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ラスカルの備忘録 このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2011-08-14

デイヴィッド・ボイル、アンドリュー・シムズ(田沢恭子訳)『ニュー・エコノミクス──GDPや貨幣に代わる持続可能な国民福祉を指標にする新しい経済学──』

※注記を追加しました。(08/21/11)

 社会の効率を高めるためには、自由な経済主体である民間企業が活躍する場をより広げる一方で、規制や補助金等によって保護される業界は、できる限り、自由な参入を認めるようにする必要がある、ということについて、恐らく、原則論としては誰も反対しないであろう。しかしながら、自由な経済主体であると考えている自分自身(や、自分自身が属する業界)が、本当に社会的に保護されていない存在なのか、という点については、やや感度が乏しいように感じられる場面が多々見受けられる。例えば、英雄的に公的部門を批判する人間が、多額の補助金が支払われる業界に属していたり、事実上、官庁や自治体からの委託によって食いつないでいる業界に属しているのをみるのは、極めて滑稽である。さらに、一昨年の事業仕分けの時のことだが、そうした人々が、補助金や委託費が削られることを批判しているのをみたときには、もはや呆れかえるほかなかった。よく「税金で食っている」という言葉を使うが、自分自身も巡り巡って「税金で食っている」存在なのだ、ということについて、感度の乏しい人間があまりにも多いのではないだろうか。*1

 こうした「際物ども」は別にしても、一見、自由な経済活動を行っているグローバル企業が、支払うべき「コスト」を支払っておらず、結果的に、社会から「補助金」を受け取る存在になっているのではないか、ということが、本書の問題提起となっている。ひとつに、地球環境に関わる外部不経済の問題があり、貿易における関税や補助金の問題があるが、こうした視点は、特に目新しいものではない。しかし、本書の範疇はこれらにとどまらず、社会の中の信頼や、インフラについても言及し、グローバル企業が、地域住民の「負担」によって利益を得ている、という視点を多面的にえぐり出している。*2

 そうした中で、本書には、従来の主流は経済学とは異なる提言が盛り込まれることになる。これは、必ずしも、市場経済の中に公的部門を拡張しようとするだけのものではない。むしろ、市場経済のルールに係わっている。金本位制は、1971年のニクソン・ショックによって完全に消えたが、貨幣を絶対的な尺度として考える「金本位制的な」考え方は、われわれの中に拭いがたく残されている。貨幣を絶対的な尺度とせず、例えば、「環境本位的な」経済の見方として、本書には、まだ手探りの段階であるとしつつも、通貨を排出権と連動させる考え方が提言されている。これは、経済成長を地球環境の持続性の範囲内に抑えようという考え方によるものだが、一方で、貧困の解消には経済成長が必須であるとの見方もあり、異論もあるところだろう。

 また、外部経済の問題とともに、ジェイン・ジェイコブスケインズの議論を援用しつつ、国家や地域内での「自給」が、国家や都市の経済的発展を可能にしたことを指摘し、比較優位性の理論に基づく経済の見方を批判する。なぜ「自給」がむしろ経済的発展につながるのか──ひとつには、上述のような市場経済のルールの問題に行き着く。だが、もうひとつに、本書では明確には触れられてはいないが、経済の「不均衡」が常態的に続いたためではないかとも考えられる。すなわち、失業や不完全就業の存在がいわば常態化することによって、グローバル企業は、本来支払うべきコストを支払わずに、利益を上げることに成功してきたのではないか。本書はダウンシフティング(幸福の増大のため収入を減らすこと)という生き方を推奨しているが、「金本位的な」人間の習性(いいかえれば、人間のもつ顕示的な習性)によって仕事中心の生き方となっていることに加え、労働の価値が継続的に低下する中で、否応なく働かざるを得ない人々もいるはずであり、仮に完全雇用が実現していれば、人々は労働よりも余暇をよりおおく求めるようになる可能性はあるだろう。

 完全雇用をいかにして実現するのか(あるいは、不完全な雇用のまま経済は均衡するのであれば、いかにしてそれを脱するのか)との問題は、依然として従来の経済学の範疇に属する。従来の経済学がこうした問題に明確な回答を用意できないのであれば、もはや「ニュー・エコノミクス」が、今後は主流派の位置を占めざるを得なくなるのかもしれない。また、長期的な不完全雇用状態が続く中で、地域経済の活性化を考える上では、(先日のエントリーにも触れたとおり)従来の考え方はむしろ有害であり、「ニュー・エコノミクス」的なさまざまな工夫をこそ求められるだろう。*3「ニュー・エコノミクス」のような考え方は、市場経済が本来の回路を取り戻せずにいるからこそ、その存在意義を訴えることができるのだ、ともいえるのである。

(注記)

 本書は個々に興味を引く論点を持っているものの、全体としては、別の視点から補うべき要素もあるように思う。その意味では、以下の本はよい「解毒剤」となる。

最底辺の10億人

最底辺の10億人

*1:先日、竿燈まつりに市の職員が参加しているのをみて、「税金で食っているくせにこんなとこにも出ている」と陰口をたたく観客をみた。実際には、その市職員は、ボランタリーに竿燈まつりに参加し、県外からの観光客をよぶことで、地域経済のため、公務員としての仕事以上の貢献をしている。4日間、昼夜、竿燈の持ち手を続けるのは、並大抵の労力ではないだろう。

*2:以前、グローバル企業とはいえないまでも、ある中堅規模の経営者が、海外企業から原材料を買い付けるバイヤーを採用したいが応募がない、ということについて不満を漏らすのを聞いたことがある。不思議なことに、この経営者には、自社でそうしたバイヤーを育成したいとの意向がまったく感じられなかった。自社で育成せず、他社で経験を積んだバイヤーを採用するのであれば、育成のためのコストを支払わない分、それ相応の負担をする必要があるだろう。この経営者には、自社のために社会が支払う「負担」というものへの感度がないらしい──バイヤーは、どこで誰によって育成されるのであろうか?

*3:NPOによる小口金融の提供や、地域通貨補完通貨)なども、そうした工夫のひとつに数えられる。地域通貨とは、一部の知的インテリのペット・アイテムにしておくべきようなものではなく、あくまで地域内に流通する貨幣を増加させるという観点から、より実践的に活用することを考えてよいものなのではないか。

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