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2015-12-31

重なる

| 22:43 | 重なるを含むブックマーク 重なるのブックマークコメント

最近やたらとばたついていた。師も走る年の瀬だからだろうか。
ベルトコンベアみたいに何事も淡々と進んでくれれば楽だとは思うけれど、幸か不幸かそういうわけにもいかない。
きっとなにかスイッチみたいなものがあって、何気なくそれがきっかけになっているだけかもしれないし、あるいは普段からいろんな物事が動いているのに気付かずに日々を過ごしているだけなのかもしれない。
自分の目からは自分の時間軸しか把握できないけれど、この世界はいろんな人の時間軸が並行して絡み合っている。
本当に駆け抜けるように過ぎたこの2年間だけれど、こうして残念なことに僕も年を重ねてしまったし、同様に周りも年を取っていく。結局昨日と一繋がりの今日は、大きな枠組みでの○年○月○日とはうまく一致しない。
気が付けば、こうして2015年も終わる。当然のように全く実感がわかない。

実家に帰ると従姉妹が皆、母親になっていた。もうみんな30も半ばなのだから、当然といえば当然だ。
僕の目から見える彼女たちは10代、20代の頃とあまり相違がなかったのに、口から発せられるふとした言葉や、張りのなくなった肌が今まで会っていなかった10年近くの年月を感じさせた。
一日はこうして簡単に淡々と通り過ぎてしまうのに、月、年を重ね、束になると途端にこうして明確にその姿を示す。
頭の中では当然質量的な問題として認識できるけれど、いざ実際に示されてしまうと、戸惑ってしまう。人間の脳みその限界なのかはたまた単に僕の能力の問題なのか。
そういうのに対処できるようになれば、もう少しいろいろうまくいきそうなものなんだけどなあ、なんて。それができれば苦労はないよね、まったく。
だけれど、こうしていろいろわからないことやできないことがたくさんあると思うと、この先の楽しみがあるような気もする。
この間、知り合いが27歳の誕生日に「もうこの年には死んでいるはずだったのだけどなあ」なんてことを言っていて、ああ、僕もそうだなあ、と思ったりもしたけれど、まだまだいろいろなことがあるのであれば、もうちょっと楽しみたいなあ。
なんか酔っぱらっているせいか、底抜けに明るいし、全然脈絡もないし、なんだか気恥ずかしいけれど、なんといってももう年の瀬だ。
年の瀬っていえば、何でも許してもらえるような、そんな感じしないですか。だって、ほらこれも束になったのだから、こうして年を重ねているのでしょう?
僕の時間軸とみんなの時間軸はきっと重ねるべきじゃないことも多いのだろうけど、たまにはこうして、重ねてあげないと、ね。

2015-10-20

雑踏

| 16:11 | 雑踏を含むブックマーク 雑踏のブックマークコメント

仕事を辞めるという高揚感の中で、先月から毎日のように飲み明かしていた。
気が付けば通帳の残高が随分と目減りしている。

昨晩も朝まで飲み明かしていた。
最近は終電を逃したあとの気持ちの良い感覚は薄れてしまってきていて、若干の疲労感を覚えるようになってしまった。
僕がこれなのだから、毎晩のように付き合わされている彼らの疲労はなおさらのことだと思う。

二件目の新宿からタクシーを使って、下北沢へ。
駅からほどない場所で降りて、ふと目についた居酒屋へ入っていく。
いつも通りの他愛のない話。
目新しい話題などもなくて、コピーのように繰り返されるだけ。
酔いの成す力なのだろうか。会話のテンポ感も数をこなすにつれてなじんでいく。まるで台本を読み合わせているみたいだ。

午前五時。
周りには常連と思しき一人の客と我々しかいない。
会計を済ませて帰ろうかと思っていると唐突に店主に絡まれ、気が付くと、年も名前も知らない男と数時間も話していた。
何を話したのかもあまり覚えていない。
ただ、お互いに無責任に発せられる言葉がとても快かったのは覚えている。
あとで話を聞くとその男はどこかの経営者だったのだという。
しかし、そんなことはどうでもよく、むしろ邪魔でしかなかった。
名前、肩書、そういうものを取っ払って、ただ思ったことを素直にぶつけ合う、というその関係性がただただ心地よかったのだ。

名前のない「わたし」と「あなた」。
90年代初頭のHNでのやりとり、あるいはオフ会などという話をを何とはなしに思い出す。
小さな枠組みに押し付けられた「わたし」からの脱出を試みる人たちの気持ちが少しわかった気がした。

2013-09-09

乱反射する光の中で

| 21:58 | 乱反射する光の中でを含むブックマーク 乱反射する光の中でのブックマークコメント

最近、モノをあまり考えなくなった。特に自分のことについて。
人と話す時と本を読む時以外はあまり頭の中にある言葉がひどく少なくなったように思う。言語を持たなかった頃の記憶など持たないけれど、それを追い求めているようにすら感じる。
自分のことについて考えるのは、常に変わる「今」その時を探るかのように途方のないことで、実体のないそれらを追い回しては一喜一憂することに疲れたのかもしれない。
文章言語というのは過去と未来を扱うもので、今この時を扱うことはできないのかもしれないなあと感じる。

2013-07-14

うだるような幻想の中で

| 12:17 | うだるような幻想の中でを含むブックマーク うだるような幻想の中でのブックマークコメント

今年の夏も暑い。
昨年の夏の記憶はあまりなくて、夏という大きな思い出の中に飲み込まれているような感じさえする。
そんなもの、山のようにある気がするのだけれど、思えば自分の記憶は半分位のもので、残りの半分位は創作の中のもの、いわば集合記憶みたいなものなのだろうな、などと思う。
そしてそちらの方が色濃く感じられてしまうのは、思いの外、自分の目や耳があてにならないということなのかもしれない。
年を取るにつれて、個人的な記憶がえらく他人事のように感じられてしまって、今となっては本当にしたことなのか、あるいは疑似体験の賜物なのかということすら判別も危うくなってくる。
それはある意味では、想像力共感能力が高いということなのかもしれないけれど。

思えば、記憶というのは上手く出来ているもので、いわゆる日常的なことというのは忘却の彼方へ消えていく。
輝かしい思い出がいつも遠く彼方に感じられるのは、年齢と共に無意識的に行う物事が増えていく、要するに、あらゆる物事が日常に括られるようになってしまうからなのだろう。
そしていま現在と遠ければ遠いほど、魅力的に見える。それは普通に生活している中でもよくあることだ。
きっとそれには鬱陶しい現実とやらが纏わりついていないからなのだろう。物事には裏と表があるけれど、大抵表側しか見えないものだ。
美化しているとか、そういうことではなくて、自分の記憶が他人事になってしまっているだけなのだ。

だから今の僕も数年後から見れば輝かしく見えるのかもしれない、とても鬱陶しいことに。
このうだるような暑さも、押し寄せるような切迫感も、忘れ去られて、単にキャンパスライフを堪能した馬鹿な大学生として、いつかの僕は今の僕を定義付けるのだろう。
微笑ましい思い出に。

2013-02-05

消費

| 00:35 | 消費を含むブックマーク 消費のブックマークコメント


ものというのはいとも簡単に壊れるのだなあと。
比喩ではなく。本当にたやすく。

自分は物持ちが悪い方ではないと思う。
物は一度買ったら壊れるまで使うし、服だって本当に着れなくなるほどボロボロになるまで着ている。
汚らしいと言われたことも数知れない。

だけれど、物はよく壊す。
壊れるまで使うけれど、すぐに壊してしまう。

この前、ある人に
「お前には物の扱い方もその値段もわかっていない」
と言われた。
きっと今まで僕が無駄にしてきたものの値段を考えれば、かなりの額になっていることは想像に難くない。
世の中、何をするのにだって、お金はつきものだ。
移動をするのだって、車、電車、自転車だって買わなければ乗ることができない。
勉強をするのだって、参考書、授業料、受験をするなら受験料だってかかるだろう。
ひとり暮らしの生活なんてしようものなら、電気、水道、ガス、家賃、基本的なことにだって全てお金はかかっている。
そのうち、空気にだってお金がかかるのかもしれない。

物事の裏側にはいつだって、お金が絡んでいる。
嫌な話だけれども。

頭ではわかっているのだと思う。
ただ、実感が付いてきてはくれない。一年間、貧乏暮らしをしたというのに。
無料という言葉に踊らされ、何割引きかということに目を光らせ、手元にある金をいかにやりくりするかということばかりに囚われてしまう。
安いものが溢れすぎて、ものが壊れることに慣れてしまっているのかもしれない。

今日もまた一つものを壊してしまった。不用意すぎる行動のせいだと思う。
思えば、小さい時、何か物を壊してしまうたびに、泣きそうになっていたのを思い出す。
捨ててしまうという母に、悲痛な声でやめて、まだ使えるから、と懇願していた。
その時の気持ちを少し、思い出した。

使えなくなってしまったものを捨ててしまうのはしょうがないことだ。
だけど、それを惜しむことよりも、どうすればそれが長持ちするか、ということに気を配ってあげたほうがいいのだろう。
もう少し、そういうことに敏感になれればいいなと思うし、そして周りのものを大事に大切に扱うことができればいいなと思う。