっている。
高校時代の部活の後輩なのだが、その時代を知っているだけにうちに来始めたころの病みっぷりったら無かった。最近は幾分はほぐれてきたかなとは思うが”社会”という荒波に飛び込むにはまだなのかなとも思う。


彼は基準から外れてしまった人なのかもしれない。
上智だか立教だかを卒業して就職氷河期で苦労しながらも就職し、そして失職することで…自己否定のよくないスパイラルへと陥った。恐らくは彼の価値観では皆が行くルートから外れることは即ち脱落を意味したのだろう。


最初から基準から外れている私のような外野からみると、屁にも棒にもかからねぇ話しだとは思うのだが、価値観というものは一朝一夕で塗り変わるものではない。総中流階級大学全入時代といった横並びの意識は、自分で考えて意思決定するという有る意味で動物らしい大切なものを奪ってしまっている気がする。
就職する段になって「なにをやりたいか」などと問われて本当の意味で答えられる人が何人いるだろうか。
しかもそれで稼ぎたいって……それ相当欲張りな話しだよねと思う。


20やそこらで我が生きる道をみつけたりと悟ってるヤツなんかがポンポンいてたまるかとおもう。
むしろそんな本分はわからないまま死んで行くのが普通だ。
ライフワークとライスワークを無理に一元化する必要もあるまいに、建前で「なんとなくやりたいこと」をそれを仕事に結び付けて就職活動で口上をのべなくてはならない。社蓄という言い方は大げさだが、日本人のその組織への帰属意識、献身性は他国のそれに比べると相当異様なのではないかと思う。



大きな船を進めようとした場合、息をあわせたほうがよく進む。だから行動規範が重要視される。
だが現代、とくにこれから数年は環境激変期に相当するとおもう。
行動規範をかたくなに守り、目の前のオールを守っていては船ごと沈むこともありうるぞと警告を発したい。


群れで勝手なことをしだすやつが増えると群れは滅びる。
だが、勝手なことをしだすから滅びるのか、滅びるから勝手なことをしだすのかは鶏と卵の関係だろう。
最近は規範を守ろうとしても取りこぼされる人間が増えている。
絶望した人間は不幸な道を歩んだりするが、そこに伴っているのは自己否定なのではないかと思う。


「それでいいじゃないか」と甘やかすつもりは無いが、
「そんなこともあらあな」と、受け流すことも大切だ。



自信がもてなくなったり、自分のやってきたことが否定されたりしても、それで自分がどうにかなるわけでもあるまい。あるがようにあるしかないのだ。
反省はしても否定までする必要はないのではないかと思う。


人間万事塞翁が馬という故事がある。今日の不幸が原因で明日幸福に恵まれるかもしれないのだ。
禍福はあざなえる縄のごとしとはよくいったものだとおもう。
何とかなるのではなく、何とでもなるのである。
お利口さんになって建前と割り切ることも、馬鹿になって何も考えないようにすることもできないと苦労する。
だが苦労したからといって絶望する必要はない。
だって苦労もない人生なんてつまらないじゃない。


規範があわないと認識したうえで規範に従おうとすると絶望感や無力感に襲われる。
だが所詮は生物の同一種の個体差の範疇に収まる程度の規格外なんじゃないかと思う。
規格にあわないからと無駄にしてはならない。
文化や文明はその多様性を許容保持してこそ伸展継続の余地がある。
基準に合わないひとというのは、無用の用なるもので、もしすべての人が基準を守るのだとしたらそれは基準ですらないのではないかと思う。
レギュラーパターンはイレギュラーパターンの出現数を認識できてこそ認識されるのだ。


ひらたくいうと、日本のような基準からずれちゃった人に厳しい社会でも、その実なんとかなるものだから絶望などせずに、自分の頭を前にむけて歩いていこう。他の人の行く先を見て歩いてちゃだめだ。
みんなが行かない道に花っていうのは咲いているかもしれないのだ。
不安げにみんなが歩いている街道の様子ばかりを窺っていてはその愉しみすら見逃してしまうよ。




お昼からぐだぐだモード。
ま、紅茶でものんでゆっくりしましようや。
( ´ノ日`)ズズ