うだるような幻想の中で

今年の夏も暑い。
昨年の夏の記憶はあまりなくて、夏という大きな思い出の中に飲み込まれているような感じさえする。
そんなもの、山のようにある気がするのだけれど、思えば自分の記憶は半分位のもので、残りの半分位は創作の中のもの、いわば集合記憶みたいなものなのだろうな、などと思う。
そしてそちらの方が色濃く感じられてしまうのは、思いの外、自分の目や耳があてにならないということなのかもしれない。
年を取るにつれて、個人的な記憶がえらく他人事のように感じられてしまって、今となっては本当にしたことなのか、あるいは疑似体験の賜物なのかということすら判別も危うくなってくる。
それはある意味では、想像力や共感能力が高いということなのかもしれないけれど。

思えば、記憶というのは上手く出来ているもので、いわゆる日常的なことというのは忘却の彼方へ消えていく。
輝かしい思い出がいつも遠く彼方に感じられるのは、年齢と共に無意識的に行う物事が増えていく、要するに、あらゆる物事が日常に括られるようになってしまうからなのだろう。
そしていま現在と遠ければ遠いほど、魅力的に見える。それは普通に生活している中でもよくあることだ。
きっとそれには鬱陶しい現実とやらが纏わりついていないからなのだろう。物事には裏と表があるけれど、大抵表側しか見えないものだ。
美化しているとか、そういうことではなくて、自分の記憶が他人事になってしまっているだけなのだ。

だから今の僕も数年後から見れば輝かしく見えるのかもしれない、とても鬱陶しいことに。
このうだるような暑さも、押し寄せるような切迫感も、忘れ去られて、単にキャンパスライフを堪能した馬鹿な大学生として、いつかの僕は今の僕を定義付けるのだろう。
微笑ましい思い出に。