3000-00-00 おことわり
くま(仮)の読書感想文です。
日付の一部が「00」となっているのは、「だいたいこのころに書いた文章」を意味します。たとえば「2008-01-00」は「2008年1月ごろに書いた文章」を意味し、「2007-00-00」は「2007年ごろに書いた文章」を意味します。
2011-08-00
『文化大革命十年史』上中下(厳家祺・高皋/岩波現代文庫)(追記あり)
中国 |
本文 2010-07-00
現代中国の歴史家・厳さんと高さんが文化大革命の十年間の歴史を詳述する本。
間違いなく面白い本なのだが何かしら奇妙な感触が抜けない。どう奇妙と言ってあまり20世紀末に書かれた歴史書に見えない。箇条書するとこう。
(1)豊富で色彩豊かなエピソード。
(四人組失脚のさい)「北京の市場では、三匹のオス蟹と一匹のメス蟹を一緒に縛り店先にぶら下げ、あの『三男一女』が横行した時代が終わったことを人々に告げた」
(2)無数に飛び出す名台詞。
(王洪文は言う)「こじ開けられなければたたき壊す、たたき壊せなければ爆破するのだ」
(3)平気で地の文で人物の内心を描写。
(批判された賀竜は)「命を危険にさらしていた日々を思い起こした」
(4)著者たちは自分の政治的意見を隠そうとしていない(このため最終的にはフランス、アメリカへの亡命を余儀なくされた)が、その意見は
「文革小組メンバーが責任を大衆に転嫁して、とどまるところのない権力を隠蔽しようとした時には」
「毛沢東は自分に賛成しない意見をすべて『右傾』、『資本主義の道を歩むもの、『反党』として批判し、闘争にかけた」
といったかたちで、事実を述べる文章の中でまとまりなくあちらこちらに出てくる。
この歴史家たちの書きぶりは現代日本の殆どの歴史「物語」作家の書きぶりと比べて、より物語性に富み、より歴史論議に乏しい。たとえばフランスでいうと19世紀前半のミシュレあたりを連想させる。
同じフランスのもっと昔の文人モンテーニュの台詞をウロおぼえで引けば
「いい歴史家には二通りある。きわめて素朴な歴史家ときわめて優秀な歴史家である。そして両者の間に属する連中、これが大半なのだが、はすべてを台無しにする」
本書の著者たちがきわめて優秀な歴史家で「ない」とは断言できないが、きわめて素朴な歴史家であるとは断言できる。本書中の逸話はきわめて多様かつ多岐にわたり、このため本書中の記述「だけ」から本書終章における著者たちの意見に反する結論を導くことは極めて容易である。何かしら奇妙な感触が抜けない、のだが、面白いことは間違いない。
追記 2011-08-00
当記事を読んだ友人から指摘を受けました。「あの本の書きぶりは厳さんと高さんの資質もあろうけれど、むしろ『当初中国国内で出版する予定だったこと』から来ている部分が多いのではないか。『世界』2010年9月号の葉永烈インタビューとかを読んでいてそう思ったのだが」
私申しました。「ちょっと待て葉永烈ってあの葉永烈か」
「もちろんあの葉永烈というかもとSF作家の葉永烈である。SFやめていま伝記モノを書いているのである」
「なにー」
というわけで借りてきたんですが中国出版事情まわりの記述がすばらしく面白い。
「中国で合法的に本を出すためには、政府の政策と規定に符合させる必要があります。(中略)執筆に際しては史実に忠実であることを心がけ、ディテールにも注意を払い、主観的な論評は最小限にとどめる。これが中国で歴史書を出すときの最大のコツです。中国では出版物に対する厳格な審査制度があり、余計な論評はここで引っかかる可能性が高いが、史実を覆すことはできません。まずは合法的に本を出すことで、発言権を獲得する。そうでなければ、いくら良い内容の文章を書いても読んでもらえないのです」
なんかすごく司馬遷とか班固とかの「総評部分で公式史観寄りのことを書いとけば本文で何を書いてもOK」的姿勢に通じるものを感じるんですが。
2011-06-00
『万葉秀歌』上下巻(斉藤茂吉/岩波新書)
中国 |
歌人・斉藤茂吉が万葉集中の秀歌を集め解説を付したもの。
以下は本書の紹介というよりは自分の随感です。
誰も知っています。近藤芳美の歌です。
果てしなき彼方に向ひて手旗うつ万葉集をうち止まぬかも
兵が手旗信号の独習で万葉集を打っています。近藤は召集されて1941年の湖北にあったといいますが歌の時と所をあきらかにする必要はもとよりない。
大東亜戦争では多くの兵が万葉集あるいは斉藤茂吉の『万葉秀歌』上下あるいは片方を雑嚢に入れて前線に赴きました。そうして茂吉が万葉時代の愛国心、と言うと途端に安くなりますので日本浪漫派に好まれたあの幾分か擬古的な言葉を用いますと国思(クニシノヒ)を尊いものと思っていたこと、それ自体は間違いない。茂吉が他の多くの愛国詩人たちと同様に開戦を歓呼して迎え、敗戦後に戦犯(あくまで比喩ですが)として批判にさらされたことは、「必ずやそうなるであろうものであった」とは言えないとしても「そうなって少しもおかしくはなかった」と言えます。
けれどそれとは全く別の話として『万葉秀歌』に目立つのは万葉の歌の多くの手法および主題を支那起源と明記あるいは推測していることです。極言すれば本書の主張を「これもこれもこれも支那ダネだ」と要約することすら可能です。自分は南宋の朱熹が詩経の(従来は教訓や風諭の歌とされていた)歌の多くを「これもこれもこれも恋愛詩だ」と言ってのけたのを覿面に連想しました。
なお自分の理解の限りでは、朱熹の主張は当時として実に画期的でありました。一方茂吉の主張が当時として画期的と言い得るか否かは全く存じません(近代日本の韻文が『新体詩抄』にはじまり散文が『あひびき』にはじまるのを知る人々にとって古代日本の韻文が『懐風藻』にはじまることは常識の範疇であったろう、という憶測も可能ではあるのです)。しかし、すくなくとも大日本帝国の公式イデオロギーからハミ出すものではあったと思います。
人はただ幾分か真面目であるか幾分か一貫性を保とうとすれば容易に世間の常道から外れるのだということを強く感じます。
2011-03-00
『イルジメ』(TVドラマ)
明清交代期の朝鮮を舞台に、盗みを働いた後に一枝の梅の絵を残してゆく謎の義賊「一枝梅(イルジメ)」の活躍を描く韓国古装ドラマ。イルジメものというのは複数あるので「イ・ジュンギ(李準基)主演のイルジメ」とおぼえておくと間違いません。全20話なので尋常の覚悟の枠内で視聴可能(重要!)
一話冒頭で「装着変身イルジメスーツ」とか「光学迷彩イルジメマント」とかを見た時は「これはアレか平成仮面ライダーか」と思ったものですがぜんぜんそんなことなくてまともな古装だった。
以下の感想は一定程度の「ねたばれ」を含みます。真に致命的なものはないはずですが、ここらへんの考え方には個人差があるので、比較的ねたばれ嫌いな方は見ないほうがいいかもしれません。
・いいところ
主要キャラクターの動機付けが手を抜かず丁寧になされるところが実にいい。そして最後まで緊張が持続する。韓国古装といえば一貫性なくグダグダに迷走するが最後の最後がいいので許しちゃうとか(ホンギルドンとかな:伝聞)、ダラダラ引き延ばされるがキャラクターがよくて最初と最後がいいので許しちゃうとか(チュモンとかな:実見)ばっかりだと思ってたんですがこんなのもあるんですね。
一つの台詞が或るキャラクターと別のキャラクターにとって別の意味を持つとか、モンタージュと対比とかが見事。脚本術の教科書で取り上げるに値する出来です。「キャラクターはウソ泣きし視聴者は爆笑」というのは金庸ドラマでしばしば起きる現象ですが「キャラクターはウソ泣きし視聴者は激怒」というのをこれだけうまくやった例はなかなか無い筈。
些細な点ですが「寒色の官服+鍔広帽+刀」スタイルってすごく格好いいな。
・わるいところ
若干、特に前半において、ギャグを安易に「うんちおしっこおなら」に頼りすぎるきらいがあり、これはよくないとおもいます。わしゃドリフもトイレット博士もおぼっちゃまくんも好かんのじゃ。
・いいともわるいとも言い切れないが何か言っておきたいところ
デモ隊を機動隊とヤクザがはさみうちにするシーンを見るにここ絶対時代劇のつもりで撮ってないだろう。
・ダメ武侠四種の神器
盗み聞き:沢山あり。泥棒なので一片の必然性はある。特筆すべきは後半ストーリーのキーポイントが「盗み聞き未遂」であるところです。
崖落ち:2回あり。下は水なのでまあ言い訳は立つかも。立たないかも。どっちだ。
バレバレの男装が見抜けない:1回あり。これはかなーり言い訳が立たない感じだったような……
タナボタパワーアップ:ゼロ。そして三度の修行シーンがどれも上出来。
・フランス中世史学界の泰斗ル・ゴフ先生のありがたいお言葉
「城塞はまさに要塞化し、陥落させるのがとてもむつかしくなりました」
「どうしたら陥落に成功するのですか」
「なんたって裏切りがいちばんです!」
・追記
つまり私がいてんとりゅうきを20話以降見てなかった理由はこれであったわけです。
2010-03-00
『剣難女難』(吉川英治/講談社)
中国 |
読んで思ったんですが今こそこれを中国でリメイクすべきではないか。
宋代中国。江南武林こぞっての大武術会が開かれようとする。
十年の修行を終えて故郷に錦を飾ろうとする高手・秦一郎。その弟・秦九郎は心やさしい美青年で、筋は悪くないが武功はまだまだ未熟、しかも武張ったことが大の苦手。九郎は臨安の市中で見るもの聞くもの珍しく、つい寄り道した先で美女が武術の使い手に襲われるのを目にする。助けに入ったはいいが数合で打ち倒され、危いところをかけつけた兄に救われる。覚えていろと捨て台詞を残して逃げ去る暴漢。一郎は橋上から様子を窺っていた眼光鋭い老人の存在を気にするが、九郎には娘しか目に入らない。娘は江南武林の盟主・劉の一人娘、玉鈴だった。劉盟主宅で歓待を受ける秦兄弟。その夜、九郎は玉鈴の奏でる琴の音を聞き、笛を取り出してこれに和する。曲が果てて水の流れる庭で深更まで語りあう九郎と玉鈴。だが劉盟主は娘を江南第一の高手に嫁がせようと考えているという。
宋国の宰相・王安石は武林をわが手に収めようとする辣腕家で、大会に五人の使い手を送りこんでいた。先日玉鈴を襲ったのもその一人。だが一郎の腕を見て「これはあの五人でも危ないかもしれぬ」と思い悩む。好きな詩も忘れて陰謀に没頭する王安石だが、ある日西湖のほとりで、韓愈の詩を吟じて歩む関羽ヒゲの壮漢に出会う。意気投合する二人。聞けば壮漢は燕州の高手・石時鐘で、その武功は河北無双とうたわれたが、本人は師の十招のうち九招を修めたに過ぎぬことを自ら恥じ、行方知れずになった師を追って諸国を流浪しているのだという。安石は自らの正体を明かし、大宋国のために力を貸してくれぬかと依頼。時鐘は元来、政に関わることを嫌っているが「今日一杯の酒を受けてしまったからには一度だけ努めて見せましょう」と言う。
武術会の当日、秦一郎は五人の使い手を次々と打ち負かすが、最後に時鐘と戦って足の骨を打ち折られる。劉盟主は時鐘に娘を嫁がせようとするが時鐘は固辞して姿を消す。時鐘を負かした者があれば、誰でも構わぬから娘をやるぞと宣言する劉盟主。玉鈴は無理やり結婚させられるのを嫌い、九郎と二人で逐電しようとするが、追いつかれ連れ戻される。劉家の者たちは九郎を足蹴にし、この臆病者めと罵る。ようやく武術に励もうとする九郎。だが彼には生来、剣難と女難の相があらわれているのだった。
九郎を捕えた山賊の女首領・熊児。
前王朝・梁の血をひく姫君で天下往来勝手の勅状を持つ驕慢な美女・柴公主。
秦九郎を慕って臨安を出奔する玉鈴。
中台香の美人スター総出演でおくる、13億人を熱狂させた武侠ドラマ『剣難女難記』全10話、2011年MAXAMより発売!(ウソ)