備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

石原千秋『秘伝 中学入試国語読解法』

秘伝 中学入試国語読解法 (新潮選書)

秘伝 中学入試国語読解法 (新潮選書)

 本書は、前半は著者が息子と臨んだ中学受験の体験記で、後半は構造分析に基づく入試国語の読解法という構成。著者は、漱石研究で知られる国文学者で、『教養としての大学受験国語』など受験国語に関する著書も多数あるが、本書はその嚆矢にあたるもの。書かれたのは1999年、今から20年近く前の中学受験である。

 前半の体験記は、学校名や塾名などが実名で書かれており、著者自身に関することを含めあまり暈されていない。学校によっては、現在とは偏差値表のランクが大きく変わったところもあり、塾についても、難関校の合格実績はいまやサピックス一人勝ちで日能研が大きく減らしているなど違いはあるものの、全体的には、今とあまり変わっていない印象を持つ。中学受験とは何であり、何が試されているのかについて、著者はつぎのように記述する。

 社会学で用いる考え方の一つにハビトゥスがある。慣習と訳されることもあるが、ハビトゥスとはその人の身についた文化の型のことである。ハビトゥスは、ある階層が他の階層とは違っていることを示す徴となる一方、自分たちと同じハビトゥスを持つ階層をコピーのように再生産する働きも持つ。したがって、ハビトゥスという概念は社会階層が存在することを前提としている。日本には階層がないといわれることもあるが、全くないわけではないのである。

 中学受験は特定のハビトゥスを持つ層を選抜する機能を持つ。例えば、塾の最上位クラスで将来どんな仕事をしたいかを質問すれば、明らかに医師に偏る。またとある一貫校で親の職業を聞けば、「石を投げれば医師に当たる」ような状況である(実際それを経験している)。いずれ文理が分かれてくるとまた状況は変わるかも知れないし、ここでいわれるハビトゥスも医師に限られたものではないが、かつて以上にいまの時代の中学受験は、より限られた特定層を選抜する傾向が強まっているように感じられなくもない*1

 受験国語の問題が解けるようになることには、ひとつには、一定の記述力を身に着けるなど「テクニック」に類するものもあり、体験記の中にも、消去法で選択問題を考えたり、抽象化や「しかし」を効果的に使って記述問題に対応する場面などが出てくる。自分も昨年の子どもの受験で、志望校別選抜コースの授業内容の中に同様の「テクニック」的な指摘を目にしている。
 しかし、より重く感じられるのは、つぎの場面である。

 そこで、僕は息子に、僕が大学で教えているのとさして変わらないレベルの物語論を教えることにした。それはフランスの批評家ロラン・バルトの考えを基にしたもので、「物語は一つの文である。」というものだ。つまり、物語文は「誰々が、どうした。」とか、「誰々が、何になった。」というような一つの文に要約できるというものである。そして、中学入試の物語文の多くは、「誰々が、成長する物語」と要約することが出来る個々の設問はこの物語の大枠を大前提として(大前提だから、それが直接問われることはない)、「どのように成長したのか」を問うのである。
 問題は、学校でも塾でもこの大前提をきちんと教えないことにある。ほんとうは、個々の質問もこの大前提なしには成立しないはずなのである。

 正に「目から鱗」である。著者の息子は一度の指導でこれを完璧に理解したという。もちろんこれを「完璧に理解」したのは、一定以上の読書量と、これまでの過去問演習等の経験という背景があってのことともいえる。受験に関係する者は、これ以降の部分を自らの「血肉」とする程理解して始めて、本書の価値を最大限享受することができるというものである。後半は、この読解法が実際の問題演習を通じより精緻化され、同時に、受験国語に対する著者の異議申立てにもつながる。

 (中略)国語という教科の目的は、道徳教育にある。それが学校という空間のルールだからだ。だから、「成長するのはいいことだ」とか、「自立することはいいことだ」とか、「人の気持ちを大切にすることはいいことだ」といったことが「国語」教材のテーマとなっている。いや、もっとはっきり言えば、それが「正解」になっている。まちがっても「人を殴るのはいいことだ」とか「物を盗るのはいいことだ」といった反社会的なことは教えない。もし、そういう「答え」を教室で書いても「正解」にはならない。

 その一方で、この後半(第二部)における著者の受験国語に対する「応じ方」は極めてプラグマティック である(受験生の親として当然か) *2。まずは「物語の型」を掴む。本書では物語が4つの基本型に分類され、その上で、中学受験で取り上げられることの多い物語と批評の型がどのようなものかが述べられる。4つの基本形はそれぞれ自分のいる場所の〈内と外〉を廻る在り方に関係する(成長や退行など)。また、〈内と外〉は二元論によって表現され、二元論が「物語の型」を分類し、「正解」を得る上で絶対的な力を発揮する。

 以降、つぎのような章立てにおいて、実際の入試問題が取り上げられる。

  • 二元論で考える
  • 「言葉」を読む
  • 「自然」に帰ろう
  • トレンドを解く
  • 「子供」であること
  • 気持ちのレッスン
  • 学校という空間
  • 友情の法則
  • 小学生には淡い恋がお似合いだ
  • 兄弟という不思議な関係
  • 親子は同じ人間になる

 これらは中学入試で一般的に取り上げられるテーマを区分したもので、2〜5章が説明文、6章以降が物語文に関係する。著者は、「文章中から適切な文を抜き出す」といった形式の設問に批判的である一方、「物語の型」に(つまり、文章の大前提に)関係する設問を評価する。また、記述形式の設問を作るべきとするが、翌日ないし翌々日に合格者を発表しなければならない学校側の事情も考慮される。
 国語の問題はもともと一つだけ「正解」があるようなものではなく、「解答・解説」はそれを「正解」とすることの言い訳が延々書いているといった見方もできる(そのように仰る塾の先生もいる)が、一方で、本書が実施する構造分析に基づいた読解法が「正解」を導く上で強力な武器となるのも真実であるように感じる。あるいはその「言い訳」は、出題者がその文章の型をそのように決めたことについての言い訳であるのかもしれない。自分の子どもの受験時、特定の大問でかなり低い点数を取るケースがあり、それによって6年の秋まで国語の点数の「歩留り」を計ることができなかった。その後、過去問や模試を毎週のように熟すうちに、直前期になって漸く「歩留り」を見込めるようになったが、いま思えば、そうした大問では「物語の型」を掴むことができていなかったのだろうと思う*3

*1:いや、昔からそうであり、情報がいまほど表に出ていなかった可能性もあるが。もちろん限られた例外もあるだろう:http://d.hatena.ne.jp/kuma_asset/20140910/1410351613

*2:とはいえ、明らかな誤りを含む作問を行った学大附属世田谷中学については、本書の全体を通じて批判的ニュアンスを匂わす。

*3:当時は「文章が読めていない」という表現をしていた。