重なる

最近やたらとばたついていた。師も走る年の瀬だからだろうか。
ベルトコンベアみたいに何事も淡々と進んでくれれば楽だとは思うけれど、幸か不幸かそういうわけにもいかない。
きっとなにかスイッチみたいなものがあって、何気なくそれがきっかけになっているだけかもしれないし、あるいは普段からいろんな物事が動いているのに気付かずに日々を過ごしているだけなのかもしれない。
自分の目からは自分の時間軸しか把握できないけれど、この世界はいろんな人の時間軸が並行して絡み合っている。
本当に駆け抜けるように過ぎたこの2年間だけれど、こうして残念なことに僕も年を重ねてしまったし、同様に周りも年を取っていく。結局昨日と一繋がりの今日は、大きな枠組みでの○年○月○日とはうまく一致しない。
気が付けば、こうして2015年も終わる。当然のように全く実感がわかない。

実家に帰ると従姉妹が皆、母親になっていた。もうみんな30も半ばなのだから、当然といえば当然だ。
僕の目から見える彼女たちは10代、20代の頃とあまり相違がなかったのに、口から発せられるふとした言葉や、張りのなくなった肌が今まで会っていなかった10年近くの年月を感じさせた。
一日はこうして簡単に淡々と通り過ぎてしまうのに、月、年を重ね、束になると途端にこうして明確にその姿を示す。
頭の中では当然質量的な問題として認識できるけれど、いざ実際に示されてしまうと、戸惑ってしまう。人間の脳みその限界なのかはたまた単に僕の能力の問題なのか。
そういうのに対処できるようになれば、もう少しいろいろうまくいきそうなものなんだけどなあ、なんて。それができれば苦労はないよね、まったく。
だけれど、こうしていろいろわからないことやできないことがたくさんあると思うと、この先の楽しみがあるような気もする。
この間、知り合いが27歳の誕生日に「もうこの年には死んでいるはずだったのだけどなあ」なんてことを言っていて、ああ、僕もそうだなあ、と思ったりもしたけれど、まだまだいろいろなことがあるのであれば、もうちょっと楽しみたいなあ。
なんか酔っぱらっているせいか、底抜けに明るいし、全然脈絡もないし、なんだか気恥ずかしいけれど、なんといってももう年の瀬だ。
年の瀬っていえば、何でも許してもらえるような、そんな感じしないですか。だって、ほらこれも束になったのだから、こうして年を重ねているのでしょう?
僕の時間軸とみんなの時間軸はきっと重ねるべきじゃないことも多いのだろうけど、たまにはこうして、重ねてあげないと、ね。

乱反射する光の中で

最近、モノをあまり考えなくなった。特に自分のことについて。
人と話す時と本を読む時以外はあまり頭の中にある言葉がひどく少なくなったように思う。言語を持たなかった頃の記憶など持たないけれど、それを追い求めているようにすら感じる。
自分のことについて考えるのは、常に変わる「今」その時を探るかのように途方のないことで、実体のないそれらを追い回しては一喜一憂することに疲れたのかもしれない。
文章言語というのは過去と未来を扱うもので、今この時を扱うことはできないのかもしれないなあと感じる。

うだるような幻想の中で

今年の夏も暑い。
昨年の夏の記憶はあまりなくて、夏という大きな思い出の中に飲み込まれているような感じさえする。
そんなもの、山のようにある気がするのだけれど、思えば自分の記憶は半分位のもので、残りの半分位は創作の中のもの、いわば集合記憶みたいなものなのだろうな、などと思う。
そしてそちらの方が色濃く感じられてしまうのは、思いの外、自分の目や耳があてにならないということなのかもしれない。
年を取るにつれて、個人的な記憶がえらく他人事のように感じられてしまって、今となっては本当にしたことなのか、あるいは疑似体験の賜物なのかということすら判別も危うくなってくる。
それはある意味では、想像力や共感能力が高いということなのかもしれないけれど。

思えば、記憶というのは上手く出来ているもので、いわゆる日常的なことというのは忘却の彼方へ消えていく。
輝かしい思い出がいつも遠く彼方に感じられるのは、年齢と共に無意識的に行う物事が増えていく、要するに、あらゆる物事が日常に括られるようになってしまうからなのだろう。
そしていま現在と遠ければ遠いほど、魅力的に見える。それは普通に生活している中でもよくあることだ。
きっとそれには鬱陶しい現実とやらが纏わりついていないからなのだろう。物事には裏と表があるけれど、大抵表側しか見えないものだ。
美化しているとか、そういうことではなくて、自分の記憶が他人事になってしまっているだけなのだ。

だから今の僕も数年後から見れば輝かしく見えるのかもしれない、とても鬱陶しいことに。
このうだるような暑さも、押し寄せるような切迫感も、忘れ去られて、単にキャンパスライフを堪能した馬鹿な大学生として、いつかの僕は今の僕を定義付けるのだろう。
微笑ましい思い出に。

消費

ものというのはいとも簡単に壊れるのだなあと。
比喩ではなく。本当にたやすく。

自分は物持ちが悪い方ではないと思う。
物は一度買ったら壊れるまで使うし、服だって本当に着れなくなるほどボロボロになるまで着ている。
汚らしいと言われたことも数知れない。

だけれど、物はよく壊す。
壊れるまで使うけれど、すぐに壊してしまう。

この前、ある人に
「お前には物の扱い方もその値段もわかっていない」
と言われた。
きっと今まで僕が無駄にしてきたものの値段を考えれば、かなりの額になっていることは想像に難くない。
世の中、何をするのにだって、お金はつきものだ。
移動をするのだって、車、電車、自転車だって買わなければ乗ることができない。
勉強をするのだって、参考書、授業料、受験をするなら受験料だってかかるだろう。
ひとり暮らしの生活なんてしようものなら、電気、水道、ガス、家賃、基本的なことにだって全てお金はかかっている。
そのうち、空気にだってお金がかかるのかもしれない。

物事の裏側にはいつだって、お金が絡んでいる。
嫌な話だけれども。

頭ではわかっているのだと思う。
ただ、実感が付いてきてはくれない。一年間、貧乏暮らしをしたというのに。
無料という言葉に踊らされ、何割引きかということに目を光らせ、手元にある金をいかにやりくりするかということばかりに囚われてしまう。
安いものが溢れすぎて、ものが壊れることに慣れてしまっているのかもしれない。

今日もまた一つものを壊してしまった。不用意すぎる行動のせいだと思う。
思えば、小さい時、何か物を壊してしまうたびに、泣きそうになっていたのを思い出す。
捨ててしまうという母に、悲痛な声でやめて、まだ使えるから、と懇願していた。
その時の気持ちを少し、思い出した。

使えなくなってしまったものを捨ててしまうのはしょうがないことだ。
だけど、それを惜しむことよりも、どうすればそれが長持ちするか、ということに気を配ってあげたほうがいいのだろう。
もう少し、そういうことに敏感になれればいいなと思うし、そして周りのものを大事に大切に扱うことができればいいなと思う。

年越しの日のこと

年越しそばを食べようかなと国分寺まで出たバイトの帰り道。
そばを食べようにも、行きつけやらお目当ての蕎麦屋があるわけでもなく、てんやにでもそばあるかな、くらいの簡単な気持ちでふらりと向かった。
時刻は午後9時。
駅を降りると、ぽつぽつと飲み屋帰りの学生がフラフラしているくらい。人はほとんどいない。
いつもよりも小さいキャッチの呼び込みの声がはっきりと聞こえるくらいに閑静な駅前は、雑然としたいつもの風景からは異様にも感じられた。

お目当てのてんやに向かうと、ちょうど店仕舞いを始めていた。
「すいません、今日は9時までなんですよ」
別にてんやで食べたかったというわけではないけれど、それにしても困ってしまった。
せっかく重たい足をわざわざ運んできたというのに、何も食べれないというのではあまりにも切ない。
このままだと家でコンビニ飯を食べることになってしまう。
未練がましくその辺りをウロウロと歩いてみるものの、空いているのは24時間のチェーン店ばかりだ。
仕方ないから帰ろうか、と諦めかけたその時に、さきほどラーメンの屋台が店を構えていたのを思い出した。
まあラーメンでもそばには変わりないしな、とその屋台へと足を運んだ。

屋台といっても小さなトラックくらいの大きさの車が駅前に止めてある。支那そばと書かれた赤提灯がぶら下がっていた。
近づいていくと、大学生らしき集団が
「おっちゃん、また来年なー」
などと言っている。


「すいません」
声をかけると、少し驚いた顔をした店主は
こんばんは、と明るい声を返した。
「しょうゆ、塩、味噌あるけど、どれにする?おすすめあしょうゆのうすくちだけど」
「じゃあそれで」
こちらを向いたおっさんは一見強面だが、よく見ると柔和そうな顔立ちである。それこそおっちゃん、と呼びたくなるような。
「こんな日にもやってるんですね」
「ああ、本当はやるつもりじゃなかったんだけどねえ、ここ数日雨が降ってたからさ」
おっさんは麺をほぐしながら言う。
「こんな日の方が仕事を丁寧にするからいいよ」
「それはうれしいですね」
「あんちゃんにとってもそうだけど、こっちにとってもそうなんだ」
出来るまで数分間、他愛のない会話をだらだらと続けていた。

「あいよ、お待ちどうさん。しょうゆのうすくちね」
「あ、どうもー。うまそうっすね」
「うちのラーメンはいい材料使ってんだ。メンマなんてね、買える中で一番高級な奴なんだよ」
スープを一口すする。懐かしい中華そばという味が口に広がる。冷えた体にはその暖かさがありがたかった。
そして麺をすすり始めた僕におっさんは
「にいちゃんなにやってんだい?」
と聞いた。麺を口の中に含んでいる僕は時間をかけながらも、答えた。
「大学生です」
「俺は二部だったんだよ」
「・・・夜間ですか?」
「ああそうだ、〜〜のな」
そうしておっさんの身の上向上が始まった。
バイトをしながら大学に通っていたこと。そしてバイトから大手の広告会社に入ったということ。
会社の名前を聞いた時にすこし考えた。どうしてラーメン屋などやっているのだろう、と。
しかしそれを聞くことはなかった。ただその場しのぎの返答として、
「あ、僕そこの会社行きたいんですよー」
と答えた。別に行くつもりも受けるつもりもなかった。
何気ない会話のつもりだったけれど、おっさんの目がそこで急に鋭いものに変わった。
「にいちゃん、時間あるかい?」
「え・・・ありますけど」
「なら、ちょっといいかい。いろいろ教えてやるよ」
そこからはもうおっさんの一人口上だった。どういう会社なのか、仕事はどうだったのか、などなどを口を挟む暇もなくとつとつと喋った。
僕はただただうなづくばかりだったと思う。
おっさんから放たれる言葉を聞いているうちになぜこんなことをやっているのか、ということはその響きからぼんやりと拾えるような気がした。

「にいちゃん、なぜかって考えることは大事なことだ。どうして今のテレビはつまらないのか。どうしてこうなっているのかってね」
話に熱が入ってきた頃、
「ラーメンいいですかー」
と言って、一人客が入ってきた。
おっさんはそのまま少し話していたけれど、入ってきた客にああ、ごめんね、と謝ってから我に返ったようだった。
「にいちゃん、適当な頃にまたおいで。俺はこの話だったら一晩だってできるからさ」
僕は丁寧に礼を言って駅へと向かった。
ほのかに甘いラーメンの香りが今も少し残っている。
今年ももう終わりだ。

8月の終わりのこと、なんて

何をしていたのだろうか。よく覚えていないけれど、帰り道。ふと空を見上げたらなんかやたらと月が綺麗で。
あとで聞いた話だと、満月だったみたいだ。満月近くの月って、なんかどれも同じに見えて、ちょっとくらい欠けていても満月に見えてしまうものだけど、とりあえずその日は満月だった。
たしかその前日も月が綺麗だな、なんて思って、満月なのかななんて思ったりしたんだけど。
とにかく月の綺麗な夜だった。

その夜はすごく体が疲れていたはずなんだけど、なぜか全然眠れなくって、迷惑なことに洗濯なんかしたりして、とりあえずがちゃがちゃと動き回っていたと思う。
なんでだろう。今からこじつけで言ってしまえば、胸騒ぎ的なアレなのかな。まあ単純に夜型だったからだと思うけど。

3時頃だったと思う。ふっとディスプレイの隅にある日付の所が目に入ったんだよね。
そしたら9月になっていて。あれ、みたいな。夏休み、終わりかあなんて思って。
僕、全然学校行ってなかったし、それに次の日から学校あるわけじゃないんだけど、なんかすごくそう思って。
8月終わらせたくなったんだよ。おかしな話だよね。
本当は僕がキーボードカタカタやってる間に8月31日の23時59分は過ぎ去っていて、今は9月1日3時何分なのに。
今は8月31日の27時だなんて息巻いたりして。
それで、よし月をもう一回に見に行こう、なんて思ったんだ。
特に買うものがあるわけじゃないけど、財布持って、ちょっと遠くのコンビニまで行こうかなって。

月はまだ西の空にぽっかり浮かんでいて。まだまだ沈みそうには見えなかった。
さっき見たのとはあまり変わらない、ちょっと雲がかった丸い月がぷかぷかと。
東の空には3つほどの明るい星があって、あれ、夏の大三角だっけ、なんて。

そんな感じでぼやっと考え事をしてたら、コンビニに着いちゃったんだよね。
特に何を買うかなんて決めていなかったから、なに買おっかなあなんて思いながら、店内うろうろしてて。
そしたら、なぜかお酒の所がやたらに目に付いたんだよね。買えって言われてるような気がしちゃって、そんな気分なんかじゃなかったんだけど、買うものないしまあいいかなんて言って、とりあえず買って。
そこの喫煙所で、タバコ吸いながら、缶チューハイ飲んでた。わざわざコンビニなんかで買わなくてもいいのにね。
まあでも8月終わるのなんか寂しくなっちゃったから、勝手に祝杯だ、なんて言って飲んでた。
特別な日なんてさ、いつでも作れるんだよなんて、独り言嘯いて。だって、もう9月になってるのに8月終わりの祝杯あげてるんだよ。馬鹿みたいだよね。
でもまあそういうもんなのかもよ。なんだって気持ちの持ちようみたいなところあるしさ。

まあ、という感じで僕の夏休みは終わったわけ。まだ学校行ってないし、当分行かないけどさ。
でもたまにはこういう風に、お月様に身を委ねてみてもいいのかもね。
さて、明日は晴れるかな。

気だるさに満ち満ちて

夏だ。暑い。
梅雨明けはしたのだろうか。
7月も既に半ばに差し掛かっていた。
部屋の窓は開け放たれて、扇風機がぐるぐると回っている。

冬の気だるさと夏のとは似たようで決定的に違っていて、夏はなんというか体自体が重たくなってくる。
もしかしたら、睡眠不足や生活リズムの悪さによるものなのかもしれないけれども。
その割に心はしゃんとしていて、そのギャップにも少しばかり疲れてしまう。
物語だとか、頭の中で思い描いた夏というのは、いつも鮮やかな色をしていて、どこへだって駆け出せそうな気分になるけれど、現実の夏は違う。
2時間も荷物を背負って歩いていれば、汗がダラダラと流れてきて気持ちが悪いし、5年近くまともに動かしていなかった体はちょっとした散歩ですら、ギシギシときしみ始める。

高校生の頃、自転車で三崎まで行ったことがある。
その頃、僕は千葉に住んでいたから、大体100kmくらいだろうか。
錆びだらけで、籠もべこべこにヘコんでいるボロボロのママチャリで、停滞した日々から逃げ出そうと唐突に飛び出したのを覚えている。
俗にいう家出に近いものかもしれない。
とはいえ、貧弱な僕の体は12時間ほど走ると、簡単に悲鳴をあげて、その日の夜には家の寝床でスヤスヤと眠り、当分は自転車になど乗らないと誓ったものだ。
まあ家出というよりもごっこ遊びみたいなものだった。
残念なことに今の僕はその体の痛さはあまり覚えていなくて、どちらかというと鮮やかな青に囲まれた景色を思い出している。
青い空と海に囲まれた海辺の町の風景も。
自動販売機で購入した冷たいペットボトルの味も。
アスファルトから跳ね返るじっとりとした暑さも。
排気ガスにまみれて、ゆがんだ蜃気楼みたいになった都会の風景も。
全て、鮮明に思い出すことができる。
今思えば、体の痛みも含めて、すべてが非日常で、素晴らしかったようにすら思える。

夏というのはずるいね。その青の鮮やかさで、全ていい思い出だったかのように思えてしまうのだから。
きっとクーラーの効いた部屋の中で、ゲームをしていたほうがよっぽ快適だったはずなのに。

今だって、ほら。
扇風機の回った部屋の中でくつろぎながら、ディスプレイに向かっている。
汗だってかいていないし、体のどこも痛くなったりはしない。
ただどことなくだるくて、どことなく物足りないだけ。
だから遠くの空をちらと見たりして、見たことのない風景を思い描いている。
まったく。いつまでたっても「大人」になれないね。