祖父を偲ぶ

98才と10ヶ月 病院のベッドにて家族に見舞われながら他界した。大往生である。
医者が言うには10万人も居ないという男性の95歳超え。平成22年の国勢調査によると男性の平均寿命は79.64歳、当時の97歳以上が全員生き残っていたとしても2万7千人しかいない。母方の祖父も99歳で亡くなった。明治や大正生まれの生き残りは本当にたくましいと思う。だがしかし100歳の壁はさらに厚いようだ。


呼吸器不全と診断されてから22日、入院してから2ヶ月程度あった。ここ1〜2年、養護ホームにはいっては風邪などをうつされるたびに病院に入院していた。病院は、病気の治療こそしてはくれるもののベットに括りつけられては寝かし続けられ介護度が増していく。入院しては個室に移され風邪の治療だけされて帰ってくる。歩くこともままらならなくなりリハビリ施設に行く。リハビリ施設でまた風邪をうつされ病院の個室に入れられる。生活力はさらに奪われる。そんな繰り返しだった。生きるのは難しいことだが現代では死ぬのも簡単なことではない。そしてとてもお金のかかることだ。


病床に伏せる祖父の福徳とした人相はやがて目も窪み、手足は痩せ骨ばかりになり蝋化したような肌がそこに張り付いていた。点滴を刺す後は青くなり見るだけで痛ましかった。かつては本当に福神のような相をした人だった。祖母と並んで座っている様は本当に絵に描いたような夫婦だ。理想の老夫婦図があるとすれば私にはこれ以上はイメージすらできない。祖父が亡くなったことよりもこの夫婦が欠けてしまった事実が何より辛く悲しい。

眼窩が窪み口を呆けたまま臨終した姿は死を現実味をもって理解させてくれるに充分で、ようやく闘病生活を終えたことに安堵まで覚えていた心持ちであったが、納棺にあたり死化粧をされた姿をみて「あっ、おじいちゃんが居る」と思ってしまい、不意をつかれ涙があふれた。葬儀は親族のみが参列する家族葬にてひそやかに、しかし和やかにおこなわれた。



兆しは微かなところから始まる。
おじいちゃんがつまづいて転んで立てなくなったと祖母から呼ばれ、おこしにいったことがある。何か大怪我でもしたのかとドキリとしたが尻餅をついた後の立ち上がり方がわからなくなったのだ。それから、毎日つかっていたはずの電子レンジの使い方がわからなくなったり、いろいろな事がわからなくなってしまった。
男性はいわゆるの袋のほうが開いているらしく、加齢により筋肉や膜などが緩み腸がそこに落ちてきてしまうのだそうだ。ひどくすると脱腸状態になり排尿や排便がうまくいかなくなる。その時に飲んだ整腸剤や利尿剤が体に負担になったのだろう。もしかしたら記憶障害などはそのときに脳水などの圧があがってしまったことに起因するのかもしれない。応急救護、緊急をようする事態になることも数度重なり関わる医者や施設も増え、結果90歳も後半にもなってから脱腸の簡単な縫合手術がおこなわれた。
「もう100歳も近いから頭もバカになっちゃって・・・」さみしそうに祖父は呟いた。自分がボケていくことを認識しつつも体がいうことを聞かなくなる感覚というのはどういうものであろうか。危篤状態になっても耳は聞こえているようで、呼びかけには応じるものがあったが、殆どはまどろみの中にいた。


祖父

祖父は囲碁五段の腕前を持っていた。その前は将棋をやっていたらしくこちらも有段である。免状かなにかを加藤一二三からもらったそうだ。柔道も黒帯であるらしい。私やいとこが子供頃、囲碁などのを楽しく教わったが、碁とかは人生を狂わすから隠居するまでしちゃならねぇと孫たちに釘を指しつつも自分は存分に碁を愉しんでいた。


神田紺屋町の生まれで生粋の職人である。元は飾り屋職人(金細工)をやっていたそうだ。飾り屋といっても当人曰く今でいう数千万とか数億するような皇族華族向けの非常に高価なものをつくっていたそうで、やんごとなきあの方のあの有名写真で身に着けている金のボタンはわしがつくった的なことをいっているのを聞いたことがあるような気もするが事実かどうかはわからない。


金の削りカスが出るので、業者がいつも新品の畳と交換してくれるから畳はいつも新品だったと言っていた。裕福な家庭ではあったそうだが、学校なんかにゃいかせねぇと先生を殴って追い返すようなレベルの職人で、たとえ身内であっても丁稚奉公職人として徹底して育てられ反目もあり家出をしたこともあったそうだ。
やがて日中戦争がはじまり、贅沢品が禁止され職業を奪われた祖父は生業を転々としたのちに時計屋をはじめた。銀座でやっていたが三鷹に落ち着く。太宰治? あぁ、うちのお店にもきてたな。だ、そうだ。


武勇伝として老人が孫にいうことなのでどこまでが事実だかは分からないが、他から漏れ伝わることなどないと思う。葬儀などで聞いた話しなどを含め記録がてら羅列していく。孫が伝え聞いた個人史。本人による脚色や私の思い違いがあってももうご愛嬌だ。裏をとりたくても証言できる生き証人ももういないだろうし、ここで残さねば史実もなにもあるまい・・・


幼少〜子供時代

英国エドワード王(1922年)が8歳の頃小学校だかにきたとき出迎えたとかでなぜか英国国歌が90歳過ぎても歌えた。
関東大震災(1923年)を神田で罹災。9歳ぐらい。意味もわからず囲炉裏のうえから何故かヤカンをもって一人で遠くまで走って逃げた。
関口ヒロシの親(佐野周二)がとなりの町会だかのガキ大将でよくやりあったと関口ヒロシがテレビにでるたびに。
銀座の街をローラースケートを履いて遊んでいたそうだ。そんな時代にローラースケート?
改造しまくった空気銃を持って遊んでたら警官につかまった。改造銃がベニヤを撃ちぬいたら捕まってしまうので咄嗟にバネを抜いてのがれたそうだ。そんな時代にエアガン?
於玉ヶ池のちかくに北辰一刀流の道場があってなと坂本龍馬のドラマを見ながら。
江戸っ子なので「ひ」が言えず「し」になる。「お昼」は「おしる」になる。


青年時代

職人として腕を磨く。となりの奴が大学にいったりしているのが羨ましかった。
アメリカ帰りの先生の話しを聞こうと専修大学に忍び込んで話しを聞いた。アメリカと戦争になると確信し、神田などは再び火の海になると親兄弟を説得し開戦まえにおのおの疎開を始める。
上野や新宿、高円寺へと郊外へ散らばるなか祖父は親の反対を押し切り辺境の三鷹まで引っ越してきた。
25歳、当時、三鷹村に二階建ての木造家を建てる。
三鷹はそろそろ町になるはずだと三鷹村の時分に表札を三鷹町でつくったのだがまもなく市になってしまった。ちなみに表札はまだ三鷹町ままで、ちょっとした観光地になっている。
三鷹は本当になにも無い村だった。たぬきとかが居た。渋谷とか新宿とかも田舎だったがさらに田舎だった。
横綱ミナノガワの屋敷が隣にあったので、横綱の家に影を落としちゃいけないと母屋を少し離して建てた。
門かがりの松は大王松だったらしい。
第二次大戦がとうとう始まりたった一回の見合いで祖母と結婚。祖母は結婚式で一回しか会っていないから兄弟が居並ぶ中どの人が旦那だかわからなかったそうだ。目黒雅叙園で式。
結婚式で食べない祖母に「うちに帰っても何もないから食べて」と祖父。すでに戦下で食糧難。

戦前戦中

兜町がそばにあったので国債を買った。その日に買ったものをその日に売っても一日の稼ぎより多かった。親に金を借りて買った。戦争では日本が勝つと思って国債を買っていったが負けて紙くずになった。新円切替でお金もゴミになった。親への借金だけが残った。返すのしんどかった…。
戦争で贅沢品を取り扱う職人仕事が禁じられたのち、三鷹日本無線で軍需の仕事をした。すっごい遠くまで見えるレーダーをつくってたんだそーだ。飛行機?
赤紙がきて覚悟をきめ嫁子供を祖母実家に疎開させたが出る直前に終戦を迎えた。赤紙からひと月。
神田の実家は爆弾の直撃をうけてすり鉢状になっていた。隣の家の人は防空壕のなかにいたが亡くなった。
親は相応に商売に成功した人で長屋のようなものを100軒とかもってたそうだが綺麗に燃えた。職人は土地を持つことは風潮としてなかったし、かつては土地に価値なんかなかった。土地に価値がでてきたのは戦後の話しだ。食えなかったら意味ねぇ。
神田の鍛冶屋町などもっと血の気の多い職人友達連中は最前線に志願してみんな死んでしまった。(さみしげに。)
灯火管制中、飛行機がとんでないので友人と碁を打っていたら見つかって怒られた。歩いて府中警察までいって絞られた。
育てていた野菜が盗まれ、かわりに手紙が結んであったこともあった。当時はみんながみんな本当に大変だった。
木の切り株を風呂敷でくるんでおいたら家に泥棒がはいったときにそれを盗んでもっていかれた。本当にただの切り株だったんだけどな、と。


戦後

機銃掃射などはあったが家が焼けずに残ったので、焼け出された人たちが祖父の家だけでも4〜5家族住んでいた。やたらと人がくるなと思ったら、駅でまずうちにいけと案内していたらしい。総理の付き人とかも居候していただとかなんだとか。当時、借家には文芸作家の宇野千代天皇の碁の先生がいたとか。(だから碁をはじめたのかな?)ちなみに、碁の先生の家ははぐら茶屋がある場所にあったとか。
戦後でみんな苦しかったので借家を安く貸してたら又貸しされたこともある。
戦争が終わり、元の飾り職人に戻ろうとしたらGHQが家にやってきた。金細工をやろうとしていた他の兄弟では捕まったものもいるそうだ。こうしてひとつ江戸の伝統工芸が途絶えた。その後、食うための商売を探し、いくつもの商売を転々とする。戦後1年ぐらいは千葉のほうで魚を買ってきて吉祥寺で露天商をやって売るようなことをしていたそうだ、保険の外商などにも挑戦したことがあると聞いた。そして家の生垣に「時計屋修理します」の看板をだし、たったそれだけで時計屋になった。兄弟で服部時計店に勤めていたものがいたのだとか。
通信教育のような時計の簡単な構造だけ書いてある教科書を取り寄せてそれを頼りに独学で始めたそうだ。手先こそ抜群に器用ではあるものの、全くの独学なので蓋を開けてから「これどうしよう」というようなところから始まったそうだ。
三鷹から銀座に通い店をやっていたが通勤途中で店になりそうなところをみつけ三鷹の中央通りに店を移した。やがて自宅の一部を改装して店を移す。
うちらの商店街には名前に銀座とつく。三鷹なのになんで銀座なの?と祖父に聞いたところ初代会長が祖父だったことが判明したことがある。「当時商売といえば銀座だったんだよ」だ、そうだ。みんなで話あってきめたんだとも。会ができたあとは一年もやらずに辞めたらしい。
太宰治は入水ちょっと前に汚い格好して妾と時計を買いに来たよ、だ、そうだ。
高度経済成長前夜、銀行が金を貸すといい出した時代、商売人でも借りたまま逃げちゃう奴とか居たり、何もわからず連帯保証人になっちゃったりする奴がいたりして、保証人になっちゃった奴をなんとかしてやるのは大変だった。連帯保証人にだけはなるなと。


老後

祖父が60歳のときに時計店は閉店した。老眼になって細かい作業ができなくなって辞めたそうだ。子供が継がなかったというのもあるだろう。
囲碁日本棋院から最終的に五段が与えられていた。それがどれほどなのかは解らないが熱中具合は大したものであったように思う。その囲碁も碁会所で打ってた仲間が次第に来なくなり辞めた。若い奴らに負けるばっかりになってつまらなくなった、だ、そうだ。80歳の頃であったか。
その頃に英語の学習を始めた。当時「家出のドリッピー」などという英語学習教材があり、受験生真っ青のびっしりとした単語の書きとり練習をおこなっていた。やがてそれもおぼつかなくなり、90歳を過ぎてからは宝くじの研究をしていた。宝くじの研究!???と怪訝に思っていたのだが触れずにいた。数万円もする機械を買い出したころに、じーちゃん、期待値というものがあってね・・・と諭しそうになったが、買っている額は毎回100円だかのロトくじだし、数万の機械を買っても合計では負けてないという、あれ期待値?テラ銭?どこいったの現実を聞いたら、娯楽で宝くじを買いに行くぐらいの散歩はせにゃねと諦めた。90歳のころにも自転車に乗っていたので危ないので辞めてと言われると程なくして宝くじブームは去った。
宝くじのあとは何か嵌っているものはあっただろうか?野菜ジュースブームやリンゴ皮むき器ブームなど細かいブームはあったが、熱心にやってたのは宝くじ研究が最後であったかもしれない。
納棺でいれらていれたものに、手書きの「千の風になって」の歌詞を自分で書きだしたものがあった。流行ったころによく聞いていた。90歳を過ぎて書いたにもかかわらず実に達筆な筆運びであった。

遺志を継ぐ

祖父のお店は実はまだシャッターがしまった状態で残っている。私が子供の頃に、なんかいいもの残ってないの?とじいちゃんに聞いたら、「商売人はいいものからまず売っていくんだ」と言われ納得したことがある。

相続の関係で祖父の家も何かをせねばならない。どこにも行きたくない、何も変わりたくないという老人の意思をどれだけ尊重しても、金がなくばそのまま自分の家に住むことも許さない世の中なのである。維持するにも生半可ではすみゃぁしねぇぃ。


俺が話しかけても、日によっては誰だかわからなくなったりすることがあるころ、消費税があがるニュースを擁護施設で見てた祖父が「税金は大変だよな稼いでも半分もってかれっちゃうんだ…」と愚痴ていた。「あすこの武蔵野税務署はいまも同じ場所にあるのかい?」、まどろみの中にいる老人は時に昔の祖父に戻る。
徘徊老人向けに出口のない回廊を「ボケちゃって、うまく言えないんだけど、もっと、あっちに行ってくれ」と、帰りたいとは言葉にせずに、また俺も帰りたいのだろうなという気持ちを汲みながらも連れて帰るわけにもいかず、車椅子にのせて一時間以上かけて回ったこともあった。祖父が家に帰りたいと口にしなかったのは本当に呆けていただけなのかもしれないが祖父の気遣いからの優しさであったのではないかとも思う。



私が会社勤めを辞め商売をはじめてみようかなと思うんだけどといったときに後押しをしてくれたのは、祖父の戦後の立ち上げの苦労話しの経験談であり、そして祖父の理解と助力があったからこそだ。現在のお店は祖父の庭先に建っている。あぁ、俺のお店も考えなければね。税金たぁ世知辛ぇや。野暮な話しだよ。



じいちゃんには本当にいろいろな事を教わった。ここでは書ききれないほど、自分の価値観の根底にある学びは祖父から得たものも数しれない。人生には終わりがあるらしい。祖父の最後の教えの答えはすぐには出せそうもないけれど自分なりに納得のする答えを探していきたいとおもう。本当にありがとう。お疲れ様。おやすみなさい。お世話になりました。